中国にいることの幸せ

 『人生の最良の時期とはいつか?』を考えると、それは青年期でしょうか。それとも充実し、円熟した時を過ごせる中年期でしょうか。それとも無邪気な子どもの時なのでしょうか。そういったことを考えますと、老年期というのは最悪の時期になってしまうのではないでしょうか。私は、人生の締めくくりの時期を迎えた今こそが、《人生の最良の時》だと思うのです。子育を終え、仕事も退職し、家庭や社会の責任から解放された今を、『どう過ごすか?』が問われて、新しい道に分け入ることができたからです。

 2006年の8月に、日本を出て、香港で1週間を過ごし、北京、天津というルートで、中国に導かれました。心機一転、中国語を学ぼうと思っていた私たちに、そのように門戸は開いたのです。学びの合間に、華南に旅をしました時に、訪ねた友人から、『こちらに来て、学びを続けませんか!』と勧められのです。迷いに迷ったのですが、彼の勧めを聞き入れて、2007年の夏に、この街にやってきたのです。そうしましたら、ここで出会った若い友人が、『大学で日本語を教えくれませんか!』と勧めてくれたのです。それを「天の声」の様に聞いた私は、喜んで教壇に立つ決断をし、今日にいたっております。

 《中国にいることの幸せ》を、今、強烈に感じております。中日の間の友好のためには、幾重もの壁があり、反日の動きも、ときどき、そよそよと感じてはおりますが、決定的な問題にはならないでおります。居心地はいいのです。教えながら、若者たちから多くのことを学び、多くの友人たちから愛や親切を受けて感謝が湧き上がり、『あなた達は私の家族です!』とか『お二人は、私の日本のお父さんとお母さんです!』と言われますと、居心地は更に良くなってしまうのです。よくつらい経験をされている日本人の方の話を聞きますが、私たちには、全くといっていいほど、そういったことはなく、この六年を過ごすことができたのです。

 来週月曜日の夕方に、街の北にあるバスターミナルから長距離バスに乗って、上海に行き、そこから大阪港行の船に乗って帰国します。48時間を要する船旅は、私の憧れなのです。子供の頃、船乗りになりたかった私にとって、海、潮騒、潮の香を体験することは夢だったのですから。もちろん、今、11号台風が沖縄に接近していますから、出航できるのか、また出航しても大波に揺さぶられるのかわかりませんが、今、踊るように心が興奮しています。今日の昼過ぎに、長女から電話があって、『無理しないでね!』と釘をさされました。『年を考えて!』と言いたかったのでしょうか。

 若かりし日の父が、こちらに来ました戦前の交通手段は船だけだったのです。その父が渡った大海原を、私も反対方向から渡ってみたいと、常々思ってきたものですから、その実現も楽しみの一つなのです。また遣唐使船や遣隋使船に乗って波濤を越えた人たちの思いを、共感してみたいこともあります。人や利器は変わっても、海は変わらないのですね。若い日に出来なかったことを、する自由があって、今が、一番好い時だと思っております。確かに家内も心配して、『長距離の夜行バスなんか乗らないで、飛行機で行けばいいのに!』と言いますし、『船でなく、飛行機のほうがいいのに!』とも言いますが、今だからできる行動を楽しませてもらおうと思っているのであります。

 そうしますと、今が人生の最良の時ですし、中国の華南に住んで、大学の教壇にも立たせていただき、若者たちの熱気に触れ、彼らの悩みを聞き、多くの友人たちと語らい、共に食事を採り、岩茶や鉄観音茶が飲める、今のこの生活に、幸せを感じるのです。私の行動を軽率だと言った人もいましたが、『そうできるあなたが羨ましいです!』と言ってくれ方もいました。ときどき、わずかな年金の中から、『これを使いなさい!』と、時々送金してくれた母は、今春召されたのですが、母に代わる友人家族に支えられ、励まされているのです。それよりも何よりも、中国のみなさんから、驚くほどの愛を受けていることが、《中国にいることの幸い》を切々と感じさせてくれるのです。さあ、こちらに戻ってきますと、在華七年目の始まりになります!

