起承転結

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 中学校の国語の授業で、「起承転結」を学んだのを思い出し、中国の漢詩が、そう言った構成で詠まれていると言うのです。それで、作文をする時にも、説教をする時にも、相手に理解してもらうためには、まず主題を決めてから、話の構成を練り上げていくわけです。

【起】 何を伝えたいか、先ず「主題」を決めます。その「目的」は秘しながら、最後の結論で言い表しますが、方向付けをします。

【承】 説明とか解説とか展開でしょうか。中心部分です。

【転】 話の筋道を、いったん逸らして、気分転換に、中心から離れて、結果に至るまでの横道に入ることでしょうか。〈変化〉や〈意外さ〉を与えることで、結論への興味を引き出すのです。

【結】 少し空手を修練したことがありましたが、最後に結手をしたのです。手を懐に納める仕草です。剣術家は、刀を鞘に収めます。それは武術の結論と言えるでしょうか。

 やはり話の構成が上手なのは、噺家、落語家ですが、興味と関心を引き寄せる手腕は、さすがの話術です。驚くほどの稽古をしながら、話をするのだそうです。無駄に思える様なことが、生かされているのでしょう。ぶっつけ本番で話すなんてことはないのです。それらしく見える話の展開でも、周到な準備と稽古、愚直の努力があるのだそうです。

 その落語家の中で、「名人」と言われた一人が、六代目の三遊亭円生でした。大阪で生まれたのですが、江戸弁で、『そうでげす!』と、高座で話しているのを聞きましたから、それが今でも耳に残っています。この円生は、6才の時に、20ほどの演目を覚えていて、高座に上るほどの天才だったそうです。噺を終える時に、「落ち」があります。落語では結論なのですが、聞き手を巧みに納得させて、噺を終えるのです。

 通常、「真打(しんうち)」は、30~40年の間に努力を重ねて、100席ほどの演目を身につけるのが普通なのだそうです。ところが、この円生は、300席を、いつでも、どこでも自在に演じることができたそうで、それゆえ当代きっての名噺家だと評されました。『え~一席、ばかばかしいお話を・・・』と言って話し出す落語ですが、それだけ、たゆまぬ研鑽を積まれたことになります。だから多くの後進からの敬意得られた方だったのです。

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 聖書は、時代も、場所も、書き手もバラバラなのですが、統一されている「一巻の書」だと言われています。そう無理に信じているのではないのです。勝手に、書き手が書いていたのではなく、聖霊なる神さまの導きがあって記されていると言うのは、書き手は多くいても、思想的には一貫しているのです。著者は神さまだからです。

 批評学者がいて、いろいろと意見を言ってきましたが、聖書を切り崩すことはできません。聖書の記事の中から、奇跡や非科学的なこと、人間の常識外のことを取り除く努力をする、聖書批評学と言う分野があるのです。はなっから聖書を信じられない人が、薄っぺらな本にしてしまおうと目論んだのです。

 その反面、幼子のように、聖書を、創造の神を、聖霊に導きや助けを信じた人たちがいて、聖書は守られてきたのです。神を否定する唯物論の教育を受けてきた若者が、その教育の影響力がありながらも、クリスチャンとされて、祖父母やご両親の信仰を継承している方が、私が教えた学生さんたちの中にいました。五代目、六代目の信仰者だっておいででした。

 私の母の故郷の出雲は、浄土宗と神話の地でした。そんな精神風土、宗教的風土の中で育ちながらも、14歳で、イエスさまを、「キリスト(救い主)」と信じたクリスチャンでした。伝道の難しい地で、「福音(良き知らせ)」を宣べ伝える、カナダ人宣教師の暖かな家庭への憧れもあって、その家族が愛し合っている様子に、神を見たのです。その信仰は、子や孫やひ孫に、脈々と継承されているのです。

 人生にも、この「起床転結」がありそうです。さながら自分は、今や「結」のステージにいるのかも知れません。もう若かった頃の熱情も力もなくなっていますが、心の中では、自分を造られた神、その神に赦されたこと、その神の愛への感謝が湧き上がっています。

『屠られた子羊〔こそ〕は、力と富と知恵と勢いと、誉と栄光を受けるに相応しい〔お〕方です!』と、聖書のヨハネの黙示録にあるような救い主への賛美が、今も湧き上がるのです。私の人生の「結」は、「永遠のいのち」を得て、この肉体は滅んでも、「栄光の望み」に生き続けることなのです。神の贈り物としての「永生」であります。愛する救い主とお会いすることです。

w(ウイキペディアによる「ギリシャ語聖書」の写本、Christian clip artsnのイラストです)

