良薬

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 今の様に、薬が「カプセル」に入ったり、錠剤になっていないので、肺炎に罹り、風邪を引くたびに、お医者さんがくれる粉薬をオブラードで包んで、水と一緒に服用していました。小学生の頃に、何度、そうやって飲んだか数え切れません。この粉薬を「散薬」と呼びます。

 私の通っていた小学校に通学区域に、石田という地域があり、そこに、江戸期の初め頃から、「石田散薬」と言う、自家製の薬がありました。宝永年間に始まり、明治維新後に薬事法が出るまで、骨折や打ち身、捻挫、筋肉痛、また切り傷などに効用があるとして、民間治療薬として愛用されていたそうです。その散薬には、「フラボノイド」と言う、チョコレートに多く含まれている成分が多く含まれていたのが、近年になって分かったそうです。

 この散薬の「散」ですが、これが付く「散歩」と言う言葉があります。家内は、免疫力の向上のためによく散歩をしていますが、三歩どころか、千歩万歩と歩こうとしています。『散歩とは、気晴らしや健康などのために、ぶらぶらと歩くことである。散歩というのは、多くの場合、自宅や滞在している場所などの周辺を、とりとめもなく、ぶらぶらと歩くことを言う。(ウイキペディア)』。ですから、ほんとうは、スポーツの” walking ” なのでしょうか。

 この散歩と「散薬」と関連がありそうです。『苦難の旅で失明した鑑真だが、薬を鼻でかぎわけるほど医薬に精通していた。たずさえてきた薬のなかに虚弱体質を改善する「五石散」という鉱物性の製剤があった。体が温まり、熱を発散しないと薬毒がたまってしまうため、服用すれば歩き回らなければならなかった。これを「散歩」と言った(立川昭二『いのちの文化史』)。』とです。

 歩き回って、薬に成分を「散らそう(発散)」としたからでしょうか。「散策」とか「そぞろ歩き」とも言います。薬と言えば、もう何年も前に、薬科大学の教授が、薬の種類の多さの質問に、次の様なことを言っていました。『どの薬も効かないからです!』と、専門家が断言していたのが、可笑しかったのです。でも、家内の化学治療の薬は、確かに効いているのは感謝です。

 薬に「偽薬」がある様です。” プラシーボ(英語: placebo )” とか “ プラセボ(placebo) “ と言います。砂糖でも片栗粉でも、『効く!」信じて飲むと、病状が好転してしまうのです。こんなことを考えていたら、昨日は、中国で出会って、好い交流を続けて来た方が、東京近郊に工場を建設して、事業を拡張しようとしていて、時間を割いて、息子さんとお嬢さんを伴って訪問してくれました。彼と一緒に、大手医薬品会社に務める浙江省紹興出身の方も、小3の男の子と、家内を見舞ってくれたのです。

 ご夫妻で、ご自分たちの父親や母親の様に慕ってくれ、いつも好くしてくださる方なのです。七人で〈過密〉になるのですが、家に入る時には、アルコール消毒をし、ファブリーズをし、口にはマスク、ソシアルディスタンスをとり、昼食を近くにファミレスでとったり、楽しいひと時でした。まるで家族の様でした。まさに「良薬」の訪問でした。

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共にある慰め

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 「 主の聖徒たちの死は主の目に尊い。 (詩篇116篇15節)」
 「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1章21節)」

 今日、娘から連絡があり、私たちの恩師のお嬢さんのご主人とお嬢さんが、オレゴン州の街の水かさが多くなっていた川で、川下り中に溺れてしまい、川の流れに流されて召されたと言ってきました。急なことで、私たちもとても驚いたところです。

 時あたかも「降誕節」でした。私の愛読書に、その降誕節の様子が記されてあります。

 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 (ヨハネ1章9節)」
 「これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。(ルカの福音書1章78〜79節)」
 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 (ルカの福音書2章11節)」

 これは暗闇の中に、救い主が来られることが預言されたことばです。新型コロナをはじめ、病むことへの心配、死への恐れで人々の心は暗黒の中にあります。その闇夜を、まことの光によって照らすために、「救い主」が来られるとの預言が成就して、ベツレヘムに、神の御子がお生まれになったのです。

