ロマンも夢も涙も溢れていた

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 作詞が佐伯孝夫、作曲が佐々木俊一、唄が灰田勝彦の「野球小僧」がありました。この灰田勝彦は、明治政府の移民政策で、広島からハワイに移民した家族の出で、お父さまは、日系移民の医療にあたった医師でした。

🎵野球小僧に逢ったかい
男らしくて純情で
燃える憧れスタンドで
じっと見てたよ背番号
僕のようだね 君のよう
オオ マイ・ボーイ

朗らかな 朗らかな 野球小僧

野球小僧はウデ自慢
凄いピッチャーでバッターで
街の空地じゃ売れた顔
運が良ければルーキーに
僕のようだね 君のよう
オオ マイ・ボーイ

朗らかな 朗らかな 野球小僧

野球小僧が何故くさる
泣くな野球の神様も
たまにゃ三振 エラーもする
ゲーム捨てるな頑張ろう
僕のようだね 君のよう
オオ マイ・ボーイ
朗らかな 朗らかな 野球小僧 🎶

 この歌は、1951年(昭和26年)に歌われ始め、その軽快なリズムに、野球の面白さを、子どもたちに印象づけた歌でした。すぐ上の兄は、野球小僧でした。父も交えて、一緒にキャッチボールをしたり、当時の後楽園球場に連れていってもらったほど、野球好きの家族だったのです。

 同じ日系人で、昭和期の読売巨人軍で、大活躍をした、与那嶺要と言う選手がいました。MLB仕込みのスライディングに定評があり、打撃も抜群のセンスをもっていて、首位打者を3回、最高殊勲選手にもなっていて、個人的に大好きな選手でした。

 今や、日本プロ野球選手が、MLBで活躍しているのですが、それ以前、日本プロ野球界にやって来て、日本の野球を大きく変える役割を果たし、監督にもなったのが与那嶺要でした。

 栄養学など言われる以前、ひもじい中でも、丼飯に味噌汁に菜っぱに魚で、体力を保って、大活躍をした時代でした。故障する選手は、今のように多くなかったのではないかと思います。今は、とくに投手は、すぐに肩や肘を痛めてしまい、手術をして、数年頑張る、促成栽培の野菜にように、弱いのかも知れません。

 欧米人のような体格を、食べ物や栄養指導で作り上げて、何か〈人工ロボット〉のようになっていますが、鍛え上げ方が違う筋肉で、二、三年すると、成績が振るわなくなって、表舞台から消えていってしまっています。お父さんの伝馬船(てんません)の艪(ろ)漕ぎを手伝って、家計を助けたりして、少年期を過ごし、基礎体力を持っていた、あの稲尾和久投手は、強靭な腕から豪速球を投げ込んでいました。

 やはり、やっても観ても面白いスポーツであることは否めません。「三角ベース」でゴム毬と棒切れのバットで、暗くなるまで遊んだ子どもの頃でした。そういった子どもの影は、この頃の街中には見られなくなっています。中学も高校も、整備された野球場でできる時代ですが、以前には何はなくても、浪漫も夢も涙も溢れていたでしょうか。

(“ いらすとや” の野球イラストです)

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甲子園へ向けて青春を燃やせ

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 栃木市総合運動公園に、「とちぎ木の花スタジアム🏟️」という名の野球場があります。今朝も、ここに散歩したのですが、何時もは静かなのですが、応援の歓声とブラスバンドの太鼓やトランペットの音が聞こえてきましたので、それに誘われてしまい、800円でチケットを購入して、バックネットの屋根の下で、高校野球を観戦したのです。

 憧れの甲子園大会に向けて、県下の四つほどの野球場の一つで、高等学校野球選手権・栃木大会の熱闘が繰り広げられていました。あの直(ひた)向きな姿が、素敵でした。すぐ上の兄が、高校球児で、母校の栄誉を背に負いながら、汗と土にまみれて練習していた姿は、素敵でした。その兄が、今夏、八十三になるのですから、時の過ぎゆく早さに驚かされます。

 十六〜十八才の彼らが、健闘を讃えながら、直向きに野球に向かう姿は、清々しく、六十数年も前、Major な野球ではなく、Minor な送球部(ハンドボール)で、ボールを投げ合っていた自分のグランドの横で、練習をしていた野球部のことを思い出しながら、野球観戦を楽しんだのです。

