我、山の子なれど

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 夏場の「泳ぎ」は、もっぱら多摩川でしました。中央線の鉄橋の下が、格好の水泳のできる箇所だったのです。硬質の粘土("ナメ"と呼んでいました)が、川の流れでえぐられて、3〜4mも深さがあったでしょうか。水は澄んでいて、「ハヤ」の魚影を裸眼で見ることができました。 

 病欠児童の自分が、四年生頃から元気になり出してからは、一夏中、そこに行っては泳いだのです。海水浴など行ったことがありませんでした。でも、文部省唱歌で宮原晃一郎の作詞で、作曲不詳の「われは海の子」をよく歌っていました。

1 われは海の子 白浪の
  さわぐいそべの松原に
  煙たなびくとまやこそ
  わがなつかしき住みかなれ

2 生まれて潮にゆあみして
  波を子守の歌と聞き
  千里寄せくる海の気を
  吸いて童(わらべ)となりにけり

3 高く鼻つくいその香に
  不断の花のかおりあり
  なぎさの松に吹く風を
  いみじき楽(がく)とわれは聞く

4 丈余のろかいあやつりて
  ゆくて定めぬ波まくら
  ももひろちひろ海の底
  遊びなれたる庭広し

5 いくとせここにきたへたる
  鉄より堅きかいなあり
  吹く潮風に黒みたる
  はだは赤銅(しゃくどう)さながらに

6 波にただよう氷山も
  来たらば来たれ 恐れんや
  海巻きあぐる龍巻も
  起らば起れ おどろかじ

7 いで大船を乗り出して
  われは拾わん海の富
  いで 軍艦に乗り組みて
  われは護らん海の国

 この歌は、明治43年(1910年)、『尋常小学読本唱歌(六)』(6年生用)に掲載されています。海洋国家で、国土の狭い日本が、果たそうとしたのが、海外進出、海外制覇だったのです。戦後の教育を受けた私たちは、歌詞の3番までしか歌ったことがありませんでした。平和憲法を戴いた戦後の学校で歌うには、4番以降の歌詞は削除されたのです。

 それで、海への憧れが養われて、『何時か、海外へ雄飛するんだ!』と、自分を鼓舞したのですが、結局は現状維持の危険な冒険を冒さない、平凡な生き方を選んでしまいました。それでも18でアルゼンチンを考え、大人になってからはインドネシアも思いの内にあり、結局は、六十を過ぎた頃、職を辞して、中国に行ったのです。大阪港から上海の外灘への船旅は、結構、海に憧れた少年時代を過ごした私には、満足させてくれるものがありました。

 飛行機ではなく、船の旅は、鴎が飛んだり、トビウオが船と競争したり、海に落ちていく夕陽は、驚くほどに神秘的だったのです。二日間の船旅はゆっくりで、ボウっとする時があったり、海面が見える風呂があって、そこに入って、それを眺めたりできるのも"乙(おつ)"なものでした。

 今住んでいます栃木のみなさんは、〈海なし県人〉で、海に対する憧れが強いのでしょう、よく行かれるのは、茨城県の海だそうです。小山に両毛線で行き、そこから、水戸線で出掛けるようです。もちろん、車で出かける方たちが多いようですが、この五年間、海の潮騒をきくのが好きな私ですが、まだ出かけたことはありません。

 横須賀で育った父は、少年期に遠泳をして、夏を過ごしたと言っていました。〈六尺褌(ろくしゃくふんどし)〉をしめていたそうで、溺れた時の救助を考えた、優れた水泳着だったのです。中学一年の夏に、その真っ赤な褌をしめて、ちばのうみで行われた、臨海学校に行ったのです。山のこの私は、この「海の子」の歌を、羨ましく歌っていました。

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しゃべり言葉の面白さ

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 『あー、あー、あー』、『テス、テス、テスティング』、『マイクテスト、マイクテスト』と言って、マイクロフォンを使う時に、通じているか、音の高さは大丈夫か、エコーになっていないか、そんなことを試すことがあるそうです。

