NO!

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「禁忌(きんき)」という言葉があります。"デジタル金字泉"によりますと、「[名](スル)1 忌(い)み嫌って、慣習的に禁止したり避けたりすること。また、そのもの。タブー。「禁忌を破る」2 人体に悪影響を及ぼす危険がある薬剤の配合や治療法を避けて行わないようにすること。」とあります。

私は若い時に、二つの「禁忌」を心の中で誓いました。自分を滅ぼしてしまうだろう事物に、『近づかない!』と決心したのです。一つは「博打(ばくち/賭け事)」、もう一つは「麻薬」でした。ずいぶん曖昧で、いい加減で、意思も強くない人間だったのに、この「二つの禁忌事項」は、今日まで守って来れたのです。そんな弱い自分なので、褒めてあげてもいい気分でいます。

トランプとか花札とか麻雀をしていた時に、のめり込んでしまいそうな自分に気づいたのです。上の兄が、家で、友人を招いて麻雀をしていたことがありました。一人足りなくて、中学生の私を誘ったので、雀卓を囲んでジャラジャラやり始めたのです。その音と感触がなんとも言えなく誘惑的で、ゲームの内容の複雑さと面白さに引き込まれる様でした。『深みにはまりそう!』、という危機感を、なぜか突然感じて以来、どんなに級友に誘われてもしませんでした。こんなに面白いゲームは他にないのが分かって、はまり込みそうだったからです。

「ヒロポン」の怖さを、父に聞いた時に、地獄か奈落の底に、"すーっ"と吸い込まれて、落ちていく様な気持ちを疑似体験したのです。その危機感と恐怖感が、思いの中に焼き付いて以来、決して、それを手にすることがありませんでした。怪しい飲み屋で飲んでいた時も、それに手を出すことは一度もありませんでした。誘惑の機会は幾度となくありましたが、父の言葉は、強烈に、私をその誘惑から守ってくれたのです。

父の言葉から、「事の善悪に基準」を心の中に刻んだ事は、無謀な男気のあるような生き方をしたかった自分には、驚くほどの抑止力、拒否能力を培ってくれたに違いありません。聖人君子の様に生きたわけではありません。人には言えない様な、赤面の恥ずかしい事だらけ、失敗だらけの青年期でした。人には見せない心の裏に、"闇"を抱えていたのです。肺炎で死に掛けて、"すーっ"と死に誘われる、あの子どもの時と同じ様な感覚、幻覚にいくどとなく襲われながら、地獄の淵を彷徨いながら、滅びないですんだ、明確な転機が私に訪れたのです。

『日本全国に、約《七十万人》の"ギャンブル依存症"で苦しんでいる人がいる!』との統計があります。一攫千金の夢に取り憑かれ、勝負に勝ったときの感覚は、麻薬に似た様な設けた時の高揚感に似てるのでしょうか。それに捕らえられてしまって、日常の生活もままならない人が、多くおいでです。税収入を見込んだ"公営ギャンブル"の「胴元」が、地方自治体の「市」だという事は、実に皮肉な事ではないでしょうか。手ずから働いて得た収入で、その範囲内で生きる事を教えられたのは感謝でした。
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昨日今日明日

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12月19日の私たちの住んでいる街の「日の出」は6時44分、「日の入」は17時16分です。いよいよ日中の時間が短くなってきて、その頂点が、「冬至」です。引っ越してきた家は、9階建ての2階、南側も9階建てですから、夏場に比べて、太陽が昼過ぎにやっと当たり始めると言った状況なのです。

今度の家には、エレベーターがあって便利になった分、冬場の今日日、もう少し太陽が恋しい気持ちが強いのは当然でしょうか。昨日の朝は、川辺を散歩して、行きつけのスーパーの一階のケンタッキー・フライドチキンで、ベーコンと卵とレタスのサンドイッチとコーヒーで朝食を摂りました。コーヒーが、インスタントではないので、格別に美味しいのです。

