生きる

 

 

生きる                          相良倫子(浦添市立港川中学校3年)

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

私は今、生きている。

私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。

私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。

ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。

私はこの瞬間を、生きている。

この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。

たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ

私の生きる、この今よ。

七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃え尽くされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手を取り合っ
て生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの
日々を。

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島
の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。

私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争
を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、
宗教を超え、あらゆる利害を越えて、平和
である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。

あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。

今を一緒に、生きているのだ。

だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだとい
うことを。

私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。

大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。

これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。

摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。

(2018年6月23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園で行われた「沖縄全戦没者追悼式」で本人の相良さんが、この詩を朗読しました ☞「琉球新報」記事の転載)

[琉球新報]倫子さんは曽祖母(ひいばあ)さんから沖縄戦の体験をよく聞かされ、平和について考える機会が多かった。「私なりに考えて、自分の命を精いっぱい輝かせて生きていくことが平和だと思った」
その今年94歳になる曾祖母さんは、沖縄戦が始まる前は理髪店で働いており、日本軍を指揮した牛島満中将の散髪をしたこともあった。
牛島中将は他人への心配りができる人だったと曾祖母さんは思っているが、倫子さんにはこんなふうに話して聞かせてくれたそうだ。
「戦争は人を鬼に変える。絶対にしてはいけない」

(沖縄県の県花の「ディゴ」です)

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チョコレート

 

 

最近、自粛していることがあります。ちょっと大げさな言い方で、申し訳ないのですが、"チョコレート"を食べるのを気を付けていて、その誘惑と闘っているところです。こちらには国産のものがあるのですが、昔、子どもの頃に、駄菓子屋で売っていた味と同じで、森永や明治のチョコレートの味を知っている者としては、一度だけ食べてから、手を引っ込めてしまうのです。

ところが、欧米系のスーパーマーケットには、有名メーカーのチョコレートが置かれていて、年々、その売り場の面積が広くなり、売られている種類も多くなってきているのです。「国慶節」の休みで、今朝は、バスに乗り継いで、アメリカ系のスーパーマーケットに行ってきました。"Earl Gray"の紅茶を買いにです。やはり、チョコレート人気ででしょうか、驚くほどの種類が、その店の棚に置かれていました。もちろん素通りでした。

日本では、森永製菓が、チョコレートを製造してから、今年で《100年》になるのだそうです。高校野球甲子園大会と同じですね。創業者の森永太一郎は、アメリカのサンフランシスコで、「伊万里焼陶器」の販売を始めたのですが、うまくいきませんでした。それで、お世話になったアメリカ人夫妻の影響で、菓子の製造をしようと、アメリカで修行して、帰国してから、東京赤坂で起業したのが、始まりでした。太一郎は、大変な苦労人だったそうです。

その太一郎が、"ミルクチョコレート"を製造販売したのが、1818年10月1日でした。今でも、このミルクチョコレートは、日本人の味覚に一番ぴったりで、スイス製もオランダ製も、そしてアメリカ製もみんな美味しいのですが、結局、『食べたいなー!』と思うのは、この"ミルクチョコレート"なのです。甘過ぎず、苦過ぎずに、ぴったりの微妙な味に作り上げられているのです。"チョコレート"と言えば、作詞が藤浦洸、作曲が万城目正の「東京キッド」の歌の歌詞の中で、歌われているのです。

歌も楽しや 東京キッド
いきでおしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある
左のポッケにゃ チュウインガム
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール

歌も楽しや 東京キッド
泣くも笑うも のんびりと
金はひとつも なくっても
フランス香水 チョコレート
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール

歌も楽しや 東京キッド
腕も自慢で のど自慢
いつもスイング ジャズの歌
おどるおどりは ジタバーク
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール

この子の右のポケットに、"チョコレート"が入っていると思っていましたが、どうも想像しているだけだった様です。"give me チョコレート世代"の自分としては、アメリカ兵に、そう言ってねだった、ほろ苦くて、恥ずかしい過去があるのです。あの味は忘れてしまいましたが、異国の空の下で、やはり食べたいのは、その"ミルクチョコレート"です。

木漏れ日

 

 

「木漏れ日」と言うのでしょうか、南側のベランダの今朝の様子です。7時現在の気温が22℃をし示しています。陽もちょっと傾いてきて、斜めに射してきつつあります。もう10月になったのですね。いよいよの秋です。今朝の「ベランダ会議」で、隣家のおばあちゃんと家内との会話は、5日間の「日本旅行」の話題だった様です。福岡と大阪を観光したそうで、街が綺麗で、落ち着いていて素敵だったそうです。好い印象を聞いて嬉しくなってきました。

