謙信平

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 ときどき、散歩で登る「大平山(標高341m)」、わが家が、標高43mほどですから、今朝は、8時過ぎに家を出て、家に帰り着いたのが1115分ですから、高低差300m3時間余りの散歩だったのです。休みながら、木の枝を杖にして、のんびり歩いて来ました。

 この山の登り口が4箇所ほど(登山道はもっとあるようです)あって、きょうは、西側の「少年自然の家」方面を登ってみました。カサカサと枯葉を踏むのですが、秋から冬の山道は、枯れ葉の匂いがして好きなのです。森林浴の匂いでしょうか。

 関東平野を北上して、上毛野国(かみつけのくに)、上野(こうずけのくに)」、今の群馬方面からの中山道から分かれた日光例幣使街道と、江戸の日本橋からの日光街道、奥州街道などから、北関東あたりの街道から眺められる最初の山の一つが、この「大平山」なのです。

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戦国の群雄割拠の時代、越後の上杉謙信と、小田原の北条氏康は、関東平定を競い対立していました。当時の大中寺住職虎溪和尚
(こけいおしょう)が仲介となって、15689月、謙信の叔父が住職だった、大平山側の大中寺で「越相同盟(越後と相模)」を結んでいます。

 和議の後に、上謙信は太平山に登って、そこから南の関東平野を見渡したそうです。越後では見られない、その広大さに驚きの声をあげたのです。それで南に広がる関東平野眺めた一件から、その大平山の一郭を、「謙信平」と呼んでいます。四百年後ほどの今朝、そこから関東平野を眺めたのですが、実に広大でした。

 上杉謙信が、38歳の時に立った山の頂上付近の平地に、今朝、平和の時代に生きる、76の私が立ったのですが、戦国の世の武将は、多くの部下を引き連れて、三国峠を越えて関東平野にやって来たわけです。戦国の世に、諸国に兵を動かしたのを思いますと、兵の宿や兵糧(食料や水)などを賄いつつの旅は、大変な難儀だったのだろうと、思いを馳せていました。

(「謙信平」から南の方の眺望、謙信ちなみの「上越市」の夜空)

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「登岳陽楼」 杜甫

昔聞洞庭水 今登岳陽楼
呉楚東南坼 乾坤日夜浮
親朋無一字 老病有孤舟
戎馬關山北 憑軒涕泗流

日本語訳

 かねて噂に聞いていた洞庭湖を訪れ、そのほとりの岳陽楼に登る。呉楚の東南の地方が二つに裂けたという洞庭湖には、宇宙のすべてが一日中浮かんでいるようだ。手紙をくれるような親類も友達もなく、老いて病持ちの私には持ち物といっても小舟が一双あるだけだ。関山の北ではまだ今も戦が続いているという。楼の手摺に寄りかかっていると、涙が流れてくる。

 世は戦乱が続いていました。老境に至った杜甫は、噂に聞いてきた、名勝の地、洞庭湖を訪ねたのです。現在の河南省鄭州市で生まれ、家柄はよかったそうで、六歳で詩を詠み始め、二十代の初めに「科挙」を受験しますが、不合格になっています。「詩聖」と言われながらも、不遇な一生だったようです。

 40代の終わりに、杜甫は、四川省成都に行き、そこに「草庵」を設けてます。私は、2007年に、天津の語学学校の遠足があって、この「草庵」を、家内と留学生仲間と一緒に訪ねたことがあります。これも旅に誘われる「漂泊の詩人」の芭蕉が、江戸本所六軒堀の流れの辺りに、「庵(いおり)」を設けていますが、そこは仮住まいだったのです。そこから、「奥の細道」へ出立しています。

 芭蕉にとって杜甫は、憧れの人だったのです。「古人も多く旅に死(し)せるあり」と記したように、杜甫が旅から旅の一生を送り、旅に死したように、芭蕉も、「よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊(の思ひやまず」、結局は、旅の途上、大阪の門人の家で没しています。