 NHKなどでは、以前は『本日は晴天なり、本日は晴天なり』と、マイクテストをしたそうです。これは、英語放送をする時に、“It is fine today”を直訳したものなのだそうで、英語では、“f”“t”の音をチェックしたのですから、日本語に翻訳しても、本来なら意味がないことになります。

 こう言うのを「猿真似」というのでしょうか。中国語ですと、“d”“t” の区別が難しいのです。「電」は"dian”、「田」は“tian”なのです。この発音がなかなか大変で、物真似をするのですが、どうも猿真似で、身に付かないのです。

 “f”“h” と区別ができないのです。「ファ」が「ハ」になってしまうは、日本語には、「ファ」の発音の言葉はないからです。逆に中国の方は、「きっと」とか「ちょっと」とか「ぱっと」という発音が、「きと」、「ちょと」、「ぱと」になってしまうのです。この「促音」の発音が漢語にないからなのです。

 英語圏では、「猿真似」を、“copy cat"といって、「猫」になるのだそうです。「猫に小判」は、欧米では「豚に真珠」で、因みに中国語では「対牛弾琴」で「牛」に琴の音を聞かせることなのです。「猫に鰹節」は「猫にミルク」と言うのだとか、因みに中国語では「虎口送肉」、肉食の「虎」の口先に肉を置くのに似ているようです。

 アルバイトをしていた時に、秋田出身の社員の方がいて、東北弁の口調を、初めて自分の耳で直接聞いて、すごく暖かさを感じたのを覚えています。性格が穏やかで、いつもニコニコしていて、恥じないで一生懸命喋っていたのです。『うんだべさ!』を聞き覚えて、時々使ったことがありました。『そうなんだ!』というよりも、本当に、その通りなのが伝わってきたのです。寒いから、あまり口を大きく使わないで話した言葉なのかな、とも思ったのです。

 鹿児島で、お会いしたおばあちゃんの「薩摩弁」は、まったく分からない、まるで外国語でした。一生懸命話しかけてくれて、大歓迎してくれましたので、ただ頷くだけでした。西郷隆盛と従道も、兄弟で話す時には、「薩摩弁」だったのでしょうね。

 在華中にも、今まで標準語を話していた方が、同じ故郷の方から電話が入ると、その「方言」に切り替えて話し始めるわけです。ある時、英語での講演を、中国語に翻訳しているのを聞いて、日本語に置き換えていたら、もう疲れてしまいました。英語だって、50年も使っていないのですから。言葉って、面白いですね。

 方言を持たない、標準語語りを自認していますが、東京弁だって、江戸の下町言葉と長州弁でできたと聞きますし、その東京弁の人が、私の標準語だと思って使っているのを聞いたら、『ちょっと違うなあ!』と思うことでしょう。

 中部山岳の地で生まれ、その地で小学校一年生の一学期まで過ごした時の言葉が、家の中だけで時々混じっていたのです。父も母も、そこの出身ではないのにです。小学校を、東京の南多摩郡で過ごしましたので、土地っ子の話す〈べえべえ言葉〉を、真似して話していました。群馬県や神奈川県でも、それを話し、栃木に参りましたら、『そうだべえ?』と話す言葉を時々聞きます。

ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく 啄木

 乗り換え駅では、その沿線のそれぞれの地の言葉で、同郷者どうしの話し言葉が聞こえてくるようです。新宿駅から、長野方面行く中央線の列車に乗り込むと、甲州弁、信州弁が聞こえたのです。上野も池袋も品川も、同じなのでしょうか。歳をとって、故郷の出雲弁が出てきた、緊張感の緩んだ母のしゃべり言葉を思い出します。

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カラー

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 去年、下の息子が、贈ってくれた「 カラー」が、黄色い花びらを一つ出してきました。季節に、自然界は正しく従って、芽を出し花を咲かせます。任せ切った生き方、在り方が大切なのでしょう。そういえば、力んだりしていないのです。

