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深川の採茶庵(さいとあん/門弟の杉山杉風の別荘)、ここが芭蕉の奥州路への出立地でした。それまで住んでいた庵は、人に譲ってしまい、その採茶庵を仮寓にし、そこで奥州路への旅の思案に暮れていたそうです。そこから隅田川を舟で登って、日光街道第一の宿場の千住で舟を降り、日光街道を奥州路に歩み出したのです。
曾良を伴った芭蕉は、第一日目を、「粕壁(いまの春日部です)」に泊まっています。なお旅中の記録は、芭蕉が曾良に任せて「奥の細道」をたどって行ったのです。旅行記を記すにあたって、第1泊目を、画期的な「旅行記」を記すのに、そのほうが読者受けをする地名だったのでしょうか、芭蕉は、「草加」にするように、曾良に言ったのだそうです。
「奥の細道」の「奥」は、古来、「みちのく(道の奥)」と呼ばれていましたが、律令制下では、「東山道」で「陸奥国(むつのくに)」だったのです。明治以降は、「東北地方」と言うようになり、東北六県(福島、宮城、山形、秋田、岩手、青森)たようです。この旅行は、地方の藩の実情を偵察させられた隠密旅行だったと言う説もありますが、旅を愛した西行法師や李白や杜甫に倣いたかったでしょう。
行程の中には、名勝も多くありましたし、お弟子さんたちがいたこともあって、約150日の日数を要した旅だったのです。間々田宿に泊まっています。そこから、西に逸れて、壬生を経て、栃木に寄ります。そこに、「煙立つ」と、平安の世に詠まれた「室の八島(大神神社/木花咲耶姫〈このはなさくやひめ〉が祀られているそうです)」があるのです。寄り道をしてでも、どうしても芭蕉が訪ねたかった名跡だったからです。
今では、栃木市惣社町と呼ばれ、下野の国庁跡が近くにあって、律令制下の佇まいを、田畠の中に残しています。
糸遊に結ひつきたるけぶりかな
と芭蕉が詠んでいます。境内に泉があり、何時も煙のように靄か水蒸気がが立ち上る様子があって、それで、そう詠まれたようです(この煙について神道では別の言い伝えがあるようです)。昨春、隣のご夫妻がお連れくださって、ここを訪ねたのです。下野国では最も有名な地なのですが、句心のない私には、ただの池にしか見えませんでしたが、三百数十年前の芭蕉の訪問を想像してみました。
芭蕉の旅行記、「奥の細道」を、中学に入学して最初の授業で、高等部の国語教師から、実に〈特講のようにして学んだのです。古文など学んだことがなかった12才の少年に、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ老をむかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。」と、元禄2年(1689年)の「弥生も末の七日、3月27日、弟子の曾良を伴い、旅に出立して、元禄15年に、書物として刊行した古典でした。
もう大人になったような思いが溢れて、身震いするような感動を覚えたのです。250年も前になる、松尾芭蕉が、47才の頃に書き記した書なのです。今でも、暗記した序文を諳んじることができるのです。その旅で立ち寄った街、栃木に住むことになった今になって、思いを新たにしているのです。
伊賀国阿拝郡、伊賀上野の出で、江戸で名だたる俳諧師であった芭蕉は、江戸での生活の初期には、神田川の河岸工事に携わる人足衆の帳簿づけなどで生活を支えていたようです。また弟子の中には、藩主や武士、商いの大家の主人などがいて、やがてそのお弟子たちに支えられていたのです。
中国古代の詩人、李白や杜甫の感化が大きく、人生の最後に、この人たちの足跡を追うような気持ちで、庵を出たわけです。旅を住処として、仏僧の装束で、主に歩行で旅をし、時には馬上の人となって、険しい山坂を越え、人を、古跡を訪ねた、厳しい旅程だったのでしょう。
芭蕉の俳句は、思いの内から生み出された句を、書き留めたのですが、そのまま完成させたわけではなく、何度も何度も書き直し、描き改めていたそうです。ですから即興俳諧師ではなく、言葉や状況や時を、沈思黙考し、推敲を重ねて詠んだ人だったのです。そうしながら十七文字に、思いを込めたことになります。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
『人生は旅であって、人は旅人(過客)だ!』、と言うことを理解するには、12才は若過ぎたのですが、今は、過客であることを認めますし、道半ばの《On the way》にありますが、間もなく、ゴールに至るのではないかと感じています。当時の平均寿命が、どれほどだったでしょうか、芭蕉は病を得て、大坂で、50才で亡くなっています。生かされて栃木の今に、神の導きを深く思い、感謝の思いがあふれてきます。
(“ウイキベディア”による芭蕉です)
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