一寸

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年の暮れに、 まだ若かった頃に「煽(おだ)てられ話」を一つ。父の親戚筋の家に遊びに行くと<中村錦之助 (後の萬屋錦之助)> 、高校の頃は<山内賢>、社会に出ると<渡瀬恒彦>や<中条きよし>、そんな映画俳優や歌手に似てると煽てられていました。渡瀬恒彦や中条きよしという芸能人は、知りませんでした。別に、どうでも好いと思って聞き流していたからです。

その後、この知らなかった二人の若い頃の写真を見る機会がありました。それで驚いたのです。そっくりだと言われましたから、何十年も経ってから、昨年だったでしょうか、『では!』と言う事で調べてみたわけです。<渡瀬恒彦>は、渡哲也の弟で、同年齢でした。彼の映画は観たことがありませんが、テレビの警察物に出ていて、何度か見ました。

また、ダメ男を主人公に、「うそ」という歌謡曲を歌っていたと聞いていましたが、 『噓だろう!』と思って、<中条きよし>も調べてみたのです。ところが、ネットで検索したのは、この二人の若い時の写真で、『これって俺の?』と思うほどに似ていたので驚いたわけです。

あれほどニヒルだったり、ニヤケた顔ではないと思うのですが、ここに掲出したものです。 自分が認めるのですから、似てるのかも知れません。自分の顔は、好きではありませんでした。頭の格好も声も好きではなかったのです。顔は整形すれば変わるのですが、そんなことは男のすることではないので、いじりませんでした。ただ声は変わると期待して、多摩川の流れの瀬音のする岸に立って、大声を出して、喉を潰そうと実行したのですが、しゃがれ声になっても、また元に戻ってしまいました。

でも、私の愛読書に、「あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのち(身長)を少しでも延ばすことができますか。」とあります。それを読んでから、父と母の全てを受け継いで生まれてきた私は、自分の身長も、目が一重か二重か、福耳か狼耳か、面長か丸顔か、何もかもありのままの自分を受け入れなければならないということを知ったのです。もちろん気質や性格もです。

どうにもならないことを嫌っても、変えようと願っても、仕方がないのに、そうしようと、結構、人は悩むのです。変えられるのは、生活態度や性格の好くない点や、価値観、死生観などです。それで方向転換して、人への悪い態度を改めようと決めたのです。生意気なのもいけないと気づいて変えたいと思いました。諦めが早かったのですが、忍耐強く頑張ろうとしました。短気だったので、一呼吸二呼吸置くことにしたのです。失敗しながらも、少しは好くなってきたかな、どうかなと言ったところです。

《自分は自分》、好いも悪いも、全てを認め、受け入れ、そして自分を愛することができたらいいですね。"一寸(3.03cm)"でも前進できたら、努力途中ででも、人生を卒業できそうです。年をとると頑固になり、切れやすいと思われていますが、《例外》になってみたいものです。2017年も、そろそろ行こうとしています。反省ばかりなので、「煽てられ話」を。
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出会い

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皇后の美智子さまには、そばでお世話をされた方が何人かおいででした。その中に、神谷美恵子さんがいました。この方は、精神医学の医者で、ハンセン氏病患者の島、「長島愛生園」で、青年期に奉仕をされ、後に、そこで精神科医長をされています。「生きがいについて」と言う著書も表しておられ、皇太子妃として過ごされる美智子さまのお話の相手をされ、適切な助言を、神谷美恵子さんが話されていたそうです。

いわゆる「平民」から、皇太子妃として嫁がれたので、皇族や爵位を持つ人たちから、それに迎合するマスコミから、《手酷い扱い(「いじめ」でした)》 を受けますが、美智子さまをかばったのは、昭和天皇だったそうです。何よりも旧習にとらわれずに明仁皇太子が、愛し支えたのだそうです。その苦しみを理解し、適切な助けを神谷美恵子さんから受けられたのです。

