大阪のサラリーマン

 大阪の地下鉄・御堂筋線に乗り合わせたサラリーマンと、2駅ほどの間話をしました。彼は、『もう百姓になる気がないから、田舎には帰らない!』といっていました。関西圏に、どこかの田舎から出てきて、学校を終え、会社に勤めているのでしょう。家を買って、子育てをし、ずっと頑張って働いてきた、そんな苦労が横顔に現れていました。

 『日本中の田舎が寂しくなってしまう!』、そう感じてしまいました。大阪や東京や名古屋は、ますます肥大化する一方、日本の食糧を支え続け、日本人を養い続けてきた農村が閑散としてきているのです。これは今の中国が過開けている問題でもあります。沿岸部の都市に農民工という、かつての日本の「出稼ぎ」が集中し、工場や工事現場で働き、中国の経済成長を支え続けてきた人たちは、内陸部の農村から出て来ているのです。ですから。『中国中の農村が寂しくなってきている!』ことになります。これは世界中の傾向なのですが。

 「三ちゃん農業」、つまり爺ちゃん、ばあちゃん、母ちゃんが田を起こして米を作り、他の農作物を作るといった農村や農業を表現した言葉です。働き盛りの男がいなく、年寄りと女性と子どもが、農村に残されている社会のことです。今まさに、中国の農村然りです。隣に座っていたおじさんは、『田舎に帰って農業をやることも考えているんだけど、都会の便利さに慣れてしまい、体力もないし、今更帰っても、田は荒れているし・・・』と思っていたのかも知れません。

 今回の帰国中に、家内の妹が年老いた母の面倒を、家内に代わってみてくれていた街を訪ねました。新宿から高速バスに乗って1時間半ほどの街でした。街中に入っていったバスの両側には、シャッターの降りた商店が多く見慣れたのです。商業活動が低迷しているのは事実ですが、店を受け継ぐ二代目が、都会に出てしまっっているといったことが、そのように街が寂れていく理由のようです。この町は、家内と私が子育てをし、仕事をさせてもらった街でもあります。『あ、あの店ももうやっていないのか!』と思うと、時の流れを感じて、ちょっと寂しくなってしまいました。交番も警察署も住んだアパートも、昔のままですが、地方都市が元気が無いのは、農村の衰微と同じなのだと気付かされたのです。

 こういった地方や農村から、出てきた人たちが、都市を支え、日本経済を支え続けてきたことになりますね。隣のおじさんは、どんな業種の仕事をし、どんな立場で職場にいるのか知りませんが、その横顔も、日々の義務に駆り立てられて働いているのでしょうか疲れて、精気がないように見受けられました。『今日も・・・』と思う一日に、もう少し元気で、意気揚々と立ち向かってくれたら、町も会社も社会も国も、もっと元気になるのではないかと思わされたのです。それよりも何よりも、家庭が元気になるのではないか、そう思ったことでした。

 まあ朝の出勤時間に、やる気満々を見せている男性などいようはずもありませんが、日本と日本人が疲れているのだけは感じてしまいました。『よい一日を!』と願うばかりです。

(写真は、大阪・御堂筋界隈の様子です)

華の東京

 歌に歌われ、小説の舞台になり、一国の政治や経済の中心地である東京は、実に美しい街ではないでしょうか。祖国の首都としてふさわしく綺麗で、香り高い街である、そう帰国早々感じております。徳川幕府の政(まつりごと)の行われた歴史的な街であり、芸術や芸能などの文化が栄え、人々を引きつけ、鼓舞し、活き活きとさせてきた街なのです。

 何もなかった所に、首都機能を設けた徳川家康の才腕には驚かされてしまいます。父が好きで、私たちの家の食卓にいつも並んでいたのが「佃煮」でした。弟が特愛したのが「あみ(海老の稚魚を醤油ベースで煮込んだもの)」でした。炊きたてのご飯の上に乗せて、湯気の立ち上る、その食べ心地は、「江戸っ子」の味だったのでしょう。父が美味しく食べるのですから、男の子たちは、それに倣って男の食べ方を父に倣ったわけです。

