今、世界中で起こっていること

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 「世界的な動向」、その時代に、ある国や地域だけではなく、世界的な規模で、賛成や反対の集会や運動が、同時期に起こるのが不思議でなりませんでした。私たちの青年期に、激しい学生運動が起こった時、国家権力への反抗、反体制、反国家、反大人、反常識な動きが、世界の各地で起こったのを覚えています。

 七十年安保の反対の動きの中で、旧国鉄時代の新宿駅で、線路を支える枕木の間に、クッションや固定のために、「バラスト(敷石)」が敷かれてあったのですが、その石を拾って、反対運動の学生たちが、機動隊に向かって投げていた大混乱の光景を覚えています。そして、学校などの建物や教室に立て籠った反戦学生らによって占拠されていたのです。

 「怒れる若者」が、機を一つにして起こったのですが、機動隊や軍まで出動して、その運動を弾圧していました。しかし、おもに学生たちは屈しませんでした。そういった動きからだいぶ経った頃に、ソ連崩壊のきっかけになった、ベルリン市内の東西を分断する壁が崩壊しました。その壁によじ登った若者たちが、それをハンマーで切り崩していた光景も忘れられません。

 中国では1966〜1976年の間に「紅衛兵」による文化大革命が起き、ほぼ同じ時期に、アメリカではヒッピーによる反ベトナム戦争運動が起きました。またヨーロッパのプラハでは「プラハの春」と言う民主化運動が、やはり若者を中心に起きたのです。

 地上のあちらこちらに、同時期に、同じ様なこと、民主化の要望だけではなく、「権威への反抗」が勃発し、流行したのは、決して偶然ではなく、人や群衆の中には、政治や社会の体制が違っても、また貧富や、さらに人種などの違いを超えた、表現できない力が湧き起こるのかも知れません。さて、

『神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(新改訳聖書 創世記1章27節)』

そう聖書にあります。

 二十一世紀の今、同性愛者による権利主張が、世界的な規模で起きています。法改正やトイレの使用法、公共施設や学校や官庁の中に、彼らのためのトイレ設置の要求、同性婚の要求運動などが、ヨーロッパやアメリだけではなく、今や日本でも韓国でも、世界中で起こって、法改正を求める運動までが起こっています。

 それは、法曹界でも、ビジネス界でも、教育界でも起こっていて、キリスト教界でさえも同性愛者の牧師、神学校教師や校長が出現して来ています。自分たちの自由や権利などが主張され、法改正の要求までも行われてきている現況です。

 私は、差別には反対ですが、《区別》は必要だと思っています。どうしてかと言いますと、神は、その様に男と女を区別して、お造りになられたからです。彼らが権利を主張することで、この社会の中で、保たれて来た秩序が崩されて、その動きに反対する側を、非寛容、不理解、差別だと言い始めています。彼らの権利は正当なのでしょうか。それを認められない者たちを、不寛容だと断罪しています。

『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。

彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。

それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、

同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、

そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、

わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。(新改訳聖書ローマ1章20~31節)』

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 聖書は、差別をしたり、不寛容だと言うのではないのです。はっきり言っているのは、明確に、「恥ずべき情欲」、「恥ずべきこと」、「してはならないこと」なのです。パウロが、これほど厳しい口調で、神さまが定められた、「結婚の契約」を破る者たちへの警告を発する意図を理解して、私たちは、神からの厳粛な言として聞かなければなりません。

 今日日、理解が足りないと言う様な、手心を加える様な、物分かりの良い様な、同情を示す様なことには、聖書、神さまの指針のことばを委ねられたパウロは、全く猶予しないのです。大上段から、いえ神の側に立って、はっきり言い切るのです。

 十字架抜き、贖罪抜きに、さらに罪の指摘なしに、教会が説教を語る傾向があります。『罪、罪、などと言うから教会に人が来ないのです!』、『罪は、集会に来続ける間に、いつか分かればいいことなのだから、目くじら立てて、罪を語るのはやめたほうがいい!』と、ヒューマニズムに従い、聞き心地のよい、繁栄や成功の話にすり替えて語るのです。

 それは、〈仲良しクラブ〉であって、もう、罪を語らないのは、キリストの教会ではありません。パウロの主張は、厳し過ぎ、偏向していると、批判される今日の神学界の傾向があるようです。男と女は、それぞれが役割が与えられて、創造され存在しているのです。それが「自然な用」なのです。それを守らないのは、「誤り」なのであり、「罪」なのです。

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 罪を罪としない、そう言った傾向が見られます。「十字架と飛び出しナイフ」を著した、ニューヨークの“Times Square Center” のウイルカーソン牧師さんが、終わりの時代には教会が二分されると言っていました。エキメニカル派の教会は、宗教合一運動の動きに帯同し、一方、聖霊の導きに従う教会と牧師さんたちは、もう政治活動や道徳運動から身を引き、ただ十字架の福音を語るだけになる、そう言われたと思います。今の時代、これからの時代を言い当てていた様に感じてなりません。

 さあ、信仰者はどうあるべきでしょうか。

(ウイキペディアのベルリンの壁崩壊、安保闘争、Christian clip arts の獄中で賛美するパウロ、Times Squareです)

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