「甘え」の体験

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 1971年に刊行された「甘えの構造」は日本と日本人を理解するための教科書のように、一時、大変注目された著書でした。精神科医の土井健郎が書かれて、私を育ててくださった宣教師さんも、この翻訳本を読んでおいででした。八年間、身近にいた私の言動を見聞きしてこられたので、けっこう、「甘え」のsampleとして納得していたのではないかと思っています。もちろん、私も読んでいた一書です。

 病弱な子への二親からの過度な愛情で育てられると、甘やかされたのです。父は、死にそうな中から生き返った私のために、国立病院に入院中に、曽祖父がロンドンから買って来た純毛の毛布を、父の生家に取りに行って、夜具にして使わせてくれました。退院後、〈寝台〉を作らせて寝かせてくれ、兄二人と弟と、違った西洋式な生活をさせてくれたのです。

 また病後の回復のために、住んでいた村の農家から「ヤギの乳」を、兄たちにとりに行かせて、母が沸かしてくれて飲んだり、瓶詰め〈バター〉を取り寄せては、好きな時に、好きなだけ舐めるのを許してくれました。兄たちと弟は、指を舐めていて、時々は闇舐めをしていたのでしょう。

 小学校入学前には、日本橋の三越に、制服、制帽、編み上げの制靴を特注で作らせて用意してくれたのです。ところが肺炎に罹って、街の病院に入院してしまいました。それで入学式には出られず、一学期は学校に行った記憶のないまま、東京の街に引っ越して、転校してしまったのです。

 特別扱いの三男坊主は、わがままになって、その我慢の緒を切った父に、こっぴどく叱られたのを境に、変えられたのです。それ以来、悪戯をしたり、我儘をすると家を出され、家に入れてもらえないことが、何度もありました。お勝手の三和土(たたき)の上に膝をついて、母の盛ってくれた味噌丼飯をかき込んで家を走り出て、野天の林の間や、貨物の貨車の車掌室に入り込んで、夜を明かしたりしたりしたのです。王子さまから乞食への転落でした。拳骨も父からもらうようにもなったのです。

 父も母も、このまま我儘にさせてしまったら、使い物にならない人間になってしまうと思ったのでしょう、それで厳しく取り扱うようになったのです。自分としては、《愛された経験》、〈甘やかされた経験〉を、今でも宝物のように思い返しているのです。それは兄弟との比較ではなく、死に損ないを、死なせまいとして愛してくれた《愛》の証だからです。

 愛にも鞭が似合うのででょうか、愛するが故に、父は私に、目に見えない口頭の鞭を、拳骨も加えて振るったのでしょう。今になって、それを感謝しているのです。兄たち二人は街の中学校で学んだのですが、私を、大正デモクラシーの盛んな時期に開校された、私立中学校に入れてくれたのです。

 父の同僚たちから勧められたのか、父自身が、旧制の県立中学校から、東京の私立中学に転校して学んだからでしょうか、名のある創立者の私立中学に通わせてくれたのです。思春期挫折症候群と言えるのでしょうか、うまく乗り越えられなかった中2頃からの一年半ほどの間は、実に荒れていた時期がありました。殴りかかって喧嘩を挑み、盗みだってしたり、電車の車掌室に入って開閉器を操作したり、駅でも窃盗をしたり、学校の備品やパン置き場から失敬して食べたり、運動クラブの部室荒らしもしたでしょうか。まあちょっと足と手の二十の指では数えられないほど不始末をしたのです。
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 ところが〈厳重注意〉で、警察への通告、停学や放校など処分なしで、家裁送りもありませんでした。中3の最後の学年通信簿に、『よく立ち直りました!』と担任が書いてくれたのです。ある時、自分がひどいことをしでかした、その学校を見せたくて、中学生で留学を考えて準備中の上の息子を連れて、母校訪問をしたのです。すでに校長になっていた担任が息子を見て、『キミは大丈夫そうだね!』と、意味深なことを息子に言ったのです。ただニヤニヤの私でした。

 退学になった同級生がいたのに、『どうして俺を退学処分にしなかったのですか?』と聞くに聞けなく、その時学校を後にしました。そんなこんなで、先日、〈開校百年記念〉の募金がありました。わずかな年金で生活している今ですが、ちょっとまとまった金額を、反記念な過去しか持たないので、懺悔の気持ちで、匿名扱いを願って送金しました。

 そうしましたら、創立記念の切手2枚が贈呈され、来年には、記念品を贈ると言ってきました。学校には、もう当時教えてくださった先生たちはいないという理由で、自分の内側の始末を、そう言った形でしたわけです。ちょっと、悔い改めには、相応しくなく、足りなさそそうですが、精一杯の想いの表現なのです。