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舟と船に乗ってみたい気分がして

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 乗ってみたい船があります。一つは、毎日見下ろす巴波川を、江戸時代から明治にかけて、舟運で、舟荷を運んでいた都賀舟(部賀舟)です。人を乗せるよりも、日光東照宮の設営のために、必要資材を運ぶのが目的で用いられた浅い舟床の小舟です。今は、栃木の街中で、遊覧のために人を乗せるために使われているものです。

 五月五日の「子どもの日」に、ブラリとでかけてみたのですが、「蔵の街」の観光案内に誘われたのでしょうか、江戸の佇まいを感じるためにおいでの親子連れでいっぱいでした。東京から東武日光線に乗っておいでなのでしょうか、最近は目立って観光客が増えているのです。船乗り場に、列をなして、乗船待ちをしている人が、旧塚田商店の黒塀の前に並んでおいででした。

 舟賃「大人千円」、「子ども七百円」、「幼児無料」、「犬猫百円」だそうで、初めて栃木を訪ねた時には、「七百円」でした。ラジオ体操仲間のお一人が、開業時に舟頭さんをされていたそうで、懐かしそうにお話ししてくれました。時々、テレビや映画の撮影班が、来られていて、撮影の様子を眺めることができます。

 もし、江戸は深川まで、昔の様に、舟で行けるなら、乗ってみたい願いがいまだに消えません。舟運の行われていた頃は、都賀舟を、栃木の河岸で荷を載せて、渡瀬川の手前で、高瀬舟に、舟荷を載せ替えて、利根川、江戸川を登り下りしていたそうです。下り舟は二日間、上り舟は十日間ほどかけていたそうです。上り舟は、綱手道を舟を人力で曳いていたのです。

 今住んでいる住宅の、前の大家さんは、代々、舟運をされてきたそうで、その頃に着用した印半纏、帳簿などが残っていて、以前見せていただいたことがありました。たくさんの水夫(かこ)をかかえていたことでしょう。

 その都賀舟に乗った時に、水夫さんが歌ってくれた歌があります。それが「栃木河岸船頭歌」です。

1)日光街道 たかみで通る

  小山泊りは まだ陽が高い

  間々田ながして 古河泊り

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

2)栃木河岸より 都賀舟で

  流れにまかせ 部屋まで下りゃ 

  船頭泣かせの かさ掛け場

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

3)向こうに見えるは 春日の森よ

  宮で咲く花 栃木で散れよ 

  散れて流れる 巴波川

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

 自動車や鉄道が出現する前は、日本全国、河川を利用した「舟運」が、おおく盛んに行われていて、特産品を、江戸や大阪に運んでいたのでしょう。ただ、江戸期の鎖国政策下、大型船の製造、使用、航行を禁止しましたので、国内輸送の主力は、舟でした。北前船の様な大型戦は例外で、国外渡航の可能な船は禁止されていました。

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 そんなことを思い出しながら、大阪と上海の間を、船を利用して、移動したことが何度もありました。丸二日の行程の機関船で、ゆったりとした船旅を楽しんだのです。華南の街から、夜行バスや、新幹線が営業開始してからは高速電車で、地下鉄ができてからは上海の紅橋駅から波止場まで行ったり、タクシーも利用して行きました。その波止場で乗船手続きをしたのです。

 帰国をする留学生や日本語教師、日本で仕事をするために出かけていく若者たち、ビジネスマンは、飛行機を利用するので、ほとんどいなかったでしょうか。良い交わりがあったり、本を読んだり、機関室のエンジン音や波の音を聞きながら、船と並走する飛魚を眺めたり、そう、お風呂まであったでしょうか。

 かつて遣唐使船や遣隋船などの航路は、七月から八月に間に大陸にむかって吹く季節風を帆に受けて大陸を目指し、秋から冬にかけて大陸からの季節風を受けて帰国したのです。一度上海からの蘇州号が、地風に余波を受けて、縦揺れをして、船員さんも酔うほどで、ほぼ全員が船酔いの中を帰国したのです。

 あんな波に遣唐使船はもまれたこともあったようです。昔も今も同じで、変わらなかったのでしょうか。海水や白い波頭しか見えない世界を行き来していたのです。季節風を帆に受けて航行する帆前船がほとんどだったのでしょう。人力で櫂(かい/オール)を漕ぐ場合は、接岸する時に漕いだ様です。風任せの船旅は、大変な日数をかけてしたわけです。

 今は、運行停止中ですが、もう一度、東シナ海を船に乗って出掛けてみたいのです。船の風呂から、波頭が見えて、なんとも言えない気分を味わえるのです。あれだけの経験で、十分ですが、人とに出会いがあって、楽しかった日々を思い出します。航空機では味わえない人との交わりがあるのです。また、ペットボトルや発泡スチロールを板につけて、簡易舟を作ったら面白そうですね。

(ウイキペディアの都賀舟、蘇州号です)

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かなわないな!