家内が、同じビルの二階にある美容室で、散髪している間、大通りの交差点にある事務所に行って、公共バスの家内用のカードに、入金してきました。日本では、今頃は、クリスマスと歳末商戦の真っ最中で、賑わっていることでしょう。今年の私たちの街は、例年になく、クリスマスの雰囲気がほとんどありません。来年の「春節」前にならないと、盛り上がりが見られないで、普段通りです。

夕方は、十一人で、お弁当の夕食を摂りながら過ごしました。"牛肉飯"を、とても美味ししくいただきました。実は、家内の友人だった方ですが、日系企業の社長さんの奥さんが、ご主人が、日本の本社勤務になって帰国される時に、"炬燵(こたつ)"を置いて行ってくださったので、先週末に"客厅ketin/客間"にセットしたのです。畳の上ではないのですが、"日本情緒"が一杯になりました。

実は、"電気餅つき機"も頂いたのです。来週は、もち米を買って、お餅をつこうかと思っています。そして、お雑煮にしてもらうつもりです。ただし、わが家では"小松菜"と"三ッ葉"と"鶏肉"仕立てなのですが、青菜は、こちらにはないのです。代わりになる青菜で作ってもらうことにしています。

そんな昨日今日、そして明日の暮らしぶりです。今日の天気予報は"晴れ"とのこと、久しぶりに山に行ってみたいのですが、まだ咳が残っていて、まだ決めかねています。昨日の兄と弟からのメールで、"兄弟会"を三人で持ったと知らせてくれました。3時間も上の兄の家で、楽しく交わりをしたそうです。同じ父と母の"子"として、励まし合えて、感謝なことです。

レーザー・ビーム

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小学生の時の「夢」を実現するために、一つのことに夢中になれたのは、素晴らしいことです。それが、あの"イチロー"の活躍で分かります。アメリカは、そんな「夢」を実現させてくれる社会だということになりそうです。移民国家だからでしょうか、ピューリタンの祝福を受け継ぐ地だからでしょうか。社会が、人種の枠を設けていないから、誰でもが、実力次第で、その「夢」を実現できるのです。

この人の人間性は知りませんが、ライトの守備位置で補給したボールを、ホームを守るキャチャーのミットに目がけて、一直線で投げる「送球術」は、ただ驚くだけでした。これを、"レーザー・ビーム"と言い、よく『タッチアウト!』を取っていました。

その様な、最高のプレーをするために、妥協することなく、自己管理をし続ける"イチロー"には、誰もが脱帽させられました。今日現在でも、何時呼ばれても、守備につけて、バッターボックスに立てて、塁を窺う盗塁するための準備を、来季に向けて備えてるのだそうです。江夏も稲尾も別所も、野村も川上も落合も、凄い選手だったのですが、自己抑制をし続ける"イチロー"には、驚かされてしまいます。

自分で、『五十まで現役を続ける!』と決断してるのですから、"大リーグ"のスター選手のままでなくて、"3A"でも好いので、燃え尽きるまで野球選手を続けて欲しいのです。獅子は、老いても獅子だからです。その機会を得られる様に、心から願うのです。私の子どもたちと同じ世代の"星"であり続けて欲しいのです。

年齢とともに、肉体は、衰え、気力も失せるのですが、グラウンドで倒れるまでバットを握り続け、グローブをはめ続け、スパイクを履き続けて欲しいのです。野球少年に、どれほどの夢を与えてきたことでしょう。きっと、"終活"を考えていることでしょう。プロ野球の世界への"貢献"はもう十分です。これからは、優秀な選手が、どう終わって行くかの様子を見たいのです。

トロントの野球場で、"イチロー"のプレイを見たのは、もう随分前のことでした。大活躍の真っ最中だったのです。きっとフアンがいて、選手が大成するのでしょうけど、孤高のプレーヤーの彼も、そうだったに違いありません。

(2013年に日本プロ野球で使用された統一球です)
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爷爷

