「津浪と人間」


 近代の日本語の確立に大きく貢献した一人が、「坊ちゃん」や「吾輩は猫である」や「三四郎」で有名な夏目漱石だとされています。以前は、「千円札」でお目にかからない日がないほどの人物でしたが。学校を出た彼は英語教師として松山に行きますが、後には、熊本の旧制五高(現・熊本大学)、東京帝大などで教え、朝日新聞社にも務めます。英文学者というよりは、小説家として名を残した、明治大正期の文豪と称されています。この人の門弟に、寺田寅彦(1878年11月28日~1935年12月31日という方がいました。東京帝大で地球物理学を教え研究し、昭和のはじめには、東京帝国大学地震研究所の所員もされていました。

 この寅彦は、学者でありながら、文学の世界でも、多くの随筆を書き残しているのです。聞くところによりますと、「吾輩は猫である」や「三四郎」に出てくる人物のモデルであったようで、親しく漱石と交わりを持ち続けたようです。科学的な知識は、この寅彦から教えを請いながら漱石は著作に励んだそうで、弟子というよりは友人だったことになります。この寅彦の随想に、昭和八年五月、『鉄塔』に掲載した「津浪と人間」というものがあります。最後に次のように言っております。

『それだから、今度の三陸の津浪(昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙(な)ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った)は、日本全国民にとっても人ごとではないのである。

 しかし、少数の学者や自分のような苦労症の人間がいくら骨を折って警告を与えてみたところで、国民一般も政府の当局者も決して問題にはしない、というのが、一つの事実であり、これが人間界の自然方則であるように見える。自然の方則は人間の力では枉(ま)げられない。この点では人間も昆虫も全く同じ境界(きょうがい)にある。それで吾々も昆虫と同様明日の事など心配せずに、その日その日を享楽して行って、一朝天災に襲われれば綺麗にあきらめる。そうして滅亡するか復興するかはただその時の偶然の運命に任せるということにする外はないという棄(す)て鉢(ばち)の哲学も可能である。

 しかし、昆虫はおそらく明日に関する知識はもっていないであろうと思われるのに、人間の科学は人間に未来の知識を授ける。この点はたしかに人間と昆虫と でちがうようである。それで日本国民のこれら災害に関する科学知識の水準をずっと高めることが出来れば、その時にはじめて天災の予防が可能になるであろう と思われる。この水準を高めるには何よりも先ず、普通教育で、もっと立入った地震津浪の知識を授ける必要がある。英独仏などの科学国の普通教育の教材には そんなものはないと云う人があるかもしれないが、それは彼地には大地震大津浪が稀なためである。熱帯の住民が裸体(はだか)で暮しているからと云って寒い国の人がその真似をする謂(い)わ れはないのである。

 それで日本のような、世界的に有名な地震国の小学校では少なくも毎年一回ずつ一時間や二時間くらい地震津浪に関する特別講演があっても 決して不思議はないであろうと思われる。地震津浪の災害を予防するのはやはり学校で教える「愛国」の精神の具体的な発現方法の中でも最も手近で最も有効な ものの一つであろうと思われるのである。』


 このたびの、「東日本大震災」は、過去にも繰り返し地震や津波が襲った地域でありますから、百年前の寺田寅彦の警告や助言に耳を傾けるよい機会かと思います。今朝のMSNの記事には、帝都東京の地震対策についての石原都知事の提言が載っていましたが、何年も前に、イギリスから来た専門家が、東京に起こりうる地震について警告し、備えるようにとの講演会を聴きに行ったのを思い出します。いつでも起こりうるのですが、寺田寅彦は、『天災は忘れたころにやってくる!』という言葉を残しています。まだまだ忘れてしまうような時期ではありませんが、時の経過は、怖さを徐々に奪っていくのですから、政治の駆け引きやソロバン勘定ではなく、この提言に耳をしいかりと傾けたいものです。『備えあれば憂いなし!』という諺もありますから。
(寺田寅彦著「津浪と人間」は、「青空文庫〈http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/4668_13510.html〉)で読めます)

(写真上は、昭和8年3月3日の「昭和大津波」で被害を受けた釜石市の被災状況を写したもの、下は、十銭切手の「寺田寅彦」です)

