国慶節

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 ここ中国では、春の到来を喜ぶ「春節」、秋の国の誕生を慶ぶ「国慶節」を祝祭の日としています。

 この国と、住んでいます街、この国の人々、この町の人々の「平安」と「繁栄」と「健康」を、今朝、在華七回目の祝祭の日を迎え、心からお祈り申し上げます。

 この国の指導者のみなさん、とくに胡錦濤主席、温家宝総理、次期の重責を担う新指導部のみなさんの「平安」と「健康」とを、心から願ってお祈り申し上げます。さらに、この国で出会った友人のみなさん、学生のみなさん、教師のみなさんの「平安」と「健康」を心から祝福いたします。

 中日の間にある齟齬が正され、千数百年の友好の歴史、ことのほか「四十年の友好の努力」が、しっかりと実るように、心から祈念いたします。

(写真は、延々と続く「万里の長城」です)

南信

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 長野県の南部を「南信」と呼ぶのですが、娘夫婦が、阿南という町と飯田に、3年ほど住んでいたことがあります。この滞在中に私たちの初孫が生まれましたので、生まれ故郷、育った街、働き子育てした街、その次に懐かしいのが、この「南信」になるかも知れません。娘婿が〈JET〉の英語教師をしていた間に、何度、ここを訪ねたことでしょうか。ことのほか、孫が生まれる前後には、相互に行来をしていましたから、そうとうの頻度数になるのではないかと思われます。

 初めて訪ねた時に、町内の温泉入浴施設に連れていってもらいました。町のはずれの渓谷にそって〈かじかの湯〉があって、何ともいえないほど、ゆっくりできたのです。空気も水も空も、何ともいえなく澄んでいて、〈リ・フレッシュ〉するとは、ああいう環境の中に、自分の心と体と現実を置くことなんだということがわかったようです。長野県は山国ですから、このような温泉施設が、あちらこちらに点在していて、両親を喜ばそうとして、娘夫妻は、そこかしこに連れて行ってくれたのです。遠山郷という村には、「かぐらの湯」があって、南アルプスから流れ下る川の縁で、せせらぎの流れを聞きながら入浴でき、帰りには、土地の名物のまんじゅう屋でたべたり、、ずいぶんと贅沢な思いをしたことがありました。私の働いていました街から、2時間足らずで行くことができた至便性と家族愛とが、休みごとに、ここに行かせてくれたのだと思います。

 ある時、木曽の「妻籠の宿」を訪ね、〈満蒙開拓〉で出掛けていった人を多く輩出したので有名な〈阿智村〉に行ったことがありました。今でこそ豊かな暮らしをすることができるようになりましたが、日本が工業化する以前のこの近辺は、山地で耕作地も少なく、日本でも有数の貧しい地域でした。それで、多くの人がブラジルやアメリカ、そして満州に、新天地を求めて出ていった地域なのです。そんな昔が嘘だったように、人々は、今、平均的で落ち着いた生活を営んで、楽しく生きておいででした。

 こちらに戻るときに乗った「蘇州号」の中で出会った方が、この飯田の出身だと言っておられました。東京で学ぶために上京し、そこで就職し、東京の近郊に住んでおいでとのことでした。『実は娘夫婦が・・・』と話をしましたら、『なんか不思議な出会いですね!』と言っておいででした。今の生活の様子を、私も話したりで、短い時間でしたが、ずいぶんと打ち解けて交わりができたのです。『これから3ヶ月、中国中を旅してきます!』と言って、大きなバッグを引いて上海で下船していかれました。退職後、奥さんの許可を得て、一人旅を繰り返しているのだと言っておられました。今頃、どの辺を旅していることでしょうか。少々、難問題が起こったさなかですが、まあ旅慣れしていますし、人当たりもいいので、無事に続けておいでだろうと思います。

 わが家には、昨年遅れに手に入れた「風呂桶」があり、「和の里の湯」と名付けているのです。時々、〈温泉の素〉を入れては、『♭いい湯だな、いい湯だな、ここは中国、和の里の湯!』と歌いながら入るのですが。明日は「中秋の名月」、風呂場の小さな窓からは名月を仰げそうにありませんが、久しぶりに湯を立ててみたいなと思っております。名月が見下ろす地球は、難問題が山積していますが、月が話せるなら、『地の上に平和、感謝や赦しがありますように!』と言わせたい、「中秋節」の前日であります。

(写真上は、南信の高山に咲く「コマクサ」、下は、http://www.astroarts.jp/photo-gallery/gallery.pl/photo/5828.htmlから「新城から見た名月(昨年)」です)