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鳳仙花

 

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北原白秋の詩に、「鳳仙花」を読んだものが幾つかあります。福岡県柳川の出身の白秋は、夏咲く鳳仙花を、子どもの頃から、よく眺めたのでしょうか。また、朝鮮半島や沖縄でも咲く、この花のことを聞いていたのかも知れません。

薄らかに紅くか弱し鳳仙花人力車の輪にちるはいそがし

しみじみと涙して入る君とわれ監獄の庭の爪紅の花

鳳仙花われ礼すればむくつけき看守もうれしや目礼した

中国の新疆ウイグル自治区あたりでは、女性(ウイグル族)が、鳳仙花の花の汁に、明礬(みょうばん)を入れて、作った液体を、指の爪を染める風習があるのだそうです。そのマニュキアで染めた爪の紅が、『初雪の日まで消えなかったら、恋が成就する!』といった言い伝えがあるのだそうです(朝鮮半島で言われてるそうです)。新疆ウイグルから、韓国や沖縄に、そういった風習や遊びや文化が伝わったのでしょうか。

地理的にも近い、福岡にも、そう言った少女たちの遊びの風習が伝えられていたのかも知れません。それででしょうか、白秋が、「爪紅(つまぐれ)」といった詩を作っています。

いさかひしたるその日より
爪紅(つまぐれ)の花さきにけり
TINKA ONGO の指さきに
さびしと夏のにじむ

この詩の「TINKA ONGO」とは、小さな女性といった意味だそうです。柳川の方言では、そういうのでしょうか。家内の母が、柳川に近い、久留米の出身ですから、そう言った方言で呼んでいたのでしょうか。また、そんな少女の「爪紅("つまぐれ"とか"つまくれない"と読みます)の遊び」もしたのかも知れませんね。この「鳳仙花」が咲いて、弾けて飛んでいく種子が、あちらこちらに飛散して行くのです。この夏に咲いた花も、種子を弾き飛ばせて、来年も、あちこちに花を咲かせるのでしょう。

中国では、「指甲花」と言うそうです。あまりあちこちを私は歩き回りませんし、街中に住んでいて、水辺や側道に咲いてるのを見かけたことがないのです。ここでは、木に咲く花が多くて、それに圧倒されてしまっているのでしょうか。

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価値

 

 

人のほとんどの部分は、水分なのだと知った時、だから、私たち日本人は、産まれるとすぐに「産湯(うぶゆ)」に浸かり、よく水を飲み、お風呂や温泉に浸かりたくなったりするのかな、と思ったのです。人は水分でできていても、もう少し価値がありそうですね。イスラエル民族には、独自の人の価値を、値踏み算定する方法が定められているのです。

『なんぢの估價はかくすべしすなはち二十歳より六十歳までは男には其價を聖所のシケルに循ひて五十シケルに估り。女にはその價を三十シケルに估るべし また五歳より二十歳までは男にはその價を二十シケルに估り女には十シケルに估るべし。また一箇月より五歳までは男にはその價を銀五シケルに估り女にはその價を銀三シケルに估るべし。』

この例外規定で、『また六十歳より上は男にはその價を十五シケルに估り女には十シケルに估るべし。』と、年配者の価値が定められています。これは材質や能力によるのではなく、「労働対価」としての価値の様です。ところで、私は、とうに「六十歳」を越えてしまいましたから、成年期の、およそ三分の一になってしまい、男孫たちと比べて、彼らよりも低くなり、家内は女孫と同等なのです。

ちょっと寂しくなってしまいそうですが、それよりも、この規定に感心させられたり、納得しているのです。鏡を見て、つくづく思うのですが、髪の毛が白く薄くなり、肌のハリもなくなり、腰や膝が痛くなったりして来ていますが、このイスラエル民族には、『老人の前には起あがるべし。また老人の身を敬ひ』と命じられているのです。

私は、よく公共バスに乗るのですが、屈強な青年が、私を見ますと、起立して、自分の席を譲ってくれます。時には肩を叩いて、『どうぞ!』と言ってくれることもあります。まだ立っていても大丈夫なのですが、この方の敬意の表明に対して、感謝して座ることにしているのです。降りる時、その方がまだ乗っていましたら、会釈したり、言葉で感謝することにしています。彼らは漢人であって、ユダヤ人ではないのですが、実に《ユダヤ的》なのです。

