ロケット

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小学校の時に、ノートに挟んで使っていた、下敷きのセルロンドを細く刻んで、鉛筆のアルミ製のキャップに詰め込んで、《ロケット発射実験》をして、よく遊びました。極めて危険でしたが、怪我をしなかったのが不思議なほどでした。その頃、《科学する心》があったのだと思います。

小さな頃は、家の中にある機械を、ドライバーやペンチで解体するのが面白くて、結局直さずに壊していたのだそうです。あまり記憶はないのですが、鋏を持たすと、なんでも切り刻んでしまっていた様です。きっと、そう言う行動には、きっかけがあった様です。

小学生の頃、湯川秀樹に匹敵する科学者に、糸川英夫という科学者がおいででした。"航空ロケット"を研究していた方で、私の父と、ほぼ同世代の方でした。学習雑誌に、この方がよく取り上げられていて、《科学への夢》を持たせてくれたのです。《宇宙工学の糸川》は、敗戦後の少年に取っては、憧れの的でした。この方は、"ロケットの父"と呼ばれていたのです。
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今、"JAXA(Japan Aerospace eXploration Agency/宇宙航空研究開発機構)"が熱い様です。日本の航空工学は、世界の先端を歩んでいるのではないでしょうか。鹿児島県内之浦町の"宇宙センター"からは、宇宙衛星が、たびたび打ち上げられ、常に成功しているのです。あの探査機の"はやぶさ"です。それは、糸川英夫が開発した、<直径1.8cm、長さ23cm、重さ200グラム>の"ペンシルロケット" が発端でその実験場が、東京都国分寺市にあったのです。

その小さな始まりが、宇宙に確固たる足跡を残して、今があるのです。『少年に夢を!』と、夢を与えてくれたことを思い起こして、感謝しています。お金も何もない少年が、その真似事で作った、"鉛筆キャップ・ロケット"だって、"昭和の子"にとっては、かけがいのない宇宙への挑戦であったわけです。数学がまあまあ得意で、科学する思いがあったのに、その道に進まなかったのが、今になって不思議です。

("ペンシルロケット"と糸川英夫、「内之浦宇宙センター」です)

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オニヤンマ

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「オニヤンマ」が、空を飛んでいる写真に、子どもの頃が思い出されます。目玉がギョロリと大きくて、格好良さに惹かれて、よく追いかけて、時には捕まえることができました。初夏には、もう飛んでいるのですね。その下は「オオルリソウ」、そして「セッコク」、昨夕、配信してくださった「HP 里山を歩こう」にありました。

これらの写真は、高知県安芸市で撮影されたとのことです。ここは、よくプロ野球の球団が、春のキャンプをする町だったでしょうか。先日アップした記事の中に、鹿持雅澄を取り上げたのですが、この方が10ヶ月、単身赴任し、愛妻のために歌を詠んだ町でした。

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奮発



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これまで。ちょっと《奮発》したことがありました。それは、《テニススクール》で、初歩からテニスをトレーニングすることでした。それまで、兄の友人たちが、ゴルフをしない代わりに、テニスをしながら、《二重の打ち合わせ》をするという交わりを、春秋に泊りがけでもっていたのです。それに誘われて、何度か参加していたのですが、<素人テニス>ではいかんともし難かったのです。それならば、『基礎から学んでみよう!』の《奮発》でした。

街のテニススクールに、小学生の頃に、私たちの家に出入りしていたお嬢さんが、全日本級のテニスプレーヤーになっていて、その時には、競技から引退して、コーチをしていたのです。このコーチの他にも、優秀な競技歴を持つコーチがいて、上手なレッスンで基礎を教えてもらったのです。そのせいで、好いボール返しができる様になって、けっこう球筋も好くなって来ていました。

ところが、2年にわたって、両足のアキレス腱を切る怪我をして、2年目に、そのスクールをやめてしまったのです。あのまま続けていたら、<おじさん大会>にも出れたかなと思えたほどでしたが、断念せざるを得ませんでした。でも、勝つための運動をしてきた私が、楽しんでするテニスをやり始めて、本当に楽しかったのです。