 中一で、高校で教える古文の教師の特別授業で、「奥の細道」や、杜甫の「春望」を学んだ私は、家出を考えました。父と母に養ってもらわなければまだ生きていけない子どもの私は、お腹が減ってしまい、一泊の家出で、『ごめんなさい!』と、父に言って「小漂泊」を終えて、家に帰ってしまったことがありました。

 きっと家内が元気だったら、「旅をすみかとし」た、杜甫や芭蕉のように旅から旅をしているかも知れません。47年も、衣食住の世話をしてくれた家内への闘病の助けは、夫としての責務であります。ただ、この「漂泊の思い」は、まだ心の内に仕舞い込まれているのです。折り畳み自転車を買って、電車に輪行して、決めた駅で下車し、自転車をセットして目的地を走り回り、最終電車に飛び乗って帰宅するような生活を夢見ているのです。が、家内は賛成してくれません。

 杜甫は、病んで、不遇な生涯を送るのですが、二十代の終わりに一緒になった奥方と子どもを連れ歩いた、家庭志向の人だったそうです。これは芭蕉が弟子の曽良を伴ったのとも、私が、家内に家の留守居を頼んで、古跡を訪ねたいとの願いとも違っていたのです。結局、湘江(湖南省の河)の舟の中で、還暦を目前にして亡くなります。その旅の途上の死を「客死(かくし)」と言うそうです。

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 当時の五十代は老いの年齢だったのでしょう。冒頭の詩は、老境の杜甫のものなので、「春望」を詠んだ時とは違って、老身で詠みました。つまされる思いで、同じく老いを迎えた私は読むのです。涙を流す杜甫を想像しながら、その孤独に苛まれる心境を考えています。

 杜甫は、「涙」でも「泪」でもなく、「涕」という漢字を、この詩の中に記したのです。しかも「泗」を付け加えています。「涕泗 ti4si4/ていし」とは、泣いて涙を流すのですが、激しく感情的に泣いたのでしょうか、鼻水も共に流れ出るように泣いたことになります。きっと、生きて来た日々を思いながら、辛い人生を思い返し、死を間近に感じて、悲しんで泣いたのかも知れません。

 それに引き換え、すでに後期高齢者の私は、『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人でありあ寄留者であることを告白していたのです(ヘブル1113節)』との聖書の言葉の通り、自分が寄留者であるとしっかり認め、「さらに優れた故郷」への期待を、自分のものにすることができたのです。死の向こうに、永遠の命が約束されていて、それをいただくことができるのです。そんな明日を思いながらの今であります。

(杜甫と現在の湘江です)

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基礎学習

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 「子曰」と書き始めの「論語」を学んだことがあります。武士の学校、熊本藩の「済済黌(こう)」、下野壬生藩の「学習館」、水戸藩の「弘道館」など、武士の子弟は藩が開いた学校で学んだのです。南部盛岡藩の学校の様子が、「壬生義士伝(浅田次郎著)」に出て来ます。南部訛りの師が、藩の子弟に語っている場面です。

 『南部の桜は石を割って咲き出す。おめえらも、同じように石を割った生きてけ!』、下級藩士に過ぎないが、剣術と学問に秀でた吉村貫一郎は、そう言って南部藩士の子弟を教えているのです。どう生きていくかを語っています。きっと、どこの藩黌でも、そういった学びがあったのでしょう。「文武教習所」という学問所があり、後には藩黌の名を「明義堂」、「作人館」と呼んで、盛岡藩の人材育成をしています。

 この南部藩の「作人館」から、後に第9代の内閣総理大臣の原敬、国語学者の金田一京助、国連事務次長の新渡戸稲造が出ています。有名無名の器が育ったのです。そこには漢文・国文・書道・数学・茶道・諸武芸などの教科が、教えられていたそうです。

 例えば、「漢文」は、師の読む「論語」を、真似て読むのです。『子曰(しのたまわく)』、そして筆で書写して、漢字を学び、自分で書写した書や家で代々使い続けた書を家で素読するのです。そう言った基礎学習があって、明治維新以降、欧米諸国に遅れじと、人材育成がなされ、多くの教育者が欧米諸国から雇われて、日本の近代化のために学校教育が行われていきます。

