父や母や兄弟たちに

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     武島羽衣の作詞、田中穂積に作曲の「美しき天然」は、子どもの頃に、耳に馴染んだ一曲でした。武島羽衣の夫人はクリスチャンで、その影響を受けたのでしょうか、自然界にかんじられる天然の「神の御手」、「神のたくみ」、「神の力」、「神の御業」と、歌い込んでいるのです。

1 空にさえずる 鳥の声
峯より落つる 滝の音
大波小波 鞺鞳(とうとう)と
響き絶えせぬ 海の音
聞けや人々 面白き
此(こ)の天然の 音楽を
調べ自在に 弾き給(たも)う
神の御手(おんて)の 尊しや

2 春は桜の あや衣(ごろも)
秋は紅葉の 唐錦(からにしき)
夏は涼しき 月の絹
冬は真白き 雪の布
見よや人々 美しき
この天然の 織物を
手際(てぎわ)見事(みごと)に 織りたもう
神のたくみの 尊しや

3 うす墨ひける 四方(よも)の山
くれない匂う 横がすみ
海辺はるかに うち続く
青松白砂(せいしょうはくさ)の 美しさ
見よや人々 たぐいなき
この天然の うつしえを
筆も及ばず かきたもう
神の力の 尊しや

4 朝(あした)に起る 雲の殿
夕べにかかる 虹の橋
晴れたる空を 見渡せば
青天井に 似たるかな
仰げ人々 珍らしき
此の天然の 建築を
かく広大に たてたもう
神の御業(みわざ)の 尊し

 「ジンタ」と呼ばれた、市井(しせい)の音楽隊がありました。鐘や太鼓やクラリネット(トランぺットやサキソフォンもあったでしょうか)や三味線などを演奏しながら、派手な色の和装の装いと化粧で、賑やかに街中の道を練り歩くので、「チンドン屋」と呼ばれ、子どもたちは後にくっついて歩いたのです。その時の演奏曲目が、この「美しき天然」でした。歌詞は後から知って、曲だけが耳に残っています。

 「鳴り物入り」の小音楽隊が、開店やお祝い事を知らせるチラシ、ビラを配りながらの賑やかに、晴れやかに動き回る広告塔だったのです。テレビもインターネットもない時代、日本中の街中で活動していたのです。

 また、ヨウヨウ釣り、わた飴、鼈甲飴(べっこうあめ)、たい焼き、イカ焼きなどがおいしかったのです。住んでいた街の神社の祭礼の日の沿道に、たくさんの屋台や簡易店が出て、暗くなると、カーバイトのガスを燃やして灯す仄暗(ほのぐら)さの中に、なんとも言えないガスの臭いが立ち込めていました。幼い日のザワザワした原風景とでも言えるでしょうか。

 さらに、紙芝居のおじさんが、夕方になるとやって来て、五円や十円を握り締め、木箱から水飴、おじさんの汚れた親指の爪で半分に切った梅ビショ付きふ煎餅、型抜き飴などを買って、食べながら冒険活劇の紙芝居を見たのです。貸本屋も街中にあったり、「冒険王」、「小学◯年生」、「赤胴鈴之助」、「木刀くん」などという少年雑誌も、酒屋や電気屋の家の友だちが買うとと、遊びに行って読ませてもらったのです。

 そういった昭和期の文化的な背景の中で、それらを全身で吸収しながら大きくなったのを感じずにはいられません。目をつむると、

♯ 幼い頃から、今日までの数えきれない夢がある、ユーメがある ♭

という歌の一節が口から突いて出てきます。夢ばかりではなく、思い出になった出来事が溢れているのです。父の肩車、抱きすくめられ、ホッペホッペよの頬や顎の髭の剃り跡の感触が思い出させられます。兄弟で山奥の家からサーカース見物に連れ出してくれたテントの中にも、そのジンタが流れていました。あの賑わいは湧いて溢れるほどでした。

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 兄弟の中から一人連れ出されて観劇し、帰り道で食べさせてもらったかき氷、葡萄、桃などが美味しかった思い出があります。渋谷だったかにあった高級レストランで、ロシア料理の仔牛の肉のシチュウと黒パンを食べさせてもらって、こんなに美味いものがあるかと思わされ、おふくろのあじにまさるおさらに、頬が落ちそうになったでした。

 ケーキや鰻やドライアイス入りで満員電車で持ち帰ってくれたソフトクリーム、薄皮まんじゅう、餡蜜、笹子名物の笹子餅、崎陽軒のシュウマイなど、セッセと持ち帰っては、『喰え!』と嬉しそうに言っては、四人を眺めていた父の顔を思い出します。

 母手作りの、肉屋で牛をひいてもらったミンチで、みじん切りしたタマネギやニンジンで焼いてくれたハンバーグ、揚げてくれた豚カツ、中華麺を油であげて切り身の豚肉やエビや白菜やニンジンなどで片栗粉でとろみの効いた餡かけをかけた堅焼きそば、出雲の宍道湖のシジミで育った母が作ってくれたシジミの味噌汁。父の手作りの、火鉢でお玉に入れたザラメの砂糖を煮溶かし重曹で膨らませてくれたカルメ焼き、正月用の餅の端切れを細かく切って乾燥させて保存して油で揚げてくれた揚げ餅、胃袋で感じた二親の愛の数々です。

