小遠足の思い出話

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『もろもろの花は地にあらはれ、鳥のさへづる時すでに至り、班鳩の聲われらの地にきこゆ。無花果樹はその靑き果を赤らめ、葡萄の樹は花さきてその馨はしき香氣をはなつ。わが佳耦よ、わが美しき者よ、起て出きたれ。(文語訳聖書 雅歌2章12-13節)』

 ローカル線の電車の運転手さん、市バスの運転手さんと、話す機会があり、人の移動の助けをしている仕事柄、興味深い話をお聞きする機会が多いのです。

 群馬県桐生市に、JR 両毛線の桐生駅を始発に、渡良瀬川の岸を走る電車の始発駅があります。1610年に銅鉱石が発見され、徳川幕府の直轄の鉱山として、その採掘を始めた足尾銅山を結ぶ電車なのです。そこで採掘された銅は、加工を経て、日光東照宮や芝増上寺の造営に使われたそうです。さらに、「鋳銭座」を設け、寛永通宝などの銅銭を鋳造したのです。

 明治期になって、鉱脈が尽きたのか、減産に減産を重ねていきます。ところが古河財閥の手で、新鉱脈が発見されるや、20世紀の初めには、日本の銅の40%を採掘していくのです。そのようなので中で、馬の背での運搬では間に合わなくなり、鉄道が敷設されるに至ったわけです。当時、栃木県下では、宇都宮に次ぐ人口の多い街として、賑わったのが、この足尾だったそうです。

 鉱山王のグリン・ビビアンが、クリスチャンとなって、世界中の鉱山で働く坑夫に重荷を持ち、各国にの鉱山の街に、教会ができるように、この方の遺産が捧げられ、伝道を開始していくのです。ここ足尾でも伝道が開始され、1908年に、キリスト教会が始まります。その教会の建物は、現在も、通洞駅近くにあって、礼拝のために使われていて、過疎になった街に、灯火をかかげ続けています。

 その鉄道が、民営に移管されてた「わたらせ渓谷鉄道」で、2020年の初夏に、私は利用をしたのです。その電車に乗って、上下線の待ち合わせ停車の時間に、運転手さんと話をしたのです。ローカル線の若手の方で、キビキビと運転され好感度満点だったからでしょうか、話しかけたのです。

 『みなさんには楽な仕事に思われるんですが、神経を大変使って、日頃運転しているんです!』、『夜間走行時には、カモシカや日本シカが線路上に出てきて、轢(ひ)いてしまうことが、3週間に一度くらいあるんです!』、それで質問を私がしましたrs、『事故処理は、どうされるのですか?』と、すると、『電車を止めて、線路上に降りて、自分でするんです!』と言っておられました。

 熊とかは皆無で、轢かれるには、逃げようとしない鹿だけで、どうも仕方がないことなのだそうです。渓谷美を見せる沿線では、そんなことが起こっていたのです。帰りは、通洞駅から、東武日光駅まで、日光市営バスに乗車しました。実に美しい、梅雨前の緑の木々の間を走り抜けたのです。また出掛けてみたい小遠足でした。

 足の銅山の公害があったことなど忘れさせるほど、渡良瀬川の流れも清く澄み、木々の緑も圧倒されるほどでした。ここも強者どもが夢の跡で、何事もなかったかのように、自然が溢れた静かな地でした。

 先日乗った市営バスの運転手さんが、『花いじりをした後は、年配者は、石を集めるのだそうです!』と、趣味の変化の話をされておいででした。ベランダに植木鉢が、今は溢れていますが、これから出先で拾った「石」が集められ、やがて置かれるのでしょうか。「収集家( collector  )」とは、年寄りのタイトなのでしょうか。

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 鏃(やじり)や土器のかけらを、家に置いていたことがあった小学生の頃を懐かしく思い出してしまいました。そろそろ入梅でしょうか。銚子港に、入梅いわしが水揚げされたとニュースが伝えています。

(わたらせ渓谷鉄道の車内、ウイキペディアのイワシの魚群です)

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朝顔の鉢植えを終えて

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 今季も、「朝顔」をベランダに咲かせる準備を終えました。種を冷暗所で発芽させ、それを、五月末になって鉢植えしたのです。真夏には、日陰を作って、涼を添えてくれる、花ある景色が好きだからです。