 愛するご主人と娘さんのお二人を亡くされたEさんを、主が慰めてくださいます様にと、心からお祈りいたします。私たちの四人の子どもたちが、アメリカの学校にいた時に、様々に助けてくださった方で、とくに次女は、この方の近くで生活をしていて、つい一昨日も、お嬢さんがご用意くださった食事で、娘の家族をお招きくださって、楽しく感謝な交わりしたそうで、その時の様子を撮った写真を送信してくれたばかりでした。

 今晩は、一緒にいてあげると、次女から言ってきました。悲しむ者と共に悲しみ、また慰め励ますために、真の友はそばにいて上げられるのです。ご一緒にご家族で過ごされた素晴らしい日々、年月に目をとめられ、また再会できる望みに、心が満たされます様に、心から願っています。主のお許しなく、何も起こらないことを認めて、悲しみが癒され、主の激励にあって生きていかれます様に、心から祝福してお祈りしています。

 全知全能の神が、辛い経験の中で、悲しみの中にともにいてくださいます様に、また耐える力を与えてくださる様にお祈りします。(24日の夜に記しました)

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ヤッカイ

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 「健康保険制度」の話です。高齢者や低所得者の治療や入院などに、大きな助けになっていますが、家内も私も、お陰さまで、その恩恵に預かって、医療費の自己負担は、低く抑えられているのです。

 実は、夏頃から、私は歯の治療で、地元の歯科医院に罹っていました。本来なら、日本橋にある掛かり付けの歯科医に診てもらいたいのですが、コロナ禍の影響で、東京に出掛けるのを避けているから、地元で探したのです。最初の歯科医は、『痛いったって、痛いのは当然だから、仕方がないでしょう!』と、怒った口調で、診察台にいる五十代のご婦人の患者さんに言っていました。痛いから来たのに、それはないのです。一瞬、受付嬢が、『又かっ!』と言う顔で振り返り、歯科衛生士さんと目配せをしていました。

 自分も、神経をとったけど、スッキリせずに、主治医の終わりのチェックもなく、衛生士任せで終わってしまいました。それで、スッキリしないので、次の治療の予約を取らずに、別の歯科医に行くことにしたのです。そこは家内の掛かり付けで、丁寧に診てくれ、前の方との会話はなかったのに、この医師とわたしの間に会話、説明ありました。大先生が、最終チェックをし、『半年後にまた来てください!』で終えました。それは十分に安心でした。

 治療費も、前の歯科医は倍額以上で、後の方の歯科医院は納得がいく額でした。倍も払って、患者さんを叱る声を聞き、無会話でと言うのは、どう言った基準で診療がされ、治療費が決まるのでしょうか。日本橋の歯科医は、400円程度なのに、三倍くらいになるでしょうか。何が違うのでしょうか。

 家内は、この2年、大病院で治療を続けていて、月一回の治療費総額は、510000〜540000円です。その他に薬代があります。後期高齢者で、高額医療費の援助があって、毎回一万円弱ですみますが、点滴薬って、そんなに高いのでしょうか。どんな高価な薬剤が使われ、薬価が決められているのでしょうか。患者に分かる様に透明化できないのでしょうか。製薬会社は、どう収支を算出してるのでしょうか。

 薬価って適正価格があるのでしょうか、随意、製薬会社が自在に決めているのでしょうか。この地上にある物質を化学的に研究をして薬を作るのですが、どんな基準で薬価が決まるのでしょうか。医療保険制度が財政的に逼迫しているのは、医者と薬品会社の儲け主義があるのではないかなって思うのです。江戸の世で、次の様に言ったそうです。

『魚三層倍、呉服五層倍、花八層倍、薬九層倍、百姓百層倍、坊主丸儲け、按摩掴み取り!』とです。この「九層倍(くそうばい)」こそが、医療保険制度を維持不全にしていくのではないでしょう。昨年来、家内の内科の入院治療、歯科や眼科などの治療、私の歯科治療で、治療費負担を考え直して、気付いたのです。

 自己負担額を増やそうとする以前に、薬価を抑える政策が取れないのでしょうか。そんなに〈ヤッカイ〉なことではなさそうです。厚生労働省は、病院や医師会、製薬会社を収め切れていないのではないかと思ってしまう、師走の寒さの中で思ってしまいます。

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小さな財布

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 「お金」の話です。お金は使い方によって、高貴なことに用いられますし、反対に下賤なことに浪費してしまったりします。親に教えられたのは、〈無駄遣い〉や〈乱費〉をしないことでした。