たけなわの秋

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 「鈍足」とは、足が遅いことを言います。小学校でも中学校でも、「徒競走」という種目は、大体ビリかビリから二番目といったところで、クラス対抗とか、部落対抗のリレーなどがあった時、出たかったのですが、決して選ばれたことがありませんでした。ただ一度だけ、部落対抗リレーに、就学前の選手枠で出たことがありました。上の兄二人は、いつもトップに入っていたので、『弟も速いだろう!』と選ばれたのです。山の中で崖登りは、兄たちの後をついてやったことはあったのですが、平地を走ることなどしたことがなかったのです。号砲が鳴ったら、驚いたのか反対方向に走ったのか逃げたのかだったそうで、我が部落は最下位だったそうです。こういうのを、〈期待はずれ〉というのだと思います。こういう場合、悔しくって、『来年は頑張るぞ!』となるのですが、全然、そういった気分にはなれませんでした。

 それでも足は早くなかったのですが、兄たちに似て、運動神経だけはよかったようです。いろいろなスポーツをしてきましたが、一番楽しかったのは、40代だったでしょうか、上の兄が親交していた中年のおじさんたちに誘われてやった、テニスでした。春と秋には、終日のこまないときに、八ヶ岳や山中湖に出かけて、2泊3日ほどの「合宿テニス」を、毎シーズンしていました。もちろん、普段も時々やってはいたのですが、『こんなに楽しいスポーツはない!』と、新発見をしたわけです。実に楽しかったのです。楽しそうに、意気揚々と出かけている私を見ていた子どもたちが、『テニススクールに行かせて!』という風に、真似し始めたのです。下の息子は、同年代で県の2位だか3位になったのですが、そんな所で、みんなのめり込むことなく、潮が引くように、ほかのことをし始めていったようです。

 『若い時に始めていたら!』と思うこともありましたが、意外に、難しいメンタルな要素の強いスポーツで、なかなか技術的に高級なものなのです。フランスの貴族の間でに生まれたものですから、やはり紳士的な面があって、やっていると自分も紳士になったような思いにされるスポーツでした。好きになったものですから、〈すこし上手になろう!〉と思い、テニススクールにも通いました。レッスンで無理をしたのでしょうか、右足と左足の靭帯の両方を、次々に切ってしまったことがあったほどでした。踏み出しに瞬発力が要求されるので、その時に怪我をしたのです。『誰だボールをぶつけたのは?』と思ったら、怪我だったのです。結構、痛い思いをしました。

 今でも、したい気持ちがあるのですが、体育教師をしていた弟の弁ですと、『いくつになってもやれるスポーツなんだ!』ということです。最近耳にしたのは、昭仁天皇が、まだテニスをしているのだそうです。昭和8年生まれですから、御年78になられるでしょうか。驚かされた私は、『じゃあ、まだできるんだ!』と思わされたのです。オッチョコチョイの私ですので、どう再開するかを、よく考えていかないといけないと思っております。

 下手な私の相手をしてくださった兄の友人たちの中には、すでに召されたり、体を悪くされたりしている方がおいでです。大学の運動部の選手で、日本選手権のスタメンで、球技をしていた上の兄も、今は膝に問題があったり、〈腓返し(こむらがえし、足の筋肉がつる症状)〉があったりだと聞いています。いつまでも人は若く入られないのだということを、知らされております。

 でも、〈スポーツの秋〉の到来です。いろいろとしてきた私の思いが、ムラムラと沸き上がって、運動して体を動かしたくて仕方が無いのです。そのためには、普段が大切ですね。車に乗らないで、歩くことが多くなり、一生懸命に自転車にも乗ったりしたのですが、先日、自転車がとられてしまい、もっぱら歩き専門になってきています。さて、ちょっと、師範大学の構内にあるコピー屋に行ってきます。もちろん歩きとバス、そして歩きです。たけなわの秋の午前です。ではまた。

(写真は、ブログ「オーナーの写真で綴る八ヶ岳の秋」から秋の八ヶ岳の風景です)

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 そろそろ、口ずさみたくなる歌があります。子どもたちが歌っていたのか、ラジオから流れてきたのか、聞き覚えのある歌ですが。こんな歌詞の歌です。