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[memory]こんな出来事もありました

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 もう40年ほど前になるでしょうか、ある日曜日の早朝、東京の都内のナンバープレートの車が、教会の横に停車したのです。一人のフィリピン人の女性を抱えた、ちょっと怪しい男たちが二、三で付き添っていたのです。彼女のマネージャーのRさんと言う方が、精神錯乱を起こして困っていて、『あなたなら何とかしてくれる!』と聞いたので、連れて来たのだと言うのです。無名なのになぜ知ってるのかと思いました。でも、この女性をどうにかしなければなりませんでした。

 担ぎ込まれた女性を、教会の一階の道路に面した部屋に案内したのです。子どもたちの朝の世話もありましたが、上の子たちに任せて、若い女性が、口から泡を拭きながら喘いでい、叫び続けていました。家内と二人で、“In The name of Jesus , go out ! “ 主イエスの名に 主イエスの名に 勝利あり(癒しあり) ・・・ 悪魔去り(病去り)・・・In The name of Jesu,  In The name of Jesu , We have The Victory ! “  と賛美しながら、悪霊の支配から、彼女が解き放たれるように祈り、さんびし続けました。小一時間しましたら、鬼の形相をしていた、くだんの女性が、正気を取り戻したのです。

 ニッコリ笑って、何もなかったかのように振る舞い、よく見ますと驚くほどの美人だったのに、驚かされたのです。この方をしばらく預かってから、連れが来て帰って行きました。聖書にもあり、私たちの牧会の中で、悪霊の問題を取り扱ってもいていましたので、私たちにできることを自覚し、神の支配の中に、彼女を取り戻そうとしたのです。

 カトリック教徒の同僚の踊り子たちも3人ほど付き添っていたのです。一人の方が、礼拝場の壁の十字架を外して、彼女の上に置いたのですが、その手作りの木製の十字架には力がないので、やめさせたのです。しばらくして彼女たちが、私たちの街の近くのバーで働くように、越して来られ、しばらく交わりがありました。その後も、同じような方が連れて来られたのですが、私は疲れ果ててしまったのです。

 この〈解放の務め〉は、自分の lifework だと思った時期がありましたが、教会の牧会上の責任もありますし、住宅街にあった教会でしたから近所迷惑にもなるので、『廣田さんの所に連れて行けば!』と言う要請を、主に願って、断ってしまいました。ある面で得意になってしまったのですが、日常を守れなくなっては、正しく奉仕の道を歩めないのでやめさせてもらったのです。

 この〈得意にさせる誘惑の力〉、自分の所に来たら、縄目から人を解放させられると言う務めが、魅力的にも思われたのです。でも、それは、十字架の贖罪の力、キリスト・イエスの復活の力、聖霊の力によるのであって、自分にその力があるのではないことを示され、そんな主の導きがあったのです。どんなに目覚ましく働いても、自分の本来の務めを行えなくなっては、伝道者としては相応しくないことを学ぶことができたのです。

 得意な点、成功の中に、驚くほどの誘惑があるのです。『あなたをサタンが恐れている!』と言う誘惑です。そんな罠が仕掛けられているのを見逃して、堕ちてしまった働き人が多くおいでです。お金や異性や名誉だけではなく、そんな誘惑の手があるのです。そう〈忙しくさせる罠〉でもあります。ですから、それは得意満面で買ってできる務めではなく、恐ろしく大変な闘いであるのです。

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 その頃でしょうか、井上良雄師の著した、「神の国の証人ブルームハルト父子(新教出版社刊)」を読んでいました。ドイツの南に位置する、メットリンゲンの村で、精神錯乱の若い女性の問題に、牧師や長老や村長たちが立ち向かい、2年ほどの格闘の末、1842年に、この女性のお姉さんで、同じように悪霊の支配にあり続けて、時がきて、『イエスは勝利者だ!』と告白して、解放されるのです。その記事を読んでいたわけです。

 医学上の精神病とは違った、闇の勢力が人の人格を蹂躙してしまう事態に引き摺り込む、まさに悪霊の働きが、時には見られるのです。あのフィリピンの女性は、イエスの御名と、十字架の勝利の告白とによって、完全に解放されたのです。子どもたちの養育や教育のために、スーパーマーケットで午前中は働き、月には数回徹夜でそのスーパーの床の清掃事業もしていて、私の時間や奉仕の容積には無理だったのです。