 そんな裏話も、もう時効でしょうか、そんな母校の担任の同僚の先生の紹介で、研究所に入り、私立女子校に就職でき、教員になったのです。それには担任も驚きだったのでしょう。しかも、伝道の道に進んだ頃ですが、その転身を知った担任が、『そうですか、キミもお母さんの道を行くのですか!』と、感謝の便りの返信で、そう言ってくれました。

 あの時、退学され、家裁や鑑別所送りにされ、少年院に送られていたら、高倉健は演技でヤクザを演じただけですが、自分は、歴(れっき)とした裏社会の極道に堕ちていただろうかと、震えながら思い出すのです。

 それででしょうか、今も、《赦された罪人》を自認している自分なのです。今回家内の見舞いに来てくれた中国の方から、一緒に教会生活をしていた兄弟が、『今刑務所に入っています!』と知らされました。彼が大事にしていた清時代の骨董の鍵をくれたことがあって、大切に保管してあります。

 刑務所に入り損なった自分と、現に入所中のこの方と、何が違うのでしょうか。世の中を、「甘え」で生きてきた、いえ、正確に言うと、《神の憐れみ》で、方向を変えられて生きてきた私は、彼の出所後のことを考えています。奥さんと二人で、田舎から出て来て、一生懸命働いて、息子さんとお嬢さんを大学にあげ、この子さんたちは、社会人として活躍しているのだそうです。何か間違いがあったのでしょう。彼も「甘え」た一人なのでしょうか。でも主は、憐れみ深いお方なのです。

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 「甘え」と言うことばは、「甘い」とか「甘み」「甘い物」と、「得る」に分解できるそうで、「甘える」は、糖質の高い饅頭やチョコレートなどを手に入れる、『手に入れたい!』と言う行為と似ているのでしょう。

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海と山と父との一景色

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Mt.Fuji and Yokosuka city at twilight in spring season

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 1910年(明治43)123日に、辻子開成中学の学生12人の乗ったボートが転覆して、全員亡くなった事故がありました。作詞が三角錫子、作曲がジェレマイア・インガルスで、「真白き富士の根」です。

1 真白き富士の根 緑の江の島
  仰ぎ見るも 今は涙
  帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
  捧げまつる 胸と心

2 ボートは沈みぬ 千尋(ちひろ)の海原
  風も浪も 小(ち)さき腕(かいな)に
  力もつきはて 呼ぶ名は父母(ちちはは)
  恨みは深し 七里が浜辺

3 み雪は咽(むせ)びぬ 風さえ騒ぎて
  月も星も 影をひそめ
  みたまよいずこに 迷いておわすか
  帰れ早く 母の胸に

4 みそらにかがやく 朝日のみ光
  やみにしずむ 親の心
  黄金も宝も 何しに集めん
  神よ早く 我も召せよ

5 雲間に昇りし 昨日の月影
  今は見えぬ 人の姿
  悲しさ余りて 寝られぬ枕に
  響く波の おとも高し

6 帰らぬ浪路に 友呼ぶ千鳥に
  我もこいし 失(う)せし人よ
  尽きせぬ恨みに 泣くねは共々
  今日もあすも 斯(か)くてとわに

 この悲しい歌が歌われ始めた1910年の弥生三月に、私の父は、逗子の隣町、横須賀の海を見下ろす高台にある家で生まれています。そこには海軍の鎮守府があって、その技官の家だったのだそうです。その家が、まだ残されていて、すぐ上の兄と弟で訪ねたのです。

 「鎌倉武士の末裔」であることを、父が話してくれましたが、鎌倉の街を訪ねた時も、その府庁への若宮大路を歩いてみた時も、ちょっとsentimental になったようです。きっと父に聞いた「祖」は、そこを歩いてか、馬に跨ってか、参内したのでしょうか。それが、たった一つの、父の自慢でしたが、『いい国作ろう鎌倉幕府!』と言いながら、鎌倉幕府の開府の年号を覚えた「1192年」ですが、800年以上も昔のことは、私には辿りきれないほどに、「おぼろげ」に感じるのです。

 その父の街を訪ねた時、叔母と従兄弟に会って、そこでご馳走になった、「お寿司」が美味しかったのです。それだけでは飽き足りなかったのか、次兄がおごってくれた「海軍カレー」も美味しかったですし、父を思い出し、父の生まれた町への親近感からか、父との交わりを懐かしく思い出したのか、「焼き鳥」までご馳走してもらったのです。「どぶ板通り」と呼ばれる道も歩いてみました。どこの街にもある、変哲のない商店街なのですが、父にちなんだ街だという理由で、やっぱり、そきが息子たちの街のようにも感じてしまったのです。