雲上人の別世界の<針の筵(はりにむしろ)>の様な上で、よく耐えられたというのが、美智子さまの凄さなのでしょう。私の家内なら、『何言ってんのよ。おとといおいで!』と言えたかも知れないのですが、流産、失声症などの精神的な苦痛を経験されて、よく皇太子妃、皇后として、今日まで過ごしてこられています。

どこの王妃や大統領夫人よりも、優れた気品を身に付けておいでで、実に楚々とし、また華々しくもあります。この美智子さまのそばで、お世話をした方に、もうお一人いました。東宮女官として、天皇家に30年もの間仕えた和辻雅子さんです。ご主人が亡くなった後、1979年に、宮内庁からの要請で、その任に就かれたのです。とくに美智子さまの信頼が厚かったそうで、その働きをとても喜ばれたそうです。
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この雅子さんのご主人、和辻夏彦さん(哲学者の和辻哲郎の長男)と、私は知り合いでした。「道徳研修会」が、高野山で持たれた時に、事務方の仕事でご一緒したのです。宿坊の 近くの茶所の「胡麻豆腐」が好きで、その会期中に何度もご馳走になったのです。それ以降、その職場を退職し、都内の学校で働き、アメリカ人起業家の助手になってから、ご自分が教壇に立っていた大学や、法人の監査をしていた私立高校を紹介してくれて、東京に戻って来る様に勧めてくれたのです。

この人なりに私の将来を、実の息子の様に案じてくれたのです。それ以降、忙しさにかまけて、恩義を忘れて疎遠になってしまったのは、申し訳なかったなと思って反省しております。また残された奥様が、そんな大切なご用をされていたのを知らなかったのです。中国に住むことなど、あの頃は思いもしなかったのですけれど、不思議な今があります。好い出会いがあったことを思い返して感謝しております。

(若かりし日の美智子さまと、和辻家のあった藤沢の鵠沼海岸です)
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キャル

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1910年代のアメリカ西海岸の一つの家庭に起こった出来事です。その父親が、カルフォルニア州サリナスの農場で、手広く農業をしていました。東部から移って来た彼には、男の子が二人あります。出来の好い兄を溺愛し、ひねくれ者の弟・キャルを疎んじている、そんな父子家庭が舞台でした。お母さんは、すでに亡くなっていると、子どもたちは聞かされて育ちます。ところが弟は、どこかで生きているということを漏れ聞いて、捜すのです。

自分の街の駅から無賃乗車をして、そこから離れた港町に、キャルは降り立ちます。場末の飲み屋を経営している女性を見つけ出して、尾行を続けます。彼女を問いただすのですが、相手にしてもらえません。確証を得られないまま、仕方なく家に帰るのです。そしてお父さんに、お母さんの事を問うのですが、相手にされません。ところが、お父さんの友人の街の保安官が、キャルに、両親の結婚写真を見せてしまうにです。それを見たキャルは、訪ねた女性が、自分の母親だと確信するのです。

その頃、お父さんは、収穫したレタスを、氷で冷蔵して、東部の市場に貨車を借り切って送ろうとするのです。ところが、雪崩が起きて、貨車が途中で停車し、レタスが腐ってしまいます。お父さんは、大損をしてしまいます。弟は、そのお父さんを助けようとするにです。ヨーロッパ情勢は戦争が起こる兆候が見られるとの情報を得て、高騰するであろう「大豆」を栽培すれば、儲けられるという話をキャルは聞きます。その資金の調達を、再び港町に行って、自分の母であることを認めさせた上で、お母さんから借りるのです。そして大豆栽培を開始します。

間もなく第一次世界大戦が勃発し、栽培し収穫した大豆を売ると、お父さんの損失を、穴埋めできるほどの十分な収入を得られたのです。しかし、戦争を利用して多額の金を手にしたキャルを、お父さんは厳しく叱ってしまいます。差し出したお金を受け取らなかったのです。父を憎く思ったキャルは、兄にも憎しみを向け、港町の母親のもとに兄を、強引に連れて行きます。
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死んだと聞かされていたお母さんが生きていて、しかも自分の思い描いていた理想の母親像と違ったお母さんと、電撃的に出会って、兄は半狂乱の様になり、大きな衝撃を受けてしまうのです。そして嫌っていた戦争に、自ら志願して欧州の戦場に征ってしまいます。その兄息子を見て、お父さんは脳溢血で倒れてしまうのです。