秋はいいな 涼しくて 
お米が実るよ 果物も
山からコロコロやってくる

 史上稀な暑い夏も終わって、やっと秋になったと、日本からニュースが伝わってきます。この時期の微妙な季節の変化が、日本ほど感じられない、大陸暮らしで、7回目の秋を迎えますと、ことのほか、あの感じが懐かしいのです。もちろん華南の地でも、赤トンボが飛んでいたり、果物屋の店頭には柿や栗が並んだりしていますが、まだスイカも瓜も売られています。さすがに35度といった気温はないものの、まだ27、8度ほどは日中、ありますので、日本で感じられるのとは大きく違うのです。

 今晩も、近所からBGMが聞こえてくるのですが、その中に、日本でよく聞こえてきた「横笛」の音色が、最近、よく耳に入ってくるのです。秋の収獲を祝う祭りの時に聞こえるあの笛の音です。一瞬、『アレッ、ここは日本じゃないよね!』と思ってしまうほど、音色が似ているのに驚かされています。音色だけではなく、メロディーも、「民謡」によく似ているのです。台湾の歌手が歌い、華南でもよく歌われている歌に、「爱拼才会赢」があるのですが、これが日本の流行歌、演歌と聞き違うほど似ているのです。ですから、民謡にしろ演歌にしろ、互いに影響し合って、今日を迎えているのに違いありません。

 さて、そろそろ日本では、「柿」が美味しくなるのではないでしょうか。数ある果物の中で、一番の私の好物が、この柿なのです。〈眼がない〉というのが一番、好い言い回しでしょうか。家族で長く過ごした街の近くに、柿の産地があり、「御所柿」と言われる柿が採れるのです。天皇家や宮家に献上するので、そう呼ばれたのでしょうか。それとも奈良県御所(ごせ)特産の柿の種を移植したので、そう呼んだのでしょうか。これを箱で頂いたことがありました。流石(さすが)、極上の美味しさだったのです。そんな私ですから、一シーズンに、『お好きなので!』と言って、何箱も何箱も次々に柿をいただいてきたのです。その喜びがなくなってしまった今、寂しい思いをしているのです。こちらで売られている柿は、「御所柿」を食べて舌の肥えてしまった私には、どんなに柿好きでも食べたいと思わないのです。こちらの柿には、ほんとうに申し訳ないのですが。

 どの季節も、別け隔てなく好きな私ですが、一番好きなのは、来る季節と行く季節の変わり目の微妙な感覚を、全身で感じて楽しめるのが、最高に幸せなのです。自然界が、生きている喜びと、色合いと変化をくれるのだろうと思って、感謝でいっぱいです。華南の行く夏と来る秋の間で、生を満喫しようと思っております。それでも、何処かに美味しい柿が売ってないでしょうか?秋だから食べたいのです!

(写真は、goo辞書から「御所柿」です)

平和

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 政治以外の世界には、中国のみなさんから、尊敬を得ておられ民間人が多くいるのではないでしょうか。地方の大学や専門学校で、地道に日本語を教えておられた、現におられる先生方が多くいます。3年ほど前になるでしょうか、市内の師範大学で教えておられた先生が、3年の奉仕を終えて帰国されようとしていました。大学が用意した車で、空港に送ってもらおうとしていた時、私たちも同じ宿舎にいましたので、挨拶のために庭に出ていました。そこに、この先生の教え子たちが、20人ほどいました。その中には、半日もの時間をかけて、バスや電車で駆けつけてきた方もいたのです。もう社会人としてで活躍している彼らと、先生との別れを、はたで見ながら、『こんなに外国の学生たちに慕われているS先生、この人の果たした役割は、実にい大きい!』と思わされたのです。

 家内と私は、このような心温まる素晴らしい光景が、陽の当たらない中国の片隅、しかも、あちらこちらでみられるのだと確信したことでした。広い中国には、日本語を教えるためにおいでになった教師は、延べ人数にすると相当なものになるに違いありません。公的な招聘で赴任してきた方、個人的に奉仕されている方、様々なケースがあるのです。S先生は、私のすぐ上の兄と同じ年齢で、高等学校で英語教師をしておられ、日本語教師の資格をとられて、おいでになったと聞きました。『教室では厳しいのですが、優しい先生でした!』というのが、教え子たちから聞いた彼の印象でした。

 こういった積み重ねてきた実績が、この国の隅々にあるのではないでしょうか。消えて行ってしまったのではなく、人々の心の中に積まれているに違いありません。今、行方がどうなるのか、憂慮される重大な事態に、中日はありますが、確固たる友好の努力が、このように高く積み上げられているわけです。それは教育界だけではなく、医療や福祉事業や、さらに実業界にもあるに違いありません。ですから、両国の関係の恢復が、きっとなされると確信しているのです。