♭ ああだれにも故郷が、ふるさとがあ〜る ♯

 微熱や咳で学校に行けないない日々、兄弟たちは学校に行き、自分だけで母親を独占できたのです。まったく甘やかしてくれました。『準ちゃんが女の子だったらよかったのに!』と言ってくれたことがあったのです。

母が体調不良になると、よく助けたからです。脚がスラッとしているとかで、肺炎に再発で死ぬことを恐れた母が、バカ息子をほめてくれたり、なだめすかしてくれました。すっかりマザコンが出来上がったのでしょうか。

 何よりも、その母の信仰を、父も四人の子も継承できて、同じキリスト信仰を持つことができたことは特筆すべき一家の祝福なのです。男5人を相手に格闘した、母の年月だったに違いありません。自分にために何度学校に呼び出された母だったことでしょうか。胃袋だけではなく、家族の一人一人の心の深みにまで母の存在は、実に大きく及んだのです。

 人を恨んだり悪口を言うのを聞いたことがありません。聖書を読み、讃美歌を歌い、日曜日の礼拝を守り、週日のや聖研や祈り会にも集い、宣教師さんに感謝を表し、隣人にイエスさまの救いを伝え、献金をしていたのです。子どもの日に出会った父である神さまと、その御子のキリストなるイエスさまに、召されるまで忠実さを示した母でした。「◯町小町の色黒のお転婆」だったと、母の従姉妹に聞きました。そんな母、父、兄たち、弟に感謝している自分です。

(“ウイキペディア”による赤富士、大自然です)

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天なるふるさとへの思いに

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 一度訪ねたくて、果たせなかった街があります。それは、かつて長安とよばれていた、現在の陝西省の省都の西安です。大黄河に流域にあって、そこは周、漢、隋、唐などの時代の首都で、多くの日本の仏僧や留学生が、東シナ海を渡って出かけたこともあって馴染み深い中国の街なのです。

 中学の修学旅行で訪ねたことがある、京都の正倉院と関わりのある、「絹の道」と呼ばれた、「シルクロード」の拠点です。NHKが長い年月をかけて取材をして、このヨーロッパとアジアを結んで、交易や文化や情報を伝えた道を取材した番組がありました。空撮をした番組で、天空からの映像に驚かされ、夢も浪漫も運んだ道だった様です。

 阿倍仲麻呂が、500人以上の遣唐留学生の一人として、19才で出かけ、73才で亡くなるまで、その生涯を送った街でもあります。唐の都で、故郷の平城京、奈良の都を懐かしんで詠んだ、あまりにも有名な和歌があります。

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる三笠の山に出でし月かも

 留学生であった仲麻呂は、玄宗皇帝に仕えたのです。「科挙」と言われる高級官僚の登用試験、そのエリートとなる登竜門の「進士科」に合格し、その優秀さによって、玄宗皇帝に厚遇された人でした。詩作の才能も問われた試験だった様で、その文学的な素養があったからでしょうか、李白や王維といった唐の詩人たちとも交わりがあったと言われています。奈良の都、平城京に住んで、そこから眺めていたのが、三笠山です。

 仲麻呂は、高級官僚の立場にありながらも、故郷への思いが強かったのですが、なかなか玄宗の許可がおりずにいました。やっとのことで遣唐使船に乗り込みましたが、東シナ海で、天候不良の嵐にあって、ヴェトナムに漂着してしまいます。そこから長安に戻って、生涯を終えるのです。

 異国の地で、故郷回帰の思いを持ちながら過ごす思いは強いのでしょう。思い出すのは、室生犀星が詠んだ詩です。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

 陸続きの金沢を、東京にあって思う、犀星の思いと重なって、仲麻呂の歌も切々として悲しいものがあります。ここから200キロほどの所に、自分のふるさとがあります。6才で家族で離れた地ですが、兄たちや弟と過ごした思い出が残っています。でも故郷への追慕の思いはないのです。ただ二親と兄弟たちの家族こそが、自分の「ふるさと」なのかも知れません。

 犀星は、金沢と東京を、仲麻呂は、奈良と長安を思い比べているのでしょう。聖書の「ヘブル人への手紙」に次の様にあります。

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『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル11章13~16節)』

 ヘブル人の族長のアブラハムは、生まれ故郷のカルデアのウルの生まれ故郷と、「天の故郷」を思っているのです。そこは、「さらにすぐれた故郷」であったので、ウルには帰ろうとしませんでした。アブラハムは、神さまの用意された「天の故郷」に、「あこがれていたのです」、と、「ヘブル人に手紙」の著者は語ります。自分の憧れのふるさとも、この「天」にあります。

(“ウイキペディア”の阿倍仲麻呂、“いらすとや”に古時計です)

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列に並んでも並ばなくても

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 中国で、電車やバスで、中程度の移動を何度もしました。上海やアモイなどを訪ねた時の駅舎もバスターミナルも、巨大で驚かされたのです。大きな街から四方八方に路線が広がり、中都市に行くと小さなターミナルがあり、さらに田舎に行きますと終点には、バイタクがいて、もっと田舎に行くことができたのです。とても合理的な輸送環境でした。