 2012年8月に、上海で乗った蘇州号が、丸二日の航海で、大阪南港に、9日の朝、着岸したのです。その時は、久しぶりに、用のあった家内を残して、一人で帰国したのです。翌日の高速バスで、東京に行く計画で、その日は時間があったのです。ふと、『今頃、甲子園で高校選手権大会があるのではないか?』と思いついて、そばにいた方にお聞きましたら、やはり、大会の真っ最中でした。

 それで、地下鉄の乗り換え駅で、どう甲子園へ行くのか聞いたのです。聞いたおばちゃん軍団が、『私たちも応援に行くんです!』と言って、一枚余分のチケットがあると誘われて、盛岡大学附属高校(岩手県)と、淞南学園高校(島根県)の対戦を、島根県勢の応援団席で観戦したのです。

 『母が出雲の出身なんです!』と言いましたら、喜んでくれました。対戦相手は、前年の2011年に東日本大震災で被害を受けた県勢で、彼らにも、心の中で応援を自分はしていたのです。 Major league で大活躍できる今日日、大谷翔平や今永翔太を追いかける選手もいるのでしょうか。

 こんなに暑い中、スポーツ選手たちが、青春の火を燃やし続けられる今ほど、可能性を宿す彼らに、Yale を、スタンドから送れた一日でした。やはり夏は暑いのですが、まさに土まみれでsliding する高校球児、minor なスポーツを愛して走り跳び投げ、泳ぎ飛び込み、様々な姿が、美しいのです。勝ち負けにこだわらず、文化部でも、青春をして欲しいと願った一日です。次回の対戦は、県都・宇都宮で行われれる様です。

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念のために一言

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 自治医科大学の松薗構佑講師らが、2019年に、イギリスの栄養学専門誌の『Nutrition Journal』に、『ラーメン店の多い県ほど、脳卒中死亡率が高い!』と脳卒中の関係の論文を、研究発表しています。

 その論文の統計数は、NTTのタウンページに掲載されている外食店である「ラーメン」、「ファストフード店」、「フランスおよびイタリア料理店」、「うどんおよびそば店」の店舗数の電話登録を利用し、都道府県ごとに男女別人口あたりの数を算出したのです。それに加えて、厚生労働統計協会の「国民衛生の動向」(2015年)を用いて「脳卒中」と「心筋梗塞」による死亡率を集計し、4種類の外食店との関係を調べています。

 その食べ物が、手軽であるという理由で、主に若者、独身者に好まれて食されていますし、年配者でも、独り身だったりしますと、簡単に入手し、調理せずに食べられますので、宣伝文句にのせられるのでしょうか、つい手が伸びてしまう、その様な傾向は、けっこう強いようです。

 家内が入院中、見舞い帰りに、電車を降りて、7時近い時間帯に、スーパーマーケットの食材売り場には、売れ残りがあって、つい、それを買って家に帰って食べていたのを思い出します。単身赴任のサラリーマン風の方が、同じように売り場を物色していて、両者が侘しさいっぱいで、苦笑いをしてしまいました。

 その論文では、〈ワースト県〉が上がっていました。人口数に対する「ラーメン店」の数を計算したのです。この論文の主任の松浦医師は、次のように言っています。『生まれ育った鹿児島、赴任した秋田、現在診療している栃木は、日本の中で脳卒中死亡率が高い県、かつて赴任した大阪、京都は低い県です。関西は薄味の傾向にあると思います。そして岡山は、それらの中間に位置します。』とです。

 それに、鹿児島、秋田、栃木の各県は、ラーメン店舗数が、人口比で見ると多いのだそうです(全般的に東北各県は、ラーメン店が多い色塗りになっています)。栃木県に住み始めて、脳卒中の患者が多いと、市の広報や、チラシ配布で知らされて、漬物の消費量も、塩分の度合いも高いので、〈塩分控えめ〉を、県民に注意喚起をしているのです。

 ですから、漬物の食べ過ぎや、ラーメンのスープを飲み干すのを注意するように勧めています。ラーメンは、ほとんど私は食べませんし、コンビニの弁当も買いません。けっこう食生活に注意しているのですが、昨年11月には、右手のハシを、ポロッと落として、救急搬送で、一週間入院してしまった自分は、けっこう気をつけているところです。