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『しかし、あなたは私をの胎から取り出した方。の乳房に拠り頼ませた方。 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。の胎内にいた時から、あなたは私の神です。(詩篇22篇9-10節)』

 何時も、『かなわないな!』と思わせられるのは、「母の日」のお母さんたちです。次の詩は、サトウ・ハチローの「おかあさん」です。

母さんはひなたの匂い、けむりの匂い、

白菊の花の色は母さんの足袋の色、

坊やのための子守歌、

痛くしたところをさすって、ちちんぷいぷいと

唱えた母さんの声

母という字は、恰好のとれない難しい字

母さんのひざまくらがなつかしい、

目が覚めてから眠るまで、母さん、母さんと

呼び続けたと詩編が続く。

そして最後のページ、気取って書いてきた詩が

全部吹っ飛ぶ程、感情を露わに

むせび泣くように綴っている。

 昨日は、4人の子どもたちから、gift が母親のもとに届きました。毎年のことです。『子はカスがいい!』のお母さんも、ハチローのお母さんも、マルコのお母さんも、『母ちゃんに会いてえよー!』のお母さんも、ダビデが詩に詠んだお母さんも、そして育ててくれた自分の母も、みんな最高なのです。

 3日前に、私の弟からも、家内宛に胡蝶蘭が届いたのです。もう二十年も前に自分の奥さんを、病で亡くしている弟からです。もうこの何年もの間、家内を『お母さんは・・・』と、子どもたちに、近況や様子を、メールやチャットで伝えるようになってしまいました。

 「小さくなっていったお母さん」だったのを思い出しています。また会えるんです。間も無くかも知れません。『なんて言おう?』と、つい思いあぐねてしまいます。やっぱり、『ありがとう!』が一番、似合いそうです。

(“いらすとや” のカーネーションです)

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養蚕の繭、そして絹

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 栃木県下に、明治になってから、小さな村落が合併して、「桑村」とか、「絹村」、そして、この両村が合併して「桑絹村(町)」と呼ばれる村落があった様です。今では、私たちの街に隣接している小山市に含まれていて、この市の南部にあるのです。

 信州や北関東は、かつての地域区分帯の中には、養蚕、絹織りが盛んに行われてきていて、その絹糸を得るために、絹糸を吐き出す蚕(かいこ)が飼われていました。群馬県の水上に、三国街道の宿場で、須川宿があって、そこに栃木市と提携の宿泊施設に泊まったことがありました。村の農家は、二階が養蚕部屋の造りになっていたのが診られたのです。養蚕は昔から盛んだったからです。

 ここ、下野国も同じだったのでしょう。元々、養蚕は、大陸からもたらされたもので、日本でも盛んに行われてきていました。穀物や野菜の栽培以外に、養蚕が行われていたようです。昔、唐の時代には、国家を機能させるために、そのための経費を得るために、「税」の制度を定め、人々に納税の義務を負わせました。

 その納税義務には、「租庸調」があったのです。「租」は米、「庸」は労役、「調」は各地の特産品の献上でした。その税の取り立てを定めたのです。この唐の税制に倣って、日本でも、国家統一で、朝廷が誕生し、その行政のために、この税収が定められて、法律化されていました。

 その納税義務は、けっこう過酷なもので、国と民の間での揉め事が多かった様です。その「調」の中に、「絹糸」があり、その高級な糸は重宝されていたのです。そのため日本各地で、養蚕が、さかんに行われていきました。米づくりの難しい地方では、さまざまな特産品の生産が、工夫されて行われていたのです。そう小学校の社会科で学んだのです。
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 庶民は木綿の生地で服を作って着ていましたが、上級武士や宮人たちは、絹糸で織った服を着ていたので、高級生地は、現金収入になっていたのです。その名残で、通った東京郊外の多摩地区の小学校の近くに、蚕糸試験場があって、間引かれた蚕が捨てられていて、拾って帰っては、飼いましたら、繭になった覚えがあります。

 そのために桑の葉が必要で、桑畑も、けっこう広く栽培されていたのです。あの桑の木は、和製ナイフの「肥後守」で切って、皮を剥くと、チャンバラの剣になって、よく桑畑に入り、木刀を作ったりしました。それを、お百姓さんに見つかって、叱られたのです。もう宅地化が進んで、桑畑は消滅していることでしょう。


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 長く過ごした街から、車で40分ほどの農家で、このお蚕を買っていました。一斉に、桑の葉を食べる音が実に賑やかでした。あの音は、繭作りのための音であり、養蚕農家では騒音ではなく、生活を潤す音だったのです。その蚕を両手で取ると、手のひらのムズムズ感が、気持ちよかったのです。