 どこで電車やバスを待っていても、列はできていますが、日本の様ではないのです。少しでも並ぶ間隔が空いていると、スルリと入り込んできて平気でいるのです。ドアが開くと、列が崩れて、われ先に入り込んでいきます。下車の人にお構いなく乗り込んでいくのが通常見られる光景なのです。

 まず日本に見られる様な整列乗車の方が、世界では珍しいのではないでしょうか。では、日本人は、どうしてこれができるのでしょうか。社会心理学者の山岸俊雄氏(北大・社会心理学者)は、『何故に日本人は列に並べるのか?』と言うと、これを「制度的信頼」の差であると説明します。

 『私たちが並ぶのは、隣の人を愛しているからではありません。「電車は必ず来るし、全員乗れる」という資源の安定性。「割り込んだら駅員や周囲に注意される」という周囲の目。この2つがあるからです。これを「安心社会」と呼びます。』と評しておいでです。

 安心とは逆に、列の先に死があった、ナチスの収容所行きの列車に乗り込む列、強制的に並べさせられた列がありました。虚弱な老人や子どもは「死」へ、使えそうな者には「生」が振り分けられたために、列に並ばされたです。無邪気に並ぶ子どもたちの様子が映った動画を見たことがあります。何と 残酷なことかと思わされたのです。

 屠場(ほふりば)に引かれていく牛が、列の先に、死の匂いを感じるのでしょうか、なかなか進まないで拒んでいる様な場面も見たことがあります。それとは逆に、羊は、死を察知することがなく、戸惑うことも拒絶することもなく、ただメイメイと従順に並んで進んでいたのです。

 日本人の私たちは、並んで秩序を守る様に、子どもの頃から要求されてきたと思います。『前へならえ!』、『気をつけ!』、『休め!』などの号令で、そうする様に教育、訓練されてきました。列を乱して、自由にしていた次女が、『〇〇さん!』と先生に注意されていたのを見聞きしたことがあります。強制力への無邪気な反抗だったのでしょうか。自由でいたかったのでしょうか。

 私の家内は、保母をしたのです。クラスごとに発表会があり、あるクラスを、一つの整えられた集団に作り上げて、乱れることのない様に統率されていたそうで、高い評価を受けたそうです。ところが家内のクラスは、自由に楽しそうに動いていて、幼子らしく行動をできる様にしていたので、統率できていない指導だと言われたそうです。軍隊の兵士の様な園児と、幼子らしく動くクラスと、どちらが素晴らしいでしょうか。

 わが子が、そう言った生き方ができるのを、私は『いいな!』と思って眺めていたのです。幼稚園の年齢の子が、先生の号令で、和を乱さないでいられる方こそが、おかしいと思っていたからです。次女のいる所から列が乱れていたのです。親は子に似るにでしょうか、『〇〇!』と、担任や隣の組の担任にまで、よく私も注意されたのです。

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 一億人の日本人を、号令一つで、同じ方向に向かせて、戦争に突入していった過去を思うと、ちょっと怖くなってしまうのです。『お前、日本人だろう!』と言われて、何も反対できない一億の固まりにされて、雪崩の様に崩れ落ちて敗戦、戦争が終結したのではないでしょうか。

 長男は、アメリカの高校と大学に行って学んだのです。その最終場面が、大学の卒業式でした。家内と2人で、彼の7年間の締めくくりの日に、その式に同席したのです。みんなガウンを着て、帽子をかぶって式に臨んでいましたが、卒業生が身動きもしないでいる日本の卒業式とは違って、思い思いに、そこに集まっていました。後ろの方では風船を膨らませて、それを空に向けてあげて、吹く風になびかせていたり、ザワザワしていました。でもフィリピンの大統領夫人の祝辞に、耳を傾けていた後の、そうした行動でした。

 みんなが一つになっていますが、個性的に、そこにいたのです。乱していたり、反抗していたのではなく、自由さや個性が、そこにあったのでしょう。思い想いに一人一人が生きていこうとする姿が見られて、アメリカらしさを感じたのです。

 日本人であって、その括りの中にいても、自分の生まれた国に拘り続けないで、もっと世界に通用して欲しいと、子どもたちに願っていました。多民族国家の中に、4人が、上の兄に倣ってでしょうか、出て行きました。どこへ行っても日本人に変わりがないのですが、自分たちと違った歴史性や文化や在り方に理解があったことは、良かったと思っています。

 それでも味噌汁も飲みますし、お握りも食べ、煎餅もかじる4人だったのです。日本人であることを失ったのでも、捨てたのでもなく、もう少し広い世界で生きられていたのは良かったのでしょう。

 次女の高校に、クロアチアから来ていた同級生がいました。上の兄の卒業式と、次女の卒業式が一緒だったので、3年のくくりで卒業式にも出席したのです。帰りの飛行機で、その同級生が一緒でした。彼女は、紛争の渦中の母国に帰って行くのだと、次女から聞きました。次女よりも、はるかに大人びた雰囲気を持っていたのが印象的だったのです。紛争の母国への憂慮があったからでしょうか。

 長女は、学校を出て、アメリカの西海岸の会社で働き、その後、シンガポールで10年近く、日系企業で働きました。会社の人は、ほとんどがシンガポールの方で、アジア人の文化圏の中で働いていたのです。次男も、ハワイに行ったり、西海岸の街に行ったりして、結局は、日本に落ち着いて、日本の会社で働いてきています。