 華南の街の八階のベランダにも、いっぱいに咲かせたことがありました。下から見るには高すぎる景色でしたが、住む私たちには、一夏の慰めでした。年が明けて、正月になっても花を咲かせていたのには驚きました。

(“ ぴくらいく ” からの朝顔のイラスト画です)

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強者どもの今を

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 兄たちの世代で、脚光を浴びた文化人や政治家や芸能人、そしてスポーツ選手たちの今を伝える記事が、マスコミに多く取り上げられてられています。戦時下に生まれ、厳しい戦後を過ごし、激変する社会に中を走り抜けてきた世代でしょうか。

 戦争で父を亡くしたり、あるいは両親の不和と離婚、けっこう恵まれない星の下を生き抜いてきたみなさんが多くおいでです。人には言えない辛苦を通った方もいるのです。日本プロ野球で、前人未到の記録を残した名選手に、張本勲がいます。先頃までは、テレビ番組のcommentatorとして活躍していた方です。

 先日、ジャイアンツの試合で、張本勲が、始球式をしている映像を見ました。杖をついて、おぼつかない足取りで、マウンドまで歩み、ピッチャープレートのだいぶ前から投げておられましたが、外野からの強烈な返球や、バットをブンブンと、振り回す姿を知っている私には、バウンドしながらキャッチャーミットに届いたボールを見て、なにか物悲しく感じてしまったのです。

 王、長嶋などの選手の陰に隠れていましたが、真にプロフェッショナルのプロ野球選手でした。朝鮮半島の出身のご両親によって、広島で生まれ、ガキ大将で喧嘩に強い頑強な少年期を過ごしていたそうです。原爆が投下された時に被爆されておいでです。子どもの頃に、手を火傷して、機能不全になるところをなんとか持ち堪えて、野球と出会って、その能力やSenseをもって、日本野球界に、「安打製造機」と異名をとって、貢献した記録保持者なのです。

 一家を支えたお父さんを亡くし、その後は、お母さんが、豚や牛の内臓を加工したホルモンを、広島の街で売り歩いて、子育てをしたのだそうです。お姉さんも亡くしています。そんな厳しい中を、生き抜いた猛者です。

 その彼の近影を見て、また、先頃亡くなられたプロレスの猪木、その他に銀幕を飾ったり、ステージの上で活躍した、兄世代の芸能人の逝去のニュースも多く聞きます。鋼鉄のように鍛え上げた身体を持っていても、老いには叶わないようです。人の限界を覚えるのです。聖書は、

『われらが年をふる日は、七十歳にすぎず。あるひは壯やかにして八十歳にいたらん。されどその誇るところは、ただ勤勞とかなしみとのみ。その去ゆくこと速かにして、われらもまた飛去れり。(文語訳聖書 詩篇90篇10節)』

 人の盛んな時期は、短いのだと、そんなニュースを目にし、病気がちの自分も含めて、父が、よく言っていたように、

『いつまでもあると思うな親と金!』

これに、「若さ」や「勢い」や「溌剌さ」なども加えられるでしょうか。いつまでも、それらはなさそうです。先週は、隣人で、いろいろと心配してくださる、こちらに来てからできた友人に紹介されて、大学附属病院の循環器内科に、検査で出かけました。外科ばかりで、何度も何度も私は入退院を繰り返してきましたが、今や内科疾患で医者通いです。

 下野国の国府のあった街、下野市に、超近代的な地域医療の拠点が出来上がっています。薄暮のグラウンドでシュートを打ったり、 大男を相撲でぶん投げたり、高尾山を駆け上がった日もあったのに、今の様子ですが、これでいいのだと思うのです。人の一生を、静かに、また賑々(にぎにぎ)しく過ごして来ての今、それでも小走りしては、ふと気付いて、『もう無理はしない!』と、自分に言い聞かせています。

 そう「飛び去る日」がくるのですが、その日まで、いただいた命を大切に、感謝で生きようと、病院の玄関から出た次第です。その同じ日には、弟が入院中だと知らせてき、次兄と義姉とは、自分も入院してヘルニアの手術をし、家内も入院手術をしたことにある病院に、一緒に、姪の運転で通院中だと、電話がありました。上の兄もスポーツ選手でしたが、大怪我の後遺症などで、今や、あちこち痛いのだそうです。それぞれの病情報交換して、祈り合うこの頃です。これで、いいのでしょう!