 関係恢復のために、用いられた政治家の中には、驚くような尊敬を勝ち取っていた方、高い人間的な評価を受けた方がおいででした。40年前には、お互いの間に、敬意がみられたのですが、今は、そういった高評価や尊敬を得ているリーダーがいらっしゃるのでしょうか。聞く所によりますと、当時の外務大臣・大平正芳は、涙を流すほどの真剣さで、姫外交部長(日本の外相に当たります)を動かしたと言われています。この方は、父と同じ年に生まれていて、親しみがありました。それぞれの時代に、〈用いられる人〉が必ずいるのだと思うのです。相手の立場や考え方を熟知し、自国の主張だけを押し通してしまわない交渉術を持っている方です。今も、きっと、そんな〈備えられた器〉がいるのではないでしょうか。

 私たちの近くの町に、「氷心記念館」があって、数年前に見学に行きました。この氷心は、中国で著名な、女流文学者でした。戦後、民間レベルでの中日文化交流が活発に行われていた時期に、彼女は、招かれて東京大学で特別講座を持ち、日本の文壇のそうそうたる方々との交流を持っておられたのです。日本の文壇や教育界は、彼女を極めて高く評価して交流したわけです。私の書棚には、彼女の著作が二冊ほどあります。文学の世界には、このように互いを高く評価し合い、敬意を持って交流していた過去があるのでから、こういった過去を再評価して、さらなる文化交流がなされることを切望しております。

 S先生は、私の作文指導法について、いくまいもの資料を提供していただいたことがありました。今でも、時々メールを交換しております。温厚な方で、自分のもう一人兄貴のような気持ちにさせてくださる方です。9月も下旬、お住まいのある町は、たけなわで短い秋の真っ最中でしょうか。今、チェックしている学生の作文の中に、『中日の平和を願っています!』とありました。

(写真は、氷心女史の結婚式の時のものです)

1972年

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 私の家族にとって、1972年は、特別な年でした。5月24日に、家内と私の間に、長男が誕生したのです。まだ学生のようにしか見えなかった私が、親になったのですから、歯がゆかったのと責任を負わされた重さを、複雑に実感し始めることになったのです。産科病院から退院してきて間もない晩に、消防隊員が、わが家の玄関の戸を叩いたのです。『すぐに避難して下さい。甲州街道で工事中のガス管に穴が開いて、ガスが漏れ引火の危険性があるので、すぐに!』とのことでした。すぐに長男をプラスチックの衣装ケースの中に入れ、おしめを持って、家内の手を引いて、事故現場の反対側に走って逃げたのです。もう歩けなくなった家内と長男を、義姉に車で迎えに来てもらいました。そして家内の実家に連れていってもらったのです。ほんとうに危ない所でした。

 その8月に、アメリカ人起業家の手伝いということで、中部地方の地方都市に引越したのです。長男は、まだ二ヶ月ちょっとでした。空気が変わったのか、長男はよく泣いていました。小さなアパートに住んでいたのですが、近所のお母さんたちが、何人か寄っては、しばしば私たちの部屋を見上げていました。よそから越してきた、新米の親たちを心配していたのでしょうね。どうも、訳有りの家族のようにみられていたのです。

 その翌月の9月29日に北京で、周恩来首相と姫鵬外交部長、田中角栄総理と大平正芳外務大臣との間で、「日中共同声明」が調印されたのです。これは、戦後史では、特筆すべき出来事でした。民間では、これまで20年間の交流が、両国の間でなされていたのですから、それが国レベルで友好への一歩を記したのですから、意味ある年でした。25日から中国を訪問していた田中首相を代表とする日本側と、これを迎えた周恩来首相を代表とする中国側との間で、何度も会談が行われ、「声明文」の文言の表現が調整されていきました。

 とくに田中総理が、初対面の周恩来総理に、『貴国に迷惑をかけた・・・』という言葉をかけたのです。これ通訳者から聞いた、その場の中国側の要人たちは凍りついてしまい、周総理は激怒したのです。中国語ですと、「添了麻煩(ティエン・ラ・マーファン) 」で、『女性のスカートに、うっかり水を欠けた時に、軽く詫びる言葉だ!』と言うことで、『決して受け入れることのできない謝罪だ!』という大問題に発展したのです。この「迷惑発言」について、姫外交部長と大平外相に間で話し合いが行われていきます。