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私の父は、「鉱山技師」として、満州、京城(現在の韓国のソウル)、山形などで働いてきていました。戦時下には、軍命で、「石英」を採掘する仕事を受けて、中部山岳の山奥にいました。爆撃機の防弾ガラスを作るための「軍需工場」の場長として勤務していたのです。

額に、日の丸を染め抜いた鉢巻きをした、工場従業員の記念の集合写真が残っていました。戦時色が強くなり、増産が急務だったからでしょう、その決起の気概を、軍部に報告するための写真だったのかも知れません。採掘した石英の原石を、採掘現場から「策動(ケーブルカー)」で、トラック輸送できるところまで運び、そこから国鉄の駅で貨車に積み込み、京浜のガラス工場に搬送していたのです。私は、父と一緒に、「山手線(東京都内環状線)」に乗っていた時に、その防弾ガラスを製造していた工場のあった辺りを、父が指し示してくれたのを覚えています。山奥と東京を、何度も往復して、30代の父は、軍命を全うしていたわけです。

こちらに参りましてすぐに、ある方の案内で、この街の古代からに歴史を、文字や図で刻んだ「石板」が、街の中心を流れる川岸に、2キロメートルほど掲示されてあるのを見させてもらいました。そこには、日本軍の爆撃機の空襲で、中心街が爆撃され、多くの犠牲者があったという記事があったのです。父の採掘した原石で作られた防弾ガラスが、その爆撃機の部品の一部だったわけです。

それを知って、今更ながらに驚いたのです。南京、上海、重慶などの爆撃は知っていましたが、自分が住み始めた街も、また日本軍の攻撃を受けていたわけです。「大東亜共栄圏」、「五族協和」を旗印にして始めた戦争が残したものは、実に大きかったわけです。

父は、その時期の「軍務ダイアリー」を残していました。1944年の物も、父の机の引き出しの中にあって、その「12月17日」の欄に、「午前4時45分誕生」と、右上がりの字で書き込まれてありました。父の筆跡です。そうです、今日は私の誕生日でした。

村長さんの奥さんが、産婆をしてくれて、受けとめてくれたそうです。寒い冬の山奥の旅館の別館に、日の出の2時間以上も前に起き出して、駆け付けてくれ、お湯を薪で沸かして、産湯(うぶゆ)をつかわせてくれたのです。その村長さんの家の玄関に、幼い私の写真が、いつまでも飾られていたそうです。源氏の落ち武者の末裔(まつえい)でしょうか、"藤原姓"でした。

今日、出先で、幼い子供をあやしていたら、その子のお母さんが、『爷爷(yeye/おじいちゃん)に你好(nihao)は!』と言っていました。あの可愛い赤子が、白髪で、シワのできた「爷爷」になってしまったわけです。でも、まだ元気で、すべきことがあって、生かされている自分を感じています。弟や子どもたちから、お祝いのメールがありました。嬉しかった!

仲由

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孔子の弟子に、「子路」という人がいました。《孔門十哲》の一人で、孔子が最も愛した弟子だったそうです。その出会いの様子が、次のように伝えられています。

『「汝(なんじ)何をか好む?」と孔子が聞く。
「我、長剣(ちょうけん)を好む。」と青年は昂然(こうぜん)として言い放つ。
 孔子は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、余りに稚気(ちき)満々たる誇負(こふ)を見たからである。血色のいい・眉(まゆ)の太い・眼のはっきりした・見るからに精悍(せいかん)そうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さがおのずと現れているように思われた。(中島敦著「弟子」からの引用)』

この子路は、無頼で軽率さの見られる人だったのですが、ただ「率直」だったのが、孔子に愛された理由だったのです。直情的な性格でしたので、孔子の説く教えと、自分とのギャプの大きさに、弟子になったばかりの頃は苦しみながら、教えを受け入れていったと言われています。年齢差は、<九歳>だったそうです(私とアメリカ人の師と同じでした)が、「人間」として抜きん出ていた孔子に、子路は男惚れてしまうのです。実年齢さには、はるかに及ばない「人間の差」に、子路は圧倒されて、「師」のそばで死ぬまで過ごすことに徹したのです。

