とこしえへの道に

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 『私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:24)』

 暇を持て余したわけではありませんが、しげしげと自分の手や指を眺めていると、『なんとキズだらけなのだろう!』と、自分ながら驚いてしまいます。傷の上にキズがあるという状態で、数え切れない傷を負いながら、膿むことも、破傷風にかかることもなく、今日まで生きてまいりました。

 ケンカの傷跡も身体に残り、よそ見をして足の脛、あの〈弁慶の泣き所〉をぶつけて負傷したりしたのです。その痛さは、跳び上がるほどの激痛がありました。さらに、左脇腹には、大きな手術痕もあるのです。

 温泉や銭湯に行きますと、傷口を見て、ドキッとした様な目で見られるので、肘を当てて隠すことにしているのです。八九三でもなかったのに、出入りで負ったキズだと勘違いされたことがあって、人を驚かせたのです。両肩には鍵盤断裂の縫合手術跡が、お臍にはヘルニヤの手術痕、左足には静脈瘤の手術痕が残っています。親にもらった大事な身体、いえ創造主なる神さまに頂いた身体を、キズだらけにしてしまったのです。

 そればかりか、心に負ったキズだって、数えきれないのです。負った傷よりも、〈負わせたキズ〉の方が何十倍も多そうで、申し訳ないことだと自責の念に駆られます。〈負わされたキズ〉だって、原因を考えると、ほとんどのキズは、こちら側にありそうで、穴の中に隠れたいほどであります。

 この詩篇の記者のダビデは、傷の自覚があり、その痕跡を忘れていないのです。気付いたものは、どうにか対処できます。でも、〈気付かずにいる傷〉があること、それが除かれないと、心の平安や喜びを、真に味わえないので、それを探ってくださるように、主なる神さまに懇願したのでしょうか。

 もう一つ幸福感にひたることができない、〈何もの〉かがあるのを、時々、自分も感じています。神さまと自分の間に〈遮蔽物〉になっているものがるのです。人との関わりは、実に難しく、何が原因かに気付かないでいるのが、そもそもそもの原因に違いありません。それに気付かないほど、自分に甘いわけです。

 それででしょうか、イエスさまは、次のようにお話になられたのです。

 『だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 (マタイ5:2324)』

 礼拝や祈り以前に、《関係回復》をする、《和解》をすることの勧めです。いいんです、相手がそれに応答しないで、和解や仲直りを拒んで、できなくても。一番大切なのは、《対神関係》だと学びました。神さまとの間に、〈わだかまり〉を置かない努力なのです。真の《赦し》をくださるのは、創造主なる神さまだからです。人って、突っ張っていて、自己義認の生き物で、原因や発端を相手に求めがちです。

 神の前に、どうであるか、そんなことを自らに問いながら、老いを迎えて越し方に思いを向けています。でも過去だけに関心を向けていると自己嫌悪に陥るので、輝ける未来に進むべき道を、主が道普請してくださった「とこしえの道」に、思いを向けて、希望を大きくして、前進しております。

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人の言葉と預言者のことば

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 日本で、本格的な国語辞書として、19555月に、岩波書店から、「広辞苑」が刊行されています。戦争前に、「辞苑」という辞書がありましたが、それを基に、新村出の努力によって、出版刊行されています。何と、語彙数は、20万語もあったのです。

 まだ小学生の私に、父が、漢和辞典の「字源」と対で買ってくれたのだと思って、独占して使い始めたのです。各語には類似語があって、それを次々に引いていくのが面白しかったのを思い出します。多分、四人の兄弟の中では、自分が一番多く使ったと思います。使い古して、引っ越しの時にでしょうか、どこかに行ってしまったのは残念でした。

 国語辞典とか百科事典で有名なのは、「ブリタニカ」や、「ウエブスター」があります。それには及びませんが、「センチュリー大辞典」と言う辞書が、発刊されました。その一冊を、癌を患っていて死期の迫っていた、あの尾崎紅葉が買い求めたのだそうです。「言語」に対する思いの強さに、驚かされます。

 江戸の芝中門前町の商家に生まれ、府立二中(東京の名門の日比谷高校の前身)から、東京帝国大学国文科に入学しますが中退、文筆活動に入り、江戸の井原西鶴を思わせる文章を著して、文壇に名を馳せたと言われています。

 その「センチュリー大辞典」ですが、その逸話を、東京都中央区の観光協会が、次の様に伝えています。

 『その紅葉と日本橋の丸善を結ぶ逸話が、内田魯庵(1868-1929)の『思い出す人々』に描かれています。魯庵は評論家、翻訳家、小説家として活躍した人ですが、当時丸善本社に書籍部顧問として入社、PR誌「学鐙」の編集や洋書の販売に尽力していました。