 日本海海戦の主艦だった「三笠」が、記念館として係留されていて、東郷平八郎の仕草をした兄が、印象的でした。私たち4人の息子の中で、この兄が、一番の孝行息子で、父ばかりではなく、母の最後まで世話をしてくれたのです。姿格好も、優しさも、父に一番似ているでしょうか。

 父の通った小学校も、中等学校も訪ねなかったのですが、行かず仕舞いでした。イタズラできかん気だった父にとっても、《垂乳根の母なる街》だったに違いありません。どうも時々父は、義姉の運転で、古里を訪ねていたのだそうです。父が帰天して、五十年以上も経ってしまっても、父の生まれ育った街も、東京の大森、荏原、浅草、さらに秋田、山形、そして京城、上海、奉天(瀋陽)などの街々を、ゆっくり歩いてみたい思いが、いつもあります。

 「真白き冨士の根(嶺)」、「めんこい仔馬」、「櫻井の訣別〜大楠公の歌(楠正成、正行父子)〜」、そして「主我を愛す」など、父の歌っていた声が聞こえてきそうです。行き先や残された時間が少なくなってきているからでしょうか、秋が待ち遠しいからでしょうか、過去に思いが向いてしまう、今日も暑そうな明け方です。

(海上から観た横須賀市の景色です)

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[ことば]亡びよ

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 日本は興(おこ)りつつあるのか、それとも滅びつつあるのか。わが愛する国は祝福の中にあるのか、それとも呪詛(じゅそ)の中にか。興りつつあると私は信じた、祝福の中にあると私は想(おも)うた。

しかし実際、この国に正義を愛し公道を行おうとする政治家の誰一人いない。真理そのものを慕うたましいのごときは、草むらを分けても見当たらない。

青年は永遠を忘れて、鶏(ニワトリ)のように地上をあさり

おとめは、真珠を踏みつける豚よりも愚かな恥づべきことをする。

かれらの偽(いつわ)らぬ会話がおよそ何であるかを

去年の夏のある夜、私はさる野原で隣のテントからゆくりなく漏れ聞いた。

私は自分の幕屋(まくや)の中に座して、身震いした。

翌早朝、私は突然幕屋をたたみ私の子女の手をとって

ソドムから出たロトのように、そこを逃げだした。

その日以来、日本の滅亡の幻影が私の眼から消えない。

日本は確かに滅びつつある。あたかも癩(らい)病者の肉が壊れつつあるように。

わが愛する祖国の名は、遠からず地から拭(ぬぐ)われるであろう。

鰐(ワニ)が東から来てこれを呑(の)むであろう(注1)。

亡びよ、この汚れた処女の国、この意気地(いくじ)なき青年の国!

この真理を愛することを知らぬ獣(けもの)と虫けらの国よ、亡びよ!

「こんな国に何の未練(みれん)もなく往(い)ったと言ってくれ」と遺言した私の恩師(内村)の心情に

私は熱涙(ねつるい)をもって無条件に同感する。

ああ禍(わざわ)いなるかな、真理にそむく人よ、国よ

ああ主よ、願わくはみこころを成(な)したまえ

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 藤井武は、1930(昭和5〕年7月に、この「滅びよ」を書き表し、「聖書より見たる日本」に、一文を残しました。ほとんど100年前の藤井の感じた「青年の国」日本への鋭敏な時代感覚を知らされのですが、現代日本に感じるものは、さらに深刻になっているのではないでしょうか。

 藤井は、1888年に、富山県金沢で生まれています。第一高等学校、東京帝国大学で法学を学んでいます。卒業後、京都府の官僚、山形県警察本部の警視、山形県理事官になっています。官吏を辞職して、無教会を始めた内村鑑三の助手となったのです。

 友人の結婚に関して、内村とに間に問題が生じ、内村のもとを去り、独立伝道者となりました。胃潰瘍で、1930年に亡くなっています。四十代の初めの彼の死は、大変惜しまれたのです。神のことばである聖書に、真摯に向き合った信仰者でした。二十代の私にとって、その全集を読んで知った彼の教えは驚くものだったのです。

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報道の自由と責任

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 『良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。 (イザヤ527節)』