時には、ネットすれすれ、ラインすれすれに打てる様になって来ていたのです。クラスメートは、おばさんたちがほとんどでしたが、それが楽しかったわけではありません。上手にボールを打てた時の《音》が爽快だったのです。アメリカンフットボールでも野球でも、楽しんでやれたら、最高なのですが、<勝ちに行く>と、楽しさが半減してしまうのです。

今日日、反則をし、審判を殴打し、賭け試合に誘惑されてしまい、結局は、しなかった方が良かった、と言うことになってしまうのです。一緒にやっていた頃に、上のクラスに《七十代》の”格好いいおじいさん“がいました。私は四十代の後半でしたが。親が楽しんでいたので、子どもたちに伝染してしまった様で、みんなし始めてしまいました。

このテニスのきっかけは、『どんな運動がいいかな?』と弟に聞いたところ、彼の推薦してくれたのが《テニス》でした。今でも、きちんとウオーミングアップをすれば、できるかも知れません。『年齢に応じてできる!』と言うのが弟の弁でした。<壁打ち>をしたくて、見つけるのですが、どこにもないのです。歩いて20分ほどのところに、運動場の隅に、コートが4面あります。いつも2面ほど空いているのです。相手がいなくてはできない”テニスしたい爺“です。

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さくらんぼ

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確かに、あれは「さくらんぼ」だったと思うのです。通っていた小学校の校庭に、映写幕が張られ、よく映画会が開かれていた頃の一つの映画の中に、この「サクランボ」が出てきたのです。それは食べたことのない果物でした。あの頃は、スイカ、梨、桃、葡萄、みかん、柿、時々のバナナくらいだったでしょうか。よその家の庭先で、グミ、イチジク、木苺、いちごなどは、<無断失敬喰い>をしていたでしょうか。ごめんなさい!

映画の中の農村は、東北、多分山形県だったと思いますが、そこで栽培され、収穫されていたのが「桜桃(おうとう)」と呼ばれていた、私にとっては未知の果物でした。実に美味しそうでしたが、手に入る術を知りませんでした。ただ、『食べてみたい!』と指をくわえました。住んでいた街の目抜き通りには、今の様に「果物屋」などありませんし、八百屋の隅に、わずかに"高級そう"に置かれていただけでした。あれは、誰が食べていたのでしょうか。

「チェリー」が、日本に入ってきたのは、明治の初めだそうです。あらゆる産業分野で、《お雇い外国人》の技術者が、やって来られて、農業も工業も、欧米式なものが移入されたのですが、この「さくらんぼ」も例外ではなく、農業の振興のために栽培された様です。北海道で栽培が始まり、東北などに広まったと言われていますから、山形で正解でしょうか。

そんな高価な果実が、酒場のカウンターに置かれていて、客が、取っては食べ、取っては食べを繰り返します。家には、子育てで大変な妻と三人の子どもがいるのです。妻子たちに食べさせることを考える余裕などなかったのです。家事や育児の手伝いもしない、そんなで創作意欲はなくなっていて、やがて自死してしまう、太宰治が、その「桜桃」を食べていたのです。同名の小説に、太宰は書き残しています。

私は、初めて「サクランボ」を食べた日のことは覚えていませんが、タネが気になり、実の少ないのが、ちょっと不満でしたが、美味しかったのは事実です。アメリカ産の「チェリー」が、こちらでも山積みで売られていますが、山形や山梨で収穫されたものは、甘味と酸味が程よくて、実に美味しいのです。もう、そんな「さくらんぼ」の出荷の時期になっているのでしょうか。

山東省の出身の方が、何年か続けて、その日本産と同じ品種の「サクランボ」を持ってきてくれたのですが、今年は、どうでしょうか。最近は、会う機会がありませんから、どうかなの6月末です。

(これは「ナポレオン」と言う品種のさくらんぼです)

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やきとり

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札幌で入院生活をして、真冬の吹雪がどんなものかを、四月の半ばに経験させられたのですが、因習を感じられない開拓地の雰囲気が、札幌には、いまだに残っているのを感じました。滞在中の街中や、北海道人にお会いしてです。お会いした人たちに、『こちらには元々はどちらからいらっしゃったんですか?』とお聞きしたのですが、病院のリハビリの療法士のお一人が、『岐阜からです!』と答え、父でも先祖でもない、『私一人で学びに来て、ここで仕事を見つけたのです!』と言ってました。