 例えば、新渡戸稲造は作人館で学んだのですが、維新後、東京で学んだ方が良いとのことで、英語学校で英語を学び、その学校での学びに飽き足りなかった彼は、13歳で、「東京英語学校」に入学しています。そこで、同じ南部出身の佐藤昌介(後に北海道帝国大学初代学長)と親交があり、佐藤を追って、札幌の「札幌農学校」に、15歳で入学するのです。

 教育論、教育実践論など格別にない時代、前近代的な教育を受けただけで、明治以降、英語を学び、農学を専攻して学んだのが、明治初期の学生でした。また、江戸期の士分以外の農工商の子どもたちは、主に寺子屋で、「読み」、「書き」、「算盤(そろばん)」の教育を受けていたのです。世界に比べられないほどの識字率の高い国で、そう言った子が、優位な国民となり、やがて、それが素地となって、学びが重ねられて、ある者たちは、世界的な人材となっていったことに驚かされるのです。

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 教育論が、さまざまに改変されてきていますが、「基礎学習」が、どれほど大切かを思い知らされるのです。漢字や言葉を暗記させられ、九九を覚え、自分の国の政治的、国際的、地理的な位置や歴史を、繰り返し学んだことが、人としての学びの基盤になっているのを、自分の体験からも納得させられます。父は週刊誌を家に持ち込みませんでした。その代わり、字源や広辞苑を買ってきて家に備えました。歴史の事実を伝えるために、写真集も買ってきてくれました。そして母は、幼い日に教会に連れ行き、青年期に聖書を買って手渡してくれたのです。《神のいますこと》を知らせてくれ、それは「宗教教育」でした。

 『家は知恵によって建てられ、英知によって堅くされる。部屋は知識によってすべて尊い、好ましい宝物で満たされる。知恵のある人は力強い。知識のある人は力を増す。(箴言24章3~5節)』

 それで教師や牧師になれたのだろうと思います。意味のないような単純な基礎学習があって、その上に積み上げられて、一人の人となっていくのです。学びの基礎を据えていただいたことに、心から感謝しているのです。それで劣等感に苛まれずに、ここまで生きてこれたわけです。学びの単純さや、反復には意味がありそうです。

(盛岡市から岩手山、寺小屋風景です)

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十五夜

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東京都下に住む弟が、今朝、昨晩の撮影したい満月の写真を送信してくれました。これもまた幽玄、神秘的ですね。蘇軾ならずとも、明月には心が揺さぶられます。

中天に浮く巨大な星である月が、これも同じく中天に浮く地球の片隅で、暗闇を怖がる人に、生きていく慰めやほっと一息する一時を与えてくれているのです。創造主の傑作です。

二日早く、息子が持参した月餅を食べてしまいましたが、華南の街で、十五夜に招かれて、小さく切り分けたいく種類もの月餅をご馳走になりました。友人のパン屋さんが、三箱も四箱もの月餅の折詰をくださって、食べきれず冷凍して、ずいぶん長く食べました。生きているって素晴らしいことですね!

 

 

カラス

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幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。 1176節)』

 中学の時、「烏」と印刷してあった国語の教科書は、「鳥」と間違えて印刷してあると思って、ずっとそう思い続けて大人になりました。ところが、聖書をよく読んでみると、カラスの漢字は「鳥」の字から「」を除いた「烏」であることが、初めて分かったのです。すっかり間違えて覚えていたのが恥ずかしくなりました。

 だからでしょうか、カラスのうるさく甲高い鳴き声に煩わされていて、いつも文句を言っていたのです。華南の街では、一度も鳴き声を聞きませんでしたが、この街には、ことさらカラスが多いのです。黒くてうるさいから嫌いでした。そうしましたら、聖書に、時々、「烏」が登場していることを思い出したのです。

