過去

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 『前任者色(しょく)を一掃しろ!』との指令が出ました。つまり新任者は、過去を抹殺して、再出発をしようと考えたのです。前任者が使った机も椅子もロッカーも茶碗も皿もコーヒカップでさえも捨てられてしまいました。すべてを新しくしたのです。前任者が背任行為を働いたのでは、決してなかったのです。ただ野心がなかったので、大躍進することなく、それでも忠実に責務を果たしていたようです。その指令に戸惑いながらも、新任者の考えに従わざるを得なかった社員には、落ち度はなかったのだと思います。ただ混乱したのだろうと思います。

 今があるのは、過去が積み重ねてきたからであって、もし過去を否定してしまうなら、今が実に危うくなることは必至です。これは国でも企業でも、家庭でさえも同じだと考えられます。どんなに愚かな父親でも、お金も経験も地位もある他人よりは、実の父親には比べられないといわれています。前任者は、開拓者として出掛けて行きました。彼に動機を与えたのは、彼の前任者の言葉があったからでした。『あなたの仕事を若い人に任せて、あなたは別の所に出ていきなさい!そうしたら働きは拡大していくからです!』とです。それで、難しい企業環境にある会社に、一切の肩書きを捨てて、「協力者」として関わり始めたのです。
 
 一国の主(あるじ)でい続けるなら、安定した生活を送れるのですが、それに飽きたらない彼は妻の手をとって出ていったわけです。もちろん、彼を導いた方の言葉に、背中を押されたのですが。『私の過去を葬らなければ、会社を経営していけないと思った後任者と、彼のスタッフの気持ちは分かります。だが・・・』と、私の知り合いが漏らしていました。

 有史以来、様々な出来事を積みかさなねて、今の「日本」があります。私たちが歴史を学ぶのは、過去を否定するためではなく、過去に学ぶためであります。戦争をせざるを得なかった日本の実情、国際関係や国内の事情を知るときに、戦争を肯定もしない代わりに、過去も否定しません。『「日の丸」の掲揚は軍国主義につながるからしない!』、『「君が代」も軍隊を連想させるから・・・』という理由で否定されていて、日本人には国旗も国歌もなくなってきてしまい、実に脆弱(ぜいじゃく)な「国家意識」が出来上がっているのではないでしょうか。「桜」や「菊」だって、昔から国花ではないでしょうか。それなのに、春には「桜」を愛でて花見をし、秋には、「菊」を愛でて鑑賞会をしています。それは、まさに国民的行事のようでもあります。背骨をなくしてしまった国民が、自分の国を愛して、国作りに励むことなどできないのです。

 七年の海外生活で忘れるどころか、産み育ててくれた父母の国に対して、心からの愛着が湧き上がっています。私は過去を否定しません。会ったことのない叔父は、南方で戦死しています。家族や親族や友らを守ろうと、純粋に戦った叔父だったのです。当時の対戦国の兵士たちも、同じような思いで戦ったのです。勝っても負けても同じ志を持ちながら亡くなられていったのです。彼らの死を無駄にしてはいけません。私の尊敬する方で、父の世代の方がいました。特攻隊の生き残りの彼が、『戦友たちの死を無駄だと言われたくない!』と言っておられました。戦争の後、平和を願って生きておられた方でした。もう一度言います、私は過去に学んで、今日を生きようと思っています。

(写真は、「桜(ソメイヨシノ」です)

農暦

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 先日、学校の先生と話をしているときに、『来年、26才になります!』と言われたので、2014年に、26才になると思っていましたら、そうではなかったのです。今年、すなわち2013年に、26歳になるのです。この話の行き違いを説明しますと、中国では「農暦、nongli(旧暦)]を使いますので、2013年の場合は、2月10日が、「春節」の新年の「元旦」になりますから、この人の言った、『来年・・・』とは、来月に「正月」を迎えてからのことを言ったことになります。

 話の中で、『誕生日は何時ですか?』とお聞きしますと、私たちは、「西洋暦(新暦)」で答えると思って、『そうですか12月17日なのですね!』と答えると、実は旧暦の「12月17日」のことを言っているのです。それで、『公の証明書などの誕生日は、いつになるのですか?』とお聞きすると、「西暦」で記入するのだそうです。

 日本でも、『今年、〈数え年〉で17才です!』という場合が、昔はありました。私の父は、『数えで・・・』と言っていたのを覚えています。西暦で、1月7日に生まれたら、旧暦の正月が、一月か二月にあります(毎年変動しています)から、その正月を迎えると、生まれて一月もたたないうちに、もう2歳になってしまうわけです。今では、ほとんど「数え年」を使わなくなり、ほとんどの人は「満年齢」で数えるようになっていましたから、私のような者でも、旧暦の考え方のできない世代だということを知らされているわけです。

 ですから誕生日をお聞きしたら、『それは〈農暦〉ですか?』と聞くことにしているのです。このへんが、急激に西洋化してしまった日本人の私の「文化的葛藤」なのであります。面倒なことでありますが、自分の国に伝わる伝統を守るのは大切なことなのかも知れません。日本人の男性、武士階級は「羽織袴」、それ以外の男性も女性も、帯をしめた「着物」を普段着て生活をしていましたが、「欧化」の中で、いっぺんに着る衣服を、欧米式に変えてしまいました。頭髪もそうでした。「ちょんまげ」から、「ざんぎり頭」に変えたのです。法律によってでした。こういった急激な変化をしていくのが、明治以降の日本人の特徴の一つなのです。大工などの職人は、「角刈り」にイキにし、戦後、「太陽族」と呼ばれて青年たちは、「慎太郎刈り」をしていたのです。「ざんぎり頭」になっても、様々に工夫をしている、これも日本人の特徴でしょうか。

 そういった文化と伝統の中で育ってきた私のような人間ですが、歳のせいでしょうか、懐古趣味が、なんとなく首をもたげてきているのを感じるのです。『この街を下駄でカラコロと歩いてみたい!』と思っているのです。そうしましたら、西湖公園のお土産屋の売り場で、何と中国風の下駄が売っていたのです。聞きましたら、『昔は下駄も履かいていたんですよ!』と言われたのです。それで、もし私が下駄で、「五一路」を歩いていたら、きっと石が跳んでくることでしょうから、やめにいたします。

 間もなく、「春節」がやってきます。ヨーロッパ人が、太陽の光が帰ってくる「冬至」を待ち望んだように、中国のみなさんもまた、春の到来を待望しているのです。そんな期待感が、店頭に並び始めた「正月用品」に見られるようなってきました。「春天快要来」の新暦一月の中旬であります。