 この佃煮も、江戸の食料の自給のために、家康が大阪から連れてきて、江戸に住まわせた漁民の地を、彼らが住んでいた大阪の地名の「佃」と呼び、そこで加工されたので、そう呼んだわけです。この佃煮には、こはぜ、あさり、イカナゴ、鰹、昆布などがあり、江戸庶民が愛し育ててきた江戸風味なのです。父が生前、『雅、駒形に行って、柳川を一緒にくおうな!』と違って、実現出来なかった料理も、私にとっては江戸前なのです。「寿司」だって、江戸前が「寿司」であって、一般的な、ごく普通の日本人である私も、『日本に帰ったら、まずうまい寿司を食べたい!』と思っているのです。

 遠くから黒く見えた島影も、近くに見え始めた島は、木々の緑が夏の日を浴びて、実に綺麗でした。人も物静かに生活をし、大声を上げているのは活気な子どもたちだけで、大人が慎ましく生きているのを見て、『ここは日本だ!』と思わせれることしきりでした。

 福島原発事故の影響でしょうか、経済の低迷でしょうか、今回の帰国で感じた日本と日本人は、「縮こまった日本、日本人」です。工夫と改良で、世界に最たる物作りをしてきた日本人が、元気が無いのです。若者には冒険心と夢と理想が欠けているのを感じ取れるのです。電車に乗って、年寄りや女子どもや体の弱い人のために設けられた特別席に、ふんぞり返った高校生が座って、話し込んでいるのを見て、『こりゃあダメだ!』と、中国人の青年たちの潔さに負けているとがっかりしてしまいました。みんなの眼に、キラッとした輝きがないではありませんか。背中を伸ばして胸を貼って颯爽と歩く中国の青年たちに比べてみた私は、『胸をはれ!しっかりした歩幅で歩け。目を前方に向けて背を伸ばせ!』と心の中で叫んでいました。明日の日本を担っていく彼らを、心から激励したい思いでいっぱいでした。

 大人が、彼らに夢をもたせる社会、国作りをして来なかったことを反省しなければいけない。彼らを責める前に私たちが反省し、改める必要があるのだと思うのです。生意気な私たちを、遠くから近くから見て、忍耐して見守ってくれた、私の青年期の大人たちは、大きな度量を備えっていたのかも知れません。『元気だなあ!』と、おかしなことをしている私に、にこやかに語りかけてくれたおじさんがいました。そんな大人が多かったのだと思います。

 日本は綺麗で、美味しくて、静かというのが改めて感じている印象です。これから必要なのは「活気」ではないでしょうか。物がなくて貧しくても活気のあふれていた時代がありました。経済低迷で頭までも下げてしまう必要はないのです。父や母、祖父母から受け継いできた今の日本は、負け犬のようにしっぽを巻いてはいけないのです。堂々と世界の大路を闊歩しましょう。

 この東京の街、美しく着飾った街、華の都が、繁栄し、平安に満ち、義を愛する街になり、首都としてふさわしい街になり、人々が、日本の模範、世界の模範になって、喜んで感謝に満ちていくことを願わされたのです。さあ、東京よ、頭を上げ、背筋を伸ばし、世界に目を向け、強く一歩一歩を進み行け!