 一列並びの列から外れて、一つの文化の中ではなく、多文化の中で学んだり働いてきた、そんな体験は、良かったのではないかなと、親として今思うのです。違った文化圏の人たちへの理解が得られたこと、共に学び働けたのは、良かったと思うのです。従兄弟、従姉妹もアメリカ人だったり、ブラジル人だったり、友人たちも国際色があったりで、よかったと思っています。

 それでいて、自分の生まれ育った文化や社会や歴史の良さも、しっかり認められているのだろうと思います。「良きサマリヤ人」であって欲しいし、自分の食べ物や持ち物、考え方を、人と分け合って生きられたら、それは素晴らしいことなのではないでしょうか。聖書的な背景や価値観の中で育ってきて、自分発見ができて、個性的に今を生きているのがいいのです。列にも並べて、列から外れてもいられる自分でいいのでしょう。

(“いらすとや”のレジに並ぶお客さん、若者のグループです)

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防人の思いを

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 あきかぜの福井の里にいもをおきて安芸の大山越えかてぬかも 

 日本最古の和歌集の「万葉集」が、編集されたのが、奈良時代末期、七世紀後半〜八世紀後半ごろです。作者は天皇、皇族、朝廷の官員、農民、芸人、防人などによって、4500首も詠まれています。無名の作者もいて、多種多様に詠まれ、生活感が溢れているようです。その時代には、すでに方言があったことも分かるような、和歌もあるそうです。

 カナンの町に住んでいた時に、週に一度やって来ては、半日ほど過ごして帰っていく青年が出入りしていました。ある時、高知県下の高校の校長と不思議な出会いがあって、お話をしている間に、この方の学校に、この青年が留学がすることになったのです。所要があって帰国した時に、時間を合わせて、彼の入学式に、ご両親の代理で出席しました。校長室に案内されて、私の弟と共通の友人がいると、校長のお話を聞いて、驚いたりもしたのです。

 室戸岬に行く途中の安芸市に、大山岬にあって、そこが万葉集の研究をし、その成果を書物に著した、高知藩の下級武士であった鹿持雅澄(かもちまさずみ)の勤務地だったのです。そこを訪ねたのです。勤務をしながら、鹿持は、万葉の研究に打ち込んだ人でした。高知城下に残した奥方、「いも(妹と書いて夫人をそう言います)」を思って詠んだのが、この冒頭の短歌なのです。その岬の突端に、歌碑が残されてありました。

 江戸時代の末期、遠い高知にあって、妻を思う男の心を詠んだ鹿本が、愛妻家だっと言うわけです。この鹿本雅澄の研究をされたのが、早稲田大学の教授で、その方が所長をしていた職場で、自分は3年ほど働いたのです。そんな関係で、高知に行ったら、寄ってみたい思いがあって、それが実現したのです。

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 かつての日本人の心や生活を詠んだ「万葉集」に、いささか関心があるのですが、ここ下野国の国でも、万葉集に収められた和歌が詠まれていました。

 下野の三毳(みかも)の山の小楢(こなら)のすまぐはし児ろは誰が笥(たがけ)か持たむ

 『下野の三毳山のコナラの木のようにかわいらしい娘は、だれのお椀を持つのかな(だれと結婚するのかな)』、という意味の歌なのです。ここから北九州の防備のために遣わされた防人が、遠い故郷の愛しい娘を思いながら、そう詠んだのでしょうか。今は公園になっていて、低山登山をする人が多くおいでです。

 その他に、下野国出身の防人の歌11首が収められているのです。そのもう一つは、寒川郡、現在の小山市寒川の川上老(かわかみのおゆ)が詠んだ歌があります。

 旅行きに行くと知らずて 母父(あもしし)に言(こと)申さずて 今ぞくやしけ

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『二度と会えない旅に行くと知らずに、両親に別れの言葉も言わなかった。今はそれがくやしいことだ。』、国の防護のために遣わされた人が、『もしかしたら故郷に帰れないかも知れない!』と言う思いで、父や母を思いながら詠んだのでしょうか。切々たる思いが伝わって来ます。再び、大陸からの侵入があるのでしょうか、キナ臭さがしてきそうな昨今の世情です。

(“ウイキペディア“の大山岬の海、温故創生乃碑(熊本県山鹿市)に見る防人、コナラの雄花、博多湾です)

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生きるためにユーモアのすすめ

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 上智大学で、「死の哲学」を講じた、アルフォンス・デーケンさんは、先生と呼ばれるより、「さん」と呼ばれるのを好まれて、夜間講座に1年間通った私も、『デーケンさん!』とお呼びしたのです。

 ユーモアーを、「にもかかわらず笑う」という風に言われ、デーケンさんは、次のように講義されたのです。

『このユーモアは、もともとラテン語の“液体”から由来し、人体の中の体液を意味する医学的な概念でした。中世の医学者たちは、この体液が生命の源泉の本質であり、その流れが人体に活力を与え、創造的な力となって生命を満たして補い、人間を活かしているのだと考えたのでした。