 それ以降、何もなかったわけではありませんが、《みことばの説教、礼拝、賛美》こそが、人を解放するのだと言う教訓を、子ブルームハルトのバートボルの家の働きの中から学んだのです。彼の奉仕中、ヨーロッパ中から、奇跡を認めて、人々が、バートボルにやって来ました。玄関の脇には、歩行補助の松葉杖などが、山高く積まれているほど、顕著な癒しがあったのです。ある時から、そう言って、ただ奇跡を認めてくる人のための祈りをやめたのです。『聖日曜日に、礼拝に来て、講壇から語られる《みことば》を聴きなさい!』と、ブルームハルト牧師は告げたのです。奇跡は止みました。私にも、それから静かな日々があって、導かれて、隣国に行くことになったのです。それは子どもたちには強烈な子供時代の体験でした.

(大型のバン、南ドイツの一風景です)

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夕張メロンより甘味なものあり

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 『ほんとうに美味しいですね♪』、わが家のテーブルで一緒にいただいた家内の友人と私たち、入院された病院で手術を終えて、帰宅されたご婦人が、ご夫妻で食べた、それぞれの〈食後感想〉が、これなのです。中国から来られて、所用で函館に行かれ、そこで注文されて、私たちに食べさせようとして、若き友人が買って、宅配してくださった「夕張メロン」でした。帰って行かれて二日後に宅配され、彼女は食べずじまいで帰国されたのです。

 明治維新政府の基幹産業の一つは、お雇い技師のライマンが発見した石炭の鉱脈からの採掘でした。アイヌ語の「ユーパロ(鉱泉の湧き出る地)」から命名された「夕張」で、黒いダイヤモンドが埋蔵されていたのです。それで製鉄業を興し、重化学工業を発展させ、戦艦や武器をも製造し始めたのです。そんな歴史のある地で、1961年に《メロン栽培》が成功したわけです。

 噂と宣伝、食べたことのある人の話を総合すると、やはり抜群の味わいなのだと聞いておりました。家の中で、唾液腺の活動を我慢しながら、添え書き通りに追熟を待っていて、やっと食べようとしたのです。飼い犬との出会いを契機に知り合った、川向こうの隣人のご夫人が、ポリープを取るために入院中でした。お茶を飲みながら、和菓子で接待してくださり、チェロの名手と、テノールの一流の歌手のビデオを、大画面と素敵な音響設備で聴かせてくださったご主人が、お一人の留守番で、孤食で寂しい思いをされているだろうと、そのメロンの半分を差し入れたのです。

 土曜日に、奥さまが退院してくるとお聞きしたのです。きっと、退院を待って、明日、一緒に食べられると思っていましたら、案の定、日曜日に一緒に食べられたと、夕奥さまから感謝の電話がありました。感動的な味だったそうで、4分の1を残して、もう一度味わうと言っておいででした。

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 冷蔵庫にしまっておいたもう半分は、いつも、お刺身や旬の果物やシャケの切り身を下さる、家内の散歩仲間のご婦人が、ちょうどお土産持参で、来られたのです。一緒に、6分の1づつで、なんと美味しいのかと、声も出さずに食べました。いつも遠慮がちの慎ましやかな老婦人も、『美味しいですね!』と、味わいながら食べてくださったのです。

 ちょっと羨ましい話で、恐縮ですが、そんな歴史のあった夕張で、こんなに美味しいメロンを作るとは驚きです。寒冷の北海道の内陸部で、どんなにか苦労して品種を改良し、育成されたことでしょうか。子どもの頃、井戸水で冷やしてくれた「マクワウリ」も美味しかったのですが、初めての夕張メロンは、格別に美味でした。

 ここに住み始め、全く地縁も血縁もない地で、素敵な出会いがあって、交流が与えられている、今は《メロン仲間》になったようです。ご主人を亡くされ、こちらに越して来られて、市内のホテルで働かれ、退職後も、こちらに住んでいる、家内の姉と同い年で、妹のように心配をしてくださる方と出会っています。