(写真上は、遣唐使船の航路図、下は、上海の《蘇州号》の出入港付近です)

日本に生まれた幸せ

 

 常々、『幸せだ!』と思うことがあります。それは、日本に生まれたこと、日本人であることです。ヨーロッパ諸国からは、「極東」、東の外れにある《野蛮人》の住む国だと揶揄されていました。隣の中国と比べて島国の小国で、まるで《箱庭》のようだと比喩されてきました。日本列島は南北に細長く、その中心部は高峻な山々が連なり、平地が少ないのです。大雨に見舞われると、河川が氾濫して、洪水が起こることもしばしばでした。台風の通り道で、来る年も来る年も、暴風雨にさらされ、大きな災害を被って来ました。環太平洋火山帯の上に、列島が位置していますから、《地震》が頻発し、地面が、ひっきりなく揺れ動く上で生活が営まれてきました。しかし先人たちは、この国を見捨てて逃げ出したり、諦めたりしなかったのです。『どうしたらこの国の中で生きていけるのか?』を考え続け、学び、挑戦し続けてきたのです。

 静岡県の東部を富士川がながれておりますが、この上流は「釜無川」とよばれています。河川の氾濫を繰り返すので、こういった命名がなされた一級河川です。この支流に、「御勅使川(みだいがわ)」があり、この流れが釜無川に入る辺りが、一番の氾濫箇所でした。これに苦しめられてきた住民を、どうにか助けようとしたのが、有名な戦国の武将、武田信玄でした。彼は、中国の文献から学んで、「堤(つつみ・堤防)」を築くのです。大変な難工事でしたが、完成された時に、近辺や下流の農民たちに大きく感謝され、それ故、そこは「信玄堤」と呼ばれるようになったのです。

 何年か前に、四川省に行きました時に、岷江(minjiang)という川にあります、「都江堰」を見学しました。この「堰」こそ、「信玄堤」の原型なのです。街に入った時に、大きな銅像があって、ガイドをしてくれた方が、『都江堰を築いた李氷の像です!』と教えてくれたのです。釜無川とは比べられないほどの水量の川でしたから、これを築くのは、難工事だったに違いないことが容易に分かったのです。私はいつも、中国に参りましてからは、ことのほか思わされてきているのですが、『中国人の智恵や工夫や実行力は素晴らしい!』ことです。「都江堰」に倣った「信玄堤」は象徴的であって、日本の政治、法、文化、芸能、教育など、あらゆる面で、中国に基礎を置いているわけです。ほとんどの我が国の事物の源流は、中国にあって、その知恵の恩恵を受けて、日本という国が出来上がったわけです。

 その知恵を、日本という自然環境の現実に適用し、工夫を加え、改善して、日本が国として形成され、日本人が創り上げられたことになるのです。よく言われてきたことですが、『日本は猿真似王国だ!』、確かにそうですが、真似ただけで終わるのではなく、工夫改善が行われて、真似た原型を遥かに凌駕してきたからこそ、経済大国になることができたのです。失策も失敗もありましたが、まれに見る文明国になり、礼儀や態度の面では、世界的な模範になってきたのです。『黄色の出っ歯の野蛮人!』が、こんな国を創り上げてきた、先人たちの血を吐くがごとき努力に感謝し、この国に生まれたことを仕合わせに思うのであります。私が日本人であることを、決して恥じません。この戦後の六十数余年は、過去の過ちを悔い、十二分に償ってきましたしたから、いつまでも過去に因われる必要はないと、心底から思うのです。

 若い世代のみなさんが、この国の先人たちを誇り、国を愛することができるように、心から願うのです。中国の若者たちが、国を愛し、生まれ故郷を誇り、次の時代を担おうと励んでおられます。先程もバスに乗って、招かれた昼食を終えて帰って来ましたが、家内が乗ってきますと、一人の青年がすくっと席から立って、家内に席を譲ったのです。先に乗った私は、その一部始終を眺めながら、『中国の次の時代は盤石だ!』と思わされたのです。席を譲ってくれたからではなく、ほんとうに立派に生きている若者が多いからです。彼らは、きっと「幸せな国」の国作りをしていくに違いありません。『日本の若者も、日本を誇り、日本を愛して、日本に生まれた幸せをかみしめて生きてもらいたい!』と願わされた、台風一過の午後であります。