 養蚕農家は、今どうされているのでしょうか。子どもの頃、ドドメを摘んだ桑畑も、宅地化してしまい、時の流れを感じてしまいます。4階のベランダから、その小山の街がうかがえるのですが、茨城県の結城市に隣接し、「結城紬(ゆうきつむぎ)」を生み出した地です。そんな産業史を考えながら、人の営みの変遷を、しばし思っておりました。

(ウイキペディアの「桑の実(ドドメ)」、「繭」、「機(はた)織り機」です)

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ちゃぶ台返し

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 「卓袱台」と書いて、『ちゃぶだい』と読みます。われわれ時代は、テーブルではなく、これが食卓だったり、宿題をする机代りだったり、母親が、洗濯物を畳んでは置く台だったり、時には、電球をつける足台にしてしまったりの万能家具だと言えるでしょうか。そのちゃぶ台をひっくり返すのを、【ちゃぶ台返し】と言って、昭和のお父さんは、それをやっていた様です。

 まさに、「昭和のパフォーマンス」の一つと言えるでしょうか。自分の父親も、この、ちゃぶ台返しを演じたことが、一度だけあったでしょうか。だれかの悪戯が原因だったと思います。さすが、自分は、もったいなくてしたことがありません。でも、やったら気持ちが、スカッとしそうで、けっこうよさそうですね。

 テレビやマンガの中では、そんな場面が演じられることがありますが、物不足の時代に、そんなもったいない行為は嫌われたわけです。今では、テーブル返しになっていて、ちゃぶ台なんていう代物は、お目にかかることがなくなってきていて、〈昭和の家具〉になっています。

 畳の上で食事をするという文化は、もう過去のものになってしまっていて、Pタイルの様な床の上に置かれたテーブルの周りに、椅子を置いての食事スタイルが、もう一般的になっているのでしょうか。昭和の短気なゲンコツ親父がやった行為でした。

 やった方は気持ち良くても、やられた子どもたちは、食事をなくしてしまい、不評を買わされた家族は、食べ物がなくなって、怒りが込み上げてきたのでしょう、やった父親は、溜飲を下げて、ストレス解消しますが、非生産的な行為だったわけです。

 アメリカの西部劇で、家庭内の行為ではなく、酒場のシーンで、話がもつれ、衝突で怒った悪漢同士が、拳(こぶし)を固めて殴り合いをする前に、テーブルを蹴り上げたり、押し倒したりする場面を見たような記憶があります。短気な輩は、アメリカにもヨーロッパにも、どこにでもいます。

 昔、知多半島(愛知県)の小野浦の千石船が、鳥羽から江戸に米を運んでいた時、嵐に遭遇します。遠州灘で漂流を始め、アメリカ大陸北西部のケープ・アラヴァに漂着したのです。その時、乗組員の中で、音吉、岩吉、久吉の若い三人だけがが生き残るのです。その三人の漂流を取り上げて、三浦綾子が、「海嶺」という小説を書き上げ、後に映画も制作されます。その映画を見た時のことです。
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 この三人は、マカオで、オランダ人宣教師のギュツラフが、聖書を日本語に翻訳する手助けしたのです。彼らがが、どこにいく時でしょうか、船の中で、欧米人同士が喧嘩をする場面がありました。言い争いをしていて、彼らは二人とも手を出さないのです。体をぶっつけ合うだけでした。その場面を見て、意見が衝突すると、きっと殴り合いや物の投げ合いなどが、日本では相場なのに、彼らは、拳を振るわないで、喧嘩をするのには、驚きました。

 日本でも、中国の華南の街でも、市場の入り口や道路上などで、喧嘩を見ましたが、みんな殴り合い、取っ組み合い、女性同士などでは、毛を引っ張り合うのです。そんな違いに、感心してしまいました。人の性情は、国や人種にはよらないので、ヨーロッパ人も、あのテーブル返しをするかも知れませんね。

(ウイキペディアの卓袱台、adobe Stockの千石船です)

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いい湯だなで温泉浴をした日々

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 「後遺症」、病気でなくても、次の様に、使ってよい言葉でしょうか。私の「後遺症」は、住まいの浴室で、湯船を使わないことなのです。中国に13年いましたので、入浴には、シャワーだけになってしまい、それを長く続けてきた生活習慣が、と言う意味での後遺症のことです。

 中国で出会った友人が、通勤の道路際に、風呂桶屋がある、と知らせてくれたことがありました。風呂が恋しくて、友人の車で買って持ち帰ったのです。檜(ひのき)作りではなかったのですが、木造りで、タガでまとめてありました。沸かし口がないので、スーパーの売り場に売られていた電気コイルを買って帰り、水を張った風呂桶の中に、そのコイルを入れてお湯を沸かしたのです。