この子路について、中島敦の「弟子」に、次のような箇所があります。

『師の言に従って己(おのれ)を抑(おさ)え、とにもかくにも形に就こうとしたのは、親に対する態度においてだった。孔子の門に入って以来、乱暴者の子路が急に親孝行になったという親戚(しんせき)中の評判である。褒(ほめ)られて子路は変な気がした。親孝行どころか、嘘(うそ)ばかりついているような気がして仕方が無いからである。我儘(わがまま)を云って親を手古摺(てこず)らせていた頃ころの方が、どう考えても正直だったのだ。今の自分の偽りに喜ばされている親達が少々情無くも思われる。こまかい心理分析家(ぶんせきか)ではないけれども、極めて正直な人間だったので、こんな事にも気が付くのである。ずっと後年になって、ある時突然親の老いたことに気が付き、己の幼かった頃の両親の元気な姿を思出したら、急に泪(なみだ)が出て来た。その時以来、子路の親孝行は無類(むるい)の献身的(けんしんてき)なものとなるのだが、とにかく、それまでの彼の俄(にわか)孝行はこんな工合ぐあいであった。』

この子路は、大変な親孝行だったそうです。百里も離れたところに住む叔母のところに行って、米をもらい、それを背負って家に持ち帰って、両親に食べさせたほどでした。それで中国の「二十四孝(ここには本名の"仲由"で出ています)」の一人に数えられている人です。

今日日、世界中で「老人問題」が注目されていて、ここ中国も同じです。こちらには、2億4000万人以上の老齢者がいて、「行方不明者」や「孤独死」や「虐待」の問題が多く、ニュースで取り上げられています。 私自身も老齢に達していますので、他人事ではありません。ある人が、「人は生きて来た様に、老いを迎え、死を迎えるのだ!』と言っていました。

百まで生きようと、私は公言し、決心しているのですが、ちょっと決心が揺らいでしまいそうです。でも 人の「齢(よわい)」を決めるのは、命の付与者のみですね。それなら、一日一日を、生かされている思いで、気張らずに、素直に生きていきたいものです。

(米を背負う「子路(仲由)」の像です)
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小さな朝顔

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今朝のベランダで、小さく遠慮がちに咲いた「朝顔」を見つけました。この夏、娘の婚礼で留守をしてる間も、水やりのない間間も、じっと耐えて、命を繋いでいた朝顔が、12月15日にも開きました。葉は落ち、蔓も枯れてしまったのに、這い上がる様に、咲いてくれました。こんな風に生きられたら好いですね。午前10時のベランダの寒暖計は、9℃、今年の冬で一番寒い朝です。
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もうすぐ

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《新しい年への期待感》が、子どもの頃にありました。『来年こそは、ボク、がんばるぞ!』という気持ちを、心の中から湧き立たせていたのです。そう言った思いを、まだ持たせてくれた年齢と時代だったのかも知れません。晴れ着を買ってもらい、新しい履物、下駄だったでしょうか。正月の朝に、それを着たり履いたりして、カラコロと音を響かせながら外出したのです。

「お正月(東くめの作詞、滝廉太郎の作曲)」も、年の暮れになると、よく歌ったり、聞こえてきました。

もういくつねると お正月
お正月には 凧(たこ)あげて
こまをまわして 遊びましょう
はやく来い来い お正月

もういくつねると お正月
お正月には まりついて
おいばねついて 遊びましょう
はやく来い来い お正月

指折りをして見たり、暦を見たりして、消去法で残りの日を数えていました。「お年玉」をもらえるのも楽しみだったからでしょうね。母は出雲、父は横須賀の出身でしたが、親戚に行く様なことは、冠婚葬祭以外にはなかったので、「お年玉」は、父からもらう以外なかったのです。

