Challenge

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 昨日は、若い友人の運転で、美しい自然の中に行きました。春の大雨で、屋根を叩く雨音の強い中、12、3人の方との交わりがあって、コーヒーとホットサンドのお昼を食べて、とても好い時を持ちました。

 今日は一転して、晴れて、栃木市運動公園への道を散策し、そこにあったブランコをこいだのです。幼い日に、山の中にはブランコが見当たりませんでした。それででしょうか、都会の子は上手にこげるのに、自分はできなかったのです。

 大きな広場の脇に立って、だれもいないのを幸いに、思いっきりブランコに近づき、ブランブランしてみたのです。一週間ほど前にものって、2度目でした。こいでもこいでも高くならなかった子どもの頃に、のるのを諦めていたのですが、この歳になって、足を振ってこぐと、高く振られ、空も地面も見えたではありませんか。

 何事も《challenge 挑戦》なのでしょうか。子どもたちが、こいでいるのを横目で見るだけでしたが、やってみてよかったなと思ったのです。『やればできる!』、まだまだ挑戦の課題を見つけてみようと思った、雨もよし、晴れてもよしの五月の栃木です。

(ウイキペディアの雨降り様子、運動公園のブランコとタンポポと木立です)

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Aurora

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 北米大陸の西海岸で、夜空に見えた「Aurora オーロラ」です。カナダやアラスカに出かけて、マス釣りやオーロラ見物をしようと、約束した方がいました。闘病中に、何度も病院に送り迎えをさせていただいて、そんな約束をしたのが、昨日のようです。

 神秘的な自然現象、気象現象です。昨秋、大学生になった孫が、一昨日、撮った写真です。神の創造の世界は、驚嘆させられてしまいます。実際に目で観たら、どれほどでしょうか。

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満州と那須高原の開拓者たち

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 栃木県の北部、那須塩原地方に、那須町があります。その豊原丙の千振(ちぶり)地区には、戦後の昭和21年に、政府の肝入りで、旧満州(現中国東北部)からの引き揚げのみなさんが、戦後を生き抜くために入植されたのです。大変な苦労をして開拓をされてきたそうです。

 初期には75戸の入植があって、雑木林の開墾から始まったそうで、現在は65戸の酪農家が、農場経営をされておいでです。私の兄は、旧満州、旧南満州鉄道の「満」に由来して、父が命名していて、あの時代の明暗、多くの開拓民のみなさんの辛苦が偲ばれます。そのような開拓村は、全国に数多くあったのだそうです。

 1937(昭和12)年に日中戦争、1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まっています。戦勝を願ってでしょうか、戦中は、「勇」、「武」、「士」、「勝」、「功」、「勲」と言う漢字が好まれて、日本男児の名に用いられたのです。同級生には、「征夫(征服からでしょうか)」とか「紘一(八紘一宇からでしょうか)」とかの名を付けてもらっていたのです。五族共和を掲げた、海外に領土を持とうとする動きの中ででした。

 戦中から戦後にかけて、中部山岳の山の中で育った私たち兄弟を、父が、街でテントを張って興行するサーカスに連れ出してくれたことがありました。あのテントの中の様子が、おぼろげに時々、思い出されるのです。『ジンタッタ、ジンタッタ!』と言う、ジャスやマーチなどの曲を演奏する音楽隊の賑やかな音が、耳の中に響くのです。子どもの頃の激励歌のような音でした。

 それ以外の日は、兄たちは学校に通い、弟と私は、戦時中には石英を運び、戦争が終わってからは、木材を運んだ索道(ケーブルカー)の終点の櫓の上で遊んだりしていたのです。時々山に行く兄たちの後について行き、「木通(あけび)」狩りをしたり、小川で魚を追ったりしたのです。

 家の前の通りを、ずっと上ったところに、開拓団の部落があったのです。上の兄の同級生がいたのを、後になって話を聞いて知りました。きっと那須の地で開拓した人と同じように、旧満州から帰ってこられた人たちの開拓部落だったのでしょうか。子どもの足では、遠かったので、そこには行ったことはありませんでした。

 父も、旧満州で若い日々を働いたと言っていました。おじさんも関東軍の主計将校だったそうです。戦争が拡大していく中で、父は、朝鮮半島や山形の鉱山で働き、終戦間際は、「軍需工場」で、軍名に従って、石英の採掘をして働いていたのです。

 「開拓者たち(北川恵著 幻冬社刊))」を読んで、そのようなことを思い出したのです。この本の主人公は、旧満州開拓団の結婚適齢期を迎えた開拓者たちに、写真一葉で、海を渡って、嫁入りした女性なのです。開拓の辛苦、終戦間際のソ連軍の侵攻、想像を絶する逃亡と帰国の物語なのです。