 明治の文壇にあって一世を風靡し、広汎な読者を獲得した紅葉ですが、若くして不治の病におかされ、余命三月を宣告されます。やせ衰えて丸善に来た紅葉は、『ブリタニカ』を注文しますが、品切れのため代わりに『センチュリー』を百何円の大金を手の切れるような札で買っていきます。紅葉は決して豊かではなかったそうです。魯庵は、死の瞬間まで知識の欲求を忘れず、豊かでない財嚢から高価な辞典を買うことを惜しまなかった紅葉に讃嘆します。

 魯庵は紅葉や硯友社の作品については批判的で、二人の仲も疎遠だったようですが、このときの「小一時間の四方山話」では、わだかまりもなく打ち解けることができたと書いています。そして誰も知らない「この紅葉の最後の頁を飾るに足る美くしい逸事」を後世に伝えるのだと言っています。「紅葉は真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。』

 文豪の尾崎紅葉の文章には、驚くほどの美しい言葉が用いられていて、日本語への飽くことのない愛があった様に感じられます。

 『未(ま)だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠(さしこ)めて、真直(ますぐ)に長く東より西に横はれる大道(だいどう)は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂くも往来(ゆきき)の絶えたるに、例ならず繁(しげ)き車輪(くるま)の輾(きしり)は、或(あるひ)は忙(せはし)かりし、或は飲過ぎし年賀の帰来(かへり)なるべく、疎(まばら)に寄する獅子太鼓の遠響(とほひびき)は、はや今日に尽きぬる三箇日(さんがにち)を惜むが如く、その哀切(あはれさ)に小さき膓(はらわた)は断たれぬべし。』

 これは、名作で、歌にも歌われた、「金色夜叉(こんじきやしゃ)」の冒頭の原文に、ふりがなが振ってあります。この作品は、1897(明治30)年11日~1902(明治35)年511日まで、読売新聞に掲載された小説でした。120年前の日刊紙に、こんな文体で、毎朝の新聞に目を通して、愛読の読者がいたのです。それでもしゃべり言葉は、次の様に、これもふりがなを振りました。

 「何だ、あれは?」、「それはどうも飛でもない事を。外(ほか)に何処(どこ)もお怪我(けが)はございませんでしたか」、「唯今(ただいま)絆創膏(ばんそうこう)を差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませう。故々(わざわざ)御招(おまねき)申しまして甚(はなは)だ恐入りました。もう彼地(あつち)へは御出陣にならんが宜(よろし)うございます。何もございませんがここで何卒(どうぞ)御寛(ごゆる)り」

 会話の様子は、口語体で書かれています。江戸期にも、喋り言葉は、今と同じで、ことば数は、外来語も含めて多くなってきていたのです。近代日本語を、作り上げた一人が夏目漱石(1867~1916)だだったのですが、この漱石は、江戸落語の三遊亭圓朝(18391900年)の寄席に通って、しきりに耳を傾けたのだそうです。

 「その圓朝の芸風は、夏目漱石が、高く評価していて、『その工(たくみ)が不自然でない。』、『余程巧みで、それで自然!』と言っています。まさに圓朝の噺は至高の芸だった様です。高度な表現技術を持ち合わせながらも、それを感じさせないごくごく自然な語り口で、しかも情味にあふれる芸風となっていたのである。」と評されています。それにしても、35歳で亡くなっているのは、惜しまれた死であったのです。

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 人の言葉の美しさを思う時、今、順次読んでいる「イザヤ書」の文体は、翻訳の日本語でも、美しく詩的であります。なおのこと文語訳聖書の表現が、個人的に自分は好きなのです。神からのことばを、掲示されて記したイザヤは、「主の救い」という名を持つ人でした。イスラエルの預言者として、ユダ王国(BC930年頃〜586年)の後期に活躍して生涯を送ります。

 3000年の昔に、こんな文学性を持った預言者がいて、「神のことば」を取り継いだわけです。明治期の文学の世界で、高く評価されて高名を得た尾崎紅葉の流麗な日本語も、「神のことば」には、比肩することはできません。神の愛に溢れる「ことば」には、いのちが溢れ、人を生かし、人を悔い改めさせ、永遠のいのちに至らせることができるのです。

(紅葉の生まれた芝周辺の古地図、預言者イザヤです)

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祈りの継承

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 『それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(ヨハネ20:27)》

 弱冠27歳のダーフィト・シュトラウスが、イエスさまの生涯の中から、「奇跡」とか「真理」を取り除いて、〈史的イエスの探究〉と言う目標を掲げて、「聖書」を薄い書物に改変しました。1835年に、神の子ではない、人の子として「イエス伝」を著したのです。不信仰の立場で書いた書物によって、教会史の中で、非常に悪い影響力を蔓延させたのです。キリストの教会に不信仰もたらせたわけです。それに賛成するかしないかが、結果的に問われたのでしょう。