 事実を伝える、これが報道の使命です。『もう紙の時代ではなくなったよ!』と十数年前に、下の息子が言っていましたが、もう新聞の時代ではなくなってくていそうです。もちろんラジオも、そしてテレビさえも。今ではインターネットの情報発信に譲った感がします。その〈即時性〉が持ち味のネットが発信する情報は、最新のニュースが伝わるからなのです。

 でも、だれでも発信できますから、悪用されて、事実と異なる情報や迷惑情報が多くなっているのも事実です。事故や災害による死者数を、ある国では、大災害ににもかかわらず、死者が20人、30人と言う、公の知らせには、驚かされてしまいます。国の威信を揺るがしかねないので、そんな正しくない報道がなされて、かえって人々は、不信を募らせているケースが、多くみられます。

 それはよその国のことではなく、事実を伝えていないのは、私たちの国でも同じです。『こんなことを伝えたら、社会が混乱してしまう!』という理由でしょうか、『知る必要がないから!』とでも判断して、真実が伝わらないことも多いのです。

 こんなことがあったのです。『勝った、勝った、また勝った!』、戦時下の新聞やラジオ放送で、事実を隠して、軍の威信を保つために、報道が管理され、統制されていましたので、事実の報道がなされないままで、国民は負け戦を知らされないまま、敗戦を迎えた経緯がありました。

 日本国憲法の「第二十一条 」に、『集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 検閲は、これをしてはならない。 通信の秘密は、これを侵してはならない。』とあります。

 平和を取り戻した日本では、憲法の条文に従って、「表現の自由」の決まりに従って、報道の自由を得たのです。事実報道こそが、報道に携わる者の使命だと、やり直したわけです。『みんなが事実を知ったら混乱や、パニックが起こるので!』と言うような理由付けで判断が下されるなら、それはいつの時代でも、どの国でも危険極まりないからです。そこで、官憲や軍や特定の団体、信者数の多い宗教団体の偏向報道、宣伝を規制してきたのです。

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 これまで、この私のブログでは、思うこと、子や孫や友人に伝えたいことを、思いのままに書き続けてきました。政治批判はしたつもりはなく、ただ個人の見解ですが、ただ事実だけを伝えるにとどめています。父や母の時代には、難しい時代があったのですが、自分たちは、平和憲法のもとに、良い時代を生きてきましたが、今、国際情勢の難しさの中で、報道や表現が微妙になっている様に感じています。

 人心を乱す様な、悪意に満ちた情報が、多くなりつつある中で、《だれに聞くか》は重要なことになっています。撹乱されないで、騙されないで、良質、優良な情報に、耳を傾けたいものです。

 聖書の発信者は、天地の造り主でいらっしゃる神さまです。平和で、安心を約束されて生きていける様に意図された情報が、発信されています。それこそが、「良き知らせなのです。唯一、嘘偽りのない《知らせ》は、神さまからきます。

(「江戸の100人展」から瓦版を売るかわらばん屋です)

[街]日光

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 小学校の修学旅行は、「日光」でした。東京都下の小学校は、だれに聞いても、どの学校も、あの頃の修学旅行はは、日光だったのだそうです。それだけ関東平野にある小学校にとって、徳川幕府の開闢(開闢)を担った徳川家康の業績が偉大だったからでしょう。

 日光で有名な鳴き竜、招き猫、見ざる言わざる聞かざるの三猿、さらには、いろは坂、華厳の滝、中禅寺湖が印象に残っていて、家康の墓所には、まったく関心がなかったのです。

 江戸期に人気の伊勢参り、出雲参り、松島見物と同じで、その日光詣でも、見知らぬ土地への物見遊山の方が、主だったのではないでしょうか。名物の蕎麦や湯葉や団子や饅頭が味わえるのが楽しかったのではないでしょうか。

 小学生の自分には、家康の偉さの印象なんて全くなく、珍しいお泊まり旅行で、枕投げやくすぐりっこがおもしろく、泊まった旅館の大部屋で、みんなに個人個人の膳が備えられて、同じ物を食べるといた経験が興味深かったのです。いろは坂を、バスを連ねて走ったのは、非日常さを楽しんだものでした。

 かの有名な足尾の銅山に行ってみたくて、わたらせ渓谷電鉄の機動車で、2020年の6月に訪ねたのです。群馬の桐生駅まで、JR両毛線で出かけ、そこで一両編成の気動車に乗り込んだのです。若い運転手さんと話ができ、いろいろなエピソードを聞かせてもらったのです。

