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昨日今日と、こちらは暖かいのです。昨日は23℃もあったですし、今日も15℃ほどあります。それで、ベランダの手すりの朝顔が、少し開きかけています。開くには、気温が足りないかも知れませんね。もう一つ蕾があるのですが、どうでしょうか開いてくれたら大喜びなのですが。先ほど久しぶりに、散歩してきました。吹く風は冷たいようです。
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来福
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夕べは咳がひどくて寝眠れないほどでした。ウトウトとすると咳が出て、そうすると痰までが出てくるほどで、《泣きたいほど》でした。今朝起きて、着替えをしたのです。何と、昨日取り入れた靴下(黒と白の格子模様)の中に、《蜂(大型ですから"スズメバチ"でしょうか)》がいて、左足の親指の付け根を、嫌という程に刺されてしまったのです。すぐに、"ムヒ"を塗ったのですが、まだ痛みが取れません。
これを、まさに「泣きっ面に蜂」と言うのでしょう。子どもの頃に、蜂の巣を突っついて刺された事が何度かありましたが、ずいぶん久し振りで、中国に来て経験するとは思いもしませんでした。前に住んでいた小区の5階の家の外壁に、スズメバチの巣を見つけ、2回も落とした事がありましたが、 昨日は、<年の瀬>なのに、23℃も気温があったからでしょうか、蜂の巣と似た白黒で、柔らかな靴下を巣と勘違いしたのか、「かくれんぼ」をしていて、入ったのか、災難でした。どこか近くに巣がありそうですね。
「転んでもただでは起きない」で、中国では、「泣きっ面に蜂」とか「弱り目にたたり目」を何というか調べて見ました。"屋漏更糟连夜雨(雨漏りしてるのに連夜の雨)"、"船迟又被打头风(船が遅れてるのに向かい風が吹いている)"、"祸不单行(禍<わざわい>が重なってやってくる)"と辞書にありました。あいにく中国人の友人に聞いて確かめていません。家内が、干した 洗濯物を取り入れる時は、注意深く点検 していますが、雑な私はしないのです。
でも、人生、風邪や蜂に刺される事、雨や嵐の日ばかりではありません。今まで、治らなかった風邪や引かなかった痛み、止まなかった強雨も大嵐もないのですから。「災い転じて福となす(禍に遭ってもいつか祝福に変わる時が来る)」のです。中国語では"转祸为福zhanhuowei"で、意味は同じです。今日も暖かで、「小春日和(こはるびより)」ですね。
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手児奈
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私の最初に勤めた職場の母胎が、都内の市ヶ谷の駅のそばにありました。週一で、八王子から電車で、ここに出掛けて、新聞の一つの覧を担当してさせてもらっていたのです。その機関誌の編集をしていた方が、千葉県の市川から通っておいででした。お寺の住職をしながら勤務されていて、若い私を誘っては、神楽坂などの料理屋で、お酒をご馳走してくださったのです。とても好い人でした。
万葉集に、「真間の手児奈(ままのてこな)」のことが歌われています。
葛飾の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
(現代語訳:葛飾の真間の井を見ると、立ちならして水を汲んだであろう手児名が偲ばれる。)
語り伝えられている「手児奈」の物語りは、次の様です。
むかしむかしの、ずうっとむかしのことです。真間のあたりは、じめじめした低い土地で、菖蒲(しょうぶ)や葦(あし)がいっぱいにはえていました。そして、真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、その入江には、舟のつく港があったということです。
そのころは、このあたりの井戸水は塩けをふくんでいて、飲み水にすることができないので困っていました。ところが、たった一つだけ、「真間の井」とよばれる井戸からは、きれいな水がこんこんと湧き出していました。だから、この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりましたので、井戸のまわりは、いつも、にぎやかな話し声や笑い声がしていたといいます。
この、水くみに集まる人びとの中で、とくべつに目立って美しい「手児奈」という娘がいました。手児奈は、青い襟(えり)のついた、麻の粗末な着物をきて、髪もとかさなければ、履物もはかないのに、上品で、満月のように輝いた顔は、都の、どんなに着かざった姫よりも、清く、美しく見えました。
井戸に集まった娘たちは、水をくむのを待つ間に、そばの「鏡が池」に顔や姿を写して見ますが、その娘たちも、口をそろえて手児奈の美しさをほめました。