 この人は、ドイツのシュトウットガルに生まれ、子どもの頃から、神学に強い関心を示し、チュウビンゲン大学に進学して、哲学を学びました。ところが、〈直感と感情〉で聖書に向かうシュライエルマッハーに共感してしまうのです。

 『誰から影響を受け、学ぶるか?』によって、人は変えられてしまいます。変えられた彼ら、主にドイツの教会の〈聖書批判〉から生じた「新神学(自由主義神学)」の影響は、世界に広がります。それは日本の教会をも見舞うのです。海老名弾正、小崎弘道は、その筆頭だったと言えます。小崎は、聖書信仰の立場を捨てています。あのシュバイツアーは、この系譜の中の人でした。

 私は、単純に、聖書の記すことを信じている母に育てられ、その母を生かしてきた聖書を、《神のことば》と信じ続けてきました。母や家内や子どもたちが、そして自分が病気した時も、『我はエホバ、汝を癒す者なり(エホバ・ラファ 出エジプト15:26))』と、天にいます神さまを信じて祈ってきました。この「祈り」、「祈れること」に感謝して今に至っています。

 主イエスさまが、「信じる者になりなさい」と、トマスに言われたように、自分にもそう語りかけているのです。『祈って!』と、幼かった四人の子どもたちが願うので、その都度祈ってきました。今や家庭を持った子どもたちが、家族や親族の必要があると、『お父さん、お母さん、祈って!』と言ってきます。

 昨日、姪の入院先の東京・八王子の大学病院を、三年ぶりに帰ってきた長女と一緒に見舞いました。5分ほどの面会でしたが、長女は、別れ際に、従姉妹の癒しのために祈っていました。それは、少なくとも三代に及ぶ、《祈りの継承》だったのです。

(「アレオパゴスの祈り」です)

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苦労の跡を

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 私は、「落語」が好きで、学校に行けないで、ラジオに育てられたので、この落語をよく聴きました。みなさん話術、間の取り方に長けておいででした。惜しくも早く亡くなられた、若い頃に聞いた金原亭馬生、兄貴的な立川談志、古今亭志ん朝などの噺は、極めて優れていると思っていました。廓噺(くるわばなし)や、呑み助の噺が多いのですが、人を、思わず吹き出させるほどに、屈託なく笑わせる話術は芸術の域なのです。

 とくに、金原亭馬生と古今亭志ん朝の兄弟、あの志ん生の息子たちの落語は、素晴らしいと思っています。志ん生が、満州に兵隊さんの慰問に、2年も出かけていたからでしょうか、家庭を顧みない残された家族は極貧だったそうです。その様子を、馬生が、次の様に思い返しています。

『幼いころ家が貧しかった。寒さで夜、眠れない自分のために、母は近所の人から古い湯たんぽをもらってきてくれて、「おそば屋さんに行ってお湯をもらっておいで」といった。不慣れなそば屋に入りそびれ、外で震えていると、通りがかりの男の人が声をかけてくれた。そば屋の人に、お湯を頼んでもくれた。店には天ぷらそばをうまそうに食べている客がいて、馬生少年は思わずジーッと見入ってしまう。すると、その客は店の人に怒鳴った。「おいこのガキに早く湯をやれ、そばがまずくなっちまうよ」。馬生は帰りの夜道を湯たんぽを抱いて、泣きながら歩いたという(「わたしとおそば」から)』

 この「貧しさ」が、この人の噺(はなし)に味を添えていたのでしょう、渋い味が人情噺にあったのです。一芸を為す人には、貧しい経験が、益になるのでしょうか。野球だって同じです。苦労人という人がいたのです。稲尾和久というピッチャーがいました。こんな話を残しておいでです。

 『薄い板一枚隔てて、下は海。いつ命を落とすか分からない小舟に乗る毎日だったが、おかげでマウンドでも動じない度胸がつきました!』とです。また、強靭な下半身は、この漁の手伝いによって培われたわけで、276勝もした名投手でした。性格も穏やかで、多くのフアンがいて、慕われていたのです。

 『苦労は買ってでもしろ!』、わが家の4人の子たちに、安易に生きるよりも、苦労をすることを願って育てたつもりですが、つらかった話を、ぽつりぽつりと話してくれる年齢に、彼らがなってきたようです。

 三年ぶりに帰って来た長女と、県北の那須地方に、彼女の運転で、家内と三人で旅行をしました。家内の恩師が中心になって始めた「アジア学院」を訪ねたのです。何もなかった原野を切り拓いて、農業指導者の養成を、五十年続けてきたと、案内をしてくださった職員の方がおっしゃっていました。

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 国内外、とくに東南アジアからみなさんが多く、有機農法で、穀物や野菜や果物、養豚や養鶏をされてきておいでです。広い敷地の、門のそばに、稲の田植えを終えた田んぼが広がっていました。その田んぼに鴨が泳いでいたのです。これも農薬を使わない農法の一つで、聞いてはいましたが、実際に鴨の泳ぐ姿を見て、感動的でした。巴波の流れを泳いで、観光客に餌をねだるのとは段違いだったのです。