 この繁栄の時代の只中にあって、戦時下にあったことごとなど、絵空事のように思えるのですが、私たち四人兄弟は、戦争孤児たちと同世代で、そうなり得たことを考えると、他人事とは思えません。

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 大陸で、軍人として没したお父さんの軍帽をかぶって、九州の温泉町で、チャンバラで遊んだ級友の話を聞いていました。その戦争で父を失った彼が、わが家に泊まりに来て、お父さんと同世代の私の父と話していたのですが、どんな思いが去来していたのだろうかと、今になっても思うのです。多くの年月が過ぎていきました。

(ウイキペディアによる那須・茶臼ヶ岳、日本陸軍軍帽です)

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ヒマワリみたい!

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 『汝の父母を樂しませ、汝を生る者(母)を喜ばせよ。(文語訳聖書 箴言23章25節)』

 アメリカの教会で始まった、五月の第二日曜日の「母の日」、私たちの国でも、母親への感謝の日として、産んでくださった母を思うのは素晴らしいことです。

 母は母であるがゆえに、母として敬い、感謝し、喜び、愛する想いは、どなたにもおありでしょう。

 季節を先取りした、夏の花「向日葵(ヒマワリ、sunflower )」です。幼かった次男が、『お母さんみたい!』と言ったのを思い出しました。

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音楽の持っている力について

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 作曲が八洲秀章で、「あざみの歌」を、先月末、「まちなかmedical cafe  in 宇都宮」の10周年記念会で、会を始められた方の一人で、医師をされている方が、ハーモニカ演奏で、哀調に満ちたメロディーをお聞きしたのです。この歌を聞かれた病と闘い、死期の迫っていた方が、この歌を聞いて、元気付けられて、持ち直したのだそうです。歌ってそんな人を元気づける役割を持っているのですね

山には山の 愁(うれ)いあり
海には海の かなしみや
まして心の 花園に
咲きしあざみの 花ならば

高嶺(ね)の百合の それよりも
秘めたる夢を 一筋に
紅燃ゆる その姿0
あざみに深き わが想い

いとしき花よ 汝(な)はあざみ
心の花よ 汝(な)はあざみ
運命(さだめ)の道は 果てなくも
香れよせめて わが胸に
あゝ あゝ

 信州の下諏訪・霧ヶ峰八島高原に住み始めた横井弘が、アザミの花に自分の理想の女性像を重ねて、その恋心を詠んだ詩なのだそうです。戦争が終わって、兵役を解かれた1945年、作詞者が十八歳の時でした。

 このあざみの花は、綺麗なので手に取ると、棘に刺されたからでしょうか、「欺(あざむ)かれた)」ことからの命名なのだそうです。中国では、「大薊(daji)」と言って、中薬(中国漢方)で、止血などに用いられる薬草でもあるのです。

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Louis Gallait (Belgian, 1810-1887). ‘Power of Music,’ 19th century. oil on panel. Walters Art Museum (37.134): Acquired by William T. Walters, before 1878.

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 一般的には、「のあざみ(野薊)」で、日本列島の平地から高山に至るまで分布していて、空き地にでも、6〜9月の間に咲いている花です。100種以上があって、野の花として代表と言えそうです。信州の野山を山歩きをした時に咲いていたのが、印象的でしたが、子どもの頃に遊んでいた広場の隅にも咲いていたでしょうか。

 ガンと闘病中の方のベッドの脇で、童謡を歌って差し上げたことも、何年も何年も前にありました。私たちの教会に、養護学校に教師をなさっていて、音楽療法の必要を感じられて、専門的に学ばれて、修士になられた方がおいででした。私たちの属している老人会でも、公民館で「カラオケ」が開かれていて、家内と二人で、「もろびとこぞりて」、「きよしこの夜」を歌ったことがありました。

 悲しい時も、喜びの日にも、歌を聞いたり楽器演奏を聴くことは、激励や慰めになるので、人は古代から、歌い演奏し続け、聴いてきています。母が、結婚前に流行った歌を歌うのを聞いたことがありました。讃美歌しか歌わないのに、無理にお願いして、歌ってもらったのです。母の青春の日の歌謡だったのです。童謡も歌謡曲も演歌も、ラジオから、聞いて私は覚えました。

 満州の地で、開拓民のみなさんも、よく歌を歌ったそうです。この「あざみの歌」も戦後に人気のあった歌でした。それを、令和の代になって聴けたのは嬉しかったのです。うる覚えで覚えていて、吹かれたハーモニカの音色で思い出しました。