高尾紀行


江戸時代には、宗教的な理由で山に登ることはありましたが、それとても「女人禁制(にょにん)」で、男だけが許された行事の世界でした。上高地・梓川の河畔に、慶応大学の英語教師をしていたイギリス人宣教師ウエストン(1861年12月25日~1940年3月27日)の碑があります。家内の友人夫妻が案内してくださって、一緒に訪ねたことがあります。ウエストンは27歳で初来日し、明治の日本人に、登山の楽しさ、山や自然を愛することを紹介してくれたのです。生涯に三度日本を訪ね、その人柄も地元の人たちに慕われたと聞きます。日本には、北アルプス、中央アルプス、南アルプスがあり、山梨県には「南アルプス市」までありますが、この「アルプス」の命名者が、このウエストンだそうです。

彼の影響でしょうか、明治の文人たちの中にも、山をこよなく愛した方々がおいでです。俳句の

柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺

で有名な正岡子規も、そのような一人でした。彼は、「高尾紀行」を残しています。その冒頭に、『旅は二日道連は二人旅行道具は足二本ときめて十二月七日朝例の翁を本郷に訪ふて小春のうかれありきを促せば風邪の鼻すゝりながら俳道修行に出でん事本望なりとて共に新宿さしてぞ急ぎける。』とあります。「例の翁」というのは、21歳年長の内藤鳴雪で、この方の俳句の師が子規であったのです。新宿駅で甲武鉄道(今の中央線です)に乗り込んだ二人は、高尾登山に出かけます(まだ八王子までしか開業されていなかったかも知れません)。車窓から風景を眺めながら、子規の指導を受けながら、鳴雪は「俳道修行」をします。彼がこんな句を詠んでいます。

荻窪や野は枯れはてゝ牛の聲

荻窪あたりでは、農耕用の牛の鳴き声がしていたようですが、私は、仕事でこの荻窪駅に2年間、通勤で地下鉄に乗り換えたことがあり、家内は、高校に3年間通いました。うん、モー昔日の感なしの今ですね。

汽車道の一筋長し冬木立


沿線は、今日日、軒を連ねた住宅が続き、どこの駅前も銀行や予備校やデパートやスーパーマーケットが林立していて、「木立」など、つとに見たことがありません。かろうじて国分寺か国立あたりまで参りますと、櫟林が残されているでしょうか。

麥蒔やたばねあげたる桑の枝

「富国」政策で、絹糸の輸出が盛んだった頃には、沿線には桑畑が広がっていたのでしょうか。私が育った町の桑園に「蚕糸試験場」があって、そこに廃棄されたサナギがあって、拾って桑の葉の餌を与えて育てたこともありました。高尾山に着いたときには、次のように記しています。

『高尾山を攀ぢ行けば都人に珍らしき山路の物凄き景色身にしみて面白く下闇にきらつく紅葉萎みて散りかゝりたるが中にまだ半ば青きもたのもし。』、子規も鳴雪も、共に伊予松山(今の愛媛県です)の人ですが、高尾を「田舎」、自分を「都人」というのですから面白いですね。

帰りには、私の育った日野駅で降り、「百草(もぐさ)」の寺や「高幡不動」を訪ねています。その時、鳴雪は、

朝霜や藁家ばかりの村一つ

と詠んでいます。二十歳まで過ごした街が、麦わらばかりの農家の農村だったのですから、級友たちのおじいちゃんたちの家も、二人は眺めたことでしょうか。ここから多摩川を渡って、国分寺、府中を経て新宿に戻るのです。蒸気機関車に乗り、馬糞と石ころだらけの道を歩いたふたり旅だったようです。初夏の高尾、明治の森を過ぎて相模湖に下っていく道を、何度歩いたことでしょうか、二十代のはじめには、標高599メートルを走って登ったことがありますが、先週、広西壮族自治区の白雲山に登りましたが、息が切れて、なんども休んでしまいました。二つ違いの弟が、山歩きが好きで、山男・強力(ごうりき)をしてたこともありますが、今では、陸に上がった河童、麓に戻った何でしょうか?日常から離れた山歩きって、いいものです!


(写真上は、上高地の朝の「河童橋」、下は、多摩川を渡る「中央線〈?〉の蒸気機関車」です)