(写真上は、北斎の江戸城と富士、下は、佃煮を載せた湯気の立ち上るご飯です)

華の甲子園

 大阪国際港に入港したのが、朝の8時過ぎだったでしょうか。もう夏の陽がカンカンと照りつけていました。上陸の手続きを済ませて、地下鉄・中央線の「コスモスクエア駅」から電車に乗り込んだのです。『夕方まで何をしようか?』と思い巡らせていたのです。その日は、一度、カプセルホテルに泊まってみたくて、心斎橋のホテルの予約を入れておいたから、夕方まで時間がたっぷりあったからです。『どこか観光をしようか!』と考えていたら、ふと「甲子園」という思いが湧きがってきたのです。『いつか高校野球を観戦したい!』と思い続けていたのを思い出したのです。それで前の席に座っていた方に、『甲子園はどこで乗り換えたらいいのですか?』と聞き、教えていただいた乗換駅で降りたホームで、『どの電車に乗ったらいいのですか?』と、また聞いたのが、3人のおばさん連れだったのです。『私たちも、これから応援に行くところです!』というので同行させてもらったのです。

 このおばさん連れの一人が、島根県浜田市の出身で、『島根県代表の淞南(しょうなん)高校の応援に行くのです!』といったのです。母が島根県出身でしたから、タイミングの見事さに呆れながら、この方からチケットを頂き、4人並んでアルプス席に陣取ったのです。相手校は、岩手県代表の「盛岡大附属高校」でした。昨年、地震と津波で震災を受けた県の代表でしたので、一塁側への思いも向けることにしました。実に強烈な日差しで、坊主頭の頭皮が剥けてしまうほどでした(2、3日したらボロボロと落ちてきました)。『いいぞ!いいぞ!淞南!』の声に合わせて、応援をしました。私の応援の甲斐があったのでしょうか、延長12回5対4で勝つことができたのです。

 終わる直前に、おばさんたちが引き上げて行きましたので、『もう一戦観ていこう!』と思って、外野に目を向けたのです。ところが、どこにも日陰がないのです。帰国早々、熱中症にかかってはいけないと、歳相応の決断で諦めて、場外にあった「甲子園ラーメン」に入って昼食を済ませました。それから阪神電鉄で「なんば」に出て、地下鉄に乗り換えて「心斎橋」で降りたのです。アーケードの通りを通ったのですが、大都会の繁華街なのでしょうか、週日だというのに、数えきれないほどの人が行き来をしていました。さながら、銀座や新宿や渋谷といった観がしました。大阪の街を歩くなんて初めてのことでした。

 何度か道順を聞いて、カプセルホテルに投宿しました。船の中にも浴場があって、航海の間、5回ほど入ったのですが、それとは比べられない大きな浴場があり、サウナもあって、日本を楽しむことが出来たのです。『道頓堀で夕食を!』と思ったのですが、「夕食300円」につられて、外に出ずに食事を済ませ、また風呂に入ることにしたのです。これまで外泊でホテルに泊まる機会も少なくなく過ごしてきましたが、すっかり「カプセルフアン」になってしまいました。ちょっと鼾(いびき)をかいてる人もいましたが、狭い空間の中で、他に気を取られることもなく熟睡でき、都会の旅の宿としては最高でした。食べたことのなかった「豆腐ハンバーグ」というのを出してくれたのですが、これが実に美味しかったのです。300円で3つもあって、味噌汁やサラダや漬物もついていました。『日本は綺麗で、美味しくて、静か!』を、大阪のどまんなかで味合うことが出来たのです。

 翌日、大阪駅から、ネット予約をしておいたJR高速バスに乗って、東京駅日本橋に着いたのが、夕方7時半頃だったでしょうか。夏のゴールデンウイークの開始日、花の金曜日の夕方でしたから、道路も渋滞していたので、そんな時間だったのです。リュックを背負い、麦わら帽子をかぶって、山手線に乗り込み、恵比寿でおり、次男の家に着いて、旅を終えることができました。暖かく迎えてくれた次男と握手して、再会を喜んだ次第です。久しぶりの、初めての日本を楽しめた一日でした。

(写真は、高校野球の甲子園球場です)

上海からの船旅

 
 