みなさんから、“開けっぴろげさ”をあまり感じなかったのは、寒い冬を過ごして生きてこられたからでしょうか、“沈思黙考”で、静かな方が多かった様です。もちろん人の性格は、気象や地形位置に左右されているばかりではないのですが。ものすごく明るい方もおいででしたし、短期の滞在で感じたことに過ぎません。

6ヶ月検診に行きました帰りに、遠距離バスで、函館に行きました。広さを感じると同時に、家と家との境界線に、塀や垣根がないのが、私たちが住んで来た街との違いでした。『俺の!』という自己主張の強さのない、“拘りのない鷹揚さ”を感じて、いっぺんに北海道贔屓になってしまったのです。

それで”終の棲家(ついのすみか)“は、北海道が好いと思ったのです。そうしましたら、ニセコから来ていた病友が、『嫁の実家が土地をたくさん持ってるから、話して上げるよ!』と、移住の誘いをしてくれたのです。

ある方は、『道南の伊達市は、雪も少なく温かくて住み好いですよ!』と推薦してくれました。それで、バスの窓から、伊達市の街外れの高速道路から街並みを見ていたのです。有珠山(うすざん)の山麓が海に迫る間に、街が広がって、穏やかそうでした。でも札幌にも函館にも、けっこう距離があって、大変かなとも思ったのです。

室蘭出身の男性看護師が、『室蘭は、“やきとり”が名物なんです!』と、どこどこが美味しいと、店まで教えてくれ、故郷自慢をしていました。この“やきとり”は、鶏肉ではなく、“豚のロース肉”と玉葱の串焼きだそうです。どこかで“焼きトン”を食べたことがありますが、きっと、その室蘭名物に真似たものだったかも知れません。

でも、遠いですね。静かに老後を生きるのには、最適かも知れません。青森から、津軽海峡を命懸けで渡った人たちの”開拓者魂“、“不屈の精神”には頭が下がります。「オホーツク文化」への興味も尽きませんから、オホーツクの風に誘われてしまいそうです。

先頃のニュースで、この室蘭と東北の港町、宮古との間に、定期航路が就航したと伝えていました。10時間の所要時間で、室蘭から船内で一泊して宮古港に着くそうです。運転免許証を持たなくなった身には、船やバスや列車がいいですね。ちょっと里心がつき始めているのでしょうか。それにひきかえ家内は、こちらでの生活を満喫しています。

(室蘭港から有珠山の遠望です)

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ヒメジョオン

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上は「アカバナユウゲショウ(赤花夕化粧)」、下は「ヒメジョオン(姫女菀)」です。東広島市に咲く花です(☞HP「里山を歩こう」から)。上手な撮影技術に、写真を楽しませていただいています。こんなに多くの種類の花々が、野や里に、ひっそりと咲いているのに驚かされます。

ただし、「姫女菀」は、アメリカ原産の外来種で、旧国鉄の線路沿いに咲くので「鉄道草」とも言われ、日本全国に瞬く間に広まったそうです。小学校の登下校に、この時期に、道の脇に咲いていた花なのだそうです。”ウイキペディア"に、そう解説されていました。

小川の岸や田んぼの畦の叢(くさむら)や藪(やぶ)の中に、小さな花を見つけられると、遠写や接写をなさるのですね。大変なご苦労があるのを感じて、読者は楽しませていただいていることになります。ありがとうございます。

家内の蔵書の中に、「ファーブル昆虫記」の全集がありましたが、13回も引越ししている間に、どなたかに上げてしまって、なくなってしまいまし。 時々眺めていました。花の辞典もあるのですね。世界には、どれほどの花があるのでしょうか?