 地域のみなさんとの軋轢もあったり、資金繰りもあって、その五十年の運営は苦労が多かったのでしょう。自然農法を実践する真摯な農業人がいて、目の青い欧米人の指導者やボランテアのみなさんが、イキイキと働いておいででした。出来上がった米や小麦粉で作った醤油や煎餅やクッキーを買い求めて、帰って来ました。

 ここにも「苦労」を、苦労としない人たちの夢や理想の跡が見られて、素晴らしい時でした。栃木に来て以来、家内の願いが叶えられて、長女の運転のレンターカーでの訪問でした。そういえば、その「那須野が原」は、人の住めない原野だったのが、入植して水路を開き、開墾し、青々とした田んぼや牧場が、今家広がっていました。明治人の強靭な心や肉体、そして開拓魂が感じられたのです。

(「アジア学院」の看板と咲く菖蒲の花です)

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ただ感謝あるのみ

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 『天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。(イザヤ4913節)』

 小学校の何年生だったかの記憶がないのですが、私たち四人の男の子たちの父親は、お酒を飲まない代わりに、食通だったのでしょうか。若い頃は、稼ぎが良かったのでしょう、大島紬の和服を数着持っていて、羽織には〈家紋〉が付いていました。

 良い物好みで、持ち物は多くは持ちませんでした。物を大事にする人でした。昔の人が、そうだったのでしょう、良い物をわずかに持ち、和服の洗い張りとか縫い直しとか、Yシャツの襟の裏返をして、衣替えすると大事に保管もして来季に備え、襟などの汚れた箇所は、母にシンナーで拭かせていました。

 靴など、母がピカピカに磨き上げ、クリーニングに出したYシャツを着て、いわゆる dandy で、颯爽として都内に勤めに出ていました。ある時、渋谷に連れ出してくれて、青山だか六本木だったでしょう、『こんなの初めて!』と言う、柔らかな子牛と豆と黒パンの料理とデザートをご馳走してくれたことがありました。私は、子どもたちには、そんな豪華な目を見張るようなものはご馳走したことがなかったのです。父に真似られない懐事情だったからでした。

 そんな父親に真似た点だってありました。勤めを始める私に、次兄が、背広を誂えて、就職祝いをしてくれたのです。それに見合うように シャツを誂え、メーカーの名前を忘れた名靴を履き、父のように背筋を伸ばして、颯爽と通っていました。少なくとも5年間は、父似の dandy な青年でした。

 自分なりに夢を持って、社会人として生き始めて、けっこう順調な始まりだったと思うのです。ところが、キリスト教伝道者になるように迫られて、その夢を替えました。その職場を退職して、宣教師と共に出かけて行くまで、母教会の信者さんの経営する、鉄工所で、溶接工として働かせてもらい、大きな自動車工場の溶鉱炉の中で、煤で真っ黒になりながら働いたこともあったのです。

 その方のお嬢さんの家庭教師をしながら、出かけるのを待機していたのです。その職場のおじさんが、『キリスト教って、教師を辞めるほど、収入が多いんですか?』と聞かれたのです。だいたい転職の動機は、待遇の良い職種や職場に移って行くのが常なので、そう、聞いてきたわけです。『ええ!』と答えた私でした。

 それで、母教会から、1時間半ほどの街に出かけたのです。そこには、父の知人がいて、この方の紹介で、青果物の卸商の荷運びの手伝いを、地元の青果市場で始めたのです。ネコという台車で、同じ年齢の青果商が競り落とした蔬菜や果物を運んで、大きな車の荷台に積み上げて行く仕事でした。学校時代に、青果市場でアルバイトをしていたことがありましたから、なんの苦にもなかったのです。

 それでは、家族を養うには、足りませんでしたので、母教会が、長い間助けてくれたのです。そして、卸商の方が、優しい人で、野菜や果物を、『これ食えし!』と言っては、いつも分けてくれたのです。数年経った頃でしたが、東京に用があって行って、母を訪ねたのです。新しい地での生活を心配して、住んでいた家を訪ねると言った母と一緒に、特急電車に乗ったのです。

 その同じ車輌に、後に校長になられる、私の勤めた学校の上司、社会科の主任の先生が乗っていたのです。あちらは気付かなかったのですが、意気揚々と退職した職場の主任に、弟に貰ったズボンとジャンパー姿で、颯爽として働いていた頃とはだいぶ違った自分を、誇らなければならないのに、初めて恥じたのです。クルッと顔の向きを変えてしまいました。