「手児奈が通る道の葦はね、手児奈の裸足(はだし)や、白い手に傷がつかないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」
「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」
手児奈の噂(うわさ)はつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にも広まっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやって来ては、
「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も、髪にかざる玉も思いのままじゃ。」
「いや、わしのむすこの嫁にきてくれ。」
「わたしなら、おまえをしあわせにしてあげられる。洗い物など、もう、おまえにはさせまい。」
「手児奈よ、わしといっしょに都で暮らそうぞ。」
などと、結婚をせまりました。その様子は、夏の虫が明かりをしたって集まるようだとか、舟が港に先をあらそってはいってくるようだったということです。
手児奈は、どんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。それをみた手児奈は、
「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」
と言いながら、真間の井戸からあふれて流れる小川にそって、とぼとぼと川下へ向かって歩きました。手児奈の涙も小川に落ちて流れていきました。
手児奈が真間の入江まできたとき、ちょうどまっ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見て、
「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」
と、そのまま海へはいってしまったのです。
追いかけてきた男たちは、
「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」
と思いましたが、もう、どうしようもありません。
翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、井戸のそばに手厚くほうむりました。
手児奈が水くみをしたという「真間の井」は、手児奈霊堂の道をへだてた向かいにある「亀井院」というお寺の庭に残っています。(市川市ホームページから)
この「亀井院」の住職が、この人だったのです。一度も、そこを訪ねる事がなかったのですが、「万葉の代(よ)」の人々は去り、景観は変わっても、語り伝えられた物語は、人から人へと残されているのです。
(市川市の市花の「バラ」です)
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自分で考えよ!
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今日は、12月23日、日本では「天皇誕生日」の祭日です。今上(きんじょう)天皇の明仁さまは、84歳になられました。ある国会議員が、自分の信念ででしょうか、「天皇がいること」や「天皇制度」について随分辛辣で不遜なことを語っていました。私は、 「大英帝国」に「王さま」がいる様に、日本にも「天皇」がいらっしゃることに感謝しているのです。
殊の外、明仁さまは、人格的にも優れていらっしゃると、聞き及んでいるからです。戦後間もなく、学習院中等科に、一人のアメリカ人の女性教師が招聘されました。父君(昭和天皇)が、『明仁の教育にアメリカ人教師をつけたいのです。』との願いが汲まれて、1946年(昭和21年)に、エリザベス・ヴァイニング夫人が招聘されたのです。日本主義の教育ではなく、アメリカに見られる「人格教育」を願ったからだったのでしょう。
夫人は、最初の英語の授業で、"You named Jimmy!"と明仁さまに言うと、『私はプリンスです。』と少年明仁さまは答えたそうです。でも夫人は、『確かにあなたは明仁親王です。でもこのクラスの中では、あなたは"ジミー"です。』と答えられたのです。米国ペンシルベニア州生まれの"ベス(エリザベスの略愛称)"は、「質素・誠実・平等」を掲げ、「平和主義」の精神を持った教師でした。夫人は、明仁さまが、《一人の人》であることを教え、誰にでも同じ様に接して欲しかったのでしょう。
同級生が、後になって、『先生は「人間はみんな平等」だと始終、おっしゃっていました。ほかの生徒たちにも英語名をつけ、殿下を『ジミー』と呼んだのも、平等の考えからだったと思います。優等生も劣等生も分け隔てなく可愛がっていました。』と、その教室でのことを語っています。
夫人は、1950年(昭和25年)10月に帰国するのですが、その学習院最後の授業で、次の様に板書しています。
"Think for yourself!(自分で考えよ!)"