父の愛を受けずに育ったキャルを、兄のガールフレンドが、『キャルを愛してあげて!そうでないと彼は一生ダメになってしまうから!』と、お父さんに執り成しをするのです。お父さんは、それに応え、キャルを受け入れ、看護師を追い返し、自分の看護をキャルに任せるのです。辛い経験をしながら、キャルは、父の愛を、遂に獲得するのです。こういった話です。

これは、ジョン・スタインベックの原作、エリヤ・カザン監督制作の映画、「エデンの東」です。キャルのお兄さんが、哀れでした。出来の好い息子なのに、母や弟をありのままでに愛せなかったからです。自分と違っている弟を認められなかったのです。母の現実を受け止められませんでした。欧州の戦線に、街の駅から列車に乗って出征する時、窓ガラスに頭をぶつけて割ってしまい、傷を負って血を流すお兄さんの様子は、まるで「死」を象徴するかの様で、画面に釘付けにされて、まだ中学生の私には衝撃的でした。

壊れた家庭の悲劇をスクリーンに見て、恵まれない家庭で育った父と母を、やっと理解できる年齢になりつつあった年頃でした。私たちの両親は、ハンディーがありながら、精一杯、私たちを育ててくれたのです。養育放棄をしませんでした。義務教育だけで終わっていても当然なのに、大学にまで学かせてくれたのです。『後は自分で生きていけ!』、これが父でした。今や、兄弟四人、子育てや仕事といった社会的な責任を果たし終え、静かな余生を送っています。もう少し、私にはすべきことがありそうです。父と母への感謝は尽きません。

(カルフォルニアにサクラメント近郊の農場です)
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25日の朝顔

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昨日今日と、こちらは暖かいのです。昨日は23℃もあったですし、今日も15℃ほどあります。それで、ベランダの手すりの朝顔が、少し開きかけています。開くには、気温が足りないかも知れませんね。もう一つ蕾があるのですが、どうでしょうか開いてくれたら大喜びなのですが。先ほど久しぶりに、散歩してきました。吹く風は冷たいようです。
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来福

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夕べは咳がひどくて寝眠れないほどでした。ウトウトとすると咳が出て、そうすると痰までが出てくるほどで、《泣きたいほど》でした。今朝起きて、着替えをしたのです。何と、昨日取り入れた靴下(黒と白の格子模様)の中に、《蜂(大型ですから"スズメバチ"でしょうか)》がいて、左足の親指の付け根を、嫌という程に刺されてしまったのです。すぐに、"ムヒ"を塗ったのですが、まだ痛みが取れません。

これを、まさに「泣きっ面に蜂」と言うのでしょう。子どもの頃に、蜂の巣を突っついて刺された事が何度かありましたが、ずいぶん久し振りで、中国に来て経験するとは思いもしませんでした。前に住んでいた小区の5階の家の外壁に、スズメバチの巣を見つけ、2回も落とした事がありましたが、 昨日は、<年の瀬>なのに、23℃も気温があったからでしょうか、蜂の巣と似た白黒で、柔らかな靴下を巣と勘違いしたのか、「かくれんぼ」をしていて、入ったのか、災難でした。どこか近くに巣がありそうですね。

「転んでもただでは起きない」で、中国では、「泣きっ面に蜂」とか「弱り目にたたり目」を何というか調べて見ました。"屋漏更糟连夜雨(雨漏りしてるのに連夜の雨)"、"船迟又被打头风(船が遅れてるのに向かい風が吹いている)"、"祸不单行(禍<わざわい>が重なってやってくる)"と辞書にありました。あいにく中国人の友人に聞いて確かめていません。家内が、干した 洗濯物を取り入れる時は、注意深く点検 していますが、雑な私はしないのです。