でも人は労働力をもって、国や社会に貢献できるから、価値があるなしが決められるのでしょうか。この民族には、『あなたは高価で尊い。』と言う言葉があります。生きている限り、人は価値と尊厳があると言うのです。しかも、「高価」だと言っています。社会的身分や財産や身体状況の高低有無良不良にはよりません。

生きているだけで意味や価値があるなら、生きながらえられる日の間、今日も明日も、生き続ける義務が、人には課せられているのです。

(古代カルタゴの通化の「シケル」です)

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温かいスープ

 

 

中学校3年生の「国語」の教科書(光村図書刊)に、日本が生んだ最も優れた哲学者の一人と言われている、今道友信(いまみちとものぶ 1922~2012年)が、書き下ろした一文が掲載されています。中学校3年生が、読んで学ぶようにと心を砕いて書いたものです。著者が、フランスの大学で講師をしていた時期は、戦後ということで、つらい経験が多かったそうです。そんな中で、心温まる経験をされて、それを綴っているのです。中学を卒業して、もう何十年と経ってしまいましたが、今の中学生が学ぶ国語の教科書のページを開くことができ、そこに見付けた一文です。それをご紹介しましょう。

「温かいスープ』                今道友信

第二次世界大戦が日本の降伏によって終結したのは、一九四五年の夏であった。その前後の日本は世界の嫌われ者であった。信じがたい話かもしれないが、世界中の青年の平和なスポーツの祭典であるオリンピック大会にも、戦後しばらくは日本の参加は認められなかった。そういう国際的評価の厳しさを嘆く前に、そういう酷評を受けなければならなかった、かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなければならない。そのような状況であったから、世界の経済機構への仲間入りも許されず、日本も日本人もみじめな時代があった。そのころの体験であるが、国際性とは何かを考えさせる話があるので書き記しておきたい。

一九五七年、私はパリで大学の講師を勤めていた。しばらくはホテルにいたが、主任教授の紹介状で下宿が見つかり、訪ねあてたところ、そこの主婦は、私が日本人だと知るや、「夫の弟がベトナムで日本兵に虐殺されているので、あなた個人になんの恨みもないけれど、日本人だけはこの家に入れたくないのです。その気持ちを理解してください。」と言い、私が下宿するのを断った。しかたなく、大学が見つけてくれた貧相な部屋のホテル住まいをすることになった。

そのころの話である。私は平生は大学内の食堂でセルフサービスの定食を食べていたが、大学と方向の違う国立図書館に調べに行くと決めていた土曜は、毎晩、宿の近くの小さなレストランで夕食をとるほかなかった。その店はぜいたくではないがパリらしい雰囲気があり、席も十人そこそこしかない小さな手作りの料理の店であった。白髪の母親が台所で料理を作り、生っ粋のパリ美人という感じの娘がウェイトレスと会計を受け持ち、二人だけで切り盛りしていた。毎土曜の夕食をそこでとっていたから、二か月もすれば顔なじみになった。

若い非常勤講師の月給は安いから、月末になると外国人の私は金詰りの状態になる。そこで月末の土曜の夜は、スープもサラダも肉類もとらず、「今日は食欲がない。」などと余計なことを言ったうえで、いちばん値の張らないオムレツだけを注文して済ませた。それにはパンが一人分ついてくるのが習慣である。そういう注文が何回かあって気づいたのであろう、この若い外国生まれの学者は月末になると苦労しているのではあるまいか、と。

ある晩、また「オムレツだけ。」と言ったとき、娘さんのほうが黙ってパンを二人分添えてくれた。パンは安いから二人分食べ、勘定のときパンも一人分しか要求されないので、「パンは二人分です。」と申し出たら、人差し指をそっと唇に当て、目で笑いながら首を振り、他の客にわからないようにして一人分しか受け取らなかった。私は何か心の温まる思いで、「ありがとう。」と、かすれた声で言ってその店を出た。月末のオムレツの夜は、それ以後、いつも半額の二人前のパンがあった。

その後、何ヶ月かたった二月の寒い季節、また貧しい夜がやって来た。花のパリというけれど、北緯五十度に位置するから、わりに寒い都で、九月半ばから暖房の入るところである。冬は底冷えがする。その夜は雹が降った。私は例によって無理に明るい顔をしてオムレツだけを注文して、待つ間、本を読み始めた。店には二組の客があったが、それぞれ大きな温かそうな肉料理を食べていた。そのときである。背のやや曲がったお母さんのほうが、湯気の立つスープを持って私のテーブルに近寄り、震える手でそれを差し出しながら、小声で、「お客様の注文を取り違えて、余ってしまいました。よろしかったら召し上がってくださいませんか。」と言い、やさしい瞳でこちらを見ている。小さな店だから、今、お客の注文を取り違えたのではないことぐらい、私にはよく分かる。