 私たち日本人にとっても、この「迷惑」は、謝罪の言葉としては足りないと思います。結局、中国側の歩み寄りと、大平外相の説得によって、
  「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を
  与えた責任を痛感し、深く反省する。」
というのが最終案となり、日中共同声明に盛り込まれたのです。日本側の立場を認める、周恩来総理の智恵にみちた配慮と寛容さ、大平首相の懇親の説得と交渉、それを受け入れた姫外交部長の譲歩で、こういった「声明」が交わされたのです。後に総理大臣となる大平外相が表した、誠実で真剣な態度が、中国側から好意を得、高く評価されたと言われています。

 この調印は、日清戦争から、満州事変、中日戦争に至るまで、中国と日本の間にあった一切を払拭させたことで、ことのほか中国側の喜びの大きさは驚くほどのものだったそうです。大人同士の膝を付きあわせた会談の実りだったのです。それから6年後の1978年8月12日、北京で、「中日友好条約」が締結されるのです。

 私にとっての1972年は、長男が生まれ、私が新しい仕事に従事した年ですが、何よりも、「中日共同声明」が署名され調印された年でした。この年から40年が経ちましたが、この年のことを思い起こし、あの日のような〈膝を付き合わせた話し合い〉が、再び実現されることを、切々と願っております。40周年記念の今月29日を、周総理、姫外交部長、田中総理、大平外相の労を労い、感謝しながら、喜び祝いたかったのに、どうもそうできない情況が、残念でなりません。でも、きっと明るい将来が、中日の間にあると確信する、「秋分の日」の夕方であります。

(写真上は、毛沢東総書記、周恩来首相、田中角栄首相、下は、声明文に署名する大平正芳外相です)

満月

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今日は「秋分の日」です。少しばかり昼のほうが長いのだそうですが、24時間を昼と夜とで分けあうのですね。これから「冬至」まで、一日一日と日が短くなってくるのですが、太陽の運行とか、地球の自転とかを考えますと、エンジン機能も方向舵も持たない球体が、宙に浮いて、規則正しく運行している地球の上で、私たちは生活をしているというのは、当然でいいのか、それとも、その神秘に驚嘆すべきなのか、考えさせられてしまいます。

宇宙の広がりが天文学的な数の距離であって、しかも、その広がりが年々拡大しているのが解明されてきているのだそうです。これは小学校の「理科」を学んでから、私の関心の的なのです。何しろ、こんな重たい物体、地球にしろ太陽にしろ月にしろ、もろもろの星が、宙に浮いているという事実を、この小さな頭で理解しかねるのです。『引力によって!』という科学的な説明では納得できません。何か言い知れない力に支えられており、その均衡を保っている力があるに違いないと思われるのです。「物理学」や「天文学」や「重量の法則」などという学問の分野では、解明できない〈神秘さ〉が、私の思いを満たしてしまうのです。

何年も何年も前に、内モンゴールのフフホトという街を訪ねた時に、草原のパオに連れていってもらいました。そこで夜空の星を見上げたことがあったのです。『降る!』と表現するのが一番好い形容の草原の星に圧倒されたことを覚えています。信州の志賀高原から眺めた星も驚くほどでしたが、規模としては、大陸の夜空のパノラマは、例えようがありません。〈創造の美〉というべきでしょうか。人間の能力をはるかに凌駕していたので、自分が、どんなにチッポケに感じられたことでしょうか。自分の抱えていた問題の小ささがわかって、解放されたりもしました。

そんな神秘的な世界に目を向けると、地球なんて小さい衛星の一つであり、ここを私たちは生活の場としているのであります。そこにある「尖閣諸島」や「竹島」や「歯舞・色丹島」などが、ごく微小であることは事実です。『俺のもの!』と言い合ってる争いは、例え莫大な海底資源が、その周辺にあったとしても、取り合うのではなく、平和裡に、「共同開発」ができないのでしょうか。兄弟で、おやつをとり合って、泣かされたり泣かしたりした子供の頃を思い出して、今思うのは、『あの時、分け合ってたらよかったのに!』という思いにされます。

もう一週間ほどで、「十五夜」、「中秋の名月」です。今週、勤め先の「夕食会」があり、ごちそうになった帰りに、「月餅」を頂いて帰宅しました。デモ騒動の最中の会食でしたので、『いいのかな?』と思いながら出席し、箸を運んだのですが。そこは平和で、語らいも弾んでいました。『こんな和やかな話し合いができるはずだ!』と思わされました。月に人格があり、言葉があるなら、きっと、『そこで起こっている問題は小さいですよ。でもないがしろにしてはいけません。相手を尊びながら話し合ってごらん!』と言いたいのではないでしょうか。来週の月は「満月」です。「満月」の「満」は、「円満」の「満」なのですから。