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ジャカランダ

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上は、パキスタンのイスラマバードに咲く、“ジャカランダ”と言う花です。下は、南アフリカに咲く花です。カルフォルニアやフロリダにも咲くのだそうですが、実に高貴な紫色をしています。実に綺麗な紫色で、下の写真は、宮崎県日南市に咲くジャカランダです。日本では六月に咲くそうです。

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鹿持雅澄

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私たちの住む街の「空港」は、海岸沿いにあります。そこから南の方に行ったところの海岸線が、実に美しく、広く、凪の日は静寂なのです。大陸が広大だからでしょうか、砂浜も延々と続き、圧倒されてしまうほどです。日本の千葉の「九十九里浜」を彷彿とさせるほどですが、この街の海岸線のスケールの大きさは、この街の「雷鳴」の轟の物凄さに匹敵するほど、人を圧倒させます。

山育ちの人間には、「憧れの的」でしょうか、海を見ると、"ホッ"とさせられるのです。相模の海沿いで育った「父の血」を引いているのもあるのでしょうか。それとも、引いては押してくる波頭の砕ける「汐の音」が、母親の胎内で、9ヶ月聞き続けてきた音に似ているからでしょうか、海が愛(いと)おしく感じてしまいます。

土佐の高知に行きましたとき、「室戸岬」まで、レンタカーを運転して、出掛けたことがありました。そこの海岸線も延々と続き、沖には「潮吹く鯨」は見えませんでしたが、引き込まれそうな海で、心癒されてしまいました。そこに行きます途中に、「大山岬」があって、その岬に、江戸期の万葉集の研究者の鹿持雅澄(かもちまさずみ)の歌碑がありました。

鹿持雅澄について、"人名辞典"に、「1791-1858 江戸時代後期の国学者。寛政3年4月27日生まれ。中村世潭に儒学を,宮地水渓に国学をまなぶ。土佐高知藩校教授館の写本校正係としてつとめながら,大著「万葉集古義」を完成させた。安政5年8月19日(一説に9月27日)死去。68歳。土佐出身。初名は深澄。通称は源太,藤太。号は古義軒,山斎,醜翁。姓ははじめ柳村,のち飛鳥井とも。著作はほかに「古言訳通」「万葉集紀聞」など。」とあります。

土佐藩の下級武士だった鹿持雅澄は、奥さんを高知城下に残して、「浦役人」として、10ヶ月ほど単身赴任していました。その時、妻を思いながら、数首の和歌を詠んで残しています。その一首です。

秋風の 福井の里に 妹をおきて 安芸の大山 越えがてぬかも

この「妹(いも)」とは、姉妹の妹のことではなく、「妻」のことで、「菊子」と呼ばれていました。万葉の研究者であり、歌人でもあった雅澄は、赴任地からはるかに高知城下に思いを馳せて、《妻恋の歌》を詠んだ、「愛妻家」でした。

天津にいました時に、「周恩来記念館」に行った時、やけに若い二人が多かったので、いぶかしく思っていました。中に入って分かったことは、周恩来夫妻は、若い二人にとって模範なんだそうで、この夫妻にあやかりたい二人が、結婚前に多く訪れていたわけです。周恩来や鹿持雅澄の故事から、結婚が上手くいかないご夫婦は、このお二人にあやかって欲しいものです。我らは、47年の山谷を越えてきました。

(高知県安芸地方の「室戸岬」の周辺に写真です)

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それでも

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悲惨な現実の中で、『それでも人生にyesと言おうと!』という言葉を、ビクトール・フランクルが残しています。フランクルは、ユダヤ人の精神科医で、あの悪名高い、ナチスの強制収容所から、生還した方でした。その収容中に、この言葉で、死の恐怖に怯えている仲間の間で、激励し合ったそうです。フランクルが、こんな話を残しています。

彼はヒトラーが、ウィーンに進軍してきた時、ユダヤ人であるためナチス・ドイツ政権の支配下では、医師として働きを続けることができないことが明らかでした。それで、アメリカ行きのビザを申請したのです。数年かかって、やっとビザが下りたとき、ユダヤ人に対する迫害が激しくなっていて、強制収容所への抑留は、間違いない状況になってしまったのです。

しかし、彼には年老いたご両親がいました。その二人のビザを申請することも、取得することできませんでした。彼は、アメリカ行きを迷ったのです。彼がウィーンに残ったとしても、両親を救うことなどできません。しかし、両親を置き去りにして、自分だけがアメリカに渡ることができずにいたのです。

