西にも東にも

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「健気(けなげ)」と言うことばが一番似合う、朝顔の花です。朝晩の外気温が低くなってきているのに、晩秋に咲く花に、拍手を送りたい思いがして参ります。

今回の一時帰国で、私たち夫婦に、思いを寄せて、事あるごとに心を配ってくれる友と一緒に、日本橋人形町の「世界湯」の"終い湯"に入りました。月二回の"サーヴィス・デイ"で、お一人様100円の湯でした。『背中を流しましょう!』と言う彼の行為を断わりました。何か、"親分子分"のような関係になりたくなかったからです。若い頃に、そんな上下関係に嫌気が刺したことがあったからです。

そう言えば、わたしを長く導いてくれたアメリカ人起業家が、大阪だったと思うのですが、日帰り入浴施設に、裸になって一緒に風呂に入ったことがありました。この方の育った文化では考えられない行動に、驚いたのです。彼の晩年、癌に侵される直前に、私たちの近くにありたいとの必死の努力だったのかも知れません。この方は、文化の壁を越えてくれたのです。

「江戸」を彷彿とさせる至極熱い「世界湯」のお湯に、ものの2分も入っていられませんでしたが、好い気分でした。西にも東にも、友のあることは、どんな物を持つに優って素晴らしい宝なのです。
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防人

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古代のわが国には、筑後国(現在の福岡県)、対馬(つしま)、壱岐(いき)などに、中国、当時の唐からの攻撃に備えて、国境警備のための兵士が、配備されていました。彼らを、「崎守り(さきもり)」と呼んでいました。これは律令制度のもとにあった「兵役」の一つで、農民が徴用されて、九州北部の防備のために送られたのです。

どうしてかと言いますと、663年に、朝鮮半島の「白村江の戦い」で、百済と大和朝廷の連合軍が、唐と高句麗の連合軍に敗れてから始まった国境警備でした。この軍役は、中国で行われていた「防人(さきもり)」の制度に真似たものだったのです。世界の軍隊を調べてみますと、ほとんどの兵士が、農村から求められ、戦場に送られています。どんな気持ちで、妻は夫を、子は父を、両親は子を送り出したことでしょうか。本人も、どんな思いで九州の北端に赴いたのでしょうか。

「防人歌」が、万葉集の中にあります。そこには切々たる惜別の思いを読み込んだ歌が残されています。"ウイキペディア"からの引用ですが、次の言うな歌があります。

* 国国の 防人つどひ 船乗りて 別るを見れば いともすべ無し
* (現在語訳) 全国から集まった防人が(任務のため)船に乗って別れることを見れば、なんともなす術もない。
* わが妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影さへ見えて 世に忘られず
* (現代語訳) 私の妻はとても恋しがっているようだ。飲もうとする水に影までもみえていて、決して忘れられない。
* 唐衣 裾に取りつき 泣く子らを 置きてそ来ぬや 母なしにして
* (現代語訳) 唐衣にすがって泣きつく子どもたちを(防人に出るため)置いてきてしまったなあ、母もいないのに。
* 天地の いずれの神を 祈らばか うつくし母に また言問はむ
* (現在語訳) 愛おしい母と再び会って話すためには、どの天や地の神に祈ればよいのだろうか。
* ちはやぶる 神の御坂に 幣奉り 斎ふいのちは 母父がため 
* (現在語訳)荒々しい御坂の神に幣をお供えし、我が命の加護を祈願するのは母と父のためである。

まだ学校に行っていた頃、「きけわだつみのこえ」という、出陣学徒兵の遺稿集を読んだことがあります。国や、故郷や父母や弟妹、そして恋人への思いが綴られていました。当時の占領国や編集者によって、この本の内容に「改竄(かいざん/原稿と違ったものに書き改めること)」が行われたりしていたことを、後になって知ったのですが。でも、古代の「防人」と同じ様な思いが吐露(とろ)されていました。

戦になると、働き手を取られ、田畑が荒らされ、重い税を課せれた農村は、いつも悲劇の舞台でした。でも、その農村から、優秀な人材が多く出て、日本を支え、導いてきたことも事実です。これは日本ばかりではなく、世界の、どの国でも同じことでもあります。

私は、「現代の防人」と言われる自衛官のみなさんに、心から感謝しているのです。災害時の出動での貢献振りは、目を見張るものがあります。被災者をおんぶして運ぶ青年自衛官の凛々しい顔が素敵です。彼らの多くが、自分の生まれ育った国を守ろうとしているのです。高校卒業後、自衛官になろうと考えていた日も、この私にもあるのです。

(対馬だけに咲く「黄金鬼百合(おうごんおにゆり)」です)
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