(ウイキペディアによるあざみのはな、ルイ・ガレ作の「妹に兄が聞かせる慰めのヴァイオリンの写真です)

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母由来の味がしてきて

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 『子たる者よ、なんぢら主にありて兩親に順へ、これ正しき事なり。 『なんぢの父母を敬へ(これ約束を加へたる誡命の首なり)。 さらばなんぢ幸福を得、また地の上に壽長からん(文語訳聖書エペソ書6章1-3節)』

 「汽水湖(きすいこ)」とは、海水と淡水とが混ざり合う湖のことで、有名なのが「宍道湖(しんじこ)」です。山陰の島根県の県都・松江市と古都・出雲市との間にあって、日本海と奥出雲から流れ下る斐伊(ひい)川の作り出す湖です。

 この湖の特産が、「蜆(しじみ)」で、父の家での味噌汁の具では、これを具材としたものが、母の手で作られて、夕食に供されていたのです。母自身が、このしじみ汁で育ったからでしょうか、母の四人の子は、よく飲みました。

 華南の街の超市(chāoshì/スーパーマーケット)で、このしじみが売っていて、さっそく買って、上海から仕入れた日本味噌で、家内に作ってもらったことがあり、それ以来、何度か飲んだのです。ところが、勤めていた大学の横を、一級河川が流れていて、授業の合間に、昼食に出た時に、その川で、しじみ漁をしてるのを見たのです。その川に流れ込む、生活排水、ドブ水に悩まされていた私は、それ以降、しじみを買うのをやめたのです。

 このしじみですが、今は、お隣の茨城県の涸沼(ひぬま)産が、この街のスーパーで売られていて、時々、青森の十三湖産もあります。この2つとも汽水湖なのです。そして、出雲の宍道湖産も、店頭で見かけるのです。飼い慣らされた《お袋の味》は、とくに男の児にとっては、母亡き後になってしまったからこそ、忘れえぬ味なのでしょう。

 また母の故郷は、蕎麦が名物なのです。江戸時代初期に、松江藩主になった松平直政が、前任地の信州から松江へ移ってきた際に、そば職人を連れて来たことによって、この「出雲そば」が誕生のきっかけとなったと言われています。中国山地の奥出雲で、蕎麦が栽培されて普及したようです。

 「割子(わりご)」と呼ばれる丸い漆器に、三から五段作りで、そばを盛り分けて、何種類もの薬味で、蕎麦つゆで食べるのです。二十代の始めの頃に、鳥取に出張した折に、母が弟のようにしていた方、予科練から生還して、父のもとで働いていた方を訪ねたのです。歩かないで駄々をこねた私を、泣きながらおんぶして、山奥の家に運んでくれた方なのです。

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 そんな話を、母や兄たちから聞かされ聞かされ育って、社会人になり、近くに行きましたので、表敬訪問をしたわけです。この方の家の近くのお蕎麦屋さんで、ご馳走してくださったのです。信州そばに馴染んできた私でも、弟分出雲そばは格別な味でした。

 この方を連れ、父が、その出雲の街の小川で、泥鰌(どじょう)獲りに、『よく連れ出されて獲ったのです!』と言っておいででした。そう言えば、出雲の安来(やすぎ)には、「安来節」という民謡があって、和手拭いでほっかむりをし、笊(ざる)をかかえ、腰にカゴをつけて、ひょうきんに「泥鰌獲り」をするのです。

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 ここ栃木から、東武線の終点が浅草、いや、始発が浅草と言うべきでしょうか、その浅草には、泥鰌を食べさせる老舗の店があるのです。『準,駒形へドジョウを喰いに行こうな!』と、何度か言ったまま、逝ってしまった父を思い出すのです。それで浅草に行きかけるのですが、いつも遠慮してしまって、時が過ぎております。

 この辺りの人は、年に一度くらいは、浅草に出て行くのでしょうか。浅草名物の「志゙満ん草餅」を、家内のために、下の息子が来るたびに買って持参してくれるのです。それを隣家にお裾分けした時に、この草餅を知っておいででしたから、やはり、この辺りのみなさんの浅草行きは、江戸行きの目的地だったのが分かったのです。

 明日は、しじみ汁にでもしましょうか。生鮭の切り身が冷蔵庫にあるので、それを焼いて、栃木産のお米を炊いて,夕食に供しましょうか。

(ウイキペディアによる宍道湖、十三湖、涸沼、割子蕎麦、泥鰌踊りの服装の写真です)