(写真は、神戸観光壁紙写真集から「中秋の名月」です)

愛国心

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 私は、青年期に、『俺が「日本人」であること!』に、特別なこだわりを持っていました。近くにアメリカ軍の空軍基地がある街で、少年期を過ごしましたから、軍服や私服で街中を闊歩する彼らを見ていたので、格別に、そういった意識が強くなったのではないかと思っています。背が高くて、眼が青く、金髪で、栄養満点で、大きな自動車に乗っている彼らは、敗戦後の私たち日本人と比べたら、裕福で容姿もいいし、輝いているように見えました。肉なんて食べることができない時代の私たちは、ある意味で、劣等感を感じていたのだろうと思うのです。そんな彼らが、チョコレートやチューインガムを投げ、お金をばらまいていたことがありました。朝鮮戦争に駆り出され、休暇をその街でとって、また戦場に戻っていく、戦時下の若い兵士たちは、競ってそれを奪い合っている子どもたちを眺めて、声を上げて喜んで見ていました。

 そうしなければ、舶来の菓子を口にすることができないほど、物資が不足していた時代に育った私たちの世代の子どもたちの、実に惨めな過去が、そこにあって、時々思い出されるのです。中央線の引込線に、兵士たちを載せた列車が、一時停車していました。その列車の中から、同じように、クッキーや日本円を投げていました。〈一寸の虫にも五分の魂〉と言いたいのですが、空腹に負けて、拾った小学生の私は、口には甘く、腹には苦いような経験をしたのを覚えています。そんな私が、青年期を迎え、お酒を飲むことも覚え、基地の街の駅にいると、ヴェトナム戦争に従軍して、休暇中の兵士たちが〈我が物顔〉で騒いでいました。酔っていた私は、少しばかり喧嘩通でしたので、殴り合いはしませんでしたが、一触即発の場面があったのです。『ここは俺の国、俺は生粋の日本人なんだ!この国で勝手に振る舞いやがって!』という強い気持ちを、酔った勢いで、彼らにぶっつけたのです。『大学生とアメリカ兵が乱闘!』などという新聞沙汰にならなかったのは、不幸中の幸いだったのだと思います。

 そんなことがあって、私に危機を生み出す、酒もタバコも止めてしまいました。『飲み続けたら死ぬ!』、そんな思いにされたのです。そんな私に、アメリカ人起業家と一緒に働く機会がやってきたのです。母や上の兄が懇意にしていた方でした。そんな関係で、彼の事業の手伝いをし始めたのですが、私の内側にある「日本人」としての頑固な意識は、いつも彼との間に悶着と軋轢を生んだのです。彼との関係に、私の「日本精神」が邪魔だったのです。この方と八年間、一緒に働きましたが、その年月は、私のその精神を取り扱う日々だったと思います。母や兄が、仲介してくれて、関係が保たれ、結局、彼の働きを受け継ぐことになったのです。

 ところが私の家内は、「日本人」へのこだわりのない家庭で育って、子供の頃から英語を父親から学び、アメリカ人が出入りする家で育ったのです。結婚して彼女は、『何人(なにじん)なんてこだわらないで、同じ〈人〉としてみるべきだと思う!』と、よく私に言いました。そんな彼女の忠告と、八年間の私の師匠の忍耐によって、「日本精神」を征伐することができたのです。ある時、私が台湾に視察に出かけたことがありました。台南で泊めてくださった、一人の会社の社長と話をしていた時、『ここに日本人の社長がいたのですが、失敗して帰って行かれました!』と言われたのです。それで私は、『どうして失敗したのですか?』とお聞きしたのです。この方は、『彼が持っていた「日本精神」、それにこだわりすぎて、こちらの方の心をつかめなく、結局だめでした!』と答えられました。そのお話の顛末(てんまつ)が、私にはよく分かったのです。

 現在、一番問題にしなければならないのは、劣等感をウラに持っている、日本人の「優等意識」です。これこそが、国際関係の中で、問題を起こしてきている最大原因だと思います。米も食べられないで芋を喰らい、肉なんか拝んでも手に入らない中で生きていた時代を、私たちが忘れてしまっていることです。きっと中国のみなさんが危惧しているのは、「日本精神」に違いありません。それが、あの戦争に駆り立てたからです。豊かになって忘れた私たちは、再び「日本精神」に立とうとしているのです。