 その春季の渡瀬の渓谷美は圧巻でした。銅山で栄えていた頃は、宇都宮に次ぐ人口を擁した栃木県下の第二の街だった足尾でした。その駅前からは、バス路線があって、東武電鉄の日光駅まで乗車したのです。途中下車の方を含めて3人だったのは、まさにローカル体験でした。

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 逆方向からの日光は、修学旅行以来の訪問で、寂れてしまった足尾と違った観光地で、週末は賑わっているようです。クリスチャンの修養会のための施設、「日光オリーブの里」に行った時に、職員の方と仲良しになって、彼に仕事の合間に、中禅寺湖や華厳滝に連れて行ってもらうことがありました。華厳の滝で、長い階段を歩いていた家内に、彼が驚いていました。実に美しい景観だったのです。一緒に蕎麦を啜たりしたのです。

 この日光には「落武者の里」と言われる平家の落人の部落があって、バブル期には大いに賑わっていましたが、ここも観光客が激減だそうで、われわれ世代の温泉客もまばらでした。平成の合併で、日光の市域は広がったのですが、人口は8万ほどだそうです。時々買って食べる「湯葉刺し」が美味しいのです。

 日光例幣使や八王子千人隊の東証宮警備で、歴史的にも興味ある街です。会津藩その末裔の井深大の出身地でもあります。

(秋の中禅寺湖、ホテルの湯葉刺しです)

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食べ続けての今

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 自分の国民性( nationality )や民族意識( ethnic consciousness )が、けっこう拘り過ぎがあって、しかも強すぎたのではないか思うことがあります。つまり、『日本人!』だとの意識が強くて、なんとなく自分でもおかしいと思いながら、それにしがみついていたのが若い頃だったかも知れません。それだけ identity が確かにされていない不安定な時期だったからでしょう。

 思春期って、そう言う時期なのでしょうか。もがきながら、『自分がだれか?』を見つけ出す時だったに違いありません。いったい〈日本人であること〉って何なんでしょうか。日本人の心的状況( mentality )は、外国人にはどう見えているのでしょうか。

 良い点では勤勉さ、几帳面さ、律儀さでしょうか。悪い面では猜疑心が強く、陰気で、執念深く、否定的で、鬱的なのでしょうか。人の目ばかりが気になるような人間でもあるようです。そんな傾向にある私たちですが、農耕民族だからでしょうか。それで、日本人の自覚が呼び覚まされるのは、「米」を中心とした食生活に関わることなのかも知れません。その繋がりって大きいのでしょう。

 毎朝、毎晩、子育てをしていた母の仕事は、米を研いで、火鉢に薪をくべて、鍋でお米を炊き、大根や菜葉やワカメで味噌汁を作り、大根の漬物や干物や納豆などで朝ごはんを済ませ、弁当を作ってもらい、学校で昼ごはんを食べたのです。夕餉の用意も母がしていました。米を炊き、おかず、味噌汁、漬物を食卓に並べてくれました。それは大変な家事だったのです。

 手抜きがなく、不平を言うのでもなく、一途に養ってくてた母を思い出します。時には、パン屋でコッペパンを買い、肉屋でコロッケをかい、ピーナッツバターを塗ったりして買い食いもあったでしょうか。やはり、米を食べて、この体が作られたのです。

 「米」こそ、日本、日本人の中心だったことは言い過ぎではなさそうです。『生きよ!』と願われる、創造主の神さまは、この日本の地に、米作を展開させてくださったに違いありません。大陸の黄河周辺の米作が、朝鮮半島を経由して渡来し、この地に根付いたのです。最初に日本に持ち込まれた古代米という「赤米」を、私は食べたことがあって、何か time slip したような感覚を覚えています。

 米作りは、第一次産業で、米一粒の重さや価値が、日本人にとっては、どれ程のものだったかを、親から教えられたことだったでしょうか。粗末にしてはいけないと諭されたので、今でもお釜に残った米粒をつまんでは食べるのは、その名残でしょう。塩むすびは、どんなご馳走よりも、空腹時には宝物にように美味しく尊いものです。釜についた米を、ザルにとって、日干しで乾飯を作っていたのです。

 肥前の吉野ヶ里とか、武蔵の埼玉(さきたま)、津軽の三内丸山とか、古代に栄えたと言われる村落が、これら以外にも、日本列島には散在していたわけです。今、住んでいます建物から、南を見ますと、富士の高嶺が微かに見え、関東平野が延々と広がり、北には日光連山が眺められ、東には、筑波の山並みが遠望できます。