 けっこう時間がかかりますが、ちょうど良い油温になって、入ることができたのです。『 ♭ いい湯だな いい湯だな ここは華南 和園の湯 ♯ 』と歌いながら日本を思い出しながら、実にいい気分で入りました。でも長続きがしないで、その桶は休眠状態になってしまい、しばらくして、その桶を知人に上げてしまい、結局シャワーだけの入浴に戻ってしまいました。

 砂埃が多かった華南の街では、沸かし湯に入るよりは、シャワーの方が合っていたのかも知れません。今住んでいる街に、温泉が数カ所あります。市内循環の「ふれあいバス」のコースに、それがあって、バスに乗ると、その二箇所に行けて、温泉に入ることができるのです。一箇所は、散歩コースにもしています。

 月に一、二度ほど行くのですが、休憩室がありますので、持って行った本を読んだりしながら、3〜4時間もい続けることがあります。日本の一番の文化なのでしょうか、やっぱり「温泉浴」はいいものです。ボーッと一日倒れていたい時には、実にいいものなのです。

 大きな手術を終えて、回復した頃に、上の兄が、湯治場を探してきてくれたことがありました。その地元では、「ラジウム温泉」と呼んで、小さな温泉宿は、鄙びた木造で、湯治客のための炊事場などもありました。そこに一週間ほど籠って、温泉三昧で過ごしたことが、術後、数回ありました。

 その一週間は、傷口の回復というよりも、日常から離れて気分的に最高に開放の時でした。家内が、それを許してくれたのは感謝でした。テレビに出ているという名物社長さんなども一緒で、みなさん、厳粛な手術をしていて、腹部や背中に手術痕を持っておいでででした。それを隠すことなく、じっと温泉に身を沈めていました。まだ四十過ぎだった私は、年配の入浴客の必死な話を聞いて、社会勉強をしていたのです。

 そこは男女混浴でしたが、同病愛憐れむで、互いに意識などしないで、和気藹々だったのが、やはり日本文化の一面だったのでしょうか。男性客との相部屋で、賄い付きと自分で炊事をする人と様々でした。一度、お昼をご婦人に誘われて、その方のお部屋で、お昼をいただいたことがありました。温泉宿で見知らぬ男女二人で、食事をとるのも後ろめたくて、一度きりにしました。危なっかしいくて、ちょっとスリリングでした。

 ある時、アコーデオンを持って、個室で過ごしている方がいて、誘われてお部屋に行き、お茶菓子でお茶をご馳走になりました。『一緒に歌いましょう!』と言って、『♭ 花積む野辺に 陽は落ちて みんなで肩を・・♯ 』など、古賀政男の作った歌を何曲も歌ったとことありました。

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 また、ドイツのバーデンバーデンという街は、温泉浴、温泉治療で有名なのだそうです。クアー・ハウスという入浴施設があって、もうローマ時代に始まっているのだそうです。傷ついた兵士や病んだ人たちに利用されてきた様です。ドイツと日本は、何か、国民性や習慣に似た点が多い両国の様です。

 この国の南部に、バート・ボルト( Bad Boll )という街があります。ドイツ福音主義の牧師であった、ヨハン&クリストフ・ブルームハルトの父子や、宣教団体のモラビア兄弟団でも有名なのです。ここにも、ブルムハルトの牧会や伝道の働きの中で、クアー・ハウスがあり、経営主体は、今では教会から団体に移行していますが、それは現在も運営されている様です。

 ちなみに聖書の創世記に一箇だけ、「温泉」が出てきていますが、私たちの国やドイツの様な、入浴や医療利用ではなさそうです。長く住んだ、中国の華南の街中にも、温浴施設があって、温泉がありましたし、日本文化の影響でしょうか、大型の温泉施設が、あちらこちらとでき始めていました。誘われたのですが、温泉の本場に生まれた自分としては、衛生上や風紀上の理由で、遠慮していました。そんなことを思い出した、過ぎた一週でした。

(今はなき温泉の湯船、ウイキペディアのバート・ボルのクアハウスです)

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昭和の伊達男

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老いていった父のこと

 六十代の初めの頃の父が、小田急線の電車の急停止で、体調を崩して、胃病院に行って診てもらいましたら、クモ膜下出血との診断が下されました。医者にかかったり寝込んでいることのなかった父が、初めての様に、入院し弱さを見せたのです。せんごすぐのころ、トラックの助手席で、車の横転事故で、大怪我を負って以来の入院でした。