こうして、目の前に、どっしりしたオニオングラタンのスープが置かれた。寒くてひもじかった私に、それはどんなにありがたかったことか。涙がスープの中に落ちるのを気取られぬよう、一さじ一さじかむようにして味わった。フランスでもつらい目に遭ったことはあるが、この人たちのさりげない親切ゆえに、私がフランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う。

国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。それは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。その典型になるのが、名もない行きずりの外国人の私に、口ごもり恥じらいながら示してくれたあの人たちの無償の愛である。求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である。そうであるとすれば、一人一人の平凡な日常の中で、それは試されているのだ。

(今のパリの裏町の風情です)

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落語一席

 

 

三遊亭円窓の噺、落語「叩き蟹」(たたきがに)

日本橋の袂にある餅屋に、子供が餅を盗もうとしたところを、そこの主人に取り押さえられてしまった。親が居たら出てくるように言っているが、誰も名乗り出ない。そこに旅人が野次馬の輪の前に出たかったので、親のふりして前に出た。折檻するのは可哀相だと掛け合うことになった。

子供の話を聞くと、子供の親は大工で、仕事場で怪我をしてそこから毒が入って身体が動かなくなってしまった。おっ母さんは子供を産んで体調崩し寝たっきりになっている。兄弟の中で年上だから近所の使いっ走りをして食いつないでいたが、その仕事もここのところ無かった。水ばかり飲んでいたが、この前を通ると美味しそうなので、つい手が出てしまった。

「親孝行でも他人の物は盗んではいけないよ」、「分かった」、  「おじさんが一緒に謝ってあげよう」。 「自分の子供は可愛いが、他人の子は憎いか?」、「けじめを付けるんだ」、「だったら、一切れ餅をあげなさい。家に持って帰れば両親は床から出て、手を合わせて感謝するよ。病気が治るかも知れない」、「そんな、坊主みたいな事はヤダね」。「では、私が勘定を払ったらお客だね」、「誰が払ったって客だ」、「では、さっさと持って来い」。 「自分が食べたくて、手を出したんじゃないから、食べたくない」、「両親と兄弟の分は後で用意する。食べなさい」、子供は3皿食べて、お土産を7皿分包ませて100文になった。しかし、その100文が無かった。そのカタ(担保)に小半刻でカニを彫って、名も告げずに立ち去った。

 駄作だと思って貰い手もいないカニを、主人は煙管で悔し紛れに甲羅を叩いた。つ・つ・つ・・・と横に這っていった。何回やっても這っていく。俺にも叩かせろと行列が出来た。一皿買って一叩き、店は大繁盛。 2年後、カニを彫った旅人が店にやってきた。百文返して、あのカニは餅屋にあげた。あのときの坊やの消息を聞いた。

「チョット、お待ち下さい。吉公(よしこう)こっちに来な」、「へ~ぃ・・・、あッ!カニのおじさん」。 「両親は元気か」、「・・・あの時、餅屋のおじさんが家に見舞いに来てくれたんです」、「私からも、礼を言うぞ」、「行くと、医者にも診せていないというので、診せるとお袋さんは直ぐ治りましたが、お父っつあんの方は手遅れでした・・・。その為、この吉公がここで修行したいと言い出して、今では一人前になって、あっしも楽が出来るようになりました。これも、みんな貴方様のお陰です」。

「お父っつあんは大工だったよね。どうして後を継がなかったんだい」、「ん、お父っつあんの死に様見ていたから・・・、今、餅屋で修行しているの。おじさん左甚五郎でしょ。お父っつあんが言っていたよ名人だって」、「どの道も同じだよ。魂を込めることだ」、「私の作った『切り餅』と『黄金餅』食べてくれない」、「いいよ。持って来な。これが『黄金餅』か。2年ぶりだな・・・。うん、旨いよ」、「嬉しいな。切り餅も食べてくれないかな。どっさり切ってきたから」、「全部は食べられないから、取りあえず、一切れ。

ん・・・、繋がっているぞ。まだ修行が足りないぞ」、「スイマセン。包丁持ってきます」。 これを聞いていたカニが、横につ・つ・つと這ってきて・・・、 「(両手の指を鋏の形にして)使ってくださいな」

(左甚五郎作の日光東照宮の「見ざる聞かざる言わざる」です)