 群馬県境の、出流川周辺には、マンモスが生息していたと言う記念館があるほどで、この関東平野には、水田が、青々として広がっていて、米中心の文化や経済や生活が、勤勉に営まれ続けているのが分かります。でも、稗や粟や麦や蕎麦に、野菜や獣肉によっても、命が支えられた民が、日本人なのでしょう。米は備蓄されて、不作凶作時にも食べつないできているのです。

 日本の軍隊の食事ですが、陸軍の将兵は、脚気にかかる確率が高く、海軍はほとんどなかったのだそうです。それは、陸軍が米食、海軍がパン食(小麦粉)だったからなのだそうです。お国を守る兵隊さんには、貴重な精米した白米を食べてもらうことが、逆に仇になったのです。ビタミンB1の不足でした。

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 パン食の海軍さんや雑穀を食べた庶民は、脚気にはかからなかったわけです。精米した、いわゆる白米だけを食べる危険性が言われています。軍医だった森鴎外は、自ら脚気だったそうで、また明治天皇も脚気を病んでいたそうです。

 パンも、遺伝子組み換えの小麦使用でないもの、Gluten freeの食パンがだといわれて好いのだと聞いて、パンを選び、米粉を用いたパンも食べたり、退院後の家内は、けっこう食べ物に注意深くなっています。創造主からいただいた体を、管理し、最善に保つ責任があるからなのです。

 今も、青々と稲穂が伸び、秋に収穫を待っているのですが、日本人と米との繋がりは、われわれ世代は、ずいぶん強いものがありそうです。コメの石高によって、統治者がの力が測られ、武士階級の報酬も米によって支給され、農民は、米を作り、工商に携わる人たちは、商いで得たお金で米を買って、命を繋いできたわけです。

 子どもの頃以来、コッペパン、アンパン、クリームパンを、今では、硬い黒パン、フランスパン、ベーグル、カンパーニュなど、多種多様のパンが溢れていますが、やはり落ち着くには、トーストしてバターを塗った食パンが好きなのです。お昼には、国産小麦、バターを使用したパンを食べたところです。

 基本は今晩も、一合の米を研いで、一合半炊きの電気釜で、炊こうとしています。一日一度は米飯です。脚気にもならず、今を感謝しながら生きております。魚と納豆と緑色野菜が、定番なのです。もちろん肉だって食べています。昨晩の煮魚を家内に、冷凍保存してあるハンバーグを私が食べるつもりです。食べるって、大切なことだと、つくづく思わされる熱射の夏です。

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水を思う

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 神さまが定められた、天然自然の秩序があります。自然界が、天と地、光と闇、朝と夜、陸と海、男と女、人と動物、人と植物など、そこには、驚くべき区別と順序、役割の違い、互いの均衡が、創造の神さまによって定められています。順序よく創造の業がなされるたびに、神さまは、次にように言われました。

 『神はそれを見て良しとされた。(創世記11012182125節)』

とです。その六日間の創造を終えた時には、次のように言われたのです。

 『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。(創世記131節)』

とです。その御業には、非常に、はなはだ良い「区別」、「順序」、「役割」、「区別」、「均衡」、つまり「秩序」があったということです。

 『神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記128節)』

 その神の定められた秩序の中に、人は造られたのです。地に人が、作物が、動物が、あらゆるものが、生命に溢れて満ちるように、定められたのです。そのことを、内村鑑三は、次のように言いました。

 『神の定めたまいし順序があります。「女のかしらは男なり。男は女より出でしにあらず。女は男より出でしなり。男は女のために作られしにあらず。女は男のために造られしなり」とあります。男は神の代表者として造られ、女は男の補助者として造られたのであります。共に神に仕うべきであります。しかし男は指導者として、女は助け手として仕うべきであります。この場合において、妻が夫に従うは、神に従うの道であります。従うは、従わるるだけ、それだけ神聖でありまた名誉であります。神の律法に従うところにおいてのみ、真の自由があります。男は神をかしらに戴いて真の自由を得、女は神の代表者なる男をかしらに戴いて、これまた真の自由を得るのであります。(19285月『聖書之研究』)」

 人が、いただいた生命を謳歌するために、すべての《もの》が秩序正しく造られたのです。ところが、人類の始祖が罪を犯した時に、その「秩序」が狂ったのです。殺人事件が起こり、自然の暴威が起こり、人と人、村と村、国と国、人と自然との関係に齟齬が来たり、創造の秩序を乱して、今日に至っています。〈罪の刈り取り〉、蒔いたものを刈るという結果が、近時、世界に見られる、世界中を襲う洪水や強風や犯罪であります。