( “ いらすとや “ による野球選手です)

この日を喜び楽しまん

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『これヱホバの設けたまへる日なり。われらはこの日によろこびたのしまん。(文語訳聖書 詩篇118篇24節)』

 6月4日午前4時20分台の「日の出」です。昨日の夕方の大雨と打って変わって快晴です。「主の造られた日」ですから、『喜び楽しもう!』と思います。 

 好い一日をお過ごしください。

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デジタル弱者の私

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 「社会的弱者」、「経済弱者」、「買物弱者」、などと言われる人たちがおいでです。そう言ったみなさんに、その社会、国家、集団などが、どのように援助していくかが問われています。

 病気や障害や事件、天候などの天変地異の出来事によって、損害や損失などをこうむった人たちに、どう接していくかが問われるわけです。そのような立場、環境にある人たちが、社会的に、経済的に、身体的に健康であるように援助していことが求められます。

 イスラエルの社会の中で、とくに経済弱者であった、寡や孤児や外国人への配慮や援助が、神によって定められていました。

『汝他國の人または孤子の審判を曲べからず。また寡婦の衣服を質に取べからず。汝誌ゆべし。汝はエジプトに奴隸たりしが汝の神ヱホバ汝を其處より贖ひいだしたまへり。是をもて我この事をなせと汝に命ずるなり。汝田野にて穀物を刈る時、もしその一束を田野に忘れおきたらば、返りてこれを取べからず。他國の人と孤子と寡婦とにこれを取すべし。然せば汝の神ヱホバ凡て汝が手に作ところの事に祝福を降したまはん。 汝橄欖を打落す時は、再びその枝をさがすべからず。その遺れる者を他國の人と孤子と寡婦とに取すべし。また葡萄園の葡萄を摘とる時は、その遺れる者を再びさがすべからず。他國の人と孤子と寡婦とにこれを取すべし。汝誌ゆべし汝はエジプトの國に、奴隸たりしなり。是をもて我この事を爲せと汝に命ず。(文語訳聖書 申命記24章17〜22節)』

 イスラエルの主なる神さまは、社会的弱者に対して、格別な配慮をし、この寡(やもめ)、孤児、在留異国人のみなさんの食べたり、飲んだり、着たり、住んだりすることについて、共に住む他者に責任を果たすように、イスラエルの民に命じたのです。

 聖書と Counseling を学んだ学校で、この箇所をテキストに、退職して帰国する外国人教授の最終講義がなされたのです。旧約聖書の研究をされてきた学究派の聖書教師でした。社会弱者を顧みられる神さまを、学徒に語りたかったのでしょう。淡々と話されたのです。

 非生産的、非貢献的な人間への神の顧みということ、寄るべなき者を、決して見捨てられない神さまがいて、人にも、寄るべない者を顧みるように要求する神がいらっしゃることに、まさに聖書が知らせる神さまのご性質の最もはっきりしたことではないでしょうか。

 生きていたって役に立たない人など、価値も意味もないとされている人間社会に、そう言った人々と共に生きるために、心を配り、物を分け与えるように願う神が、聖書の示すお方なのです。強者だけが生き残れるような人間社会に、弱者保護規定を設けられたお方を、神だと知ってから、わたしは、自分の生き方が変えられたのです。

 今も「弱者」がいますが、最近身につまされているのが、「情報弱者(デジタル弱者)」です。デジタルの世界の驚くほどに進歩し、変化し、その日進月歩の現実についていけない、われわれ世代が、その動きの中で、ポカンとしてしまっているわけです。

 日本語の中に、カタカナ語が混じると、何が何だかチンプンカンプンで、ついていけないと言うか、拒否反応が出ているのと同じです。ラジオのニュースの中で、カタカナ語が出てきますと、英和辞書で字引きをするのですが、日本語化されている英語は、spelling がわからず苦労してしまうのです。