 最近、ユーモアと健康には密接な関係があるとして、各国の医師がユーモアや笑うことの重要さを強調しています。ユーモアと健康に関する考えを広めたのはアメリカのノーマン・カズンズです。

 彼は膠原病にかかり、自分の病気の原因の一つは、自分の否定的な考え方にあると気づきました。そこで積極的な感情が病気の回復に役立つと確信したカズンズは、コメディ映画を見たり、ユーモアの本を読んだり、よく笑うことによって病を自ら治したのです。

  彼は『笑いと治癒力』(岩波現代文庫)の中で、笑いという薬が自分に大量に投与されると積極的な気持ちが生まれ、化学的な変化が起こって、肉体の回復にも大いに役立つ。10 分間腹を抱えて笑ったら、麻酔をかけられたようになって、痛みを感じないで眠れた、と書いています。私たち人間は、いのちを輝かせて生きるためにユーモアを再発見しなければならないと思います。』

 デーケンさんは、

『私は上智大学で 30 年間「死の哲学」を教えてきました。当時、日本では「死」をタブー視していて、誰も教えていなかったのです。ですから「死」の講座を提案した時、「それはやめた方がいい。学生は誰も受講しない。」と言われました。しかし私は頑固なものですから、周りがNo と言ってもWe can と言って開講し、多くの学生が毎年学びました。

 私たちの命がいつかは終わるということを無視できません。ですから私は、「死への準備教育」は同時に Life Education(=よく生きるための教育)だと強調しています。

 大抵の人は「死」と聞くと、「肉体的な死」を考えるようですが、私は死を「心理的な死」「社会的な死」「文化的な死」「肉体的な死」の4つの側面に分けて考えています。例えば、親が入院してもう長くないというとき、子どもが多忙を理由に病院に来なくなる。この親御さんは肉体的な死を迎える前に社会的な死を味わっています。親が亡くなるというとき、子どもがそばにいることは当たり前ではないでしょうか。

 私の母国ドイツでは、Sterbebegleitung(=末期患者と共に歩む)という言葉がよく使われます。死に直面している最期の段階では、治療、つまり何かdoing(=すること)はできません。しかし、誰かがそばにbeing(=いること)がとても大切になります。死に逝く人は、孤独なうちにひとりで死ぬのではないかというような恐れを抱いています。ですから私たちは、寄り添う“being”を大切にしなければならないわけです。

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 哲学者キルケゴールは、「Der Helfer ist die Hilfe.」(=救(たす)け人自身が救(たす)けである)という文章を残しています。私たちは普通、たすけるというと、相手のために何かをすることだと考えます。しかしキルケゴールは、終末期にある患者にとって、救け人、心温かなそばにいる人自身が救けだと言っています。』

  そうおっしゃっています。また、デーケンさんは、

 『わたしはずっと「生と死を考える」ことをライフワークとしてきました。生きるとは、「日は昇り、日は沈む」、その繰り返しでした。しかし、天のふるさとに行ったら、わたしが仰ぎ見るのは、もう昇ったり沈んだりしない太陽です。それは神さまの御顔(みかお)なのです。死を通って天のふるさとに行くことこそ、美しい冒険なのだと思います。』

 四ツ谷駅で電車を降りて、あんなに弾んだ思いで学んだ日々は、そう多くありませんでした。それはデーケンさんの人格的な輝きが、人を惹きつけたからなのでしょうか。同じ学校で、学長までなさった、デーケンさんの一世代前のヘルマン・ホイヴェルス氏が、詠まれた、「最上のわざ(3月26日に記載済み)」の一編の詩も、驚くほどに輝いていて、老いを生きる者への応援歌のようでした。

(“いらすとや”のほがらかな青年、“ウイキペディア”のドイツ料理です)

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無窮の夜空を仰ぎ続けて

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 作詞がジョセフ・スクリヴン、作曲がチャールズ・コンヴァース、日本語詞は杉谷代水で、「星の界(よ)」で、讃美歌の「いつくしふかき」でも歌われています。

1 月なきみ空に きらめく光
嗚呼(ああ)その星影 希望のすがた
人智(じんち)は果(はて)なし
無窮(むきゅう)の遠(おち)に
いざ其(そ)の星影 きわめも行かん

2 雲なきみ空に 横とう光
ああ洋々たる 銀河の流れ
仰ぎて眺むる 万里のあなた
いざ棹(さお)させよや
窮理(きゅうり)の船に

1 いつくしみ深き 友なるイエスは
罪とが憂いを 取り去りたもう
心の嘆きを つつまずのべて
などかは降ろさぬ 負える重荷を

2 いつくしみ深き 友なるイエスは
われらの弱きを 知りてあわれむ
悩み悲しみに しずめる時も
祈りにこたえて なぐさめたまわん

3 いつくしみ深き 友なるイエスは
変わらぬ愛もて みちびきたもう
世の友 我らを捨て去るときも
祈りに答えて いたわりたまわん

 天空の悠久の時を告げる「星」を高らかに歌った古典的な歌詞の歌です。父にこっぴどく叱られて、家に入れてもらえず、家の向かい側の台地端の林の中で、枯れ草を集めて、その中で横になって寝たことがありました。父特愛の自分が、なぜお叱られたのか覚えていないのです。大木の陰で大空、星空を見上げた時、星が綺麗に煌めいていたのです。