 『台風11号が接近しているので、出航時間を午前9時に繰り上げます!』との連絡が前の晩に入ったのです。上海港を出た「蘇州号」は、大型船でしたが、波にもまれながら、前後左右に揺り動かされていました。これまで瀬戸内海を、フェリーで何度か利用して九州や四国に渡ったことがありますが、そこは内海で静かでしたので、大きく揺さぶられるようなことはなかったのです。ところが今回は、航路は外海でしたし、11号台風の接近で覚悟はしていたものの、幸い私は船酔いをせずに、しばらくの台風の影響を受けた後、静かに凪(な)いだ海の上を、快適に船旅をすることができました。その航路は、かつて遣唐使船が目指した航路を、反対に航行しながら、大阪の国際港に向かっていました。海には、三日月が写り、海また海の上を静かに走るような船旅でした。

 夜、甲板に出て、ちょっとオセンチになったのでしょうか、『海は広いな大きいな・・・』とか、覚えていた歌を静かに口ずさんでみました。実に神秘的で、海の広さに比べたら、大型の貨客船と言いながらも、藻屑のような船が、静かなエンジン音を上げながら、まっすぐに航行する様子を体感しながら、科学技術の進歩の凄さを感じざるをえませんでした。あの遣唐使船や遣隋使船は、風を頼りの帆前船でしたから、無風の時は、漕ぎ手の人力も用いたのだそうです。全長30メートル、幅8メートル、300t程だったといいますから、超自然的な加護を求めながらの船旅だったにちがいありません。その航路を、一つの舵を取りながら、大陸の蘇州を目指したのですから、勇気の要ったことだったでしょうし、大陸から学ぼうとする意欲の大きさ、決死の覚悟をみなぎらしていたことになります。

 日本の島影が見えてきた時に、やはり懐かしさがこみ上げてきました。4月に母の告別式で戻っていましたから、4ヶ月ぶりの帰国でしたが、やはり自分の祖国の名のない島が見えた時には、特別な思いが沸き上がってきたのです。「五島列島」に連なって無数に点在する島なのですが、島の緑は、優しく私の目に写りました。港が見えた時に、『こんな離島で、何百年も生活が営まれてきたのだ!』と思うと、日本人の勤勉さやたゆまない努力や工夫を感じさせてくれて、祖国の自然ばかりではなく、祖国を耕し、周りの海に糧を求めて続けてきた人々の毎日毎日があって、今日の時代を迎えていることが分かりました。玄界灘を航行しながら、北九州の港町が視界に入ってきました。看板も読めるようになると、瀬戸内海に入る辺りに、関門海峡の大橋が見えてきて、その橋をくぐった時に、トンネルを汽車や電車で走ったあたりを、海から眺めて、一入の思いも湧き上がってきました。

 丸二日、48時間を船上で過ごしたのですが、この静かに流れる時間には格別なものがありました。同船のみなさんが口々に言うのは、『飛行機では、身動きもしないで、じっと4時間ほど座って、隣席の人との交流もほとんどなかった!』と言っておられました。しかし、船の中では、日本に帰るといわれる、私の兄と同年の方、日本に働きに行く中国の農村からの若い女性のグループなどと交わることができました。また、中国人のお母さんが連れた4人の母子がいて、その中学2年生の少年とも言葉を交わしました。そこには中日の友好の「交わり」の一場面があったのだと思います。1000円もする、船内のレストランで夕ごはんを食べていない中国のお嬢さんたちに、『泣きたいようなことがあっても、頑張って働き、日本と日本人を知ってくださいね!』と言って、カップヌードルを差し入れしてあげました。とても喜んでくれたのですが、給与支給の問題などがある雇用の中で、日本不信に陥らないようにと願うばかりでした。

 ちょっと揺れたのですが、帰りの船で、どんな人たちに会えるかを期待しながら、下船した次第です。船から降りるのは、飛行機から降りるのとは、だいぶ感じが違いますね。ずっと液体の上にいるような気分でだったからでしょうか。これでは、船旅が病みつきになりそうです。

(図は、大阪の住之江から東シナ海を渡って、蘇州への遣唐使船の航路です)