 小学校一年の時に、母の故郷の山陰出雲に行きました。母の養母が健在だったのです。社会人になって仕事で、鳥取の米子に仕事で出張した時、母の親戚を出雲と大東に訪ねました。そこで出会った、母の養母や親族のおじさんから、《お金の大切さ》を教えられたのです。

 都会の若者のお金の使い方を見て、注意をして諭してくれたわけです。たかだか
500円単位のお金の使い方を、注意されたわけです。NBA(大リーグ)、NFL(アメリカのフットボール)などのアメリカのプロスポーツ界の契約金や年俸に比べたら、〈黄河砂〉、黄河の流れの一粒の砂片の様なものなのに、昔の日本の年寄りの堅実さには驚かされたのです。

 優勝請負のために、優秀な選手を獲得する競争が、スポーツ・チーム間にあって、その金額は、〈怒髪天を突く〉ほどに、昨今は高騰しています。野球少年の夢は、好きな野球をすると同時に、どれだけお金がもらえるかの好ましからざる動機が入り込んでしまっている様です。普通の社会人の俸給水準から、あまりにも大きな乖離があって、〈羨ましさ〉を遥かに超えて、不健全な金銭体系になっていないでしょうか。

 ある方が、『あんなにもらって、何に使うんだろう!』と言っていましたが、Kentuckyのチキンの唐揚げで財を成したColonel Sanders(カーネル・サンダース)は、10分の1を献金したそうですし、マイクロソフトのBill Gates(ビル・ゲイツ)も多額の寄付を、社会事業などに分野にしているそうです。

 日本のプロ野球選手が、『年間三億円の年俸を来季はもらう!』と言うニュースを聞いて、この選手の一日分が、自分の年間の年金支給額にも満たないのだと、家内に言いましたら、『人生、お金ではありませんから!』、『亡くなったら、どんなにあっても持っていけないわ!』と言っていました。然り!

 1894年(明治27年)、箱根で開催された第7回夏季学校で、「後世への最大遺物」を語った内村鑑三は、『金を稼げ!』と、明治の青年たちに奨励しました。それを、個人浪費のためではなく、社会に還元する様に勧めたわけです。社会事業や教育や研究のために用いるためにとの目的としたものでした。 

 「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。(箴言11章24〜25節)」とあります。自分の財布は小さくして生きることの勧めなのでしょうか。

 (古代ローマ帝国の通貨の金貨です)

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ありかなしか

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 勝つための「手段」があります。とくにスポーツの世界には、昔は、「青田買い」が話題になっていました。中学生時代から勧誘することもありました。これは外国人の話ですが、1995年の大学駅伝では、アフリカ系の留学生の選手を擁した大学が、優勝したりしてから、大学だけではなく、高校の運動部にも、留学生選手が主力選手として活躍している動きが顕著になってきています。

 《global/グローバル》な時代ですから、ことの良し悪しは言えませんが、〈勝つための手段〉としての外国人留学生を起用する傾向に、賛否両論がある様です。こちらは人種に関わることですが、アメリカのプロ野球では、初期には、アフリカ系の選手が活躍する機会は皆無でした。ところが、身体能力の優れた選手が台頭してきて、球団は彼らの参加を期待したのです。

 最初の事例について、『アフリカ系アメリカ人のメジャーリーガーは1884年にアメリカン・アソシエーションでプレーしたモーゼス・フリート・ウォーカーが最初とされている。』と言われています。そして、1947年4月10日、ロイヤルズの一塁手として、アフリカ系アメリカ人最初のメジャーリーグのプレーヤーとして出場したのが、ジャッキー・ロビンソンでした。その年、打率.297・12本塁打・48打点・29盗塁と大活躍し、リーグ優勝に貢献したのです。それは素晴らしいことでした。

 今や、大リーグのチームは、多国籍選手によって成り立っています。あの野茂やイチロー の活躍はご承知の通りです。商業スポーツだからでしょうか、優秀な選手をアフリカ系、ラテン系、アジア系から登用するのは当然なことでしょうか。ところが高校のスポーツで、〈勝つこと〉のために、留学生を受け入れて、熾烈な争いを繰り広げているのは、好いのでしょうか。