 内モンゴルに旅行した時、パオというテントの中で、モンゴリアンダンスを見たり、食事を頂いた時に、外に出て大空を見上げました。それは、まるで降るような星だったのです。あんなに夜空に星が数多くあるのを知らされて、驚いてしまいました。

 熊本を訪ねた時、隣県福岡の星野村に泊めていただきました。天文台のある宿舎で、そこから宇宙を望遠鏡で眺めました。肉眼で見るのとは違って、その大きさに、改めて感動させられたのです。村の名が星願望を満たしてくれて、訪ねる前から期待感があふれていたのを思い出します。

 夏休みに、教会学校の夏季キャンプで、清里の少年自然の家に行った時のことです。プラネタリウムが、そこにあって、子どもたちと、リクライニングの椅子に座って、星座を見たのです。冷房が効いていて気持ち良くなって、ある子は寝てしまったようです。でも、あれも神秘の世界に触れたひと時でした。

 南半球だったら、と南十字星を見たくて、南米のアルゼンチンに行きました。もちろん教会の研修会に参加しての訪問でした。18の時に移住したくて、その準備をしたのですが、叶えられずに、40年後にそれが実現したのです。パンパと言う草原の街をバスで訪ねた時、そこで南十字星を探しましたが、見つけられませんでした。

 シンガポールで仕事をしていた長女を訪ねた時も、みなさんに聞いても、関心のない人には見付けられないのでしょうか。観測の時期を調べなかったから、時期外れの訪問ではどうも見られなかったのです。赤道直下では、見られなくて当然だったのでしょうか。

 南十字星はともかく、神秘の世界を覗き見て、驚嘆したことは事実です。「少年は夢を見る!」ですが、少年の時も、少年の心を失わないで、持っていた大人になった私は、「星を見る少年」であり続け、今もまだ星を眺めたい私なのです。こんなちっぽけな自分が目にした宇宙の、天体の広がりに、息を呑むというのでしょうか、その広大さに足のすくむ思いをしたのです。

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『天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇19篇1~6節)』

 宇宙を、これほどに簡潔に解説していることばは他にはありません。偶然存在したという説を、どう説明してもしきれません。創造主の神さまによって造られた被造のきらめく世界です。

『目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。(イザヤ40章26節)』

 神さまは、大空の星々をお造りになって、名を呼ばれるお方なのです。神秘の世界を紐解くことのできるお方こそ、創造の神さまでいらっしゃいます。

 それにしても対宇宙の中で、その一点に過ぎない「地球」が、どれほど巧みに造られているかを、科学的に究明してもしきれません。そこに生活している私たちが、この創造者の「愛顧の的」であるとも言うのですから、それこそ驚きなのです。何と呼びかけてくださると言いますと、「あなたは高価で尊い(イザヤ43章4節)」と、おっしゃって慈しんでくださるのです。

『主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。 大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。 山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。 神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。 神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。 神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、 海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、(箴言8章22~30節)』
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 病んだ先年、自分の心臓を写した色彩映像を見せていただいたのです。それもまた、驚き見た神秘の世界でした。母の胎に宿った時から、動き続けてきた心臓を、映像で見た時胸がなるほどでした。それを主治医にコピーしてもらったのです。自分の体内で動き続けてきた心臓を、客観的に眺めて、鼓動する心臓を造り、動かし続けてくださった、神がいることが分かったのです。あの血液を送り出すポンプの動力は、どこから来るのでしょうか。

 まさに、神の秘匿された世界なのでしょうか、人類が誕生してからこの方、夜空に煌めく星々も、人の内臓も、神秘そのものではないでしょうか。次男が、望遠鏡を担いでやって来て、狭いベランダに据えて、夜空にレンズを向けて、カメラで写真を撮っていたのです。都内よりは、空気が綺麗ですし、関東平野の際の山も近いのですが、奥日光や福島あたりに行かないと、星を鮮明に撮れないかも知れません。でも心臓は、この胸の中に動き続けていることほど、驚かせることは他にありません。

(“いらすとや”の星空、地球、心臓AEDです)

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よかった、と感謝したこと

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 私たちの住んでいた街に、小さいのですが、伝統のある「動物園」がありました。近隣の町々村々の子供たちに長く親しまれて来たものです。私が小学校時代を過ごした町には、当時、日本最大の「動物公園」がありましたし、上野にも、遠足やそのほかで1~2度行ったことがあります。

 この動物園には、園内を回る電車や空中を飛ぶ飛行機の乗り物もありました。茶店と売店もあって、おでんやポップコーンやラムネが売られていました。入園料が安かったので、格好の遊び場でした。隣には、図書館があり、大きな公園もありました。

 ですから、私の子どもたちを連れて幾度となく行ったことがあるのです。街中にあるのですが、動物の鳴き声なども半端ではないのですが、よく周りの住民からクレームがつかないものだと、感心したものです。それだけ、子どもたちの明日のことや夢のために、耐えてくれていたのかと思わされ、感謝したものでした。 

 長女を初めて連れて行ったときに、絵本でしか見たことのなかった象を見せたことがあります。入り口の正面が、象の檻だったのです。その鼻を上下左右に振っている実物の象を、彼女が見て、腰を抜かして座り込んでしまいました。そのあまりもの大きさの違いに、びっくりさせられたからだったのです。その様子は、いまだに忘れられません。