 さて、今夕は、何にしましょうか。定評のある冷凍餃子が、生協の宅配で届いていますので、水餃子にしようかと思っているところです。ただ、『ラーメンを食べると脳卒中で死亡する!』と、ラーメン店を敵視して言ってるのではありません。栄養価はバランスよく器に守られてもいるのです。念のため。

(ウイキペディアによる「豚骨ラーメン」です)

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そろそろ身辺整理をしなくては

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 最近、やけに目につくのは、宝石や時計やネックレスなどを買い取るチェーン店で、この街のそこかしこに出店しているのです。以前、お煎餅屋やクリーニング店だった店が、いつの間にか代わってしまったのです。どこの街も、同じなのでしょうか。きっと眠っているお宝を発掘しているのでしょう。

 どんな生活をしてきたのか、今の生活の改善や整理の方法を、最近は、よく考えるのです。家庭を持って、9年ほど経った時に、住んでいたアパートの上階で、ガス爆発と火災が起こりました。消防自動車と地元の消防団が駆けつけて、消化活動が行われ、おびただしい量の消化用水が放水され、階下のわが家は水浸しになり、ほとんどの物が使えなくなってしまったのです。

 大家さんの奥さんの泣き落としで、まったく保証なしでした。その代わり、東京の母教会が、家財から食器に至るまで、助けてくれ、まさに新しい家財道具が与えられて生活が、引っ越し先で始まったのです。間も無く、次男が生まれたのです。手にした物を失っても、喪失感は、なぜかありませんでした。

 そして、今から20年ほど前に、次のような聖書のみことばに迫られ、隣国に行くことになりました。それは一大決心でしたが、出掛けるように、行って欲しいという要請と共に押し出されたのです。

「我汝らを擄移さしめしところの邑の安を求め、これが爲にヱホバにいのれ。その邑の安によりて、汝らもまた安をうればなり。(文語訳聖書 エレミヤ書29章7節)」

 神さまが、隣国行きを促してくださったと確信した私は、それまでの奉仕の責任を、母教会にお任せして、新しい歩みに進む準備をしたのです。あの日以来の持ち物のほとんどを処分したのです。上の息子の助けで、お借りした軽自動車に積んで、市の処分場に、何度も運び込んだのです。

 子育ての年月に、使ったものも含めて、相当量を捨てたのです。最も辛かったのは、飼い猫二匹でした。もらってくださる方がいませんでしたので、家内の留守の間に、市の施設に引き取ってもらったのです。長野県の飯田で、娘夫婦が、捨て猫を育てていました。3年ほど、県立高校で英語科の講師をして、帰国する時に、私たちに預けていった猫たちでした。

 猫嫌いな私が、飼っている間に愛着を覚え、懐いてくれたのです。家に、私が帰ってくると、その車の物音を聞いて、玄関に二匹で並んで、《お帰りなさい》をしてくれていました。この別れは、辛かったのです。でも、隣国での13年の《新しい人との出会い》には、どうしても必要だったのです。

 私たちには、その「お宝」が、まったくないのです。家内も私もおなじです。宝石も装飾品も株券も見当たりません。家内は、指輪やネックレスや時計を好みません。ブラジルにいた義兄が、結婚30周年の記念に、ダイヤモンドの記念指輪を作ってくれたことがあったのですが、それを、隣国の外国人宿舎の七階に住んでいた部屋で、ストレートに落ちていく、洗面所の管に落としてしまい、探しようがありませんでした。

 物に執着がないのは、実は身軽です。私の父親がそうでした。どうも少しばかり似てしまったのでしょうか。身辺整理の時期を迎え、家内に見舞いで訪ねてくる子どもたち家族用にと、買ってしまった寝具が、開かずの間に収めてあるマットレスや枕や毛布などです。常時は未使用な物を処分しようと思いながら、なかなか決心が着きません。

 これからは、寝袋持参で来てもらおうと思うのです。ただ父に感心するのは、自分のものが、極めて少なかったことです。好くて、必要な物だけを持つ人だったのです。小さな書架、洋服ダンス、その上に載せていた二、三個のケースだけでした。海軍の軍人の家に育ったので、船乗りは、身の回りの物、最小限度の物しか持って、乗船することしかできなかったので、その精神に生きたのでしょうか。