でも、人生、風邪や蜂に刺される事、雨や嵐の日ばかりではありません。今まで、治らなかった風邪や引かなかった痛み、止まなかった強雨も大嵐もないのですから。「災い転じて福となす(禍に遭ってもいつか祝福に変わる時が来る)」のです。中国語では"转祸为福zhanhuowei"で、意味は同じです。今日も暖かで、「小春日和(こはるびより)」ですね。
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手児奈

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私の最初に勤めた職場の母胎が、都内の市ヶ谷の駅のそばにありました。週一で、八王子から電車で、ここに出掛けて、新聞の一つの覧を担当してさせてもらっていたのです。その機関誌の編集をしていた方が、千葉県の市川から通っておいででした。お寺の住職をしながら勤務されていて、若い私を誘っては、神楽坂などの料理屋で、お酒をご馳走してくださったのです。とても好い人でした。

万葉集に、「真間の手児奈(ままのてこな)」のことが歌われています。

葛飾の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
(現代語訳:葛飾の真間の井を見ると、立ちならして水を汲んだであろう手児名が偲ばれる。)

語り伝えられている「手児奈」の物語りは、次の様です。

 むかしむかしの、ずうっとむかしのことです。真間のあたりは、じめじめした低い土地で、菖蒲(しょうぶ)や葦(あし)がいっぱいにはえていました。そして、真間山のすぐ下まで海が入りこんでいて、その入江には、舟のつく港があったということです。
 そのころは、このあたりの井戸水は塩けをふくんでいて、飲み水にすることができないので困っていました。ところが、たった一つだけ、「真間の井」とよばれる井戸からは、きれいな水がこんこんと湧き出していました。だから、この里に住んでいる人びとは、この井戸に水をくみに集まりましたので、井戸のまわりは、いつも、にぎやかな話し声や笑い声がしていたといいます。
 この、水くみに集まる人びとの中で、とくべつに目立って美しい「手児奈」という娘がいました。手児奈は、青い襟(えり)のついた、麻の粗末な着物をきて、髪もとかさなければ、履物もはかないのに、上品で、満月のように輝いた顔は、都の、どんなに着かざった姫よりも、清く、美しく見えました。
 井戸に集まった娘たちは、水をくむのを待つ間に、そばの「鏡が池」に顔や姿を写して見ますが、その娘たちも、口をそろえて手児奈の美しさをほめました。
「手児奈が通る道の葦はね、手児奈の裸足(はだし)や、白い手に傷がつかないようにと、葉を片方しか出さないということだよ。」
「そうだろう。心のないアシでさえ、手児奈を美しいと思うのだね。」
 手児奈の噂(うわさ)はつぎつぎと伝えられて、真間の台地におかれた国の役所にも広まっていったのです。そして、里の若者だけでなく、国府の役人や、都からの旅人までやって来ては、
「手児奈よ、どうかわたしの妻になってくれないか。美しい着物も、髪にかざる玉も思いのままじゃ。」
「いや、わしのむすこの嫁にきてくれ。」
「わたしなら、おまえをしあわせにしてあげられる。洗い物など、もう、おまえにはさせまい。」
「手児奈よ、わしといっしょに都で暮らそうぞ。」
などと、結婚をせまりました。その様子は、夏の虫が明かりをしたって集まるようだとか、舟が港に先をあらそってはいってくるようだったということです。
 手児奈は、どんな申し出もことわりました。そのために、手児奈のことを思って病気になるものや、兄と弟がみにくいけんかを起こすものもおりました。それをみた手児奈は、
「わたしの心は、いくらでも分けることはできます。でも、わたしの体は一つしかありません。もし、わたしがどなたかのお嫁さんになれば、ほかの人たちを不幸にしてしまうでしょう。ああ、わたしはどうしたらいいのでしょうか。」
と言いながら、真間の井戸からあふれて流れる小川にそって、とぼとぼと川下へ向かって歩きました。手児奈の涙も小川に落ちて流れていきました。
 手児奈が真間の入江まできたとき、ちょうどまっ赤な夕日が海に落ちようとしていました。それを見て、
「どうせ長くもない一生です。わたしさえいなければ、けんかもなくなるでしょう。あの夕日のように、わたしも海へはいってしまいましょう。」
と、そのまま海へはいってしまったのです。
追いかけてきた男たちは、
「ああ、わたしたちが手児奈を苦しめてしまった。もっと、手児奈の気持ちを考えてあげればよかったのに。」
と思いましたが、もう、どうしようもありません。
 翌日、浜にうちあげられた手児奈のなきがらを、かわいそうに思った里人は、井戸のそばに手厚くほうむりました。
 手児奈が水くみをしたという「真間の井」は、手児奈霊堂の道をへだてた向かいにある「亀井院」というお寺の庭に残っています。(市川市ホームページから)