 『「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。1列王1735節)』

 イスラエルの預言者に、神が選ばれたエリヤがいました。主のことばに従って、王アハブに、「雨は3年の間降らない」と予言した後、主は、その約束通りに、烏が、エリヤを養ったのです。預言者は、食べ物に窮することがあっても、餓死はしないのでしょう。カラスが養うのだということを思い出したわけです。

 どうも、終わりの日には、〈666〉の番号を my number card  に入れていない買い物客は、食物が買えない日が来ることが、「ヨハネの黙示録」に記されてあるようです。そんな悪魔を礼拝しない基督者には、きっとカラスが食物を運んでくれると思いますので、今から、カラスたちに感謝をし、関係を友好にしようと決めた次第です。

 このエリヤは、寡婦に養われ、また、天使が用意した焼け石で焼いたパン菓子一つと、水の入ったつぼによって養われてもいるのです。ここに、《不思議な養い》があります。それで聖書で、主なる神さまは、「恐れるな」と言われるです。

 あの大預言者エリヤでさえ、時の権勢者を恐れたのです。この預言者もまた人だったからです。終わりの日に、人である基督者も恐れることがあることでしょう。食べ物に窮するような時も来ることでしょう。そんな時に、カラスや寡婦や天使によって、主なる神は、真の基督者を養ってくださることでしょう。

 『烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。(ルカ1224節)』

 こんな話が、ウイキペディアにあります。「カラス語」があるのだそうです。それを研究している国立総合研究大学院大学(神奈川県葉山町)の塚原直樹助教によると次のようなカラス語があるのだそうです。『「カ~カ~カ~」 カラスが餌を見つけ、仲間を呼び寄せる時に鳴く声。カラス語では「こっちに食べ物があるよ」という意味。 「カッカッカッ」 鷹などの天敵が近づいてきたことを仲間に知らせたり、警戒する時に鳴く声。カラス語では「危険だよ」という意味。 「クア~クア~」 ねぐらに帰ろうとするカラスが発する鳴き声。「安全だよ」という意味。』とです。

 カラスは、仲間を大切にする習性があるのですね。眼下の巴波川に、早朝、たった一羽の白鷺が流れの中に立って、餌を探しているのです。橋の下の水草の間に餌がいるのでしょう。ときどき啄(ついば)んでいます。この白鷺は、仲間を呼ぶこともなく、独食なのです。 

 華南の町の挨拶言葉は、『おはよう!』でも “ good morning “ でもなく、『吃了没有chile mei you』でした。『メシは喰ったかい?』という意味です。きっと食べられない時が多かったのでしょう、互いが心配し合って、『喰っていなかったら、一緒に喰っていくかい!』と誘っていたのでしょうか。あそこでは、互いを気遣う雰囲気が生活の中に溢れていました。

(“ イラストAC “ のカラスです)

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中秋月

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 上から、下の息子が撮って送信してくれた中秋節の満月、一昨日の月、同じく一昨日栃木の我が家の窓から見た月に金星、そして昨晩私の撮った満月です。撮影者によって、日によって、天候によって、こんなに違いがあるのですね。この月ほど、詩や和歌に詠まれた月はありません。北宋の詩人、蘇東坡(蘇軾)が詠んだ「中秋月」です。

中秋月

暮雲収盡溢清寒
銀漢無聲轉玉盤
此生此夜不長好
明月明年何處看

☆ 読み

暮雲 収め尽くして清寒溢れ
銀漢 声無く 玉盤を転ず
此の生 此の夜 長くは好からず
明月 明年 何れ(いずれ)の処にて看ん

☆ 現代訳

日暮れ時、雲はすっかり無くなり、心地よい涼風が吹いている。
銀河には音も無く玉の盆のような月があらわれた。

こんな楽しい人生、楽しい夜、しかし永遠に続くものでは無い。
この名月を、来年は、どこで見ているだろう。

 週末に訪ねてくれた次男が、月餅、武蔵野製菓、よもぎ餅を持って訪ねてくれました。そのよもぎ餅を隣家に、お裾分けしましたら、隣家のご婦人が、教子が持って来てくれたと言って、おすそ分けの返礼で、「高級梨」をくださいました。