 社会科の授業で、「国土保全」について学びました。それは、国民の義務です。国土を治め、人を治め、家庭を治める責任です。生活のために与えられた生活環境を、保護していく必要がだれにもあります。

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 アフリカ大陸や南アメリカのアマゾンや東南アジアの密林が、世界の気候や環境の保全のために、驚くべき役割を果たしていることを学んできましたが、手付かずの自然が、用地開発のための手を入れ、その地球規模の均衡が崩されてしまっているのです。それが、今日世界中で起こっている異常気象、自然災害の大きな原因の一つなのです。

 砂漠化した地に木の苗植えをし、伐採した森林に植林し、コンクリートやアスファルトに変えてしまった地を、緑の原野に戻していく努力をして、水資源を地球規模で確保する必要があります。工業生産のためには、莫大な量の水を必要としているのです。水の再利用も急務だと言われています。

 本来、地球が蓄えているべき水が、温暖化によって気化して上昇することで、冷えた水蒸気が大雨、暴雨、線状降水帯を生み出す原因なのだそうです。その異常を生み出してきた工業優先が、この異常気象に拍車をかけてきたのです。YouTubeのコマーシャルに、ペットボトルの水の会社のものがあって、スイスやフランスのペットボトル水が輸入されて売り始められた時、何とも言えない違和感を覚えた時と同じ、違和感をそのコマーシャルで感じたのです。水が、製品になると言うおかしさです。

 水質が、飲用に適さなくなってしまったので、自然の恵みの水が売られて、飲まざるを得なくなっている現実こそ、異常です。子どもの頃、母の手伝いで、井戸水を汲む手伝いをしました。釣瓶の桶によるのではなく、ポンプ式の井戸だったのです。井戸の蓋を開けると、その底に自分の顔が、はるか底に映ってたのを覚えています。

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 人が増えるに従って、井戸水の汚染が言われるようになり、市の浄水場からの水道水の供給が始まり、蛇口を捻ると、水が出るように変わっていきました。でも、あの堀井戸から汲み上げた水は美味しかったのです。井戸のことを考えますと、ブラジルに移民した義兄が、「上総(かずさ)掘り」と言う井戸について資料を欲しがっていたことを思い出します。地下水を汲み上げて、天然水を、農業用に、また飲用に利用したかったようです。アフガニスタンで、中村哲医師が、用水路を敷設することに尽力したことも有名な話です。

 水と人とに関わりは、歴史的に見て、人類の生存にとっても、極めて重要です。飲用、農業用、工業用に必要な水も、防雨がもたらす洪水となると、これは一大問題です。今回の台風7号による、鳥取市の先代川の増水のニュースを伝えていました。〈治水〉は古来からなされた重要な対策であるのです。でも昨今の水問題は、どうする術もないような域にありそうです。治山、治水、国土保全に励んできた日本では、それでも甚大な被害を抑止してきています。

 水ジャーナリストの橋本淳司さんが、『台風や大雨など、気候変動の影響を受けている日本で、社会生活が長期間ストップするほどの事態にならないのは、上水道や下水道が整備されているからです。つまり、上下水道インフラの未整備な国や地域ほど気候変動のダメージを受けやすく、洪水や渇水から立ち直るのにも時間がかかってしまうということです。ウォーターエイドの報告書では、世界の貧しい国のほとんどが気候変動への対応力が弱く、それに必要となる安全な水へのアクセスレベルが低いことが指摘されています。安全な水の確保は新型コロナの感染拡大だけではなく、気候変動への対策、ひいては人々の命を救うことにつながるのです。』と言っておいでです。

 これほど、水が暴れ狂う様を動画で見た今、これから地球が内蔵する水と地球を取り巻く水は、どうなっていくことでしょうか。

 『神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。 (詩篇478節)』

 国々を治められる神さまは、地球も天空、宇宙をも治めておいでです。自然界の均衡が破れてしまった様に感じる昨今ですが、神さまの意図を知って、人は、この自然天然の世界に、何をしていくべきなのでしょうか。《治めていく責任》を放棄するわけにも、あきらめるわけにも、人はいきません。

(一滴の水、上総掘りの作業の様子、中村哲氏の著書です)

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私の評価額は

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 今朝読んでいた、「レビ記」の27章に、〈人間の評価額〉が記されてありました。

 『その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。 女なら、その評価は三十シェケル。 五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。 一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。 六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。 もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。 主へのささげ物としてささげることのできる家畜で、主にささげるものはみな、聖なるものとなる。 それを他のもので代用したり、良いものを悪いものに、あるいは、悪いものを良いものに取り替えてはならない。もし家畜を他の家畜で代用する場合には、それも、その代わりのものも、聖なるものとなる。(レビ27310節)』