この「亀井院」の住職が、この人だったのです。一度も、そこを訪ねる事がなかったのですが、「万葉の代(よ)」の人々は去り、景観は変わっても、語り伝えられた物語は、人から人へと残されているのです。

(市川市の市花の「バラ」です)
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自分で考えよ!

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今日は、12月23日、日本では「天皇誕生日」の祭日です。今上(きんじょう)天皇の明仁さまは、84歳になられました。ある国会議員が、自分の信念ででしょうか、「天皇がいること」や「天皇制度」について随分辛辣で不遜なことを語っていました。私は、 「大英帝国」に「王さま」がいる様に、日本にも「天皇」がいらっしゃることに感謝しているのです。

殊の外、明仁さまは、人格的にも優れていらっしゃると、聞き及んでいるからです。戦後間もなく、学習院中等科に、一人のアメリカ人の女性教師が招聘されました。父君(昭和天皇)が、『明仁の教育にアメリカ人教師をつけたいのです。』との願いが汲まれて、1946年(昭和21年)に、エリザベス・ヴァイニング夫人が招聘されたのです。日本主義の教育ではなく、アメリカに見られる「人格教育」を願ったからだったのでしょう。

夫人は、最初の英語の授業で、"You named Jimmy!"と明仁さまに言うと、『私はプリンスです。』と少年明仁さまは答えたそうです。でも夫人は、『確かにあなたは明仁親王です。でもこのクラスの中では、あなたは"ジミー"です。』と答えられたのです。米国ペンシルベニア州生まれの"ベス(エリザベスの略愛称)"は、「質素・誠実・平等」を掲げ、「平和主義」の精神を持った教師でした。夫人は、明仁さまが、《一人の人》であることを教え、誰にでも同じ様に接して欲しかったのでしょう。

同級生が、後になって、『先生は「人間はみんな平等」だと始終、おっしゃっていました。ほかの生徒たちにも英語名をつけ、殿下を『ジミー』と呼んだのも、平等の考えからだったと思います。優等生も劣等生も分け隔てなく可愛がっていました。』と、その教室でのことを語っています。

夫人は、1950年(昭和25年)10月に帰国するのですが、その学習院最後の授業で、次の様に板書しています。
 
"Think for yourself!(自分で考えよ!)"

明仁さまは、公式の席上、お話をなさる時、侍従の作った原稿を読まないのだそうです。ご自分で考えて作られた文章を使われるのです。これも、『人はロボットではありません。自分の意思を持ち、それに従い行動しなさい!』と、ヴァイニング夫人が教えていたからだったのでしょう。学校でだけではなく、夫人は、個人的な「家庭教師」でもあったのですから、随分とアメリカの"クエーカー"の精神的影響を、明仁さまはお受けになっていらっしゃるのです。

多感で、何でも吸収し、人としての基礎づくりの中学生の時期に、 ヴァイニング夫人から、家庭と教室で受けた公私に亘る薫陶(くんとう)は大きかったのだろうと思われます。間もなく退位され、ご子息に譲位されようとしています。皇太子さまが、『外務省にいたら、初の女性事務次官になれた方でした!』と言われたほどの雅子さまの支えで、その重責を、十二分に果たせる様に、願っております。