 月餅は ハーベストムーンに よく似合う

 あきつきは 中秋節に よく似合う ※「あきつき」は梨の高級種

 この県は、月が綺麗ですし、果物が美味しいのです。ぶどう、リンゴ、梨が名産です。コロナが終息しましたら、ぜひお訪ねください。

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秋に思い出す

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 六十を過ぎてから、留学生として、中国の天津にある語学学校に入学し、そこで一人の教師から、家内と二人で、中国語を学んだのです。一年後に、華南にある省立の師範大学に転校して、その学びを続けました。その内に、日本語教師を依頼されて、同じ街の大学で8年ほど教える機会がありました。

 大陸での生活は、実に充実していました。教えるために、教材の準備をして、発音や会話、作文、日本文化、社会、経済などの実に幅広い教科を担当しました。教え方も教材選びも任されましたので、既存の教材ではなく、日本から関連書を購入して、自分で作って、print  したのです。あんなに充実した日々はありませんでした。

 そして公認教会で、日本語で聖書を教える機会が開かれて、15人前後のみなさんと、週一で学び会を持ちました。それも楽しい一時でした。戦前、アメリカのメソジスト派の宣教師が始められた教会で、革命後は宗教委員会の所管になっていました。病院も医科大学も、一緒に建てられた伝統校だったのです。主任牧師が、『私が全責任を負いますからやってください!』との夢のような機会でした。

 期待した以上の展開に、ただ驚きながら冒険的な気分で奉仕をしたわけです。でも、いいことばかりではありませんでした。最初の「春節」を迎えようとしていた頃のことです。天津の天文台の前の道を歩いていた時に、突然、爆発破裂音が足元でしたのです。全く飛び上がるほどの驚きでした。例の爆竹が炸裂したのです。音ばかりではなく、真っ赤な紙の筒の破片が一面に飛び散ったのです。

 もう一度は、天津の紫金山路にある、外国人アパートの7階の窓の外で、今度は破裂音と共に花火が花開いたのです。真横で火花が弾け散ったのにも、驚いたのです。窓ガラス越しでしたが、強烈な経験の連続でした。中国の四大発名の一つが、「火薬」なのです。二十一世紀になって、その発明品に驚かされたわけです。

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 元々は、青竹を火にくべると、竹の節と節との間の空気が膨張して炸裂するのが、まさに字の如く「爆竹」でした。山や闇の中に住む悪鬼が、そんな爆発音で驚くはずがないのに、当時は退散させるに値する最強の音だったのでしょうか。それがやがて、発明品の火薬が使われて、「鞭炮bianbao」が作られ始めたのです。葬儀の葬列に、結婚式の花嫁花婿の前に、さまざまな儀式に、それが鳴らされるのです。

 でも今になると、懐かしく思い出されて来ます。基督教徒の葬儀に参列し、お話をさせていただきました。その後、葬列に加わって、海辺の「乡下xiāngxia/田舎)の村の大路小路をねり歩く葬列に、家内と一緒に加わりました。家内は、亡くなられたお母様のお病気中に、何度も訪ねて、体をさすってあげたり、声をかけていました。

 その葬列は、爆竹を鳴らすことはなく、賛美をしていたでしょうか。東シナ海が眼下に広がる海辺の高台に墓地があって、お父様の墓の中に、喪主である若い友人のお母様の遺骨が納骨されたのです。大きな space があって、その墓に、家内と私の遺骨も葬ってくださるのそうです。

 私たちにとって、まさに「第二の故郷」なのです。柿やさつま芋、梨や無花果、桑の実リンゴも、この秋の季節にはいただいたりもらったりで、よく食べました。オリーブの実の穫り入れに、車を連ねて、山村の知人を訪ねて、木を揺すって落ちる実を、笑いながら取り合ったのです。招いてくれた農家では、大ご馳走になりました。みんな夢のように思い出される季節です。虫の声を昨夕聞いて、思い出しました。