(写真上は、山梨県のかまなしがわの「信玄堤」、下は、四川省の「都江堰」です)

金メダル 【無償の愛(ロケットニュース24)】

      40年かけて35人の道に捨てられた子どもを拾い救ってきた中国の女性が
     世界中に感動を与える

 現在ある一人の女性に隠されたストーリーが、世界中に感動を与えている。その女性とは、中国の楼小英(ロウ シャオイン)という88歳の女性で、現在腎不全(じんふぜん)のため入院生活を送っている。彼女は、浙江省の金華市(きんかし)というところで道に捨てられているゴミを拾い、それをリサイクルすることでなんとか生計を立ててきた。

 しかし貧困のなかで生きてきた彼女が、道で拾っていたものはゴミだけではない。なんと40年かけて35人もの子どもを拾い、そして救ってきたのだ。
 17年前に夫に先立たれた楼さんは、拾った子どもたちのうち4人を自分のもとに置き、残りの子どもたちは友人や親戚のところに預け、面倒を見てもらった。そして82歳の時、今の楼さんの最も幼い子ども張麒麟くんをゴミ箱の中で見つけることとなる。現在7歳になる麒麟くんを見つけた時のことを、楼さんは次のように話している。
 
 「私はすでに歳をとっていましたが、その赤ちゃんを無視し、ゴミの中で死なせることなんできませんでした。その子はとても可愛らしく、そしてとても苦しそうでした。私はその赤ちゃんを家に連れて帰らなければと思ったのです」「田舎にある小さな質素な家にその子を連れて帰り、元気になるよう面倒を見ました。そして今その男の子は、幸せで健康なやんちゃ坊主に成長しています」「張麒麟より年上の私の子どもたちは皆、彼の世話を手伝ってくれました。麒麟は私たち全員にとって、とても特別な存在なのです。私は中国語で “貴重で大切なもの” を意味する単語を、彼の名前として選びました」

 「1972年私がゴミ拾いに出かけた時に、小さな女の子を見つけたことが全ての始まりです。その女の子は、道のゴミの中に埋もれており、捨てられていました。もし私たちがあの時その子を助けていなかったら、彼女はきっと死んでいたことでしょう」「その子が成長していく様子を見るのが、私たちの幸せでした。そして気づいたのです。子どもの世話をすることが、私が本当に大好きなことだということを」「ま た、こうも思いました。もし私たちにゴミを集めるだけの力があるのなら、人の命のような大切なものを “再生” できる力もあるはずだと。道に捨てられた子どもたちは、愛情と保護を必要としています。彼らはみんな大切な命なのです。どうしたらこんなか弱い赤ん坊たち を道に捨てられるのか、私には理解できません」


 
 血のつながった実の娘・張彩英さん(現在49歳)を育てながら、道で拾った子どもたちも 我が子のように愛してきた楼さん。その楼さんのもとで育った子どもの一人・張晶晶さん(33歳)は、楼さんがどんな母親だったかをあるテレビ局のインタ ビューのなかで、次のように話している。(張晶晶さんがインタビューに答えている様子は、記事下の動画で見ることができます)「あの 頃、母は何も食べることができませんでした。母はゴミを拾うため、真夜中に出かけなければいけなかったのです。私たちが寝た後に、母は出かけていました。 そして明け方、まだ明るくなる前に家に帰ってくるのです。当時私たちは、ろくに食べることができず、大根、かぼちゃ、それからサツマイモなどが、その当時 食べていたものです」