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 今や、家内も私も「デジタル弱者」なのですが、携帯電話を持たない、キャッシュカードを使わない、車を持たないなど、旧態依然とした生き方をしている方が、時々いらっしゃいます。上の兄は、頑なに携帯電話を持ちませんし、近所の家内の友人も、家に黒電話を置いてるだけなのです。

 それでいて、生活に困ったり、不便を感じていないのです。文明の力に操られないで、人として、ごく自然に生きているわけです。でも、ITとか AIとか言う時代になって、だんだん生きにくくなってしまっています。そんな私たちを「アナログ世代」とか言うそうですが、昨日も、家内の通院に付き合い、薬局で投薬を受けました。

 保険証の代わりに、マイナンバーカードで顔認識をされていました。テレビドラマの中にあった、なんだか犯罪者の面通しのように見えたのです。初めての職場は、出社や退社時には、名簿の記入でしたが、その内に、機械にカードを挿入するようになり、今では、顔認識、眼球認識(虹彩認識: Iris recognition)になっているそうです。何か、人が物扱いされているようで、怖いようです。

 一枚のプラスチックのカードの挿入、さらに眼球認識になると、個人情報が悪用され、昔、宣教師さんに、終わりの時代に、「世界政府」ができて、そこに全人類の情報が集められ、すべての人が管理されると、聖書研究で聞きましたが、そんな時代の到来がきていそうで、心配です。黙示録には、「666」の謎の数字が出てきますが、謎解きがなされています。

(ウイキペディアの監視カメラ、そろばん使用法です)

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涼暮月

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 六月になりました。「水無月(水の月、水のある月という意味でしょうか)」と言われて、「涼暮月(すずくれづき)」と呼ばれたようです。日中は暑くなりますが、夕暮れには涼しさを感じられる情緒、情感の溢れた呼び方の月ですね。英語では、”June bride” で、好まれて結婚式が、よく行われる月なのだそうです。梅雨に代表される月でこれなしにお米は育たないのです。

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(隣家から頂き、その庭に咲き、そして我がベランダで咲く紫陽花です)

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循環型社会だったお江戸

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  お江戸日本橋七つ立ち 初上り
行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す

こちやえ こちやえ

六郷渡れば川崎の まんねんや
鶴と亀との米まんじゆう
こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ

こちやえ こちやえ

行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す

こちやえ こちやえ 

 江戸の日本橋を起点に、江戸五街道が整備され、軍事上も、政策上も、商業上も、そして文化や習俗でも、重要な意味と価値を持った、それらの伝達の経路でした。父の会社が、日本橋のライオン像が表玄関にある三越本店の近くにあって、子どもの頃に、何度か連れて行ってもらったことがあります。

 その街道には、「道標(みちしるべ)」が、一里ごとに置かれ、「一里塚」と呼ばれていました。その一里、四町で約4kmごとに「塚」が置かれ、そこに植えられたのが、「榎(えのき)」でした。


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 港区に、「芝二本榎」と言う地名が残されていて、ここも「一里塚」で、歩行で旅をする人への気配りがあったわけです。江戸の物質、情報、生活振り、文化、教育などが、地方にもたらされて、江戸風な生き方、あり方が伝わって行ったたわけです。

 幕末に、わが国を訪れた外国人は、当時、世界最大都市の江戸が、どれほど文化的な街であったかを記録に残しています。浮世絵や歌舞伎や音曲などの娯楽が代表されるだけではなく、上下水道、生活物資の流通、本の印刷や出版、子弟の教育、清潔な街並など、数え上げるときりがないほど優れていたのです。

 南信州の山の中に、「村歌舞伎」が伝えられていて、幕府は禁制にしたのですが、江戸や京で上演された出し物が、村人たちの演出や出演で、密かに演じられ、武家の生き方や倫理や道徳まで、片田舎にも伝えられていたのです。
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 「菅原伝授手習鏡 寺小屋の段」が上演されると、当時、南信の県立高校で英語教師をしていた娘婿の関係で、大鹿村に呼ばれて、家内と一緒に出掛けて、観劇したことがあったのです。江戸中期に始められた歌舞伎で、新橋の歌舞伎座以上に素晴らしくて、舞台に向かって投げ銭をしてしまうほどでした。