明仁さまは、公式の席上、お話をなさる時、侍従の作った原稿を読まないのだそうです。ご自分で考えて作られた文章を使われるのです。これも、『人はロボットではありません。自分の意思を持ち、それに従い行動しなさい!』と、ヴァイニング夫人が教えていたからだったのでしょう。学校でだけではなく、夫人は、個人的な「家庭教師」でもあったのですから、随分とアメリカの"クエーカー"の精神的影響を、明仁さまはお受けになっていらっしゃるのです。
多感で、何でも吸収し、人としての基礎づくりの中学生の時期に、 ヴァイニング夫人から、家庭と教室で受けた公私に亘る薫陶(くんとう)は大きかったのだろうと思われます。間もなく退位され、ご子息に譲位されようとしています。皇太子さまが、『外務省にいたら、初の女性事務次官になれた方でした!』と言われたほどの雅子さまの支えで、その重責を、十二分に果たせる様に、願っております。
(学習院のヴァイニング夫人の教室、夫人の左側に少年明仁さまがいます)
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冬至
怒り
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自分が欠点だらけでいけないのに、『どうも父の血を引いてしまったようで・・・』と言い訳していた時期がありました。自分が《短気》なのを、父親のせいにして、父親に恥をかかせてしまったていたのです。少なくとも、人は、l「成人映画」が観られる《18歳》になったら、「選挙権」のある《二十歳(はたち)》を過ぎたら、もうしっかり自分の責任で生きなければならないのです。
「日本アンガーマネジメント協会」という団体があるそうです。怒りやすく、激しやすい人に、<講習>を受けてもらって、その悪癖を矯正する講座を開いているのです。また、<企業研修>も行っているそうです。そして、この数年、この協会で、「アンガーマネジメント大賞2017」という賞を、アンケート調査で決めて、表彰しているそうです。この"アンガーマネジメント"とは、「怒りの感情と上手に付き合う(怒りの管理)」と訳されていて、1970年代に、アメリカで始まった働きです。
さて、2017年、「上手に怒りの感情をコントロール・対応したと思う有名人」は次の人たちです。
第1位 松山千春氏(歌手、俳優)
第2位 村田諒太氏(プロボクサー)
第3位 市川海老蔵氏(歌舞伎役者)
第4位 桐生祥秀氏(陸上選手)
第5位 バナナマン氏(お笑い芸人)
松山千春は、飛行機のトラブルで、離陸時間が遅れた時に、自分の持ち歌を、機長の許可を得て歌って、乗客のイライラの解消をしました。また、ボクサーの村田諒太は、勝ち試合を、審判の判定で負けを喫したのです。このことに、『第三者が判断すること。僕自身が勝敗について言うのは違う。』と冷静に受け止めていました。そのことが、半年後の再試合でと言いますが、""圧倒的勝利をして、タイトルを奪還したのです。怒りとの付き合い方が、抜群でした。
私の愛読書に、『怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。』とあります。いやー、すごい挑戦です。怒りを爆発させてしまったことが、若かりしころに、何度かある自分には、耳と心が痛いのです。家内が、『最近は、怒らなくなった様ね!』と言いますが、"怒りのマグマ"がくすぶっていそうで、まだまだ安心できません。もし怒り始めたら、"九九"をやるか、"食べた物"を順次思い出してみたら好いかも知れません。
でも、根本的には、"心根"を変えていかなければならないのでしょう。自分が怒られる対象なのに、怒られないで、赦されている事を思い出すのが好いのでしょう。そうしたら《心の勇士》になれるかも知れません。
(昨日食べたのがすき焼きでした)
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入院
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今年の二月に、栃木の友人の家にお邪魔していて、帰る前の晩、階段を降りてて踏み外して、転げ落ちて、したたか左の肩を床に打ち付けてしまいました。翌朝、その友人に成田までのリムジンバスの発着所に送ってもらい、中国の街に、痛いまま戻ったのです。でも日が経つに従って、肩の痛みが増していきました。それで、市内の病院で、"CT"を撮影してもらいましたが、骨折ではないとの事でした。