 「私たちにお腹いっぱいになるまで先に食べさせて、その後やっと母が食べます。私たち子どもが、満腹になるまで食べたのを見て、母は心の中で『これで安心して自分も食べられる』と思っていたのでしょう」「例 えば12個のアメを3人の子どもに分ける時、母はなにがあっても均等にそのアメを、子どもたちに分け与えます。母は血のつながった実の子どもがいるのです が、拾ってきた子どもと分け隔てなく接するのです。えこひいきなんてしません。自分の子どもだけいいものを着せようとか、たくさん食べさせようとか、そう いうことは決してしませんでした」「母がこのように病気にかかってしまうとは、誰も想像していませんでした。私たちは今でも母が100歳ま で生きられると思っています。母がもっと長く生きしてくれれば、私たちも母ともっと同じ時間を過ごすことができます。もし本当に母がいなくなってしまった ら、 “お母さん” と呼べる人が本当にいなくなってしまうのです」
 
 そして楼さんの行動を支持してきた人は、地元における楼さんの存在についてこう話している。「彼 女は、捨てられた子どもたちに何もしない政府、学校、人々に恥を思い知らせています。彼女にはお金も権力もありません。しかし彼女は死のふちから子どもた ちを救ってきたのです。地元では、彼女のことはよく知られており、捨てられた子どもたちを救ってきた人としてとても尊敬されています。彼女は常に最善を尽 くす人物であり、地元の英雄です。しかし残念ながら、中国には数え切れないほどの子どもたちが道に捨てられており、彼らには生き残る希望がありません」
 
 この話の通り、つい先日、中国の鞍山市(あんざんし)で、ビニール袋に入れられた女の子の赤ちゃんがゴミ箱で発見された。その女の子の喉(のど)は、残酷にも切り裂かれていたが、幸いにも無事に救助され、一命をなんとかとりとめた。この女の子は、中国の一人っ子政策の犠牲者だと考えられている。なぜなら一人っ子政策により「女の子よりも男の子を好む」考え方が生まれてしまったからだ。そんな利己的な社会に捨てられた子どもを救ってきた楼さんは、現在腎不全のため入院しており、話すことも動くこともままならないほど身体が弱っているとい う。しかしそんな状態になっても楼さんは、自分が愛した子どもたちのことを気にかけており、病院のベッドの中から次のようなことを語っている。


 
 「私に残された人生はあと少しです。そして私が今、最も望んでいることは、7歳の麒麟が学校に行くことです。もしそれが実現すれば、私の人生にもう悔いはありません」
 
 実は楼さんは、これまで2人の娘を中学まで行かせることができたが、それより年上の3人の子どもたちを学校へ行かせてやることができなかった。それがとても心残りのようで、麒麟くんをなんとしても学校に行かせてやりたいのだろう。
 そんな愛情深い楼さんの人生が、中国で大々的に報じられると、ネット上で楼さんの入院費をカンパしようという動きが生まれ、募金を募るサイトまで登場した。

 そ してついに公的機関まで動いた。楼さんが学校の進学を望んでいた麒麟くんには、戸籍がないため、小学校へは入学できないとされていた。しかし今回の楼さん のニュースが中国で話題になったことで、戸籍の管理をしている地元の公的機関が、麒麟くんが入学できるよう戸籍問題解決へと動いてくれたのだ。それに呼応して、金華市の小学校も麒麟くんの入学を認めており、楼さんの話に感銘を受けたという校長先生は「これは楼さんの人生最後の望みであり、我々はそれを叶える手助けをしなければいけません」とその熱い気持ちを語っている。

 世界中の人の胸を打つ、楼さんが見せた子どもたちへの “無償の愛” 。確かにこれまで楼さんは、質素で貧しい生活を送ってきたのかもしれない。しかし自分を「お母さん」 と呼ぶ子どもたちの愛らしい声、そしてその子どもたちが見せる無邪気な笑顔で満ちあふれたその人生は、誰にも負けないくらい幸せな人生だったに違いない。

 楼さんの人生を明るく照らすこの無償の愛の素晴らしさ・美しさが世界中の人の心に伝わり、道で捨てられる子どもが一人でも減ることを切に願いたい。(文=田代大一朗)

(写真上は、子供たちを安なった台所、中1は、入院中の楼小英さん、中2は、楼さんの住む金華市の古写真、下は、楼さんの家です)