(天津の旧市街にある「五大路」、「橄榄の実」です)

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食べること

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 『 だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。(マタイ625節)』

 「身体によい食べ物」、たくさんあり過ぎて、みんな買っていたら破産でしょうね。『◯◯にいいです!」で net はあふれかえっています。『たった××× 円!』の触れ込みで売られています。関節痛、骨の脆さ、大腸た胃腸や痴呆や肌荒れ、ハゲまで、体の部位ごとに、驚くべき〈 💊 supplement 〉が、目が回るほどにあるのだそうです。

 昔の人は言っていました。『偏らずに、たくさんの種類のものを、季節に応じて食べて、減塩、減糖、減油の食生活をするのがいいのでしょう。』と。「一汁二菜」、まあ「一汁三菜」くらいにするのがいいのかも知れません。子どもの頃、ご飯を、何杯もおかわりして、腹イッパイ食べてもらったのを思い出します。満腹感を満たしたのです。

 母は、工夫してくれました。カタ焼きそば、ハンバーグ、カレーライス、ちらし寿司は最高に美味しかったのです。日本人が、肉なんかあまり食べない頃に、肉屋に行って、ひき肉にしてもらって作ってくれたハンバーグは絶品でした。母はパートで働いて、その収入を上乗せで食事を用意してくれました。ちちらし寿司は、時々、見様見真似で、自分でも作るのですが、家内が喜んでくれます。

 今週もお客様が来ると言うので、カレーライスを用意しました。ニュージーランド産の牛肉、トマト、玉ねぎ、にんじん、馬鈴薯、林檎、ニンニク、ケチャップ、カレールー、醤油を用意しました。玉ねぎは、透き通るようにオリーブ油で炒めます。トマトは熱湯につけて皮を剥きます。りんごは擦ったり細かく切って入れます。中国華南で、学生や留学生たちがやって来て、よくカレーを食べてくれました。教師も来てくれたほどです。
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 おかげで料理、調理の腕を、少しは上げることができました。母が一年ほど入院していた、高校2年の頃、父の手伝いで、家事全般をしたのがよかったのでしょう。だからでしょうか今でも苦になりません。47年も支えてくれた家内への返礼で、選手交代の今です。最近は、お昼の用意は、家内がしてくれるようになっています。夕食も、時々一品ほど作ってくれるようになってきました。驚くほどの回復なのです。

 正しく食事することが、予防医学、健康維持や増進につながるのです。創造の神は、人が食べる必要を満たすために、さまざまな食物を備てくださいました。地域に応じ、季節に応じて、地は食料を実らせ、清い水を湧き上がらせ、ひつの健康維持のために、十二分の備えを、神がなさったのです。

 イエスさまは、「食いしん坊」と悪口を聞かれたのですが、「食べること」を軽視されずに、楽しまれました。弟子たちや集税人たちと、喜んで食卓を共にされたのです。人に、「食べること」が必要であり、心を喜ばすことだとお知りだったのです。きっと、天国には、食卓が用意されていて、食べ物も供されることでしょう。そいて。私たちは感謝して、それをいただくのに違いありません。

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秋にも七草がある

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『ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。 (ルカ12章27節)』

 「春の七草」は有名ですが、秋にも「七草」があるようです。山上憶良が書き残した記事の中に、それが窺えるのです。

女郎花(おみなえし)

 『遊里の女性のことを想像してしまいそうですが、「おみな」は「女」の意、「えし」は古語の「へし(圧)」で、美女を圧倒する美しさから名づけられたそうです(HP「季節の花300」から)。松尾芭蕉は、「ひょろひょろと猶(なお)露けしや女郎花」と詠んでいます。女性の「清楚さ」を表すような彩りの花です。

薄(すすき)