 献身の生活は、持ち物も少なく、貧乏臭く見えたのでしょうか、母が、とても心配してくれました。それ以来、隣国に行っても、月々、母は、遺族年金から、天に帰る少し前まで、大金ではありませんでしたが、援助し続けてくれたのです。家内はパートで働くと言ってくれ、乳酸菌飲料の配達などを、子育てしながら、喜んで続けてくれたのです。足りないことも、人に物やお金を乞うことはしないで、生きてこれました。それは今に至るまで同じなのです。

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 イエスさまは、アッシジのフランチェスコのような乞食のような身なりはなさらなかったのです。フランチェスコは履物を脱いで裸足で歩き、皮のベルトでなく縄を腰に巻いた姿で歩いた人だったそうです。奇行などではなく、物の豊かさや華美に生きることもなかったのが、イエスさまでした。人から哀れさを感じさせるようなことはありませんでした。ローマ兵が、十字架に行くイエスさまの服を、くじ引きにした記事が、聖書にあります。皇帝に養われていたローマ兵が、くじ引きするほどに、イエスさまは良い物を身につけておいででした。決して惨めな風体ではなかったことになります。

 また、母国の団体や幾つもの教会から援助されている宣教師さんたちとは違い、私たちの交わりの宣教師さんたちは、個人の立場で、家族や友人たちの support  で伝道されていました。大きな家にも住んでおいでの欧米からの宣教師さんたちが、保養地に別荘を持っていたのに、私たちの交わりの宣教師のみなさんは、そう言った生活をされませんでした。

 ある宣教師さんの家に行くと、いつもスパゲッティが出て来たそうです。それだけしか出せなかったのです。その方のお父さまは、母国の教会の牧師さんでしたが、母国の諸教会に手紙一本出すことも、援助の要請もしなかったのだそうです。送られてくる愛心で、生活をし奉仕をしておいででした。その5人のお子さんたちの4人が、今は伝道の働きをし、3人は日本で奉仕しておいでです。残りのお嬢さんも、留学生のお世話をしながら伝道をし、一番上のお嬢さんのご主人も教会の役員をされています。奥さまは、ご主人を天に贈られて45年の経った今年、100才になられます。

 どういうわけか、疲れてしまった私と家内を、その宣教師さんは、ご自分の教会に、家族で、きっと招いてくれたのです。まだ、家で学んでいたお子さんたちは、私たちに部屋を三日ほど提供し、どこかの隅で寝ていたのです。そんな彼らは、豊かには見えませんでしたが、説教の謝礼と言って、けっこう高額な献金をいただいて、帰宅したのです。この方が、理解者でいてくださったことが、今日がある所以です。

 『ユリ、準は大丈夫だからね!』と、夫を助けていきなさいと言ってくださったそうです。今は、満ち足りる喜びで、今はゆっくり静かな時季を、巴波川のほとりで過ごしています。時々、息子たちが、様子を見に来たり、助けに来てくれています。『お父さんたち大丈夫なの?』などと、親が言ってきたことを、〈鸚鵡返し〉に言ってくれれいます。感謝な日々です。

 三年ぶりに、帰省してきた長女が、二週間の滞在中に、家事をしてくれています。ちょっと痩せてきている家内に、美味しいものを食べさせようとしてくれているのです。この土曜日には、姉に会いたくて、昼過ぎに次男が、家内と姉の好物、新宿のデパ地下で買ってやって来ました。夕方には長男家族が訪ねて来たのです。二人だけの家が、急に賑やかで笑い声が溢れました。ちょとお風邪気味の私の方を、嫁御が揉んでくれ、孫たちと談笑しながら食事をしたら、頭の痛いのが飛んでいきました。

 これまで歩んできた一日一日に、主の守りと祝福がありました。「人生の秋に」生きている私たちですが、為すべきことがあって、それに忠実でありたいと思う日々です。感謝のほか何もありません。

(ダンディー親爺、団欒のイラストです) 

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隠されたものの露見が

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 『おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。 ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(ルカ1223節)』

 子どもの頃に、〈炙り出し(あぶりだし)〉という不思議な遊びだか化学実験だかがあったのです。なぜそうなるのかが、子どもの私には理解できなかったので、不思議でならなかったのです。種明かしは、特殊なインクで紙の上に書いてあっただけで、魔法などではなかったわけです。

 身近にあった食べ残しのみかんの皮を絞った汁で、紙に描くと、乾くと描き跡が消えてしまうのですが、それを火にかざすと、描いた文字や絵が浮かんでくるのです。みかんの出回る季節にやってみたのですが、原理が分かると、どうってことはないのですが、最初にやった人は、やはりすごいなあと思ったのです。

 闇の中で行われている物事を、灯をかざすことによって、見えるようになるのも、〈あぶり出し〉になるのでしょうか。犯罪など、世の中に起こっている事件や出来事の原因などについても、それを究明するために、警察や税務捜査官や特捜が活躍しています。この方たちは、〈あぶり出し〉の専門官かも知れません。