暮れになると、母は、何時もに増して忙しくしていて、片付けや掃除、正月の準備に余念がありませんでした。それは、新しい年を迎える興奮が、家にも近隣にも、国中にあったのでしょうか。街中の店は、「お歳暮(おせいぼ)」や年末商品を、賑やかに売り出していました。家に「杵(きね)」が残っていましたから、記憶はないのですが幼い日には、家で「餅搗き(もち つき)」をしていたのでしょう。いつも米屋さんに、正月用の餅をお願いしていました。

その餅が届くと、切りやすい硬さになるまで待っていた父が、実に几帳面(きちょうめん)」な性格でしたから、竹の定規を当てて、実に正確に同じ形に切って、餅箱に揃えて入れていました。それを正月には、父が、一人一人に『いくつ喰う?』と聞いて、七輪の炭火の網に載せて焼いてくれるのです。

それを、何か調味になるものを加えたのでしょう("味の素"はまだなかったので)醤油味で、鶏肉と小松菜の具で、母が作った雑煮の鍋に入れて、しばらく煮て、椀(わん)にとってくれました。暮れに買い出しに行って、せっせと母が作り置きしていた「御節(おせち)」が供されていました。ごまめ、黒豆、きんとん、きんぴら、なます、昆布巻、蓮根、牛蒡(ごぼう)や蒟蒻(こんにゃく)や椎茸(しいたけ)や里芋の煮物などなどに、市販の伊達巻、紅白の蒲鉾、ハム、酢ダコなどが、三段や平の「重箱」や大皿に、きちんと入っていました。

若い頃にやめて酒を飲まなかった父が、正月だけ、「葡萄酒」を飲み、顔をほのかに赤くしていたのが印象的です。子どもにも、少し味あわせてくれたでしょうか。和やかな「団欒(だんらん)」が、拳骨親爺と優しいお袋の家庭にありました。この童謡のように、凧も上げたり、駒を回したり、カルタや福笑いといったゲームもしました。

姉や妹がいたら違っていたのでしょうけど、喧嘩に明け暮れた男兄弟四人でしたが、「良質の思い出」もありました。そんな家庭で育ったことを思い返して、感謝しています。家内が、『餅を搗こうかしら?』と言っています。「臼(うす)」はないのですが、駐在員の方が置いていってくれた「餅つき機」があるからです。小松菜は、「江戸風の雑煮」には欠かせないのですが、こちらにはないのです。もうすぐ、ですね。
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二つの駅

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この二葉の写真は、二つの駅の写真です。とても似ているのにお気づきでしょう。上の写真は、中国の遼寧省の省都・瀋陽にある「沈阳站/瀋陽駅)」で、下の写真は、「東京駅」です。似ているのは偶然ではなく、両駅ともに同じ設計者によって建てられているのです。日本統治下にあった時期に、ここは「奉天(ほうてん)」と呼ばれていて、「南満州鉄道」の本社が置かれていたそうです。その主要駅でした。

郷愁を感じられるのでしょうか、中国のみなさんの寛容さでしょうか、建て替える時に、忌まわしい過去を捨て去らないで、同じ様な形で、今も残されてあるのです。歴史に刻まれたものを大事にされているのでしょうか。大戦末期に、米軍機の空襲で、日本は焼土と化したのですが、京都や奈良の歴史的な文物や遺跡を避けたと言われています。そこには、古い中国の「洛陽」の街に模した、古い街並みや建物が残されていて、今、中国から多くのみなさんが、観光においでだと聞いています。

私の父は、その青年期に、この瀋陽駅を利用したのでしょう。生きていたら、懐かしく往時を思い出すことでしょう。何時か訪ねたいと思いながら、なかなか、その機会がありません。こちらにいる間、訪ねてみたいものです。
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口撃

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これは山梨県甲州市、旧塩山市の松里の農家の晩秋の光景を撮った写真です(岩波家)。「甲州百匁柿」の皮をを剥いて、天日干しにして作る「枯露柿(ころがき/干し柿)」です。まるでカーテンの様に、簾(すだれ)のように見えます。秋が深まるにつけ、秋空や冬空に映えて、なんとも言えないほど日本の農村特有の情緒です。

