こちらで日本語を教えるために、何冊もの本を読んでいるのですが、ある本に、筒井清忠氏(京都大学、帝京大学の教授)の文章がありました。
『フランスでは、ラ・フォンテーヌやヴィクトル・ユゴーの詩文の暗誦を、初等教育で徹底的にやっている。これによって文章のリズムと言うものを身体を通して体得し、かつまた長い風雪に耐えてきた、人間にとってどうしても欠かすことのできないヒューマニズムというものを自然に身につけていくようにしているのである。』
この「ラ・フォンテーヌ」はいつごろの人だったのかといいますと、1621年~1695 16年の人ですから江戸時代初期、ヴィクトル・ユゴーは、1802年~1885年の人ですから幕末から明治期だったことになります。そうしますと、日本でしたら、「近松門左衛門」の戯曲や、近代日本語を作ったと言われる「夏目漱石」の作品を読むことが必要なのかも知れません。さらに、「古典」と言われる作品、「万葉集」や「源氏物語」や「古今和歌集」にまでさかのぼって学んだらいいことなのかも知れません。
日本人の語学力の弱さが叫ばれて、外国語の学習が奨励されていますが、やはり、それ以前に「母国語」を正しく理解しておかないと、外国語の理解も十分ではなくなると言われています。私の受けた国語教育を考えてみますと、少なくとも小学校と中学と高校で12年間、大学の4年間も日本語で学んできましたから、都合16年間学んだわけです。ところが一般的に、日本人は、自分の考えや思っていることを言い表すことが下手だと言われています。それで、『私は話し下手で・・・』と言い訳をします。それは『話は下手だが、やることはやる!』といった自負が隠されているようです。本当にそうでしょうか。
一昨日、私たちの若い友人が、一人の友人を連れて相談にやって来られました。標準語と方言を混ぜながら話をし、通訳してもらいながら、4時間ほど交わりをしました。大学の法学の先生と、夫人と子どもの問題の相談所の責任をされていらっしゃる方でしたが、実によくお話になるのです。その前の日は、7人でひとつのテーブルについて、新年の食事会にまねかれたのですが、中国のみなさんは、しっかりと「自己主張」をし、テーブルを白けさせない努力をされているのです。日本人だと、座が白けてしまうのに、そういったことがないのです。もちろんん話が混線するほどに、自分の話をしているので、私たち日本人に比べて、はるかに話術に長けているのです。
『男は無口がいい!』と言われて育てられてきたのが仇になっているのでしょうか、弁舌の達人を、『おしゃべり!』と言って軽蔑されてきたのが、日本の社会ではないでしょうか。『話さなければいけないときに話せない!』これが、私たちの課題です。◯☓式〉の教育で、オートメーションのベルトにのせられて画一な教育を受けて、大量生産されてきた結果なのではないでしょうか。「弁論術」などは、まったく学んだことがないのです。数学で、『〈1+1〉は、どうして答が〈2〉になるのかを、文章で言わなければならない』、理科で、『落葉を観察して、どうして葉が落ちるのかを文章で説明すること』、これが欧米の教育なのだそうです。微分や積分が理解できても、クラスの前で、『どうしてか?』を述べることがなされないと、本当の教育ではないのかも知れません。このような教育がなされたら、日本人はもっと有為に世界に貢献できそうですね。
(写真は、「坊ちゃん(英語版)」の表紙です)