 『まあいいか!』で生きてきて、《明日への栄えある希望》が、胸中に収められていますので、何不足ありません。この日曜日、初物になる葡萄と県都の有名和菓子店のお餅を頂きました。その日の夕刻に、届けてくださったのです。『必要な時に、必要なものが与えられる!』、私たちが一番豊かに生活させていただいているのかも知れません。感謝な夕べでした。

(ウイキペディアの黒猫です)

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あこがれの海

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 ひさしぶりの青空で、心も晴れやかな感じのする、梅雨の終わりの土曜日の朝です。この二日ほど、ホッとさせられるほど涼しくて凌ぎやすかったのは感謝でした。でも湿度の高いのは仕方なしででょうか。

 そろそろ学校は夏休みでしょうか。林間学校や臨海学校に行ったのを思い出しています。千葉の海で、真っ赤な褌で泳いで、泳ぎ疲れて、宿舎で飲んだ牛乳の味が忘れられません。フタに牛乳の固形成分がついていました。家では飲んだことのない、何か栄養がいっぱいそうで、元気が回復してくるのを感じたのです。

 海なし県に生まれ、今また海に遠い内陸に住んでいますが、ここから小山に出て、JR水戸線に乗ると、茨城の海に行けるのですが、まだ行ったことがありません。波の音、潮騒が恋しい、七月の中旬、エイッと、出掛けようかと思いますが、一人ではつまらないかな、そんな朝です。

 ひさしぶりの青空で、心も晴れやかな感じのする、梅雨の終わりの土曜日の朝です。この二日ほど、ホッとさせられるほど涼しくて凌ぎやすかったのは感謝でした。でも湿度の高いのは仕方なしででょうか。

 そろそろ学校は夏休みでしょうか。林間学校や臨海学校に行ったのを思い出しています。千葉の海で、真っ赤な褌で泳いで、泳ぎ疲れて、宿舎で飲んだ牛乳の味が忘れられません。フタに牛乳の固形成分がついていました。家では飲んだことのない、何か栄養がいっぱいそうで、元気が回復してくるのを感じたのです。

 海なし県に生まれ、今また海に遠い内陸に住んでいますが、ここから小山に出て、JR水戸線に乗ると、茨城の海に行けるのですが、まだ行ったことがありません。波の音、潮騒が恋しい、七月の中旬、エイッと、出掛けようかと思いますが、一人ではつまらないかな、そんな朝です。

(“Illust image” の海のイラストです)

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いつまでもあると思うな

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 何度聞いたか分からないほど、口癖のように、私の父の言っていた言葉があります。

 『いつまでもあると思うな親と金 ないと思うな運と災難!』

 親に頼って生きてきて、やがて親元を離れて、一社会人として働き始め、いわゆる独立の歩をとり始め、そして家庭を持ちました。家内と一緒に、四人の子どもたちを育てることができたのです。親になった時に、何かくすぐったい気持ちを感じたのですが、彼らは育ての親からやがて離れていき、彼らが独立して、もう二〜三十年が経ちます。

 父と私、私と子どもたちとのあの「距離感」が懐かしいのです。具合が悪くなった家内を気づかって、今では孫たちが、家族チャットで発信してきては、様子を聞いたり、元気でいる様にと言ってくれるのです。昨日の散歩の帰り、暑くて、冷たいものが飲みたくなって、自販機で、サイダーを買ってしまいました。あの喉元の爽快感が欲しかったからです。

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 『ジジ、何が欲しいの?』と、前回の訪問の時に、買い物に行く孫ベーが言ったので、とっさに答えたのが《サイダー》でした。1リットルのボトルを買って来てくれ、何年、いえ十何年ぶりに飲んだ時、懐かしさが喉元を通っていったのです。その味を、昨日も思い出させられて、実に美味しく、500ml缶を飲み干してしまいました。

 自分の父が、やがて独立していく私に、訓戒のためでしょうか繰り返して語った言葉が、これなのです。その意味を、今になって思い返しています。明治の終わりに生まれ、関東大震災、日華事変、太平洋戦争、敗戦、戦災からの回復、高度成長の時代を生きて、これからと言う六十一の誕生日を、入院先で迎え、退院する、その朝に、あっけなく召された父でした。