それでも痛みは増すばかりでした。それで肩の打撲について、ネットで検索していたら、「腱板断裂」かも知れないと思い、探し当てた札幌の病院に、メールで、症状を伝えたところ、主治医から、『"MRI"を撮って送ってください!』とのことでした。それで、その病院で撮影していただき、メールに添付して送信したのです。そのフィルムを見た医者は、『腱板断裂ですから、早めにどこかの整形外科で手術が必要です!』と返信があったのです。
それで、そこまで親切にしてくださったので、中国から見た日本の街は、どこの街も同じ位置でしたから、難なく、"ネット環境"で診断を下し、返信してくれた医者に診察と手術をお任せしようと決めたのです。それで、4月12日に、"北帰行(!?)"をし、北海道札幌に参りました。
ある新聞記事に、「北げる」という言葉が出ていました。五味康祐が、そういった表現をしたそうで、「逃げる」を、そう表記しているのです。『通常、人は南から北に逃げるのだ!』そうで、だから「北げる」で好いのだそうです。
「北」は、「敗北」の「北」。「北」という漢字のルーツ(字源)は、背を向けてはなれる、すなわち、負けて「逃げる」ということのようです。
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.後漢時代、紀元100年ころつくられた中国最古の体系的字書『説文解字(せつもんかいじ)』には、「乖(そむ)くなり。二人相背(あいそむ)くに从(したが)う」と書いてある。・・・じつはこれ、二人の人が背中を向け合って立っているところを描いた文字なのだ。背を向けて乖離(かいり)する(はなれる)——これは「逃げる」ということにほかならない。つまり「敗北」とは、(戦いに)敗れて逃げるということなのだ。(「不思議な漢字―意外と知らない日本語の謎(志田唯史・文春文庫+PLUS)」)
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「北」の漢字の成り立ち・由来
会意文字です。2人の人が背を向けて「そむく・にげる」を意味します。
また、人は明るい南面を好むが、そのとき背にする方角「きた」を意味する「北」という漢字が成り立ちました。(「漢字の成り立ち・由来辞典」より)
私は、決して、「北げる(逃げる)」ために札幌に行ったのではなく、そこは親切さにほだされ、その病院に入院して分かった事ですが、同じように「腱板断裂」で手術をしてもらった患者が、常時3、40名も入院していたので、執刀医で院長の医師の腕が優れており、看護もリハビリテーションも素晴らしかったからです。《中国から来た日本人の患者》である私に、病院規定の例外で、本院にい続けさせてくれて(本来なら分院に転院させられるのですが)、リハビリに専念させていただいたのです。
4月12日初診、14日手術、5月19日退院、<35日間>の入院生活を過ごしたのです。こちらに戻ってから、友人たちが探してくれた「市立医院」のリハビリテーション科でリハビリを受けました。今日、12月20日、術後8ヶ月が過ぎ、ほとんど支障なく左腕を使える様に快復しております。北国の秋を感じさせる8月には、《3ヶ月検診》に、家内を伴って、札幌、そして知人のいる函館に行って参りました。
入院中の病友が、どれほどいたでしょうか。「相憐れむ」病人同士、励まし合いながら、過ごした日々が懐かしく思い出されます。『ニセコに住んだらいい。親戚に土地を分けてもらうように言うから来てください!』と勧めてくれた方、カップラーメンの夜食を分けてくれた方、饅頭や北海道銘菓、手作りの菓子、飲み物を下さった方々、本を見せてくれた方、病室のトラブルを抱えて苦しんでいた方、手術をした後にリハビリのミスで出戻った方、"オホーツク文化"があった事を分かち合ってくれた方、みんなとよく話し合ったのです。そんな病友たちがいました。
毎朝、コーヒールームにいる私に『おはようございます!』と挨拶して北海道新聞、日経新聞を手渡してくださった警備員の方、『何でも言ってください!』、『男同志、体を洗いますので!』と言ってくれた男性看護師、美味しい処を教えてくれた看護師、育った家庭環境を話してくれた看護師、etcでした。
『北は<敗北>の北!』では、決してない事を知ったのです。今年、北海道フアンになり、北海道人が好きになりました。若かりし頃の"同級生+女友達"の出身地だったのも思い出させられたりでした。『伊達市は、住み良いですよ!』と移住の勧めをしてくれた病友もいました。ある方には、自分の人生の転機を話したりした事もありました。みなさんが無事に、新しい年を迎えられます様に願いつつ。
(今年"35日間"入院していた病室です)
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NO!
