.
井戸の中の蛙が、海を見て、その大きさに驚愕している姿を、想像できるでしょうか。浦賀にやってきた「黒光りの黒煙を吐く船」を、矢切の渡し舟が見たら、ひっくり返るように驚くことでしょうね。1853年、嘉永三年に、その船(黒船艦隊)が浦賀沖にやってきたのです。日本中がひっくり返るような出来事でした。この時、長州藩の藩黌(はんこう)、「明倫館」で学んでいた十四歳の少年・晋作は、どんなことを思ったのでしょうか。一人の日本人として、として、危機感を募らせたのではないでしょうか。1862年、晋作は藩名により、幕府使節随行員として、上海を視察します。5月から二ヶ月間のことでした。上海で見聞きしたことは、その後の彼の行動を決定的にしてしまうのです。
一体、高杉晋作は、上海で何を見たのでしょうか。「アヘン戦争」で、イギリスに負け、植民地のような状況になった悲惨な中国、混乱した上海の様子に驚愕したのです。晋作は、このままでは、日本は中国と同じ運命をたどると思い始めます。それで帰国すると、他藩の青年藩士と共に、横浜にあった「外国人居留地」の外国人の「暗殺計画」を企てます。その計画は未遂に終わります。その後、「尊皇攘夷」のための組織作りに奔走し、今度は、横浜のイギリス公使館を焼き討ちにし、それで幕府と一戦を交える「倒幕計画」を立てるのです。焼き討ちは成功しますが、幕府と一戦交えることには失敗してしまいます。
その後、彼は藩から暇をもらい、剃髪して、西行法師にちなんで、「東行」と名乗るのです。彼が隠遁している間、外国船が日本に近づいてきたので、打ち払いのために、長州は、下関に砲台を設けて、無差別に砲撃をします。その報復で、アメリカとフランスの艦隊が仕返しをしたのが、1863年と1964年の二度にわたって起こったのが「下関戦争」でした。圧倒的な武力の差があって、長州藩は負けてしまうのです。〈尊皇攘夷〉の運動に奔走する中、彼は、1867年5月に病死してしまいます。27歳でした。
この8月、上海から大阪の間を就航しています「蘇州号」に乗船して帰国ました。五島列島を右に見ながら九州が見え、やがて、「関門橋」の下を通過した時に、『このあたりが、「下関戦争」が行われたのだろうか?』と思ったことでした。九州と本州をむすぶこの大橋は、150年前の騒ぎなどなかったように、泰然とし自若ていたのです。
私たちの国、日本は、自然環境は厳しく、凶作や災害も多かったのですが、外から襲ってくる敵もなく、全般的にみますと、恵まれた国ではなかったでしょうか。豊かな自然、地味も肥え、海産物も豊かで、太平の世を、長らく過ごしてきたのです。ところが、高杉晋作が味わった「外患内憂」の幕末から、押し寄せてくる外からの怒涛のような攻勢に、飲み込まれ、転がされながら、落ち着く暇もなく、あれよあれよという間に、国が肥大化していきました。『欧米に遅れをとってはならぬ!』で、ついには軍部の暴走となって戦争に突入し、日清、日露、日中戦争、対米戦争、そして敗戦と、一気に突き進んできたのが日本だったのではないでしょうか。戦争に負けて、初めて、静まって思いを新たにすることができ、ホッとしたのが本音なのではないか、そう思っています。
ホッとしましたら、中国で政治革命が起こり、朝鮮半島で戦争が始まり、日本の経済界は、「世界の工場」となって、未曾有の経済大国になり、生産に躍起になりました。そうした中、「ヴェトナム戦争」が起こり、経済界は、以前にまして忙しくなり、休む暇もなく経済が肥大化し、やがてバブルの破綻を経験したのです。その余韻は今日にまで及び、昔のような勢いがなくなってきているのが、日本の現状ではないでしょうか。
それなら、これからは、虚勢を張って無理をしないで、つましく生きていったらいいのではないかと思うのです。紛争や戦争を回避して、狭い国土を耕して、農業をして、小さな幸せを楽しんで生きたらいいのです。一番は、この国土を戦場にしないことではないでしょうか。子どもたちに、また鉄砲を担がせて、戦場に出征させたりしないことです。〈昔の夢よもう一度!〉、を期待したら、あの1億の国民が悲惨を味わった時代と同じ轍を踏む事になってしまいます。私たちの課題は、自然界の異変、人口問題、食糧問題です。隣国と領土の所有権や覇権を競うことよりも、国々が協力して、この課題のために知恵を出しあって協力すべき時が来ているのですから。
(写真上は、黒船来航時の様子を描いたえ、下は、北極海の海氷分布の変化です)