 日本中、京や江戸の感化を受け、貧しいながらも、相当に文化的な雰囲気が、日本全国の山漁村にまでも伝播されていたのです。今でこそ、文化の中心のパリの街では、かつてはし尿は、街路にばらまかれていたのに、江戸の街は、住宅ごとに共同便所があって、近在の農村から来た農家のみなさんが買い上げて、肥料にし、作物を作っては、それらを売りにやって来る、いわゆる「循環型社会」が出来上がっていたのです。

 今、日本の街が綺麗だと、外国人観光客やメデイアが言うのは、偶然ではなく、住環境を住みやすく、整えて、保って生活して来た、長い歴史があってのことなのです。そんな江戸がモデルになって、地方の街も、清潔にされ、活気付けられていった面があったのです。この街を流れる巴波川も、舟運で栄え、江戸の香りも物資と共に運ばれてきて、「小江戸」のようだったそうで、その名残を、今も感じられます。

(ウイキペディアの江戸の街、榎、大鹿歌舞伎です)

 

書くということ

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 これまで自分の思いを表現することの大切さをよく聞いてきました。次男から、ブログを始めるように勧められて、やり始めたのが、十数年前でした。また、この数年来、参加させていただいている集いの中でも、思っていること、感じていることを表現するように勧められてきています。自己表現をすることで、何かが始められたり、きっかけなったりするようです。

 病んだり、愛する人を失ったり、心が傷つけられるなどの経験は、どなたにも起こり得ます。そんな出来事から解放され、赦したり、受け入れたりすることができる、その切っ掛けがあったら、素晴らしいわけです。そのようにしますと、何か縺(もつ)れた糸が解(ほど)けていくようなれるのでしょう。

 心のうちに、蟠(わだかま)っていたことが、文字やことばや絵などの創作によって、表現されるなら、時は移り、人は去っても、そうされたことの事実や、経緯、そうした人の実態が分かったり、されたことの背後にあった、その人の奥深い所に隠されていた過去などが、朧(おぼろ)げに気付き始めるのです。

 そう言った意味で、詩や俳句や短歌、作文、blog、手紙、memoなどで表現することは、自分や家族や友人などを、知る上で役立つのでしょう。お隣の国の学校で、日本語教師をしていた時に、「写作(xiezuo 作文)」を担当させていただきました。中国の社会で20年生きてこられて、日本語を学び始めた学生のみなさんに、多くのテーマで書いてもらったのです。その中に、「三行ラブレター」がありました。

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 けっこう難しい主題だったのです。三行の文章で、愛や思慕や感謝を表現するのに、みなさんは、限られた時間内に、それを書き上げたのです。ある年度に書いてもらった、その「三行ラブレター」を、四編ご紹介してみましょう。

《お父さんへ》

父さんが作れる たった一つの料理
中国料理の特に卵焼き
どんな料理よりも優しい味

《お母さんへ》

もらった命、もらったやさしさ
きつく叱られた幼き日々も 贈り物だったんだ
本当にありがとう

《友だちへ》

お天気予報
最初にあなたの住む街を見ます
今日はあたたかくなりそうですね

《おばあちゃんへ》

午前中ずっと私の歩く道路に沿って探していて
ただ、私の服から落ちたボタンのためだったと知って
涙が止まらなかった 、おばちゃん ありがとう

 なかなか感謝に溢れ、人を思う思いの深さのある秀作だったのです。日本語を学んでいる学生さんたちが、自分の周りにいてくれた両親、祖父母、恩師、友人たちへの感謝や思い出を、短く母国語ではなく、学んでいる日本語で文章化したわけです。とても懸命に、書き上げていたのが、教師として嬉しかったのです。

 もう恋文を書くようなことは、私にはありませんが、妻だけには、尽きない感謝があります。互いの弱さをもちながら、それに反発したり、受け入れたりの年月だったでしょうか。さらに父や母や恩師への感謝の想い、兄弟や友人たちへの懐かしい想いも、歳を重ねるほどに強くなってきているでしょうか。それを文章で表現できるのは、感謝なことであります。