 四人の男の子の子育て真っ最中には、敗戦後に残された軍需工場の索道を利用して、木材業に携わっていました。昭和26年の夏に、東京に出たのです。子どもたちの教育などを考えてだったそうです。化学工業の会社、旧国鉄の車両の制御用の部品の生産会社、書籍出版の会社など、幾つもの仕事を兼務しながら働いていました。

 東京の大田区に見つけた家の契約を、すませたとかで帰って来て、その話は詐欺で、全く騙されてしまったこともありました。戦時中には、馬蹄さんに馬を潰されて、食用にして食べられたり、けっこう騙されやすい人だったのです。

 サラリーマンと言うよりは、会社経営に携わっていました。旧海軍の軍人たちの戦後の転職に、従ったのでしょうか、父の周りには、軍人だったり宮様などの親族がいた様でした。そんな父に連れて行かれて、父よりもずっと年配のみなさんとお会いしたのを覚えています。江田島の海軍兵学校の校長をされた方の息子さんと言う方がいたり、幕末史に出てくる薩摩藩の藩士の御子息がいたりしました。

 なぜ父は、そんなみなさんのおいでになる会社に、自分を連れて行ったのでしょうか、今でも不思議なのです。父自身や祖父に、私が似ていたのでしょうか、入った中学校の制服が、海軍兵学校の制服に似ていたからでしょうか。それで連れ出したのかも知れません。

 戦後の父の生き方は、クリーニング仕上げのYシャツにネクタイ、背広、磨き上げた黒革靴で都内の会社に通勤していました。背広の内ポケットやお尻のポケットに、札びらをしまい込んでいました。参議院議員選挙になると、全国の旧国鉄に乗車できる選挙運動用パスで、各地を跳び回ったりもしていました。自分の会社の製品を納めていた旧国鉄のトップの方で、東海道新幹線を開業する頃に活躍されていました。

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 そんなダンディな父で、「昭和の伊達男」でしたが、60歳前後の頃は、醸造会社の嘱託かパートをしていて、上の兄のジャンバーや帽子を着て、ズックの靴で通勤していたのです。あんな仕事や姿は想像することができませんでした。その意外さに驚かされていたのです。輝いていた分、その輝きが消えてしまった父だったのです。愛された三男は衝撃でした。

 社会的な責任を降りた今の自分を、そんな父を鏡にして見直している今です。もう服装に気を遣わなくなってしまっている、かつてはオシャレだった自分です。娘たち、息子が、買っては送ってくれたり、持参してくれる物を着たり、履いたりしています。父に真似て、三越で買ったりしたことも何度ありましたが、主の働きへの奉仕をしてからは、全くしなくなりました。

 みすぼらしくはないと、自分では思っていますが、そう見えない様に、歳を重ねた今は、さらに注意しようと思っているのです。主の栄光を表すべきでしょうか。オシャレを構わなくなるのではなく、身だしなみをキチンとしなくてはと、自らを諌めているのです。

 孫の置いていった物を着たり、使ったりしていますが。髭を剃り、髪の毛を切り、背筋をのばして、もう少し気にして生きていかないといけないかなの今なのです。

 老いていく自分を、父の最後の時期を思い起こしながら、自分の時を考えさせられています。医者いらずだったのか、医者嫌いなのか、それでも人生の最後に、医師に自分の身を委ね、入院中の病床で、上の兄の導きで、信仰を告白し、創造者の元に帰った行った父でした。あの退院の喜びの日に、何も言い残さずに召されて波乱の多かった生涯を終えて、主の元に帰っていきました。あの日から、五十数年の年月が経ちます。

(ウイキペディアによる父が乗ったであろう南満州鉄道の「列車のダイヤ」、一緒に食べようと父が何度も言っていた浅草の「どぜう鍋」です)

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天豆

 

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 千葉においでの従姉妹から、毎年、この時節に送ってくる「天豆」なのだそうです。初物を家内に、『食べさせたい!』と、サヤをむきながら、ご主人が言われたそうで、昨日の昼過ぎに、奥さまが、新鮮のうちにと届けてくださったのです。

 サヤをむきましたら、柔らかい真綿の様にして、豆を包み込んで、大事にされて育ったものをむいていて、驚いてしまったのです。初めは液状なのでしょうか、それが成長していくのを、母親が嬰児を育てている様に、暖かく守る様に、保護して大事に大事にされて育ったのがうかがえたのです。

讃美歌の中に、

御手(みて)の中で  すべては変わる 感謝に
わが行く道を 導きたまえ  あなたの御手の中で御手の中で  すべては変わる 賛美に
わが行く道に 表したまえ  あなたの御手の業(わざ)を
In His time, in His time
He Makes all things beautiful in His time         
Lord, please show me every day 
As You’re teaching me Your way
That You do just what You say 
In Your time