 動物園と言えば、ハワイにある動物園に、《世界で一番怖い動物》と記された檻があるのだそうです。それを観たくて、行ってみたことがありましたが、その檻を見つけることが出来ませんでした。その折に、鏡がついていて、それに自分を映しますと、自分の顔が映るのです。その映った私たちが、『一番怖いのだ!』というジョークなのだそうです。

 そういえば、人間って、何でも食べてしまうし、人をむやみに殺してしまうし、原子爆弾を作ったり、殺人ゲームを作るのは人間ですよね。動物たちに恐れられても仕方がないことになります。町の動物園にも、サルの檻があり、ニホンザルとか、そのほかのサルがいたのです。でも、そこには、「ニホンザル」と掲出されていて、決して、「われわれ人間の祖先」とは書いてありませんでした。

 見ている人間と、見られているサルとは、別世界に生きているからに違いありません。私の机の隣が、生物の先生でした。一回り上の年令の先生でしたが、生意気な私は、「創造論」を掲げて、彼の教える「進化論」に挑戦したのです。

 生物学に素人の私でしたが、進化論にはプロの彼は、的確に「進化論」を論証できなかったのです。動物園では、異種の動物としているのに、子どもたちに学習させている教育の現場では、『このサル(類人猿と言うようですが)は私たち人間たちの祖先なのです!』と、仮定の理論から、まるで真実でもあるかのように教えているのです。

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 「進化論」を最初に、公に主張したダーウインは、聖書の「創造論」を学んだ神学生でもあったのだそうです。ところが、マダカスカルに棲息する原始動物を見た時から、「進化論」を主張して、「種の起源」を著わします。しかし晩年、彼は自分の考え方は間違っていたと言ったのだそうです(私は直接に調べていませんが、その話を聞いたことがあります・・念のため)。

 ですから私は、サルの前に、子どもたちを立たせて、『おじちゃん!』とか『オバちゃん!』なんて呼ばせませんでした。私は、兄たちにからかわれて、申年生まれでもありますし、行動がおっちょこちょいで落ち着きがないので、『サル!』とからかわれていました。

 だからと言って、サルの仲間内に、人間になりかけているのを捜したりはしませんでした。アフリカで原始的な生活をしている方々を、その教育程度や文化程度の低さから、『類人猿にもっとも近い人たちだ!』と言っている人がいました。が、5年も、私たちと同じ教育をお受けになられるなら、まったく違わない能力が啓発されて、われわれ以上の学識を得て、人類の向上のために貢献されるに違いありません。

 だって、サルの脳は、人間の脳の質量とは雲泥の差があるからです。わが国のクリスチャンの科学者が、「クリエーション・リサーチ(http://sozoron.org/home/modules/contact/)」を立ち上げておられます。専門的なことはお問い合わせください。

 私は、行動も顔も、たとえサルには似ていても、創造者によって、独特にお造り頂いた「人」であることを疑っていません。神の愛を、震えるほどに感知し、感謝することができ、神を賛美することが出来るからであります。よかった!

(“いらすとや”の動物園と猿です)

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こんな事があった時代

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ずいぶん以前のことになりますが、三重県下で伝道されている教会の牧師さんのご子息が、私たちの教会の礼拝にお見えになったことがありました。近くでお仕事があるとのこと出張で来られ、礼拝を守るためでした。彼のお父さまは、「美濃ミッション」に所属される教職だったのです。このミッションが、「真のキリスト葬儀の手引き」という小冊子を刊行されていて、それを、私を教えてくださった宣教師さんから頂いて、読んだ私は大変に感動させられたのです。

日本の教会が、仏教に倣って葬儀を行うことに対して、その間違いをはっきりと指摘して、『聖書的な立場』を主張されておられたからです。日本の社会の中で生まれた者には気付かない、「霊的敏感さ」を彼らが持っていたのです。「お花料」は「香典」、「献花」は「焼香」と、まったく変わらないので、『してはいけません!』とはっきり主張されています。

このミッションは、1918年に再来日された、アメリカ人宣教師のワイドナー女史によって、岐阜県大垣市に創立されています。この方は、1900年においでになられた時には、仙台の宮城女学院で校長をされていましたが、帰国されて再びおいでくださったのです。

1933年(昭和8年)のことでした。このミッションの聖書学校に学んでいた学生の12才になる息子さんが、『それは偶像礼拝だから!』と言って伊勢神宮参拝を拒否したのです。美濃ミッションが、国体に反する「危険な教え」をしているとされ、直ちに迫害が起こります。全国紙に、このことが報道され、国家神道と妥協することを拒む真のキリスト教に対する全国的な反対が、全国民の総意のようにして掲載されたのです。

12才の少年と、その弟、料理人をされていたOさんの娘は、参拝を拒否した理由で、学校から退学させられるのです。ワイドナー宣教師さんも教会の指導者も信者さんも、毎日毎日、警察で尋問されますが、『我らはたとえ死んでも絶対に妥協しない!』と、警察署長や刑事や校長や町のリーダーたちの前で言明したのです。すごいですね!