 また、もう一人の方のご主人もご病気で、何度も手術を繰り返し、好きなゴルフ打ちや散歩に励みながら闘病されておられるのです。〈真の宗教なき日本〉を嘆きながら、巡礼者のように名刹を、春と秋に巡っていて、「真理」を求めておいでなのです。医科大学の教授をされた高校時代からの親友を亡くして、自分も病んで、何かを得ようとしています。

 その奥さまの友人に、家内が差し上げる「クリスチャン新聞・福音版」を転送し、それを読み続けてこれれ級友が、先ごろ亡くなられたそうです。大きなショックだったようです。最後に、『キリストの十字架が判ったわ!』と言われたそうです。友人は若い日に、東洋英和学院で学んだ方だそうで、聖書も読んだことがあったそうです。窓を開けて、見えるお住まいの方に、主の祝福を願いながら、家内は目と心を向けています。

 《十字架の福音》は、夕張メロンよりも甘美なのが、きっと解る、解らせていただける日が来ると思っている家内なのです。口が奢ってしまい、もうスーパー売りのメロンが食べられなくなりそうです。
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背負子を負いつつの今

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 先日のメールで、鋼のような強靭な体を持っていた弟が、自分を、〈サビ鉄〉だと言ってきました。刺身に添える「山葵(わさび)」の〈サビ〉のことではなく、「錆」の〈サビ〉なのです。

 学校に行っていた頃は、登山が好きで、富士山や奥多摩の山小屋で、〈背負子(しょいこ)〉を負って、麓から資材や食料を運び上げ、山で病気になった人を担いで、麓まで下山したり、プロ並みの「強力(ごおりき)」のアルバイトをしたりしていました。体育教師になりたくて、体育学部のある大学に進学し、アイスホッケー、少林寺拳法、柔道と、なんでもこなしていたのです。

 卒業した後に、推薦があって、ある職場に就職をしたのですが、自分には相応しくないと判断して辞めて、翌年、高校時代の恩師の紹介で、都内の女子高校の教師になりました。ところが、母校から招聘があって、そこで定年退職まで働いたのです。退職後は、自分のデスクを構内に持って、若い教師の指導や相談をしていました。

 彼の転職で不思議なことがあったのは驚きました。私と親しくしてくださった、某大学の先生が、『君に紹介したい人がいるのだけど、東京に出てきませんか?』と言ってきたのです。それで所定の時間に、帝国ホテルに行ったのです。話をしていると、もう一人の教師を招こうと交渉中とのことで、誰だか知らされていなかったのですが、話によると、どうも弟ではありませんか。弟は母校ですが、私は外部者なのに、同じ時に誘いがあったので、一番驚いたのは理事長さんでした。

 課外では、警視庁の少年課のスタッフと一緒に、盛場を徘徊したり、家出している中高生たちの街頭指導をずっと、彼はしてきています。今も現役なのです。ところが先日、体調を崩して入院をしてしまいました。それで、自分に〈サビ〉が出てしまったと言ったわけです。講道館では赤帯を許された猛者なのにです。

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 先週の兄弟たち三人へのメールでは、〈ボロ鉄〉だと言ってきました。しっかりした信仰をもって、キリスト教主義の幼稚園から、高校まで、帰国子女を含めた学園で、大勢の子どもたちを教えてきたのです。ある夏、クラブの合宿で、千葉の海にいた時に、生徒たちが三人が、「ミオ」と恐れられる波にさらわれてしまったのです。遊泳禁止中でしたから泳がずに、砂浜を歩いていた時でした。二人を荒海に入って救助したのですが、三人目を助けに入ろうとしましたら、地元の漁師たちに羽交い締め(はがいじめ)されて、『一緒に溺れてしまうのでやめて!』と、強引に阻止され、涙ながらに断念したのです。

 それは、教師としては、極めて痛恨の経験でした。水難事故の時期になると、弟は、必ずこの浜を訪ねて、思いを新たにしてきたのです。それから、髭を生やし始めたでしょうか、これ髭がない方が優しい顔なのに、気を引き締めるためか、いつまでも忘れないためか、教えや指導に対する一つの決心をしたのでしょう。