家内の好物ですが、よくできた干し柿は、目が飛び出るほどの値がつき、庶民の口には、なかなか入らなくなってきているのです。この干し柿の製造行程の途中で、商品になるのを、「あんぽ柿」と言って出荷され、高級料亭のデザートとして出るのだそうです。市販されているのは、小振りの渋柿から作っている様です。

数日前に、このアパートの入り口で、百匁柿と同じ形状の小振りの柿が、『甘いよ!』と売っていて、喜んで買って帰りました。生柿の好きな私ですから、早速洗って包丁で皮を向いて食べたのです。歯ごたえがあって、とんがった部分は甘くて美味しかったのですが、ヘタの近くの部分は、結構きつく<渋み>が残っていて、口中に広がってしまいました。もうがっかりでした。こちらのみなさんは、柔らかくなるまで待って食べる様です。

中国の柿は、渋柿が多く、平べったい「富有柿」の様な形状のものでも、渋いものが売られていて、注意しないと、<渋み>で口撃されてしまうのです。でも、今年もたくさん柿を食べました。まだ売っていますので、見つけようと思っています。こちらでは、上下に潰して作った干し柿はありますが、なぜか家内は欲しがらないのです。芸術品の様な、日本の「枯露柿」を知っているからでしょうか。
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タバコ

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映画には、「功罪」があります。《娯楽》と言う面では、ただ面白く興味深く、夢を見ている様な経験ができます。自分ではできないことを、俳優が、自分に代わって、痛快に、手際よく悪者を打ち滅ぼしてくれるのです。子どもの頃に観た東映の時代劇映画で、奉行所から役人が、悪者を召し取りに駆けつける場面で、思わず手を叩いて応援していたのを、昨日の様に覚えています。

裕次郎が、長い脚を下の方から映された映像が、スクリーンいっぱいに映されて、ほんとうにカッコよかったのです。外国映画では、まるでそこに、旅行で出かけているような錯覚さえ感じてしまいました。ジェームス・デーンの左手のー人差し指と中指の間に、タバコが挟んであって、それを口にもって行き、煙を吐いている様子は、とても美味しそうでした。こう言うのを、《疑似体験》とか《代替体験》とでも言うのでしょうか。

私は、映画を観て、タバコを吸い出したのではないのです。もう小学生の頃から、タバコをくわえていたのです。前にも書いたのですが、父は、喫煙家で、<煙草盆>を持っていて、家の畳の上に、常に置いました。そこから煙草、マッチをとって、吸い始め、灰を灰皿に入れていたのです。家にいて、庭で草取りをしてると、『準、一本点けてくれ!』と言うので、私は、父の様なしかめっ面で煙草をくわえ、マッチを擦って火をつけて、庭にいる父に渡したのです。小学生の時でした。一口が、二口に、三口になって、とうとう煙草の味を覚えてしまったのです。

でも、その悪習慣を、25歳でやめることができました。お酒も、ついでにやめれたのです。それまで、ほろ苦い日々が、私にもあったわけです。交番の前に来ると、わざと煙を、高く吐き出して通るのです。決まって、呼び止められるわけです。『君、幾つだ?煙草を吸っていいのか!』と言われるので、ポケットから《学生証》をおもむろに出して見せるのです。お巡りさんの困った顔が見たくて、何度もかやったことがありました。

6月31日は、「世界禁煙デー」だったそうですね。《百害あって一利なし》、まさにその通りです。入院中、カップラーメンを何度かくださった方が、2カートンのタバコを持って入院してきたそうです。『院内でタバコを吸ってるのを見つけたら、即退院!』と言う、高校並の規律があって、看護師さんに退院まで預けて、その決まりを守っていました。彼は、『今度こそ禁煙します!』と宣言して、家に帰って行きましたが、どっちを続けているか、ちょっと心配している、年の暮れです。
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