In Your time, in Your time 
You make all things beautiful in Your time  
Lord, My life to you I bring
May each song I have to sing 
Be to You a lovely thing 
In Your time  
In your time 
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 創造者の神さまは、御手で支え、護りながら、私たちの体も心も信仰も、成長させてくださるのです。病や悩みや試練の時には、格別な優しい配慮もしてくださるのです。私の母は、真綿で作った寝具で寝かせてくれたのだそうです。病んで入院した私が、寒い土地で、まだ暖房などのない国立病院に、入院している私のために、イギリス製の純毛の毛布を、実家に取りに行って、それを着せてくれたのです。

 暇を持て余した子どもの私は、母に持ってきてもらったハサミで、それを切ってしまのです。それをよく覚えています。二親のそんな愛があって、この歳まで生かされてきたのです。青葉若葉の季節になって、いただいた天豆を、むきなら、茹で上がったのを食べて、そんな思いが湧き上がってきました。

 何度も食べた天豆なのですが、奥さまに言われた様に、1分ほど塩水で茹でて、ザルに上げ、お皿にとった天豆を、口に運ぶと、こんなに春の香りが立って、柔らかくて、舌ざわりがよく、しかも甘いのに驚かされながら、いただいたのです。

 よき隣人に恵まれているのです。同病者のよしみで、そんな交わりが与えられているのかも知れません。人と人とを出会わせてくださる神がいるからでしょうか。今夏は、ハワイで甥御さんの結婚式があって、ご夫婦で、その準備をなさっておいでだと聞いています。感謝な五月です。

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五月雨をあつめての季節

 

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 「風薫る五月」、もともとは、百花繚乱の花々を咲かせる季節に、まるで「花の香り」を喜び運ぶ風のことを言ったのだそうです。5月になって、今度は、花に代わって、木々には青葉や若葉が出てきていて、大平山の山肌の木々も、巴波公園の植木も、家々の庭の木も、あの桜を散らしていく葉桜の葉の様に、若い薄緑の葉の緑色が萌え出てきています。新しい香りを立たせる様に、風が葉を通り抜けていいます。

 もう、風は、初夏の青々とした緑の間を、吹き抜けて、花から葉に、そしてますます葉の緑の色を濃くしていくのです。心躍る季節になりました。巴波川の流れの騎士に渡した鯉幟は、同じその風にゆすられ、空高く泳ぐかの様です。

 田圃では、もう「早苗」の田植えが始められた所もあり、これからの季節を「早月」、「早苗月」と呼びます。躑躅(つつじ)の花の季節でもあるのですから、「皐月」とも書き表されてきているのだそうです。近くの薬屋チェーンの店の脇に、このツツジがきれいに咲いているのが観られます。

  今月は、「さみだれづき(五月雨月)」の別名のある月です。
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 五月雨をあつめて 早し 最上川

 5月ごろに、最上川に至った芭蕉が詠んだ、有名な俳句です。水量の少なかった川に、この月に降る雨が、川を増水させていく光景を、そう詠んだ芭蕉は、驚くほどの感性と鑑賞力を持っていた人だとわかります。

 いつか奥州の名川、最上川に、足をつけてみたい思いがあります。バビロンにも、ケバル川があり、預言者エゼキエルは、その流れの辺(ほと)りで、主なる神さまの声を聞きました。捕囚の民の子が、預言者に召されていく場面なのです。巴波川の流れの辺りに住み続けていて、エゼキエルへの召命の場面を思うことが、時々あります。

 今日は晴れの予報が出ています。忙しいい一日になるのでしょうか。家内の愛する朝顔のタネが芽を出し、移し替えする頃となっています。真夏の火を遮る花と葉は、もう何年も何年も続けている、春から夏へのわが家の風物詩です。

(ウイキペディアの最上川の様子です)

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「漂泊の思いやまず」

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 「奥の細道」の「序」

「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして、旅をすみかとす。古人も多く旅に死せるあり。

予も、いづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋、江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮れ、春立てる霞の空に、白川の関越えんと、そぞろ神の物につきて心を狂はせ、道祖神の招きにあひて取るもの手につかず、もも引の破をつづり、笠の緒付けかへて、三里に灸据うるより、松島の月まづ心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も  住替る代ぞ   ひなの家

表八句を庵の柱に懸置。

弥生も末の七日、あけぼのの空朧々として、月は有明けにて光をさまれるものから、富士の峰かすかに見えて、上野・谷中の花の梢、またいつかはと心細し。

むつまじき限りは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。
千住といふ所にて舟を上がれば、前途三千里の思ひ(*)胸にふさがりて、幻のちまたに離別の涙をそそぐ。