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ゲンノショウコ

 

 

上の花ですが、「ゲンノショウコ」は知っていましたが、こんなに綺麗な花をつけるとは初めて知りました。下の花は、「カラスノゴマ」だそうです。きっと見たことがあったのでしょうけど、心にゆとりがなく、野花に関心を向けなかったので、見過ごしていたのでしょう。広島県呉市灰ヶ峰・林道~水場に咲いていて、[HP/里山を歩こう]が配信してくださいました。里にも秋がきているのでしょう。

春か秋かに、生まれ故郷に出かけて行って、渓谷の側道に咲く花に、目を向けて見たいものです。そんな時がくることを願っている、九月の末です。

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秋の陽

 

 

秋の陽を浴びて、朝顔が輝いて咲いています。やっと、涼風が吹き込んできて、ホッと一息と言った感じがしてきます。次女が検査をした結果を知らせてきました。これもホットしたのですが、生きるって、様々な問題や課題と直面しては、慌てたり、覚悟したり、任せたり、また喜んだり、悲喜交々(こみごも)、繰り返しですね。長女の主人が、酷い脱臼で、要手術です。

咲いている朝顔だって、色んな場面に出会っているのですが、何も文句を言わないで、種を蒔いてくれた主人に向かって、いえ天に向かって咲いているのでしょう。子育て中のお母さんが、今朝やって来らこられました。子どもだって、生きにくいこの世の中で、不協和音を出したり、渋ったりしたいに違いありません。子育てを終えた私たちには、過去のことが、このお母さんには今日の現実です。

子のこと、子の父親のことを思って上げて、一緒に悩んで、または泣いて上げる母と妻なのでしょうか。そして親は、<親となる>のかも知れません。<来た道>を振り返ってみて、万事有益の思いのする、秋の午後です。

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淡き香り

 

 

“プルースト効果”について、こんな記事がありました。

『交通事故で記憶喪失になった少年は、親友の名前や親すらも思い出せないことが続き、10年近く記憶が完全に回復することがありませんでした。しかし、ある日突然に記憶の一部を取り戻すことが出来たのです。そのきっかけが香りと記憶の強い関係を指し示すものでした。

それは、街で塗装作業のシンナーの香りを嗅いだ時に起こったのです。 塗装の香りから彼が思いだしたのは、プラモデル、そしてそれを作っている部屋。さらに友達の顔と連鎖的に思い出してゆき、どんな治療をしても思い出せなかった記憶が香りによって蘇ったということがありました。』

この様な記憶喪失でなくとも、ある匂い、香りを嗅いだ時に、記憶や、ある場面が蘇ってくることが、私にもあります。多くの時、それは淡いかすかな匂いや香りの場合が多いでしょうか。秋になると、決まって「金木犀」の香りがしてきて、小学校の時の通学路とか、あの頃のことが彷彿とされてくるのです。

その他にも、何かの香りがしてくると、父の家でのこと、兄弟や母のことを思い出すことがあります。秋刀魚の煙と焼く匂いは、高校の頃、ハンドボールをしていた頃の学校のグラウンドの秋の夕暮れの光景が、フーッと浮かんでくるのです。走馬灯のように、あの頃の出来事、通学路の道筋、級友たちの顔、教室の様子も思い出されてくるのです。勉強のことが思い出されないのはどうしてでしょうか。

ある匂いは、ただ遠い過去に嗅いだ記憶だけがあって、ただ懐かしくなってくることだってあります。嗅覚だけではなく、味覚も同じ、記憶を蘇らせることがあります。フランスの小説家のマルセル・プルーストが、紅茶に浸したマドレーヌを口にした時に、ふと、過ぎ去った日々を思い出したことに因んで、「プルースト効果」と呼ぶようになったそうです。

あまり拘りはない方なのですが、”アールグレイ”の紅茶は、初めて飲んだ時の香りが、何かを私の記憶の内にあったことを思い出させたのでしょうか、これを毎朝飲む習慣がついてしまいました。今、棚に買い置きがなく、ほかの紅茶で間に合わせて飲んでいるのですが、何か落ち着かないのは、その所為(せい)なのかも知れません。

この月曜日の夕方、生まれて1年の女の子が、ご両親と、わが家に来て、一緒に食事をしました。この子の頬や腕を指でつっつくと、何かとても好い気持ちになってきてしまうのです。これが好きで、時々してしまうのですが。自分の子どもたちの肌が幼子のように、柔らかかった頃を、指の記憶を蘇らせてくれるからでしょうか。

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