 戦後政治に「闇」の部分があって、国民には、長く隠されていました。知る由のなかった、その闇が暴かれた事件が、先ごろあったのです。私たちが学校に行っていた頃からでしょうか、キャンパスで、ある団体が、熱心に活動していたのです。共産主義運動と創価学会と統一教会などでした。巧みに口車に乗せて、信者やシンパ(共鳴者)を獲得していたのです。

 五月になると、後に「さつき病」と言われるようになる病が、学生の間に蔓延していきました。夢を持って入学したにも関わらず、授業につまらなさ、教師陣の熱のなさなどで、期待が裏切られて、戸惑った学生が、虚な目をして、心理的に不安になっていたのです。同級生には自殺者もいました。大阪医師会が、次にように知らせています。

 『入学や就職にともない学校や職場で新たな生活がスタートします。新生活は、慣れないことも多く知らず知らずのうちにストレスがたまるものです。気づかないうちに無理をしてしまうことも少なくありません。また、仕事の内容や環境が自分に合っていないために、「適応障害」を起こしていることもあります。こうして1カ月が過ぎ5月になる頃に、身体のだるさ、疲れやすさ、意欲がわかない、物事を悲観的に考えてしまう、よく眠れない、食欲がないなどの心身の症状が現れることがあります。これを「五月病」といいます。五月病は、正式な医学用語ではありませんが、一般に、この季節に学生や新入社員に起こりやすいため、こう呼ばれています。』
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 さめていた自分は、時間のある時には、アルバイトなどしたり、出会った級友たちと、駅前のルノアールで、苦いコーヒーをすすってのお喋りで、自分の経歴や夢や恋心を、けっこう熱っぽく語って、自己顕示、自己主張をしていたので、罹患しないですみました。夢なんか、破られて丁度のものと思っていたこともあってです。それにしても濃くて苦い印象が、最初の頃のコーヒーの味だったなあ。

 昨年の前の首相へのテロ事件は、単なるテロリストによる、政治的な犯罪なのだと思っていましたが、隠れたことがあったようです。安倍一族と、お父さんの義父に当たる岸信介元首相と、〈勝共連合(反共産主義運動を縹渺した統一教会)〉との強固な繋がりを継いできた勢力への反動、〈NO!〉でもあったのだそうです。宗教被害、二世代被害だけの不満爆発だけではなく、事件の結果が、そのようなことが暴露されたこと、隠れたものが〈炙り出し〉になってしまったのでしょう。

 隠れたところで行われた出来事は、隠れたところで見ておられる方によって、お見通しで、それが必ず露見してしまうのです。善も悪も、人を造られた神さまは、漏れなくご存知なのです。だからでしょうか、疑心暗鬼になって、政治不信が蔓延してきてるのです。かつて、それが亢進してしまって、侵略戦争を起こし、敗戦によって、国が破綻してしまったのが、歴史の事実なのです。

 一人一人は良くても、組織に組み込まれた人、組織に動かされる人は、思ってもみなかった結果を、いつの間にか生んでしまうのでしょう。初めは、全く意図したり、計画したことにないことが、闇の勢力に inspire されてしまうと、もう訂正できないようなうねりや、激流になって飲み込まれ、あれよあれよと思っているうちに、悲惨な結果を生んでしまうのです。

 まさか、あのピラトだって、イエスさまを十字架につける最終決定者になろうなどとは思いもしなかったのでしょう。でも、歴史の激流に中に呑み込まれて、末代まで、その恥な罪深い執政官というレッテルをもらったのです。そのキリストであるイエスさまによって、自分の人生の方向が変えられて、満足で今を過ごしております。ピラトになるまじく、主なる神さまを畏れ、今を生きたいものです。

(「喫茶店とコーヒー」のイラストです)

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父の日後日譚

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 「父の日」だったからか、母親を気遣ってか、いやその両方で、ハワイにいる長女が、浅草に寄って、浅草名物を買い込んで、東武特急日光線で、ハワイからやって来ました。浅草名物を手にしてでした。溢れるようなお土産を満載した二つのスーツケースを羽田空港で宅配にしてでした。「コロナ禍」で親孝行のできなかった三年の後の帰省でした。

 届いたのは、食卓に載せきれないほどでした。ここでは買い出し、食事の用意、後片付けをやってくれています。昨日は、県都・宇都宮に行って、綿の手拭、駅弁、モツ焼鳥などを買って来てくれました。” Tops chocolate cake “ を夕食後に、20年以上ぶり食べて満足でした。

 前日の土曜日の昼過ぎに、新宿発の一本で来れる日光・鬼怒川行きの特急電車で、次男が新宿のデパ地下で、母親のために、来るたびに持参する浅草名物の「よもぎ団子」、それに「水羊羹」、「大学芋」、「豚の角煮」、「落雁」などなど、ちっと甘い物傾向の菓子類などを手にして、やって来たのです。家で、姉弟、積もる話が盛り上がっていました。