 「いつまでもある」と思って油断していた時に、父が、無断で去っていきました。別れの挨拶、感謝もさせてくれませんでした。何度かしか泣いたことのない私ですが、勤め先から父が亡くなった病院まで、電車の中で泣き通しでした。これが、「いつまでもあると思うな父親」との辛い実体験でした。

 『これからは親孝行を!』と思っていた矢先だったのに、孝行相手は召されてしまったのです。父の一生も、「一場の夢」の如く過ごした日々でありました。父の六十年は短かかったわけです。今や老いて、父よりもニ十年も多く生きてきた自分が思い返すと、さまざまな父との場面が思い返されてくるのです。でも、あのことばは、忘れように忘れられない遺訓だったわけです。

 きっと、父も、自分の父から、そう諭されていたのかも知れません。そう言った教訓を、「道歌(教訓的な和歌のことです)」と言うのだそうです。江戸では「狂歌」として、巷で言い伝えられてもいたのでしょう。

 でも、私の人生の導き手が「運命」や「偶然」などではなく、創造者で、いのちの付与者である神さまであって、全行程の「導き手」であると信じることが、二十五の時にできたのです。ですから、人生に弄ばれ、意地悪をされるなどと思ったことはありませんでした。また〈幸運にも〉などと思うことも、まったくありませんでした。

「 『なんぢら心を騷がすな、神を信じ、また我を信ぜよ。  わが父の家には住處おほし、然らずば我かねて汝らに告げしならん。われ汝等のために處を備へに往く。  もし往きて汝らの爲に處を備へば、復きたりて汝らを我がもとに迎へん、わが居るところに汝らも居らん爲なり。  汝らは我が往くところに至る道を知る』。(文語訳聖書 ヨハネ伝14章1-4節)」

 どうして生まれ来て、二親が、あの様に育ててくれたのか、あんな経験もこんなこととも、今の自分のことも、ありのままに受け入れています。そう、残された自分の時間も、そう長くはないかも知れませんが、どこに導かれていくのかが、分かっているつもりの猛暑、酷暑の七月であります。

(“ Christian clip arts “ の父と弟息子の帰還のイラストです)

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小鳥の囀りを

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 住んでいるアパートの西に窓があります。その外は、塾やNPO法人の作業所や美容室のある部分の平たくなっている屋上なのです。そこに、セグロセキレイが、ときどき飛んできて鳴くのです。

 川面を、餌取りで素早く飛ぶ鳥で、けっこう警戒心が強いのでしょう。餌付けをしてみたいと思っているのです。子どもの頃に、鳥を捕まえる仕掛けの「バッサリ」や「かすみ網」と言う捕鳥用の道具を、すぐ上の兄が仕掛けていたことがありました。

 獲ってきたことはなかったのですが、いつもなにかして遊んでいた兄でした。電気釜の底に残ったご飯を、お酒につけて、それを乾飯にして、撒いておくと、それを啄んだ小鳥が、酔ってしまって捕まえられるのだそうです。それは邪道ですからしませんが、子育て中に、籠で飼ったことはありました。

 あの鳴き声は、心が休まるのです。カラスの声は、ちょっと騒音気味ですが、小鳥の囀(さえず)りを聞くのはよいものです。セグロセキレイ、カワセミ、そしてカラスなどが懸命に囀(さえず)り、餌を啄ばみながら生きている姿は、尊いなと思わされます。

 それにしても、最近はカラスを見かけません。暑いからでしょうか、どこへ行ってしまったのでしょうか。野口雨情の作詞、本居長世の作曲の「七つの子」が懐かしいです。

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からす なぜ啼くの
からすは山に
可愛い七つの子があるからよ

可愛い 可愛いと
からすは啼くの
可愛い 可愛いと
啼くんだよ

山の古巣に
いってみてごらん
丸い眼をした
いい子だよ

 あのカアカアのかすれ声を「可愛い可愛い」と聞いている有情の優しさに驚かされますが、「山の古巣」に戻ってしまっているのでしょうか。秋になって、涼しくなったら、きっと帰ってくることでしょう。

(ウイキペディアのセグロセキレイ、カラスです)