 スーパーマーケットのK店長さんが、長靴をはいて、鎌を持ってでかけていくのを見たことがあります。どこに行くのかと言うと野原に行って、薄を刈ってくるのです。お客さんへの月見用で持って帰っていただくためでした。炭焼きをする人は、すむだわらに使ったそうで、家畜を飼う人は飼料に使ってきたのです。昔の農家の屋根は茅葺でしたが、この薄も用いられたようです。語源ですが、ススキの「スス」は、葉がまっすぐにスックと立つことを表わし、「キ」は芽が萌え出でる意味の「萌(キ)」だと言われています。

桔梗(ききょう)

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 何の時代劇だったでしょうか、その主人公に、桔梗介がいた記憶があります。この花は、武士が好んだそうで、家紋に使われることが多かったそうで、明智光秀の家紋でもあります。す。父は、自分の「家紋」を持っていて、羽織の襟にその紋が入っていたのです。すぐ上の兄の家に、父の羽織も袴も残っているので、確かめないといけませんね。もう家紋を持つ時代ではなさそうですが、持ってみたい思いもなくはない、懐古趣味の私です。あの形状と紫色が好きなのですが、日本古来に伝統色なのだそうです。今年も家内が朝顔を植えたのですが、花の色に、「桔梗色」があるので、それで朝顔が好きなのでしょうか。

撫子(なでしこ)

 わが子を可愛いと撫でるように、可愛らしさをたたえているので、そう命名されたそうです。World Cup 女子サッカーのニッポンチームを、この花で呼んでいたのですが、『中国から平安時代に渡来した、「唐撫子(からなでしこ:石竹)」に対して、在来種を「大和撫子(やまとなでしこ)」と呼ぶ。日本女性の美称によく使われる。(HP「季節の花300」から)』のだそうです。清少納言が、「草の花は なでしこ 唐のはさらなり、大和のもいとめでたし(枕草子)」と詠んでいます。

藤袴(ふじばかま)

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 目立ちたがり屋だったからでしょうか、卒業式に、弟の絣(かすり)の着物に袴を履いて列席しました。また母に縫い直してもらった父の大島の着物に、袴と羽織りをつけて、アメリカの西海岸の教会で、娘の結婚式があり、列席しました。家内も母も、和服でした。小さいピンク色の花で、盛りだくさんに咲き誇ります。花の色が藤(ふじ)色で、花弁の形が袴(はかま)に似ているので、そう命名されています。昔の人は、「薬袋」に入れて携行したそうです。香水などつけたこともない身ですが、一度、懐に、「薬袋」を入れて歩いてみたいものです。

葛(くず)

 お八つのない時に、葛粉をお湯でといて、砂糖を入れて食べた、と言うよりは飲んだことがよくありました。大和の国(奈良県)の吉野川の上流に、国栖(くず)というと部落があります。そこが葛粉の産地であったところからの命名されています。漢字の「葛」は漢名からきています。東京の葛飾区は「葛」を用いています。「万葉集」の表記は、勝鹿・勝牡鹿・可豆思賀といろいろとあったようです。ひらがな表現だったからでしょうか。ものすごい旺盛な成長を見せて、蔓(つる)は10mほどにも伸びていくそうです。

萩(はぎ/憶良は朝顔としています。読んで字の如し、で、「秋」の「艸(草)」だからだそうです。実際は、夏前から咲くのですが、秋には萩がよく似合う、で、九月の花なのでしょう。山口県に、萩市があります。やはり、市の花に指定されています。語源ですが、土の上の部分は、少し残して枯れてしまい、毎年新しい芽を出すことから、「はえぎ(生え芽)」と言われ、やがて「はぎ」に変化したのだそうです。

 花は季節に従って咲き、次の季節を迎える前に散っていきます。散った後に、来季の花の備えをするのです。花の命さえ、創造者の意図があり、咲くも、枯れるも自在です。私たちを楽しませ、慰めてあまりある生き物です。神が装い、命を付与なさるのです。賢王の栄華も、野の花に及ばないのです。全てが命の付与者の御手の中にあります。

(HP「興味津々」より)

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