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初夏なのに春の終わりの様子を

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シャガ

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キンラン

 こんなに綺麗に咲く花が、この日本列島の中にあるのに、強烈な感動を覚えさせられ、いつか出掛けてみたいなと思うこと仕切りです。

 まだ寒いのに、そこはかと春を感じるのか、春への期待が膨らむのか、よく歌った聖歌に、「原に若草が(652番)」があります。

1 原に若草が 青く萌え出すと
雪解けの水が 高く音立てる
*くりかえし
わたしたちも 春の喜びを歌おう
春を造られた 神さまを歌おう

2 風がやわらかく 野原を通ると
木の枝が揺れて さらさらささやく
*くりかえ

3 遠くで家畜の 声が聞こえると
近くで小鳥が 何か歌いだす
*くりかえし

4 造られたものは 春の陽を浴びて
春を造られた 神さまをほめてる
わたしたちも 春の喜びを歌おう
春を造られた 神さまを歌おう

 まさに樹々も草花も、万物が、その創造主に向かって、いっせいに賛美し始めるわけです。自然界は、造り主を熟知しているからでしょう。

(「里山を歩こう」が配信くださる映像です)

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新天新地で永遠の時を過ごす

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 作詞が竹内まりあ(Miyabi )、作曲が村松崇継の「いのちの歌」を、四月最後の日曜日の午後、日曜日に、「まちかどメディカル・カフェ in  宇都宮」の11周年の会で聴きました。

生きてゆくことの意味 問いかけるそのたびに
胸をよぎる 愛しい人々のあたたかさ
この星の片隅で めぐり会えた奇跡は
どんな宝石よりも たいせつな宝物
泣きたい日もある 絶望に嘆く日も
そんな時そばにいて 寄り添うあなたの影
二人で歌えば 懐かしくよみがえる
ふるさとの夕焼けの 優しいあのぬくもり

本当にだいじなものは 隠れて見えない
ささやかすぎる日々の中に かけがえない喜びがある

いつかは誰でも この星にさよならを
する時が来るけれど 命は継がれてゆく
生まれてきたこと 育ててもらえたこと
出会ったこと 笑ったこと
そのすべてにありがとう
この命にありがとう

 NHKの番組で、この歌が主題曲になって、連続テレビ小説「だんだん(2008年放映)」の劇中歌や、「開拓者たち(2012年放映)」の中で歌われていました。出雲地方では、「ありがとう」を、番組名の「だんだん」と言うのですが、出雲生まれの母の口からは聞いたことが、一度もありませんでした。

 この歌の歌詞には、価値ある「出会い」、暖かな人との「関わり」、奇跡的な「めぐりあい」、困難な場面での「寄り添い」、避け得ない「さようなら」など、人と人の交流の場面が歌い込まれているのです。これらは、生きていればこその人と人との交わり、いのちあればこその喜怒哀楽なのでしょうか。いのちの大事さが読み込まれているのです。

 『ヱホバかくイスラエルの家に言たまふ 。汝ら我を求めよ さらば生べし。ベテルを求むるなかれ ギルガルに往なかれ ベエルシバに赴く勿れ ギルガルは必ず擄へられゆきベテルは無に歸せん。汝らヱホバを求めよ 然ば生べし(文語訳聖書 アモス書5:4-6)』

 聖書は、『主(Jehovah,Adonai/エホバ)を求めて生きよ!』と言います。病んだり裏切られたり失敗したりして絶望しても、主を求めるなら、生きていけると、いただいた生への感謝を持って、神さまがお定めくださった一生を、『ありがとうございます!』と、感謝して生きていくことなのでしょう。 《神ありの一生》を送れる奇跡に、「隠れて見えない」ものを見ることができて、ただ驚くばかりであります。

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 この肉を脱いで、この世を去る時に、私たちの口には、感謝があふれるのでしょう。先週、一人の伝道者が、退職をするとおっしゃるお便りをくださいました。在米の日本人教会を長く牧会されたご夫妻です。同窓の先輩なのです。私たちの結婚式で、お世話になって、その後、間もなく、私たちは母教会を出て、宣教師さんの開拓伝道に従事するために、お会いしないまま今日に至ったのです。

 『我また新しき天と新しき地とを見たり。これ前の天と前の地とは過ぎ去り、海も亦なきなり。 我また聖なる都、新しきエルサレムの、夫のために飾りたる新婦のごとく準備して、神の許をいで、天より降るを見たり。 また大なる聲の御座より出づるを聞けり。曰く『視よ、神の幕屋、人と偕にあり、神、人と偕に住み、人、神の民となり、神みづから人と偕に在して、 かれらの目の涙をことごとく拭ひ去り給はん。今よりのち死もなく、悲歎も號叫も苦痛もなかるべし。前のもの既に過ぎ去りたればなり』(文語訳聖書 黙示録21章1-4節)』