 今の私にも、生まれ育った日本への「愛」や「感謝」や「誇り」があります。よく考えてみますと、私が青年期に持っていた歪んだ「愛国心」とは全く違うのに気づきます。自分の国を愛するが故に、どの国の人にも「愛国心」があることを認められるのです。『二度と侵されたくない!』との中国や韓国のみなさんの切なる思いが、このところ少々本道から外れて現れてしまっているのかも知れません。『話せば分かる!』、この一手に望みを置き、四十年の双方の努力を水泡に帰さないために、テーブルに着こうではありませんか。

(写真上は、かつての空軍基地は平和利用の「公園」、下は、米軍基地の古写真です)

協力

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 井戸の中の蛙が、海を見て、その大きさに驚愕している姿を、想像できるでしょうか。浦賀にやってきた「黒光りの黒煙を吐く船」を、矢切の渡し舟が見たら、ひっくり返るように驚くことでしょうね。1853年、嘉永三年に、その船(黒船艦隊)が浦賀沖にやってきたのです。日本中がひっくり返るような出来事でした。この時、長州藩の藩黌(はんこう)、「明倫館」で学んでいた十四歳の少年・晋作は、どんなことを思ったのでしょうか。一人の日本人として、として、危機感を募らせたのではないでしょうか。1862年、晋作は藩名により、幕府使節随行員として、上海を視察します。5月から二ヶ月間のことでした。上海で見聞きしたことは、その後の彼の行動を決定的にしてしまうのです。

 一体、高杉晋作は、上海で何を見たのでしょうか。「アヘン戦争」で、イギリスに負け、植民地のような状況になった悲惨な中国、混乱した上海の様子に驚愕したのです。晋作は、このままでは、日本は中国と同じ運命をたどると思い始めます。それで帰国すると、他藩の青年藩士と共に、横浜にあった「外国人居留地」の外国人の「暗殺計画」を企てます。その計画は未遂に終わります。その後、「尊皇攘夷」のための組織作りに奔走し、今度は、横浜のイギリス公使館を焼き討ちにし、それで幕府と一戦を交える「倒幕計画」を立てるのです。焼き討ちは成功しますが、幕府と一戦交えることには失敗してしまいます。

 その後、彼は藩から暇をもらい、剃髪して、西行法師にちなんで、「東行」と名乗るのです。彼が隠遁している間、外国船が日本に近づいてきたので、打ち払いのために、長州は、下関に砲台を設けて、無差別に砲撃をします。その報復で、アメリカとフランスの艦隊が仕返しをしたのが、1863年と1964年の二度にわたって起こったのが「下関戦争」でした。圧倒的な武力の差があって、長州藩は負けてしまうのです。〈尊皇攘夷〉の運動に奔走する中、彼は、1867年5月に病死してしまいます。27歳でした。

 この8月、上海から大阪の間を就航しています「蘇州号」に乗船して帰国ました。五島列島を右に見ながら九州が見え、やがて、「関門橋」の下を通過した時に、『このあたりが、「下関戦争」が行われたのだろうか?』と思ったことでした。九州と本州をむすぶこの大橋は、150年前の騒ぎなどなかったように、泰然とし自若ていたのです。


 私たちの国、日本は、自然環境は厳しく、凶作や災害も多かったのですが、外から襲ってくる敵もなく、全般的にみますと、恵まれた国ではなかったでしょうか。豊かな自然、地味も肥え、海産物も豊かで、太平の世を、長らく過ごしてきたのです。ところが、高杉晋作が味わった「外患内憂」の幕末から、押し寄せてくる外からの怒涛のような攻勢に、飲み込まれ、転がされながら、落ち着く暇もなく、あれよあれよという間に、国が肥大化していきました。『欧米に遅れをとってはならぬ!』で、ついには軍部の暴走となって戦争に突入し、日清、日露、日中戦争、対米戦争、そして敗戦と、一気に突き進んできたのが日本だったのではないでしょうか。戦争に負けて、初めて、静まって思いを新たにすることができ、ホッとしたのが本音なのではないか、そう思っています。

 ホッとしましたら、中国で政治革命が起こり、朝鮮半島で戦争が始まり、日本の経済界は、「世界の工場」となって、未曾有の経済大国になり、生産に躍起になりました。そうした中、「ヴェトナム戦争」が起こり、経済界は、以前にまして忙しくなり、休む暇もなく経済が肥大化し、やがてバブルの破綻を経験したのです。その余韻は今日にまで及び、昔のような勢いがなくなってきているのが、日本の現状ではないでしょうか。