 一昨日、京都で、「高校駅伝」が行われました。女子の部で、優勝したランナーは、アフリカ系の選手でした。彼らに、活躍の機会を開くのは好いことなのですが、高校スポーツに中にも、〈勝つこと〉のために、アフリカや中国やアジアの国々からの留学生を勧誘しているので、やがて小学生の〈スポ少〉の世界にも、優勝請負の外国勢が登場し兼ねません。

 もう、日本人だけで、チームを構成する時代ではなくなってきているのでしょうか。勝利の手段だけが、先走りしてしまい、有名選手ができ上がって、スポンサー料を得られ、プロになって莫大な収入を得させると言う、本末転倒な現象が起ってしまっています。あのナチスは、アーリア人種のゲルマン民族、優秀な血統による国民改造の帝国を作ろうとしたのです。ところが、第三帝国は崩壊し、残された国策の子たちのその後が、とても不幸だったと、歴史は伝えています。

 目的のために手段を選ばない動きで、スポーツの王道を定めようとしているのでしょうか。栄誉やお金のために、あくことのない競争が亢進して、何が何だかわからない迷路に入り込んでしまわないか、心配です。優秀な男性の精子と女性の卵子によって、優秀な子を生み、その子たちによって国を作るとは、造物者への冒涜でした。強者と弱者が共生することこそ、国のあり方、人のあり方に違いありません。

(ジャキー・ロビンソンです)

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冬至

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 今日は「冬至」で、完全に、日本人をしました。夕食に「南瓜」をオイルで焼いて、夕飯のおかずに添えました。そして、お風呂に「柚子」を入れて、「柚子湯」に入浴したのです。去年の正月に、慌ただしく帰国して、入院加療の家内の世話に明け暮れて、帰国後2度目の「冬至」を迎えることができました。病状に安定している家内と一緒に、今夕は「南瓜」を食べ、二番湯でしたが家内に「柚子湯」を用意できたのです。

 「南瓜」を、中国では唐茄子と言うのですが、これを、この日に食べると「中風」にならず、冬季の栄養補給ができるのだそうです。「柚子湯」は、江戸時代の銭湯から始まっているそうで、冬場の冷たくなった体を温めてくれるのです。
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 華南の街のアパート群の七階に住んでいた時、五階のご婦人が、「汤圆Tāngyuán 」と言うコメの粉であんこを丸めた団子を、『冬至に私たちは、これを頂くんです!』と言って、『お二人で食べてください!』と持って来てくださったことがありました。懐かしく夕食の時に食べたのを、今夕思い出したのです。

 父の家に住んでいた時、慣習に追われることも、迷信も信じたりしない母でしたが、四人の子が健康であるために、成長を願って、季節季節の食材を調理して食べさせてくれました。明日から、暦の上では、「夏至」の日に向かって、昼の時間が一日一日と長くなって行き、太陽が回復してくるのです。ヨーロッパ人は、この「冬至」を祭の様にして過ごし、生命の回復として特別に考えていたのでしょう。

 『南瓜しか食べなかったの?』と心配されるといけないので、今宵の夕飯は、10分の8カップの炊いたご飯に、カレイの煮付け、大根おろし、小松菜のおひたし、納豆、糠味噌漬けの漬物、梅干し、豆腐と油揚げの味噌汁でした。『美味しかった!』そうです。

(南瓜と汤圆です)

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 父母と兄弟たちと一緒に住んだ、東京都下の街の家の風呂桶は、檜(ひのき)で作られていました。近所に桶屋さんがあって、そこで特注した優れ物でした。薪で沸かした檜風呂の湯は、子どもの私にとっても香しくて、心底温まる風呂だったのを思い出します。

 檜は、「木曽」が有名ですが、奥多摩の檜林を歩くと、その匂いがしてなんとも心地よかったのです。その植生は、福島以南で、寒過ぎては育たない木なのだそうです。台湾や中国にも檜の植生がみられます。

 以前、大劇場の床は、ほとんどこの檜で作られていたのです。劇場が大きくなかったり、高級ではないものと比較して、大劇場の檜の床の様に、高級材を使っている舞台を踏むことは、演者には誇らしく感じられるわけです。一流の劇団員や歌手になると、『国立劇場の《檜舞台》を踏めた!』と言うことができるのでしょう。

 そう言ったことで、スポーツの世界でも、一流の選手にとって、東京ドームや国立競技場や国技館で活躍できるのを、『《檜舞台》を踏んだ!』と言う様です。それは誉のあることなのです。