 鋼鉄のごとき身体も、やはり衰える時が来るのでしょうか。でも精神は、まだまだ強いのです。私が父に叱られて、家を出されると、幼い弟は、いじめていた兄の私なのに、一緒に泣いて、外に出てくれたのを、昨日のように覚えています。まだまだ三人の子や孫たちの、相談相手でいて欲しいものです。あの背負子に、食料や資材を担ぎ上げ、病気をした病人を負って麓まで降りたように、多くの教え子(責任)を負いながらここまで仕事をしながら生きてきた弟です。彼自身は、救い主に背負われながらの七十年になります。まだまだ元気でいてほしいと願う不才の兄であります。

(「背負子」、母の故郷に近い奥出雲の「たたら製鉄」の炉鉄風景です)

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一羽の雀さえも

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 これまで、体調が思わしくなく、寝込んでしまうことが何度かありました。一番は、季節の変わり目ごと、秋から冬の時季、梅雨時などに、決まって起こるのが、〈腰痛〉だったのです。まだ伝え歩きができるのは良かったのですが、這うような時もありました。一週間も、そういう時が続いて、『もう歩けなくなるのかなあ!』と思ってしまう時だってあったのです。

 ある時から、〈休息必要〉と思いを変えて、怠け者のように寝ることにしたのです。そうすると徐々に痛みが引いていき、回復がくる、そんな繰り返しの年月でした。高校の頃、走り過ぎたのか、兎跳びをさせられ過ぎたのかも知れませんし、教会があった自治会の側溝掃除で、コンクリートの蓋を、手で上げた時に、ギックリ腰をしたことがありました。それ以来のことですが、まだ若い頃は、、そんなにひどくなかったのですが、歳を重ねるに従ってキツくなりました。

 ところが、帰国以来、この5年ほどは、持病の腰痛は、湿布と温泉で、すぐに痛みが引いてしまっているのです。寝てなんていられないので、神さまは、そんな風にしてくださっているのかな、なんて思わされています。

 寝込んだ時に、枕元で家内が歌ってくれた歌がありました。「一羽の雀(心くじけて) 」と言う歌です。

1.心くじけて 思い悩み
などて寂しく 空を仰ぐ
主イエスこそ わが真(まこと)の友
一羽のすずめに 目を注ぎ給う
主はわれさえも 支え給うなり
声高らかに われは歌わん
一羽のすずめさえ 主は守り給う

2.心静めて 御声聞けば
恐れは去りて 委(ゆだ)ぬるを得(え)ん
ただ知らまほし 行く手の道
一羽のすずめに 目を注ぎ給う
主はわれさえも 支え給うなり
声高らかに われは歌わん
一羽のすずめさえ 主は守り給う

 そういえば、聖書の中に、次のような聖句があります。

『五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(ルカ1267節)』

 何もできずに、〈小ささ〉や〈つまらなさ〉や〈弱さ〉でおびえてしまう時、それほどのものでしかない自分を、父なる神さまは、覚えていて、知っていてくださるのだと、イエスさまがおっしゃったのです。

 『万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います。 雀さえも、住みかを見つけました。つばめも、ひなを入れる巣、あなたの祭壇を見つけました。万軍の主。私の王、私の神よ。 なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。セラ(詩篇8414節)』

 五年前に帰国して、差しあたっての必要は、住む家でした。自分の人生設計の中に、家を持つことがなかった私は、友人のご好意で、ご両親が住んでいらっしゃった家をお借りして、住ませていただいたのです。40数年前も、ガス爆発で住んでいた借家を退去しなければならないことがありましたが、雀にさえ、住処を与える神さまは、必ず住む家を与えてくださると思ったのです。それで教会の床の板の上に、みんなで寝たわけです。あそこは最高の住処でした。

 この詩篇の節末に、「セラ」があります。楽譜の中に休止符がありますが、それと同じ意味を持つ言葉で、騒然としていたり、忙殺されたり、波乱の時を過ごしている時に、「小休止」があるのだと言う、信仰者の告白だと、聖書学校の教師が教えてくれました。旅人で寄留者の私たちにとって、《永遠の住処》を、主がお造りくださり、迎えに来てくださると言う約束もあります(ヨハネ14章2〜3節)ので、今の家に感謝を持って住んでいられるのです。