 その夕方に長男家族が、中華セットの夕食を手に、玄関のチャイムを鳴らしました。嫁御は、体調不良の肩のツボを、巧みに押して、アンマをしてくれました。頭痛で日本手拭いで、鉢巻きをしていたのが、すっかり無くなってしまいました。すごく上手でした。孫たちは、面白おかしく、オバと幼い日を語合い、九時近くになって、明日の礼拝のために帰って行きました。

 『今日はこちらで父の日です。日本は昨日でしたね!🙇ごめんなさい。いつもいつもブログやメッセージで励ましてくれて、本当に感謝してます!お父さんの正直な気持ちがよく分かるようで、いつも楽しみにしています。これからもご指導のほう、よろしくお願いしますね!8月の終わりに会えるの楽しみにしています!!では。』と、アメリカ時間の「父の日」の Message を、この交わりに加われない次女が送ってくれました。8月に、家族で訪ねてくれると言ってくれています。

 『多過ぎ!!!」と、何度か言われたこともあったのですが、四人四様の今を、精一杯、それぞれが生きていて、優しいお母さんとガミガミオヤジを思っていてくれています。

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この頃の散歩道の花々

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 『しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(マタイ6章29~30節)』

 こちらに住み始めた頃、前の家の近くの家の庭に、「サボテンの花」が咲いていて、『キレイだなあ!』と思って通り過ぎたまま、時が過ぎてしまいました。自転車ではなく、散歩していると、あの時以来、数年ぶりに、咲いていたのです。

 もう嬉しくなって写真に撮りました。砂漠でなく、道路に面した庭で見て、うれしくて可愛い子に逢った気持ちでのシャッターだったのです。梅雨の合間に、通り過ぎる道の端に、美しく咲いている花々に励まされています。

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へゝ、のんきだね!

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 添田唖蝉坊が、明治・大正期に、おもに浅草で活躍し、世の中を斜めに眺めて、壮士節を継承し、表現したのが、「のんき節」でした。時の政府や財閥、権力者や社会を笑い飛ばした「風刺」の演歌だったのです。路傍での演説の代わりに、壮士たちがバイオリンを弾きながら、こんな歌を歌ったのです。だれもが、呑気に生きたいのですが、この世の現実は、世知(せち)辛く、問題ばかりで、将来を見通せなく、問題や課題が山積した、邪悪なままにとどまっているからです。

學校の先生は えらいもんぢやさうな
えらいから なんでも教へるさうな
教へりや 生徒は無邪氣なもので
それもさうかと 思ふげな
ア ノンキだね

成金といふ火事ドロの 幻燈など見せて
貧民學校の 先生が
正直に働きや みなこの通り
成功するんだと 教へてる
ア ノンキだね

貧乏でこそあれ 日本人はえらい
それに第一 辛抱強い
天井知らずに 物価はあがつても
湯なり粥なり すゝつて生きてゐる
ア ノンキだね

洋服着よが靴をはこうが 學問があろが
金がなきや やっぱり貧乏だ
貧乏だ貧乏だ その貧乏が
貧乏でもないよな 顏をする
ア ノンキだね

貴婦人あつかましくも お花を召せと
路傍でお花の おし賈りなさる
おメデタ連はニコニコ者で お求めなさる
金持や 自動車で知らん顔
ア ノンキだね

お花賈る貴婦人は おナサケ深うて
貧乏人を救ふのが お好きなら
河原乞食も お好きぢやさうな
ほんに結構な お道樂
ア ノンキだね

萬物の靈長が マッチ箱見たよな
ケチな巣に住んでゐる 威張つてる
暴風雨(あらし)にブッとばされても
海嘯(つなみ)をくらつても
「天災ぢや仕方がないさ」で すましてる
ア ノンキだね

南京米をくらつて 南京虫にくはれ
豚小屋みたいな 家に住み
選挙權さへ 持たないくせに
日本の國民だと 威張つてる
ア ノンキだね

機械でドヤして 血肉をしぼり
五厘の「こうやく」 はる温情主義
そのまた「こうやく」を 漢字で書いて
「澁澤論語」と 讀ますげな
ア ノンキだね

うんとしぼり取つて 泣かせておいて
目藥ほど出すのを 慈善と申すげな
なるほど慈善家は 慈善をするが
あとは見ぬふり 知らぬふり
ア ノンキだね

我々は貧乏でも とにかく結構だよ
日本にお金の 殖えたのは
さうだ!まつたくだ!と 文なし共の
話がロハ臺で モテてゐる
ア ノンキだね

二本ある腕は 一本しかないが
キンシクンショが 胸にある
名譽だ名譽だ 日本一だ
桃から生れた 桃太郎だ
ア ノンキだね

ギインへんなもの 二千圓もらふて
晝は日比谷で たゞガヤガヤと
わけのわからぬ 寢言をならべ
夜はコソコソ 烏森
ア ノンキだね

膨脹する膨脹する 國力が膨脹する
資本家の横暴が 膨脹する
おれの嬶(かゝ)ァのお腹が 膨脹する
いよいよ貧乏が 膨脹する
ア ノンキだね

生存競争の 八街(やちまた)走る
電車の隅ッコに 生酔い一人
ゆらりゆらりと 酒のむ夢が
さめりや終點で 逆戻り
ア ノンキだね

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 この歌詞以外に、〈鮹に骨なしナマコに眼なし 政府に策なし議員に抱負なし 民に職なし 愛もなし 皮肉にや抱負と骨がある へゝのんきだね〉などと歌っていました。