 年齢によって、人間の評価を、神さまが定められたのです。ある時、長野県に用があって、出かけた時に、高速道路のサービスエリヤに、「姨捨(おばすて)SA」がありました。近くに、姨捨山があるのです。そこには、次のような民話が残っています。

 『昔、年よりの大きらいな殿様がいて、「60さいになった年よりは山に捨(す)てること」というおふれを出しました。殿様の命れいにはだれもさからえません。親も子も、その日がきたら山へ行くものとあきらめていました。

ある日のこと、一人のわかい男が60さいになった母親をせおって山道を登っていきました。気がつくと、せなかの母親が「ポキッ、ポキッ」と木のえだをおっては道に捨てています。男はふしぎに思いましたが、何も聞かずにそのまま歩きました。

年よりを捨てるのは深い深い山おくです。男が母親をのこして一人帰るころには、あたりはもうまっ暗やみ。男は道にまよって母親のところへ引きかえしてきました。

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息子のすがたを見た母親はしずかに言いました。「こんなこともあろうかと、とちゅうでえだをおってきた。それを目じるしにお帰り」。子を思う親のやさしい心にふれた男は、との様の命れいにそむくかくごを決め、母親を家につれて帰りました。

しばらくして、となりの国から「灰(はい)で縄(なわ)をないなさい。できなければあなたの国をせめる」と言ってきました。との様はこまりはて、だれか知恵(ちえ)のある者はいないかと国中におふれを出しました。男がこのことを母親につたえると、「塩(しお)水にひたしたわらで縄をなって焼けばよい」と教えられ、男はこのとおりに灰の縄を作り、殿様にさし出しました。

しかし、となりの国ではまた難題(なんだい)を言っていました。曲がりくねったあなの空いた玉に糸を通せというのです。今度も男は母親に、「1つのあなのまわりにはちみつをぬり、反対がわのあなから糸をつけたアリを入れなさい」と教えられ、殿様につたえました。すると、となりの国では「こんな知恵者がいる国とたたかっても、勝てるわけがない」とせめこむのをあきらめてしまいました。

殿様はたいそうよろこび、男を城(しろ)によんで「ほうびをとらす。ほしいものを言うがよい」と言いました。男は、「ほうびはいりません。実は・・・」男は決心して母親のことを申し上げました。

「なるほど、年よりというものはありがたいものだ」と、殿様は自分の考えがまちがっていたことに気づき、おふれを出して年よりを捨てることをやめさせました。それからは、どの家でも年おいた親となかよくくらせるようになりました。(千曲(ちくま)市教育委員会の協力をえて、「姨捨の文学と伝説」からの要約)』

 旧英国海軍の基地のあった軍港の高台に、「老人院laorenyuan」があって、5人ほどで訪ねたことがありました。牧師の娘、医師の長女、教師などの背景を持たれる何人もの姉妹たちと交わりをしたのです。こんな方々のように、老いを迎えたいと思わされるほど、輝いて今を生きておいででした。お父さまやお母さまのことなど、街のこと、出会った人々のことをお話しくださったのです。

 社会の厄介者のように、老人への敬意を忘れていた殿さまもも、その知恵や経験を、後にありがたく感謝するようになったのは、実に聖書的なのです。

 『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。 (レビ1932節)』

 華南の街で、公共バスに座っていた学生さんたちが、ピッと起立して、幾度も席を譲ってくれた経験が思い出されてきます。間もなく外孫が2人、お母さんの故郷回帰に従ってやって来ます。もう、彼らの評価額の方が、私たちよりも、はるかに高くなっているのですが、それでも respect されるのは嬉しいことです。孫たちの訪問を、いつになくワクワクと待っているバアバなのです。

(幕屋で仕える祭司、姨捨山(冠着山)です)

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ご覧あれ❗️

 

 『もう、何で咲かないの!』、蕾ができてから、どれだけ待ったか分からなかったほどで、ヤキモキしていました。この7号台風が近畿中国圏に、大きな爪痕を残して、日本海に抜けたのですが、その余波で、強い風が、ベランダにも吹きつけ、花壇の下におろしたら、今朝、開いたのです。《 sun  parasol giant(サンパラソルジャイアント)》です。まさに、ご覧あれ! です。まだ、100%の開花ではないのzですが、待ちきれずにアップしました。

※ 反省  冬越しの2年目ですが、乾燥気味に一年経ったのですが、きっと、花卉用の肥料やりが足りなかったかも知れません。

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