 時々、家内がゆっくりできる家を備えなかった不備、不徳を詫びるのですが、〈甲斐性のない夫〉なんて言わないで、『約束のお屋敷があるのだからいらないわ!』と言ってくれます。『ワーオ!』、一茶の「七番日記」をもじって、『これがまあ終の住処かカラス鳴く(雪五尺)』との思いで、今朝もカラスの鳴く声の聞こえる中で、《永遠の小休止》、永遠だったら《大休止》を願いつつ、そこに憧れながらのこの家に感謝でいっぱいです。

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目は心の窓

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 ある学校で、講座を履修したことがありました。社会人に開放した講座で、特急電車に乗っては、《知的刺激》を求めて一年間通いました。

 その時、相手と対座して、互いに言葉を交わしながら、相手の良い点を発見し合うゲームが行われたのです。カウンセリングの技術の実践でした。相手に何を言ったのかは忘れたのですが、このご婦人が、『歯が綺麗ですね!』、と他に良いところがなかったのか、普段は唇を詰むんでいて、見えない歯に関心を寄せてくれたのです。

 『俳優のWに似てますね!』、『歌手の誰それに似てます!』とかは言われたことはありましたが、歯を褒められたのは、一度きりでした。歯だって、大切な体の部分で、朝起き抜けの一番で、最近は歯磨きを励行しているのです。家内が、そう勧めてくれたからです。『睡眠中に、口内は雑菌だらけになっているから!』という理由でです。食後の歯磨きよりも、効果があるそうです。

 また、歯を褒められそうですが、前歯の一本は、若い時に、ビールの蓋を歯でこじ開けていた友人の真似をしたせいでしょうか、在華中に、高いお金を払って義歯一本を入れることになってしまいました。帰国後、それを入れ替えたのです。前歯は治療ではなく、美容になるっていうのもおかしなことですね。今度、歯を褒められたら、たいまい〇〇万円も払わされたのをほめてくれるのでしょうか。

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 上の兄が訪ねて来ていて、『銭湯に行こう!』と誘われて、近所の銭湯に行った時のことです。もう30年も前、もうなんでも昔話になって、新体験の少なくなった年齢になった証拠ですが、午後だったので、空いていたのです。一人のおじさん、自分たちも十分におじさんでしたが、湯に浸かりながら、ちょっと無遠慮にジロジロと、私たちを見ていたのです。

 この人が、何を言うかと思ったら、感心しながら『目が綺麗ですね!』と言ったのです。街の歴史を語ったのでも、世間話で会話をしたわけでもなかったのに、唐突な感じで、そう言われたわけです。目も褒められたことは、ついぞなかったので、これもちょっと驚いたのです。

 『目は心の窓!』とか、『心の鏡』と言うのを聞いていましたから、『心が綺麗ですね!』と言われたようで、これは嬉しかったのです。若気の至りで、お酒に酔って、濁ってトロンとした目つきの時もありました。憎しみを込めて睨みつけたことも、苛立った目も蔑みの目もありました。涙だって何度も流した目です。

 ほとんど使ったことはないのですが、「目力(めじから)」と言うそうです。人は、よっぽどの恥ずかしがり屋でない限り、相手の目を見ながら、言葉を交わして交わりを持ちます。目のギラギラしている人は、意思強固な感じがしますので、自分を奮起する時に、実際に目に力を集中させて、弱々しくならないように、敢えてそうすることもありました。

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police officer making a stop sign

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 初めての職場に、夜間の大学の法学部に通いながら、警視庁の巡査をしていた方がいました。いろいろな話を聞いた中で、犯罪性のある人は、目を逸らしたり、疾しそうな目配りをするのだそうで、〈目つきが悪い〉人は、要注意なのだそうです。そんなことを聞いてから、人の観察眼が冴えてきたようでした。