 もう一つ、「登龍門」とも言う言葉があります。成功や活躍への一歩をとって潜る門のことです。“ コトバンク"には、『〘名〙 (「龍門」は中国の黄河中流の急流。そこをこえることのできた鯉は龍に化するとの言い伝えから) 立身出世につながるむずかしい関門。また、運命をきめるような大切な試験のたとえ。』、とあります。例えば、学校は社会への登竜門で、「赤門」などの名門校は、官僚や大臣や博士へ一歩のことを言っているのでしょう。

 登竜門を潜ったことも、檜舞台を踏んだことも、私にはありませんが、凡々として粗い板張りを踏んで生きてこれたことも、またいいのかなって思っています。檜舞台で思い出したのは、檜の温泉です。山梨県南部の山間の村営の温泉の湯舟は、岩ではなく、檜で作られていました。そこから山肌が眺められ、木々の葉の微妙な緑が立ち上る湯けむりに映えて、疲れた心と身体を休めてくれたのです。また訪ねてみたいものです。

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長崎と平和

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 江戸時代に、西洋に憧れる青年たちが、思いを向けたのが、日本で唯一開港されていた街、「長崎」でした。初期にはポルトガル人、後にオランダ人の商人たちが、長崎の港の一角に作られた「出島」に住んで、江戸幕府との交易をした人工島だったのです。西洋文化や西洋医学の流入もあって、世界に開かれた港は、好奇の的でした。 

 昭和生まれの私なのに、なぜか「長崎」に行ってみたくて、小学生の頃に、母の出身地の出雲に行ってから、十九の夏に、長期の旅をしたのです。小倉、別府、鹿児島と旅をしました。平戸口から、平戸にも行ったでしょうか。中国人やマレー人もで出島の働きのために居住していた様です。

 やはり一番印象深かったのは、被爆記念の「平和祈念像」でした。松江で生まれ、飯石郡飯石村(現・雲南市三刀屋町)で育った永井隆が、長崎医科大学病院で医師として勤務していた時、被爆しています。昭和20年8月9日のことでした。この永井隆を歌った「長崎の鐘(作詞がサトウハチロー、作曲が古関裕而)」が世に出たのは、昭和24年のことでした。
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1 こよなく晴れた青空を
悲しと思うせつなさよ
うねりの波の人の世に
はかなく生きる野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

2 召されて妻は天国へ
別れてひとり旅立ちぬ
かたみに残るロザリオの
鎖に白きわが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

3 つぶやく雨のミサの音
たたえる風の神の歌
耀く胸の十字架に
ほほえむ海の雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

4 こころの罪をうちあけて
更け行く夜の月すみぬ
貧しき家の柱にも
気高く白きマリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る

 私が訪ねた時には、長崎の街は復興していて、真夏の強い陽射しを受けて焼ける様に暑かったのです。鐘の音の記憶はありませんが、私も平和の尊さを感じた旅でした。また、いつか長崎を訪ねてみたいものです。

(川原慶賀「長崎港図」左左側に扇形をした出島、平和祈念像です)

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 東北の海辺に「塩釜」、中部の内陸に「塩山」や「塩尻」と呼ぶ地名があります。とくに「塩尻」は、「塩の道」の終点という事で、そう呼ばれたのです。東京から長野県に抜ける、甲州街道も、蒸気機関車の中央本線も、この塩尻にあった「塩尻峠(塩嶺とも言います)」が難所でした。もう高速道路ができ、旧道を通る車は、地元の人だけになってしまっている事でしょう。

 蒸気機関車も電車も、この峠を超えるのは大変だったのです。かつては、岡谷から辰野を経て、塩尻に至り、そこで「中央西線」と松本方面の「篠ノ井線」に分岐していたのです。ところが、トンネルを掘削して新線が、1983年に開通して(みどり湖駅を経由して)、辰野を通らないで塩尻に至る事ができる様になったのです。

