10年ほど前に、中国の中学生の意識調査をしています。その中で、「知っている日本の人物名」の項目があって、第一位は、時の首相「小泉純一郎」、第二位は、当時の日本のプロサッカーで名を馳せていた「中田英寿」、第三位が「浜崎あゆみ」でした。その第九位に、「藤野先生」が挙げられていました。いったいこの「藤野先生」とはだれなのでしょうか。日本人の私たちには馴染みのない人物なのですが。
魯迅の作品の中に、この「藤野先生」があります。中国の中学生は、この作品を読んでいるようで、470人がこの方を挙げたのです。本名が、「藤野源九郎」で、仙台医学専門学校(現東北大学医学部)の教授でした。実は、魯迅がこの仙台医専で学んだ時の「恩師」だったのです。魯迅の公私にわたって面倒を見たのが藤野源九郎でした。留学生の魯迅に特別な教師愛を示したので、彼は生涯、北京の彼の家にあった自分の机に面した壁に、この藤野源九郎の寫眞を掲げて、朝な夕な眺めていると、この作品の中で述懐しています。この写真は、「惜別」と裏面に書いて、藤野源九郎が魯迅に別れに際して渡したものでした。
多くの日本人が、一段低く見ていた中国の人たちを、この藤野源九郎は、特別な愛顧をもって世話をしたのです。「解剖学」の講義ノートを持ってこさせては、いちいち内容から誤字や誤文法まで添削をし、その講義が終わるまで続けてくれ、その筆記したノートが三冊もあったようです。魯迅は、それを一冊に綴じて、一生の記念品としたのですが、引越しのおりに業者が紛失してしまったようです。
魯迅は、医学の道を断念し、文筆の道に進路を転換していますが、そのきっかけとなったのが、藤野源九郎が見せた「幻燈(スライド)」でした。ある時、授業が早めに終わったのでしょうか、残りの時間に、日露戦争の様子を写したスライドが映写されたのです。魯迅は、この中で、スパイを働いたとして、日本軍に処刑される中国人と、それを、ぼんやりと見ている周囲の中国人の様子を見ました。魯迅は、この時の衝撃を、『愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料 と、その見物人になるだけはないか!』と、「吶喊(とっかん)」という作品の中で書き残しているのです。魯迅が感じたのは、医療よりも、まず同胞・中国人の「精神の改造」こそが最重要なことだと心に決めました。それで、指導教官の藤野源九郎に、退学し、帰国することを告げたのです。藤野は大変残念に思って、写真の裏に、「惜別」と記したわけです。
私の教え子が二人、今、「杜の都」仙台・東北大学で学んでいます。医学ではなく「経済学」ですが、こんな出会いがあったら素晴らしいですね。ちなみに、藤野源九郎は、仙台が東北大学医学部に昇格したおり、『専門学校卒には教授資格なし!』という学校の判断で、結局辞職し、奥様の郷里(福井・三国町)で開業医をされたそうです。狭量な日本には落胆されますが、中国の魯迅の精神に、大きな影響を与えた人物として、日本人の私たちは知っておくのが好いと思います。
(写真上は、魯迅の出生地の「紹興」、下は、「仙台の七夕」です)