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「禁忌(きんき)」という言葉があります。"デジタル金字泉"によりますと、「[名](スル)1 忌(い)み嫌って、慣習的に禁止したり避けたりすること。また、そのもの。タブー。「禁忌を破る」2 人体に悪影響を及ぼす危険がある薬剤の配合や治療法を避けて行わないようにすること。」とあります。
私は若い時に、二つの「禁忌」を心の中で誓いました。自分を滅ぼしてしまうだろう事物に、『近づかない!』と決心したのです。一つは「博打(ばくち/賭け事)」、もう一つは「麻薬」でした。ずいぶん曖昧で、いい加減で、意思も強くない人間だったのに、この「二つの禁忌事項」は、今日まで守って来れたのです。そんな弱い自分なので、褒めてあげてもいい気分でいます。
トランプとか花札とか麻雀をしていた時に、のめり込んでしまいそうな自分に気づいたのです。上の兄が、家で、友人を招いて麻雀をしていたことがありました。一人足りなくて、中学生の私を誘ったので、雀卓を囲んでジャラジャラやり始めたのです。その音と感触がなんとも言えなく誘惑的で、ゲームの内容の複雑さと面白さに引き込まれる様でした。『深みにはまりそう!』、という危機感を、なぜか突然感じて以来、どんなに級友に誘われてもしませんでした。こんなに面白いゲームは他にないのが分かって、はまり込みそうだったからです。
「ヒロポン」の怖さを、父に聞いた時に、地獄か奈落の底に、"すーっ"と吸い込まれて、落ちていく様な気持ちを疑似体験したのです。その危機感と恐怖感が、思いの中に焼き付いて以来、決して、それを手にすることがありませんでした。怪しい飲み屋で飲んでいた時も、それに手を出すことは一度もありませんでした。誘惑の機会は幾度となくありましたが、父の言葉は、強烈に、私をその誘惑から守ってくれたのです。
父の言葉から、「事の善悪に基準」を心の中に刻んだ事は、無謀な男気のあるような生き方をしたかった自分には、驚くほどの抑止力、拒否能力を培ってくれたに違いありません。聖人君子の様に生きたわけではありません。人には言えない様な、赤面の恥ずかしい事だらけ、失敗だらけの青年期でした。人には見せない心の裏に、"闇"を抱えていたのです。肺炎で死に掛けて、"すーっ"と死に誘われる、あの子どもの時と同じ様な感覚、幻覚にいくどとなく襲われながら、地獄の淵を彷徨いながら、滅びないですんだ、明確な転機が私に訪れたのです。
『日本全国に、約《七十万人》の"ギャンブル依存症"で苦しんでいる人がいる!』との統計があります。一攫千金の夢に取り憑かれ、勝負に勝ったときの感覚は、麻薬に似た様な設けた時の高揚感に似てるのでしょうか。それに捕らえられてしまって、日常の生活もままならない人が、多くおいでです。税収入を見込んだ"公営ギャンブル"の「胴元」が、地方自治体の「市」だという事は、実に皮肉な事ではないでしょうか。手ずから働いて得た収入で、その範囲内で生きる事を教えられたのは感謝でした。
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昨日今日明日
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12月19日の私たちの住んでいる街の「日の出」は6時44分、「日の入」は17時16分です。いよいよ日中の時間が短くなってきて、その頂点が、「冬至」です。引っ越してきた家は、9階建ての2階、南側も9階建てですから、夏場に比べて、太陽が昼過ぎにやっと当たり始めると言った状況なのです。
今度の家には、エレベーターがあって便利になった分、冬場の今日日、もう少し太陽が恋しい気持ちが強いのは当然でしょうか。昨日の朝は、川辺を散歩して、行きつけのスーパーの一階のケンタッキー・フライドチキンで、ベーコンと卵とレタスのサンドイッチとコーヒーで朝食を摂りました。コーヒーが、インスタントではないので、格別に美味しいのです。