(学習院のヴァイニング夫人の教室、夫人の左側に少年明仁さまがいます)
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冬至

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今日は、「冬至」でした。そいえば、今日の日没は早かったでしょうか。「南瓜」を食べて、「柚子湯」につかった日々を思い起こしています。いよいよ「太陽の復活」、「夏至」まで、日一日と日が長くなっていきます。みなさまの健康を願っております。
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怒り

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自分が欠点だらけでいけないのに、『どうも父の血を引いてしまったようで・・・』と言い訳していた時期がありました。自分が《短気》なのを、父親のせいにして、父親に恥をかかせてしまったていたのです。少なくとも、人は、l「成人映画」が観られる《18歳》になったら、「選挙権」のある《二十歳(はたち)》を過ぎたら、もうしっかり自分の責任で生きなければならないのです。

「日本アンガーマネジメント協会」という団体があるそうです。怒りやすく、激しやすい人に、<講習>を受けてもらって、その悪癖を矯正する講座を開いているのです。また、<企業研修>も行っているそうです。そして、この数年、この協会で、「アンガーマネジメント大賞2017」という賞を、アンケート調査で決めて、表彰しているそうです。この"アンガーマネジメント"とは、「怒りの感情と上手に付き合う(怒りの管理)」と訳されていて、1970年代に、アメリカで始まった働きです。

さて、2017年、「上手に怒りの感情をコントロール・対応したと思う有名人」は次の人たちです。
第1位 松山千春氏(歌手、俳優)
第2位 村田諒太氏(プロボクサー)
第3位 市川海老蔵氏(歌舞伎役者)
第4位 桐生祥秀氏(陸上選手)
第5位 バナナマン氏(お笑い芸人)

松山千春は、飛行機のトラブルで、離陸時間が遅れた時に、自分の持ち歌を、機長の許可を得て歌って、乗客のイライラの解消をしました。また、ボクサーの村田諒太は、勝ち試合を、審判の判定で負けを喫したのです。このことに、『第三者が判断すること。僕自身が勝敗について言うのは違う。』と冷静に受け止めていました。そのことが、半年後の再試合でと言いますが、""圧倒的勝利をして、タイトルを奪還したのです。怒りとの付き合い方が、抜群でした。

私の愛読書に、『怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。』とあります。いやー、すごい挑戦です。怒りを爆発させてしまったことが、若かりしころに、何度かある自分には、耳と心が痛いのです。家内が、『最近は、怒らなくなった様ね!』と言いますが、"怒りのマグマ"がくすぶっていそうで、まだまだ安心できません。もし怒り始めたら、"九九"をやるか、"食べた物"を順次思い出してみたら好いかも知れません。

でも、根本的には、"心根"を変えていかなければならないのでしょう。自分が怒られる対象なのに、怒られないで、赦されている事を思い出すのが好いのでしょう。そうしたら《心の勇士》になれるかも知れません。

(昨日食べたのがすき焼きでした)
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入院

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今年の二月に、栃木の友人の家にお邪魔していて、帰る前の晩、階段を降りてて踏み外して、転げ落ちて、したたか左の肩を床に打ち付けてしまいました。翌朝、その友人に成田までのリムジンバスの発着所に送ってもらい、中国の街に、痛いまま戻ったのです。でも日が経つに従って、肩の痛みが増していきました。それで、市内の病院で、"CT"を撮影してもらいましたが、骨折ではないとの事でした。

それでも痛みは増すばかりでした。それで肩の打撲について、ネットで検索していたら、「腱板断裂」かも知れないと思い、探し当てた札幌の病院に、メールで、症状を伝えたところ、主治医から、『"MRI"を撮って送ってください!』とのことでした。それで、その病院で撮影していただき、メールに添付して送信したのです。そのフィルムを見た医者は、『腱板断裂ですから、早めにどこかの整形外科で手術が必要です!』と返信があったのです。