 この令和の御代には、どんな「のんき節」が歌われるのでしょうか、庶民の目をくらます、颯のようなツブテが上の方から飛んできます。身をかわしても避けられないで、まともに受け止めてしまうのです。

 この演歌師の気分になって、笑いを誘う、風刺やhumor (ユーモア)や、機知にあふれた歌詞で歌ってみたい気分に、私もされています。まさに物価高で経済不安、戦争や戦争の噂が飛び交い、テロリストの暴挙、軽い気分なのででょうか殺人、詐欺、強盗のニュースが矢継ぎ早です。呑気ではいられない世情の中で、神経質な世の中を、『へゝのんきだね!』と笑いでとらえてみたいものです。

(演歌師のイラストです)

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美味しい果物の季節到来.

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 私たちが、過ごした華南の家で、この時季の一番人気は「マンゴウ」でした。小ぶりな物が安く、甘くて香りが好く、南国の香りと味がして、美味しいのです。種類も多く、台湾から輸入された物は高級で最高ですが、もらって食べるくらいです。二番人気は「パパイヤ」、『3つで10元です(1っこ60円ほど)!』と売っていて、檸檬(レモン)を絞って果肉と一緒に食べた味は最高なのです。

 わが家を訪ねてくださった日本からの友人に、これをご馳走しましたら、実に美味しそうに食べていたことがありました。三番人気は「榴liulian/ドリアン」、匂いは強烈ですが、<果物の王様>だけあって、他を凌いでいます。ただ、とても高いので、素通りしていました。四番人気は「マンゴスチン」、これは「果物の女王」と言われるだけあって、冷やして食べたら、ほの甘くて、上品な舌の感触があります。

 果物は、日本では目が飛び出すほど高値ですが、それでも、あちらでは安く買い求められます。スイカ、ぶどう、桃、梨が出回って、何種類もの杏子も、果物屋の店頭に並んでいるのです。国が広いからでしょうか、それに輸入品も出回っていて、果物種類の多さ、同じ果物でも何種類もあって、名称が違っています。果物好きには、天国の様です。

 「サトウキビ」も、収穫したままの太い篠竹の様に、店頭に立てかけてあって、買うと、皮剥き機で剥いてくれたり、絞り機で果汁にして売っています。土が付いたままで売っていますのです、ちょっと買う気にはなりません。郊外の畑に植えられている、周りの様子を見ているので、買う手が引っ込んでしまいます。
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 格子戸で囲まれた小区の入り口の脇にある果物屋に行きますと、『これが美味しいよ!』と勧めてくれましたので、財布と相談しながら買ったり、手を引っ込めたりしていたのです。熱く火照った体に、夏場の果物は、最高です。毎週、水曜日にお邪魔していた家は、いつも果物を用意して出してくれたのです。なんでも美味しいのです。『これ甘くて美味しいですよ!』と、ご夫人が手で渡してくれて、美味しそうに頂いていました。

 彼女は、美味しい果物屋を知っているのです。『何処で買うんですか?』と聞きたくなる言葉を引っ込めています。そんなこと言ったら、買ってきてくれるからです。亜熱帯の地、この街の人たちは、生きることを楽しむのだそうです。それに気前が好くって、人のことを考えていてくれ、実に好い人たちなのです。瑞々しくて美味しい果物の様です。

 こんなことを思い出したのは、昨日散歩帰りに寄った、スーパーマーケットの果物売り場に、マンゴウがたくさん並べられてあったからです。一つ、980円で、メキシコからの輸入品でした。しかも追熟前で、あの甘い香りもしなかったのです。ブレンダーで、牛乳とラカント(羅漢果から取った甘味料)に果肉を入れて、撹拌して頂くと美味しいのですが、手が出ませんでした。

 もうスイカやメロンのシーズンなのでしょうか、たくさん並べられてありました。〈高級果実〉、なんだか今年は値段がとびっきり高いのです。それで、ニュージーランド産のリンゴとオレンジを買ったのです。これからは、梨がでまわり、桃も季(すもも)もイチジクも、店頭に並ぶでしょうか。果物の美味しい季節を感じております。

(「マンゴー」と「イチジク」です)

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