家内が、同じビルの二階にある美容室で、散髪している間、大通りの交差点にある事務所に行って、公共バスの家内用のカードに、入金してきました。日本では、今頃は、クリスマスと歳末商戦の真っ最中で、賑わっていることでしょう。今年の私たちの街は、例年になく、クリスマスの雰囲気がほとんどありません。来年の「春節」前にならないと、盛り上がりが見られないで、普段通りです。
夕方は、十一人で、お弁当の夕食を摂りながら過ごしました。"牛肉飯"を、とても美味ししくいただきました。実は、家内の友人だった方ですが、日系企業の社長さんの奥さんが、ご主人が、日本の本社勤務になって帰国される時に、"炬燵(こたつ)"を置いて行ってくださったので、先週末に"客厅ketin/客間"にセットしたのです。畳の上ではないのですが、"日本情緒"が一杯になりました。
実は、"電気餅つき機"も頂いたのです。来週は、もち米を買って、お餅をつこうかと思っています。そして、お雑煮にしてもらうつもりです。ただし、わが家では"小松菜"と"三ッ葉"と"鶏肉"仕立てなのですが、青菜は、こちらにはないのです。代わりになる青菜で作ってもらうことにしています。
そんな昨日今日、そして明日の暮らしぶりです。今日の天気予報は"晴れ"とのこと、久しぶりに山に行ってみたいのですが、まだ咳が残っていて、まだ決めかねています。昨日の兄と弟からのメールで、"兄弟会"を三人で持ったと知らせてくれました。3時間も上の兄の家で、楽しく交わりをしたそうです。同じ父と母の"子"として、励まし合えて、感謝なことです。
レーザー・ビーム
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小学生の時の「夢」を実現するために、一つのことに夢中になれたのは、素晴らしいことです。それが、あの"イチロー"の活躍で分かります。アメリカは、そんな「夢」を実現させてくれる社会だということになりそうです。移民国家だからでしょうか、ピューリタンの祝福を受け継ぐ地だからでしょうか。社会が、人種の枠を設けていないから、誰でもが、実力次第で、その「夢」を実現できるのです。
この人の人間性は知りませんが、ライトの守備位置で補給したボールを、ホームを守るキャチャーのミットに目がけて、一直線で投げる「送球術」は、ただ驚くだけでした。これを、"レーザー・ビーム"と言い、よく『タッチアウト!』を取っていました。
その様な、最高のプレーをするために、妥協することなく、自己管理をし続ける"イチロー"には、誰もが脱帽させられました。今日現在でも、何時呼ばれても、守備につけて、バッターボックスに立てて、塁を窺う盗塁するための準備を、来季に向けて備えてるのだそうです。江夏も稲尾も別所も、野村も川上も落合も、凄い選手だったのですが、自己抑制をし続ける"イチロー"には、驚かされてしまいます。
自分で、『五十まで現役を続ける!』と決断してるのですから、"大リーグ"のスター選手のままでなくて、"3A"でも好いので、燃え尽きるまで野球選手を続けて欲しいのです。獅子は、老いても獅子だからです。その機会を得られる様に、心から願うのです。私の子どもたちと同じ世代の"星"であり続けて欲しいのです。
年齢とともに、肉体は、衰え、気力も失せるのですが、グラウンドで倒れるまでバットを握り続け、グローブをはめ続け、スパイクを履き続けて欲しいのです。野球少年に、どれほどの夢を与えてきたことでしょう。きっと、"終活"を考えていることでしょう。プロ野球の世界への"貢献"はもう十分です。これからは、優秀な選手が、どう終わって行くかの様子を見たいのです。
トロントの野球場で、"イチロー"のプレイを見たのは、もう随分前のことでした。大活躍の真っ最中だったのです。きっとフアンがいて、選手が大成するのでしょうけど、孤高のプレーヤーの彼も、そうだったに違いありません。
(2013年に日本プロ野球で使用された統一球です)
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