それで、そこまで親切にしてくださったので、中国から見た日本の街は、どこの街も同じ位置でしたから、難なく、"ネット環境"で診断を下し、返信してくれた医者に診察と手術をお任せしようと決めたのです。それで、4月12日に、"北帰行(!?)"をし、北海道札幌に参りました。

ある新聞記事に、「北げる」という言葉が出ていました。五味康祐が、そういった表現をしたそうで、「逃げる」を、そう表記しているのです。『通常、人は南から北に逃げるのだ!』そうで、だから「北げる」で好いのだそうです。

「北」は、「敗北」の「北」。「北」という漢字のルーツ(字源)は、背を向けてはなれる、すなわち、負けて「逃げる」ということのようです。
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.後漢時代、紀元100年ころつくられた中国最古の体系的字書『説文解字(せつもんかいじ)』には、「乖(そむ)くなり。二人相背(あいそむ)くに从(したが)う」と書いてある。・・・じつはこれ、二人の人が背中を向け合って立っているところを描いた文字なのだ。背を向けて乖離(かいり)する(はなれる)——これは「逃げる」ということにほかならない。つまり「敗北」とは、(戦いに)敗れて逃げるということなのだ。(「不思議な漢字―意外と知らない日本語の謎(志田唯史・文春文庫+PLUS)」)
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「北」の漢字の成り立ち・由来
会意文字です。2人の人が背を向けて「そむく・にげる」を意味します。
また、人は明るい南面を好むが、そのとき背にする方角「きた」を意味する「北」という漢字が成り立ちました。(「漢字の成り立ち・由来辞典」より)

私は、決して、「北げる(逃げる)」ために札幌に行ったのではなく、そこは親切さにほだされ、その病院に入院して分かった事ですが、同じように「腱板断裂」で手術をしてもらった患者が、常時3、40名も入院していたので、執刀医で院長の医師の腕が優れており、看護もリハビリテーションも素晴らしかったからです。《中国から来た日本人の患者》である私に、病院規定の例外で、本院にい続けさせてくれて(本来なら分院に転院させられるのですが)、リハビリに専念させていただいたのです。

4月12日初診、14日手術、5月19日退院、<35日間>の入院生活を過ごしたのです。こちらに戻ってから、友人たちが探してくれた「市立医院」のリハビリテーション科でリハビリを受けました。今日、12月20日、術後8ヶ月が過ぎ、ほとんど支障なく左腕を使える様に快復しております。北国の秋を感じさせる8月には、《3ヶ月検診》に、家内を伴って、札幌、そして知人のいる函館に行って参りました。

入院中の病友が、どれほどいたでしょうか。「相憐れむ」病人同士、励まし合いながら、過ごした日々が懐かしく思い出されます。『ニセコに住んだらいい。親戚に土地を分けてもらうように言うから来てください!』と勧めてくれた方、カップラーメンの夜食を分けてくれた方、饅頭や北海道銘菓、手作りの菓子、飲み物を下さった方々、本を見せてくれた方、病室のトラブルを抱えて苦しんでいた方、手術をした後にリハビリのミスで出戻った方、"オホーツク文化"があった事を分かち合ってくれた方、みんなとよく話し合ったのです。そんな病友たちがいました。

毎朝、コーヒールームにいる私に『おはようございます!』と挨拶して北海道新聞、日経新聞を手渡してくださった警備員の方、『何でも言ってください!』、『男同志、体を洗いますので!』と言ってくれた男性看護師、美味しい処を教えてくれた看護師、育った家庭環境を話してくれた看護師、etcでした。

『北は<敗北>の北!』では、決してない事を知ったのです。今年、北海道フアンになり、北海道人が好きになりました。若かりし頃の"同級生+女友達"の出身地だったのも思い出させられたりでした。『伊達市は、住み良いですよ!』と移住の勧めをしてくれた病友もいました。ある方には、自分の人生の転機を話したりした事もありました。みなさんが無事に、新しい年を迎えられます様に願いつつ。

(今年"35日間"入院していた病室です)
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