 それなら、これからは、虚勢を張って無理をしないで、つましく生きていったらいいのではないかと思うのです。紛争や戦争を回避して、狭い国土を耕して、農業をして、小さな幸せを楽しんで生きたらいいのです。一番は、この国土を戦場にしないことではないでしょうか。子どもたちに、また鉄砲を担がせて、戦場に出征させたりしないことです。〈昔の夢よもう一度!〉、を期待したら、あの1億の国民が悲惨を味わった時代と同じ轍を踏む事になってしまいます。私たちの課題は、自然界の異変、人口問題、食糧問題です。隣国と領土の所有権や覇権を競うことよりも、国々が協力して、この課題のために知恵を出しあって協力すべき時が来ているのですから。

(写真上は、黒船来航時の様子を描いたえ、下は、北極海の海氷分布の変化です)

この朝

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 1974年の夏に、私は、一人の同僚と韓国のソウルを訪ねました。企業視察とコンベンションへの参加のためでした。これが初めての韓国訪問でしたが、夕方になると明かりが少なく、実に薄暗い街だったのです。女性は、ほとんどがズボンを履き、地味な色彩の服を着ていました。食堂も暗くて、不衛生な感じがして、東京とは比べられない街の様子に、『朝鮮戦争の影響がまだ残ってるに違いない!』と思わさせられたのでした。夜間には灯火管制がひかれ、午後11時以降の外出の禁止令も出ていました。というのは、38度線を境に、北朝鮮との戦時下にあったからです。40年近く前のソウルは、そのような社会情況だったのです。

 私たちは、ホテルではなく、ソウルの下町にあった「ユースホステル」に宿をとり、全く読めないハングで書かれたバスの表示の中の数字の部分を頼りに、バスを利用していました。若い方には、英語が通じたのですが。訪問していた大きな会社の会議室にいた時に、『日本人が、朴大統領を銃撃した模様だ!』とのニュースが入ってきたのです。その時の、会議室内の騒然さは大変なものがありました。戦時下の隣国にいて、日本人が韓国の大統領をピストルで打ち、大統領夫人が即死されたのです。あれほどの緊張感を覚えたことは、それまでありませんでした。騒動や騒擾になって、それに巻き込まれたらいのちも危ういのではないかと感じたほどでした。

 そんな中で、銃撃犯の実体が明らかになり、〈在日朝鮮人(北朝鮮系の人物)〉だということが明らかになったのです。それで胸をなでおりしたのですが、まもなく日本では、長女が生まれようとしていましたし、家族のことを考えて、『帰れるだろうか?』と思っていましたので、ホッとしたのを覚えています。

 この一週間、この国の騒動のニュースを耳にした時、1974年のソウルでの経験が蘇ってきたのです。あの時ほどの緊張感はないのですが、世界中で起こっているデモの騒動のニュースを見てきている私は、とても心配にあってしまったのです。初めは、遊びのような軽い気持ちでデモに参加した人も多かったに違いありません。しかし、少々の怒りに,わずかな油が注がれて、収集のつかない情況になっていくような危機感を感じたのです。叫び声が上り、器物を破壊して、次々に波状攻撃のように、街の中の獲物を求めて、破壊していく大波が起こるような気がしたわけです。制御不能なうねりが人を突き動かしていくからです。

 こうやって失われていく時間や物の損失というのは、実に大きなものがあるのではないでしょうか。それよりももっと深刻なのは、傷つけられた中国のみなさんの〈尊厳〉や〈面子〉ではないでしょうか。40年間、友好の努力を重ねてきた方々の気概を、全く打ち壊してしまうのでしょうか。ということは、日本の侵略行為が、どれほどのものがあったのかということを、私たちは真摯に思い返して、中国のみなさんを理解して、行動しなければならないと思うのです。
 
 『力は弱いですけど、何かがあったら助けますから、ご連絡下さい!』とメールを打ってきてくれた卒業生がおり、メールや電話で、『大丈夫ですか!』と言って、気遣って下さり、今回のことを謝罪して下さる方々もおいでです。天津で中国語を教えてくださった先生からも、丁重な謝罪がありました。〈群集心理〉で煽られて、在華邦人や日系企業に被害が及ばないことを切望している、〈柳条湖事件81周年〉の朝であります。

(写真は、1931年9月18日、「柳条湖事件」が勃発して間もないころの現場の写真です)