 出会いも別れも再会もある今ですが、やがて永遠の時を過ごす新天新地、新しいエルサレムが天から降ってくるのです。そここそが私たちが、永遠に過ごす世界であると言うのが、聖書の約束です。その約束を握って、多くのクリスチャンたちが、この世の馳せ場を駆け抜けて、そこに突入するのでしょう。

(Christian clip artsのイラストです)

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端午の節句に

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 四人の男の子の成長を願って、出雲の母の実家から、「ちまき(粽)」が、子どもの日の前に送られてきました。母が蒸してくれ、砂糖醤油をつけて食べたのです。

 この「端午の節句」になると、粽を包んだ笹の葉の匂いがしてきます。中国でも、よく頂きました。あちらでは「粽子(zòngzi)と言っていたのです。私たち兄弟が食べたのは、米粉を練って作った淡白なものでしたが、華南の地では違っていました。

 豚肉や鶏肉・砂糖・卵・干しエビ・干し貝・シイタケ・ナツメ・アズキ・ハスの実をもち米と混ぜて、笹・ハス・アシの葉などに包み、蒸したり茹でたりして作っていました。その形状や食材は、その土地その土地で違っていたのです。でも、私たちの食べたのと同じような形状もありました。中国の粽に、次のような故事があります。

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 『屈原が汨羅(ペキラ)の淵に身を投じた、その命日は5月5日だったという。そのとき、楚の人たちは屈原の死を悲しみ、糯米(もちごめ)を蒸した粽(ちまき)を作って川に投げ、供養したという。一説には、魚がその体をついばまないようにするためだったともいう。これが、5月5日、つまり端午の節句に「ちまき」を食べる習慣の始まりだという。また、投身した屈原を救おうと、近くの漁民が龍舟(ドラゴンボート)を漕ぎだしたが、間に合わなかったことを悔やみ、それからドラゴンボート競争が始まった、という伝説も生まれた。粽も龍舟も江南地方の伝統的な食べ物や行事であったものが、後漢のころに屈原と結びつけられて生まれた伝説であるらしいが、このような伝説が生まれたのも民衆の中でも屈原が忘れられなかったためであろう。(「世界史の窓」からです)

 母の家の近所の方で、戦後、予科練から帰って来て、父の仕事を手伝ってくれた方(そうまだ十代だったと思います)が、夏前になると、二十世紀梨を、また、出雲そばと蒲鉾(野焼きと言っていました)を暮れに、毎年送ってくださったのです。父が亡くなってからも、世帯を持った四人の父の子のそれぞれの家に送ってくれたのです。

 これらは、家庭の事情で、親戚付き合いの少なかったわが家では、毎年五月と、初夏と、暮れに、親戚を感じ、母のふるさと感じる食べ物だったのです。

 亡くなる前に信仰を告白した父は、子ども頃に、生まれた街の教会に、父の父親(私たちには祖父ですね)に連れられて行ってもらったのだそうです。

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 仏壇も神棚も札も、何もないわが家でしたし、日本のしきたりに拘らなかった父でしたが、「鯉幟(こいのぼり)」を、庭に竹竿を立てて、泳がせてくれたこともありました。

 健康に、強く育つように願ってでした。『泣いて帰ってきたら家に入れない!』と言って、強くあれと願った父でもありました。その父の思いを、思い出して、父よりも20年近くも長生きでいられる感謝を覚える、五月五日であります。

 今朝、弟からMail があり、この「ちまき」の懐かしい思い出を書いてよこしました。朝起きして一番に、そのことを思い出したとのことです。共通する思い出があって、家族や知人や友人との関わりも思い出しました。

(ウイキペディアの粽、横山大観の描いた屈原、中華圏のの粽子です)

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庭に咲く紫花が

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『わが霊魂よヱホパをほめまつれ。わが神ヱホバよ。なんぢは至大にして尊貴と稜威とを衣たまへり 。なんぢ光をころものごとくにまとひ、天を幕のごとくにはり。水のなかにおのれの殿の棟梁をおき、 雲をおのれの車となし、 風の翼にのりあるき 、かぜを使者となし熖のいづる火を僕となしたまふ 。ヱホバは地を基のうへにおきて 永遠にうごくことなからしめたまふ 。(文語訳聖書 詩篇104篇1-5節)』

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