彼らは、まさに「日本の敵」、「非国民」との烙印を押されました。町の人たちに、家が焼き討ちにされそうにもなったのだそうです。ミッション内部からも脱落者が多くあったようです。当時のすべての学校には、今日、金日成や金正日の写真が北朝鮮のすべての家庭に掲げられているように、天皇夫妻の写真が掲げられていました。戦中の生徒は、朝礼時には、東京の天皇の住居のある宮城に向かって拝礼(遥拝)をすることが命じられていたのです。公共の場では、どこでも、それが励行されていたのです。

そのような中での、伊勢神宮参拝拒否だったわけです。すごい信仰的な勇気ではないでしょうか。ダニエルように、あの3人のヘブルの少年のような、大胆で誠実で真実な信仰が、このミッションの中には流れていることになります。しかも12才の少年の心に、しっかりと信仰が継承されていたことは、ただ主をほめたたえずにはいられません。

この困難な時代を生きる私たちにも、大きな励ましであります。ノーベル平和賞候補になった、日本を代表するキリスト者だったKが、伊勢神宮に戦勝祈願の参拝を行ったのと比べて、この12才の少年の「真理」の上に立った信仰、その良心と確信からの参拝拒否は、日本教会史の特筆すべき出来事ではないでしょうか。

(“ウイキペディア”による、当時の美濃ミッションの本部、“ある信徒“さんの真理のイラストです)

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今まさに、万軍の主が

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 栃木県下にも、悲しい歴史の名残の地がいくつか残っています。日光の「戦場ヶ原」は、その一つです。これは氏族と氏族に戦いではなく、中禅寺湖をめぐって、男体山の神と赤城山の神が争った「戦場」だったと言う「神話」によるものです。昔は湖であったのが湿原となったもので、広大な面積の広がりを見せています。

 この湿原は、多くの種類の植物の自生地で、植物学の宝庫でもあるようです。また、野鳥の種類も多く、鳥類学の研究にも貢献しているのです。中禅寺湖の魚を餌にして、営巣する水鳥も多いそうです。ラムサラール条約に登録されるほどの湿地帯で、動植物研究の宝庫でもあります。

 数年前に、案内していただいて、訪ねることができました。明治以降、文人たちにjも愛され、外国人に人気の観光地でもあります。JRや東武の日光駅前のバス乗り場には、多くの外国からおいでの観光客がいました。家内と足尾へのバスに乗り継ごうとした時に見かけたのです。神話とは別世界が広がっています。

 市内を運行する「ふれあいバス」に乗って、市の北部に行くバスの通る道の脇に、「小平邸」があります。そこは東武日光線の「合戦場駅」で下車しても行くことができます。国産で電動モーターを作り、その業績で、日本の工業化に貢献した小平浪平の生家が残る街なのです。

 かつて群雄割拠した戦国時代に、宇都宮氏と皆川氏(栃木市皆川に居城しています)が合戦した戦場のあった場所で、標茅ケ原での合戦のなくなった今では、地名だけが残され、合戦の大騒動など、全く感じさせない静かな住宅街になっています。江戸期には、大権現とされた徳川家康の墓所、東照宮に至る、例幣使街道の道筋に位置し、宿場町でした。

 お百姓さんは、合戦に兵士となって連れ出され、耕す田畑は踏み荒らされ、大変な時代だったのでしょうけど、やはり平和な時代がいいですね。強くなった日本は、大陸や南方に兵士を送って、領地獲得に狂奔したのですが、出征兵士を送り出した記念碑が残されています。そればかりではなく、私の散歩道には、出征軍馬の記念碑も残されているのに、驚かされます。
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 息子を取られるだけではなく、農耕馬も、戦争に送り出された歴史は、悲しいもので、しばし佇んで、大きな石碑を眺めていました。嘶(いなな)きも聞こえてきそうでした。しなければならない戦争があると言うのは、人の世の大きな悲しみと限界なのでしょうか、音頭をとって送り出されるのは、いつの世も、どの国も、必ず「若者」なのを思うと、悲しくて仕方がありません。

 私の父の世代、出征兵士を歓呼の声で送り出した親は、戦場で倒れた息子、戦場で奉仕なくした看護女子の屍(しかばね)を、涙で抱きかかえて受け取ったのです。父の弟は、「南方」の何処で亡くなったかが分らないまま、空(から)の「骨箱」に、勇士とか軍神とか書かれた紙を入れられて、それを家族が受け取っています。

 人類は学ばないまま、今も、世界のあちらこちらで、同じように戦争が繰り返されているのです。同級生のお父さんは、中国の内陸部で亡くなっています。旧軍の高級将校だったと、友が言っていました。わが家に泊まりに来た時に、お父上と同世代の私の父親に会って、チラッと悲しそうな、羨ましそうな、そしてチョッと悔しそうな表情を見せたのです。私はそれを見逃しませんでした。

『また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。(新改訳聖書 マタイ24章6~8節)』

 今とこれからの時代に起こり、起こるであろうことを、聖書はそう記しています。平和な80年を生きてきて、それがひっくり返させられるような不可避な時が、来るのでしょう。今まさに起こっている時代に、私たちが生きている現実を憂えるのです。でも、私の信じる神さまは、義なるお方で、万軍の主でいらっしゃいます。

(“いらすとや”の戦争関係のイラストです) 

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