フランクルが家に帰ってみると、父親が、「ユダヤの会堂」の破壊された瓦礫の中から拾ってきた、大理石の石片がテーブルの上に置いてありました。そこには、ヘブル語の"カフ"というアルファベットが刻まれていたのです。それは、「あなたの父と母を敬え」の最初のことば、「敬え(カベッド)」の最初の文字でした。

彼は、この文字を見た時、自分が、どうすべきかを理解するのです。両親と共に、ウィーンに残ることにしました。しかし、それは、彼自身も強制収容所に抑留されることを意味していたわけです。彼は自分の医師という立場を用いて、秘密警察官の悩みを解決し、両親の抑留を一年間伸ばすことができたのです。しかし、フランクルは、間なく両親と共に、強制収容所に抑留されてしまいます。

お父さんは、そこで肺水腫に罹って、死の床につきます。彼は医師として、父の最後の「鎮痛剤の注射」を打つことができました。父親に、それをして上げた時のことを、『私は、それ以上考えられないほど満足な気持ちであった!』と書き残しています。

一方、お母さんは、その後、アウシュビッツのガス室送りになりました。移される直前に、彼は母親に、祝福の祈りを請います。心の底からの祝福のことばを、母から最後に受けることができたのです。彼はその後の収容所生活の中で、母への感謝の思いで、心が満たされていました。
 
フランクルは奇跡的に、強制収容所の苦しみに耐えて、戦後、生き残ることができました。そこでの体験を「夜と霧」という本で証ししたのです。それは、苦しみの証ではなく、どんな悲惨な状況に置かれても、人間は、高貴に、自由に、麗しい心情を持って生きることができるのだという証しでした。

(ウイーン市の遠景です)

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甲斐犬

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この街の路上で出会う、<飼い犬>が、みんな血統書付きの様な、可愛い犬ばかりです。先日は、丸刈りにした犬が、パーマをかけたご婦人に引かれて散歩していました。暑い夏対策でしょうけど、犬って、毛を刈り込まれて喜ぶのでしょうか。何か犬らしくなくって、その犬も、何やらバツが悪そうに伏し目がちでした。

子どもの頃、父の家で飼っていたのが、<甲斐犬>でした。狩猟に使われる犬で、山の中から都会に連れて来られてしまいました。近所に養鶏所があって、そこから何度も鶏をくわえて帰って来てしまったのです。この犬が通った道に、羽が散乱していました。結局処分してしまったのです。

もう一匹は、秋田犬の雑種で、逞しくて弟が可愛がっていました。子犬時代、近所の子に石を投げられたりした経験があって、防衛本能からか、人を噛むので、この犬も処分せざるをえませんでした。少々悲しいわが家の飼い犬の歴史です。ここはマンションで、高い所は28階もありますが、多くの人が犬を、室内で飼っている様です。土を踏む事の少ない犬って、大丈夫なのでしょうか。毛はふさふさで可愛らしいのですが、ちっとも逞しくなく、番犬にはなりません。

誇り高い犬と飼い主が、自慢げに、少々上向きに歩いているのを見て、こういう時代なんだと感じ入ってしまいます。大体、番犬や狩猟犬、今では救助犬、麻薬探知犬などが、犬の本流なのではないかと思うのです。でも、孤老の愛玩用として、抱いたり、話し掛けたりして、慰めを得ている場合が多いのかも知れません。

我が家で預かっていた子が、犬を買いたがったので、子犬を頂いて来て飼った事ありました。"三日坊主"で、彼は飽きてしまって、世話などしないままでした。この犬も、病死してしまって、それ以来、犬を飼う事はしていません。別れが悲し過ぎますから。

もっと悲しい話がありますが、思い出したくない辛い経験でしたので、本欄では取り上げない事にします。この街で長く生活していて、思い出す限り、私たちが招かれたり、訪ねたりした家では、どこも犬も猫を飼っていないのです。時々、“FaceTime”を見るのですが、犬自慢や猫自慢の方が多く、その写真付きの投稿が目立っています。

(甲斐犬の子犬です)

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