行く春や 鳥なき魚の 目は涙

これを矢立ての初めとして、行く道なほ進まず。
人々は途中に立ち並びて、後ろ影の見ゆるまではと、見送るなるべし。」

 松尾芭蕉は、弟子の曽良と共に、江戸時代の初期に、江戸の深川の庵を出て、隅田川を北上し、千住で舟を降りて、そこから旅立ち、奥州の地を北上し、日本海側の道を南下し、美濃国の大垣に至る行程を歩いたのです。

 それは、元禄2年(1689)3月27日(陰暦。現在の暦では5月16日)、46歳の松尾芭蕉の「漂泊の旅」でした。日光街道、奥羽街道陸、北陸道の各地を訪ねています。そして大垣には、8月21日に到着していますから、156日間、476里余ですから、1500km程に及ぶ長旅だったことになります。

 父好みの教育者の建てた中学校を勧められて、受験して入学したのです。小学校のクラスで二人だけ、町内の学校でなく、電車通学で通ったのでした。一人は女子で、同じ敷地の中にある女子部に入り、そして自分だったのです。

 その12才の春に、国語の授業のほかに、特別科目があり、一週間に1日の講義がありました。高等部の三年生の国語を担当する教師の特講で学んだのです。時代劇の映画を見て、難しい侍や町人の語った日本語を聞き慣れていましたから、違和感を持たずに、教師の朗読する箇所を、素読したのです。何か、大人になった気分がして、得意な思いをしていたのだと思います。

 浅草は知っていましたが、文中にある深川や千住は知りませんでした。親しい友人の会社が日本橋にあって、その社屋の五階に、来客用に宿泊用の部屋と台所があって、当時中国にいましたので、帰国すると、そこを使わせていただいたのです。芭蕉が舟で上った隅田川の河畔でした。

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ある時、自転車を借りて、日本橋の界隈を散策したのです。芭蕉記念館などを訪ねたでしょうか。江戸情緒などを感じられませんでしたが、史跡が残されていて、興味深く時を過ごしたのです。

 その隅田川の岸に座って、船の上り下りを眺めていると、芭蕉は、捨て切れない「漂泊の思い」を抱いて、未知の地へ旅立って行き、どんな思いで小舟に揺られ、竿の水音を聞いたのだろうかと、タイムスリップしてでしょうか、しばし思いにしたったのです。

 俳人の芭蕉には、多くの弟子がいました。歴史で名高い地を訪ねると共に、俳句のお弟子さんたちを訪問し、句会を持ったのです。雨が降ればぬかるむ道を、雨季には増水する川を、険しい山道も、関所も越えながらの旅でした。その旅の紀行文、訪ねた地での出会いや再会、句会での作句、多くの俳句を詠みながらの旅だったのです。

 最初の訪問地が、下野国の「煙立つ」と、平安期から詠み継がれた、下野惣社の「室の八島」でした。芭蕉は、次のように書き残しています。

「室の八嶋に詣(けい)す。同行曾良が曰はく、「此の神は、木の花さくや姫の神と申して、富士一体なり。無戸室に入りて焼け給ふ(たもう)ちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生まれ給ひしより、室の八嶋と申す。又、煙を読み習はし侍る(はべる)もこの謂はれ(いわれ)なり。」将(はた)、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨、世に伝ふ事も侍りし。」

 ここは、「日本書記」にも記されていて、多くの俳人、歌人が詠んでいる地なのです。今春、お隣に住む方にお連れ頂いて、下野国分寺跡と国分尼寺跡で、淡墨桜の観桜をし、下野薬師寺跡、下野国国庁跡などを訪ねたのです。今は下野市や栃木市になっていて、この街々の誇る観光名所であります。

 子どもの頃に、家出を二度ほどして、「寂しさ」とか「孤独」などの思いを経験したからでしょうか、自分も「漂泊の思いやまず」で、あちらこちらと旅をさせていただきました。芭蕉は周到な旅備へをして、深川を発っています。信長が「人間五十年」といったのですが、間もなく、その年齢に近い芭蕉は、46歳の年齢で、持病持ちでもあったのです。それでも、旅や再会や出会いを求め、見知らぬ地を訪ねたのです。

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 李白や杜甫を憧れた文人魂は、「旅に死す」の覚悟で、長距離を走破するのです。昭和の中学生に、感銘を与えるような旅をした人です。自分も、自分に定められた旅の途上にあるように思う今です。昨日も、看護師さんが、『クシャミをしなかった?』と言っていました。医療技師と噂をしたのだそうです。若く見えても、歳は歳で、弱さを覚える年齢ですが、まだまだ生きて、子や孫や友人たちを愛していきたいのです。

(ウイキペディアによる「芭蕉出立」、「室の八島」、「杜甫の草堂」です)

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