(ウイキペディアによる福音書を記すマタイ、チビたえんぴつに補助じくを付けた様子です)

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クリーン・プラザ見学会

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 小雨の降る月曜日に、老人会(時節柄 “ Elder Club “ の方がよさそうですね)のみなさん九人で、〈蔵タク( ” Demand交通 ” と市の案内にある予約制の乗合タクシーのことです)〉に乗って、市の週末処理場の見学に行って来ました。

 そこも、英語表現で、クリーン・プラザ(Clean Plaza と呼ばれていて、外国の施設に行くみたいでした。そう日々出されるゴミの処理施設のなのです。自分の家庭から出す不用品が、どのように処理されているかを、市の職員の方の案内で、見学させていただいたのです。

 まず、三階会議室でVideo を観て、実際に施設を案内をしていただいたのです。広報によりますと、

「ゴミ焼却施設」

 ⚪︎完成年月 平成15325

 ⚪︎建設費 1411,200万円(本体工事費のみ、リサイクルプラザ含む)

 ⚪︎処理内容 もやすごみの焼却処理

 ⚪︎処理能力等 連続燃焼式 237

「リサイクルプラザ」

 ⚪︎完成年月日 平成15325

 ⚪︎処理内容 もやさないごみ・粗大ごみ及びペットボトル・トレイの資源化処理

 ⚪︎ 処理能力等 併用方式 30t/5h粗大ごみの再生展示

「リサイクルセンター」

 ⚪︎完成年月日 平成3330

 ⚪︎建設費 24,565万円(本体工事費のみ)

 ⚪︎処理内容 空カン・空ビンの資源化処理

 ⚪︎処理能力等 手選別処理 20t/5h

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 実際に作業の様子を見学させていただき、大変な作業をしている様子に感謝な思いがしてまいりました。年配者や外国人の方が、主に作業に従事していたでしょうか。ベルト上に流れてくる瓶を、色別に仕分けしたり、プレスされた空き缶を運んだり、大きな家具やマットなどは重機で運んだり、ここも手作業もありました。

 出流山や、お隣の鹿沼市の粟野に抜けていく街道の脇道に入った緑が溢れて箇所に、近代的な施設がありました。焼却で出る排気ガスの処理が万全であることを、木々の緑や咲く花が証明していました。電気も、水も、処理作業で作り出されるEnergie を使用しているそうです。余分な電気は、外部の電気会社に売っているとお話しされていました。

 どうも老人クラブの見学は稀で、ほとんどは市内の小学四年生の校外見学でやって来られるそうです。また外国人のみなさんも、おいでだと言っていました。

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 作業の様子を見学させていただき、大変な作業をしている様子に感謝な思いがしてまいりました。年配者や外国人の方が、主に作業に従事していたでしょうか。ベルト上に流れてくる瓶を、色別に仕分けしたり、プレスされた空き缶を運んだり、大きな家具やマットなどは重機で運んだり、ここも手作業もありました。

 見学を終えて、迎えの蔵タクで迎えていただくのを、センターのベンチに座りながら待っていました。その時の団欒も楽しいものでした。92歳の自治会の古老の方の発案で、今回の見学が実現しました。蔵タクの手配、時間調整など、心憎いほどの細かな配慮を見て驚かされました。立派な方なのです。好い半日の見学に感謝でした。

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ポカンとしている私

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 「社会的弱者」、「経済弱者」、「買物弱者」、などと言われる人たちがおいでです。そう言ったみなさんに、その社会、国家、集団などが、どのように援助していくかが問われています。

 病気や障害や事件、天候などの天変地異の出来事によって、損害や損失などをこうむった人たちに、どう接していくかが問われるわけです。そのような立場、環境にある人たちが、社会的に、経済的に、身体的に健康であるように援助していことが求められます。