 辰野からは、今でも辰野支線で塩尻に繋がっています。また辰野は、飯田線の始発着駅でもあります。娘夫婦が、飯田市近郊の県立高校で英語教師をしていて、初めて電車で行きました時に、位置感覚がおかしく感じたのを覚えています。以前利用していた時と違っていたからです。それほど難儀だったのです。
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 さて、「塩尻」ですが、内陸部の信州には、海がありませんでしたから、塩の産地ではなかったわけです。それで塩の供給を海辺に頼っていました。塩商人が、担いだり、馬の背に載せて、塩を運んできたのです。越後の糸魚川から「千国(ちくに)街道」、三河の岡崎から「三州街道」や「足助(あすけ)街道」、駿河の御前崎から「秋葉街道」を、塩が運ばれて来たのです。その終着点でしたので、「尻」を付けた「塩尻」と呼ばれる様になった、地名の由来にあります。

 「街道」と言うのは、物を運ぶことから始まり、そこを人が利用して行き来をする様になって、発達してきたわけです。その道筋に宿場ができたことになります。江戸期に整備された「五街道」だけではなく、そういった商業街道が、網の目の様に張り巡らされていたのです。自分の祖先も、髷を結って、旅姿で歩いていただろう想像すると、浪漫が広がっていく様です。
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 世界中に「塩の道」がある様です。ソルトヒップとかソルトボトムとか言う地名だって、世界のどこかにありそうですね。ネパールにも、「塩の道」があるそうです。ちなみみに、オーストリアの"ザルツブルク”とは、「塩の城」を言うのだそうです。この街からも、「塩の道」が始まっていたと言われています。

 ここ栃木県民の食生活で、塩分の摂り過ぎが大きな問題になっているそうです。米飯で、味噌汁と漬物を多く摂るので、先日受けた「検診」の案内の中や、市の広報には、そういる留意点が記されていました。美味しさは、脂分、糖分、そして塩分が作り出すのでしょう。『過ぎたるは及ばざるが如し』なのでしょう。

 「あなたがたは地の塩です」と、愛読書にあります。塩は姿を溶かし消しながら、他の食材の味や栄養素を引き出し、食生活を美味しいものにしてくれています。褒められずに存在意味を表してくれています。そんな生き方を、もう少ししたい、誕生日の朝です。ネット会議で、” Happy birthday to you “ を、子どもたちと孫たちが歌ってくれました。一人の妻の夫、四人の子の父親、四人の孫のジジとして嬉しい次第です。さらに6才の小女朋友が、” Happy birthday to you “ を歌ってれくれました!
 

(塩釜の港塩山、干し柿の塩山、古民家の塩尻です)

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一対の現実

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 四年前の今日、12月16日に、中国に行きましてから、初めて、「葬儀」に出席させていただきました。その夏にお会いした方が、三日前に亡くなられたのです。病を得ておられて、その闘病の後に、召されたのです。六十有余年の生涯を終えられ、命の付与者の元に帰って逝かれたのです。

 その告別の式に列席させていただきました。私の愛読書に、次の様に記されてあります。

 「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。 」

 司式者の導きで、4曲ほどの歌を歌い、お話が淡々と語られていました。最後に、ご子息が、200人ほどの会葬者に、会葬のお礼を、涙ながらに語っておいででした。

「浮世のさすらい やがて終えなば
輝く常世(とこよ)の 御国に移らん
やがて天にて 喜び楽しまん
君にまみえて 勝ち歌を歌わん」

 この方も、お父さまも、中国では、大変著名な書家で画家だったそうで、彼を慕う多くの方に、亡骸をみ送られて、荼毘にふされました。激動の1950年代にお生まれになり、ご両親の寵愛を受けて育てられ、大学を終えられ、国営企業で働きながら、創作活動をされたそうです。

 人の命、一生とは、かく短いものなのだということを、改めて知らされました。褒賞も栄誉も賛辞も、全てをこの地上に残して、去って行かれたのです。しかし創作された書や絵画は、残されているわけです。

 長年連れ添った奥様は、柩に蓋がされた時に、今まで我慢していた思いが流れ出て、大きな声でしばらく泣き崩れておられました。葬儀が執り行われたのは、この街の斎場でした。広大な敷地の中に、多くの葬儀施設があり、火葬の建物もありました。その日は、一番寒い日だったのです。真っ青な空が、どこまでも広がっておりました。

 やがて合い間見ゆる望みを持って、お見送りできたことを、驚くべき特権と思っております。ご遺族や友人知人の皆様の上に、お慰めを心から願った次第です。「生」も「死」も一対の現実です。天に望みをつないで、今を精一杯生きることが、私たちのすることなのでしょう。

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