 イスラエルの社会の中で、とくに経済弱者であった、寡や孤児や外国人への配慮や援助が、神によって定められていました。

『汝他國の人または孤子の審判を曲べからず。また寡婦の衣服を質に取べからず。汝誌ゆべし。汝はエジプトに奴隸たりしが汝の神ヱホバ汝を其處より贖ひいだしたまへり。是をもて我この事をなせと汝に命ずるなり。汝田野にて穀物を刈る時、もしその一束を田野に忘れおきたらば、返りてこれを取べからず。他國の人と孤子と寡婦とにこれを取すべし。然せば汝の神ヱホバ凡て汝が手に作ところの事に祝福を降したまはん。 汝橄欖を打落す時は、再びその枝をさがすべからず。その遺れる者を他國の人と孤子と寡婦とに取すべし。また葡萄園の葡萄を摘とる時は、その遺れる者を再びさがすべからず。他國の人と孤子と寡婦とにこれを取すべし。汝誌ゆべし汝はエジプトの國に、奴隸たりしなり。是をもて我この事を爲せと汝に命ず。(文語訳聖書 申命記24章17〜22節)』

 イスラエルの主なる神さまは、社会的弱者に対して、格別な配慮をし、この寡(やもめ)、孤児、在留異国人のみなさんの食べたり、飲んだり、着たり、住んだりすることについて、共に住む他者に責任を果たすように、イスラエルの民に命じたのです。

 聖書を学んだ学校で、この箇所をテキストに、退職して帰国する外国人教授の最終講義がなされたのです。旧約聖書の研究をされてきた学究派の聖書教師でした。社会弱者を顧みられる神さまを、学徒に語りたかったのでしょう。淡々と、時に昂りを見せながら話されたのです。

 非生産的、非貢献的な人間への神の顧みということ、寄るべなき者を、決して見捨てられない神さまがいて、人にも、寄るべない者を顧みるように要求する神がいらっしゃることに、まさに聖書が知らせる神さまのご性質の最もはっきりしたことではないでしょうか。

 生きていたって役に立たないと思われている人たち、価値も意味もないとしている人間社会に、そう言った人々と共に生きるために、心を配り、物を分け与えるように願う神が、聖書の示すお方なのです。強者だけが生き残れるような人間社会に、弱者保護規定を設けられたお方を、神だと知ってから、わたしは、自分の生き方が変えられたのです。

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 今も「弱者」がいますが、最近身につまされているのが、「情報弱者(デジタル弱者)」です。デジタルの世界の驚くほどに進歩し、変化し、その日進月歩の現実についていけない、われわれ世代が、その動きの中で、ポカンとしてしまっているわけです。

 日本語の会話の中に、カタカナ語が混じると、何が何だかチンプンカンプンで、ついていけないと言うか、拒否反応が出ているのと同じです。ラジオのニュースの中で、カタカナ語が出てきますと、英和辞書で字引きをするのですが、日本語化されている英語は、spelling がわからず苦労してしまうのです。

 今や、家内も私も「デジタル弱者」なのですが、携帯電話を持たない、キャッシュカードを使わない、車を持たないなど、旧態依然とした生き方をしている方が、時々いらっしゃいます。上の兄は、頑なに携帯電話を持ちませんし、近所の家内の友人も、家に黒電話を置いてるだけなのです。

 それでいて、生活に困ったり、不便を感じていないのです。文明の力に操られないで、人として、ごく自然に生きているわけです。でも、ITとか AIとか言う時代に、だんだん生きにくくなってしまっています。そんな私たちを「アナログ世代」とか言うそうですが、昨日も、家内の通院に付き合い、薬局で投薬を受けました。

 保険証の代わりに、マイナンバーカードで顔認識をされていました。テレビドラマの中にあった、なんだか犯罪者の面通しのように見えたのです。初めての職場は、出社や退社時には、名簿の記入でしたが、その内にカードに変わり、今では、顔認識、眼球認識(虹彩認識: Iris recognition)になっているそうです。何か、人が物扱いされているようで、怖いのです。

 一枚のプラスチックのカードの挿入、さらに眼球認識に目をのぞかれると、個人情報が悪用され、昔、宣教師さんに、終わりの時代に、「世界政府」ができて、そこに全人類の情報が管理されると、聖書研究で聞きましたが、そんな時代の到来なのだろうかと、とても心配で仕方ありません。でも、主のおいでの前触れでもありそうです。

(Christian clip artsのイラスト、ウイキペディアによる眼球です)

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