 それで、怪しまれないように堂々と街中を歩き、キョロキョロせずに、視線を泳がさないように、注意深く振る舞い、歩くように、私は努めて生きていました。でも、みうそんな振る舞いや見せかけの自分とはおさらばして、ありのまんまで生きています。この歳で、目力の強いジイさんなんて、気持ち悪がられるだけでしょうか。《涼しい目》が好いですね。

 

ぶつかり合いと関係回復が

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 [別れ]、これは悲しい出来事であります。どうしても避けられない父や母、親族、恩師たち、学校時代の友、仕事上であって知遇を得た方たちとの死別があります。『もう少し連絡を取ればよかったなあ!」と、遅きに失した思いで、悔やむことがあります。でも[再会]とか[回復(恢復のほうがいいですね!)]があるのは感謝です。

 一緒に働くように、まだ若い日に誘ってくださった大先輩が、入院先で召されたとの知らせを受けたことがありました。脂身の肉を、神経質に除いたり、冷たい物は避けて、食生活に、あんなに注意深かったのに、六十代で帰天されたのです。いっしょにボールを追いかけあった同級生が、二十代で病気で亡くなりました。七十過ぎて、カバンを持って、校門で待っていてもらって、ずらかりを何度も頼んだ友が、『突然夫が亡くなりました!』と連絡がきたり、甥がオートバイレースの事故で亡くなった知らせも受けました。

 喧嘩別れだってあります。和解の機会が遠くなってしまい、心残りで、どうすることもできないこともありました。聖書が正直な書物だと言うことが判るようにでしょうか、「激しい反目」の様子が、使徒153640節に記されてあります。

 『幾日かたって後、パウロはバルナバにこう言った。「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか。」 ところが、バルナバは、マルコとも呼ばれるヨハネもいっしょに連れて行くつもりであった。 しかしパウロは、パンフリヤで一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよいと考えた。 そして激しい反目となり、その結果、互いに別行動をとることになって、バルナバはマルコを連れて、船でキプロスに渡って行った。 パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて出発した。』

 そのパウロとバルナバの反目、離反は、若いマルコが原因でした。『一行から離れてしまい、仕事のために同行しなかったような者はいっしょに連れて行かないほうがよい。』とのパウロのことばが、マルコのいとこに当たるバルナバには受け入れがたかったのです。

 それで、2チームの伝道隊ができて、それぞれに分かれて伝道がなされていったのです。パウロが厳し過ぎたのでしょうか。それともバルナバは血縁のつながりを大切にし過ぎたのでしょうか、似た事例がよくあることです。つまずきは避けられないのです。でも、この反目は、キプロス伝道がなされ、伝道の拡散を生み出しています。そして、『連れて行かない!』と言ったパウロは、後になって、

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 『ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。 2テモテ411節)』

 《役立つ働き人》となって成長したマルコを名を上げて、認めたのです。関係の軋轢、不和、または喧嘩別れなどは、伝道の世界の中でもあり得るのでしょう。私は、問題児だったのでしょうか、私が従った伝道者としての訓練の時期に、兄ほどの年齢の宣教師さんとの間に軋轢がありました。態度が悪かったのでしょうか、彼にも感情があって、彼が、ある時期から日本語を使わなくなって、英語で聖書勉強をするようになりました。理由は言いませんでした。

 急にでしたが、一緒に学んでいたアメリカ人の school mate を中心に学びがなされ、その急激の変化に戸惑ったのです。柔和な方でしたが、感情が傷つくことを、私が言ったのか、したのか、ご家族が気を害されたのか、〈パウロとテモテ〉のような師弟関係から、〈パウロとマルコ〉の他者関係に移行するむね告げられたのです。

 前にも記しましたが、私には、「日本主義」の強固な残滓があって、聖霊に満たされ、聖さへの願望がありながら、任せない、砕かれない思いが残っていたのです。それが、宣教師さんを胃潰瘍にさせた理由と原因者の一人の過去であったのです。それが取り扱われるためには、そんな不面目な対決があったことになります。

 その頃、銀座の教文館で、大きな教団の著名な一人の方と会いました。『君、宣教師に雇われているのでしょう。それよりも、僕らの神学校に入りなさい。奥さんは、私が経営している保育園で働いたらいい!』と言ってくれました。私は、宣教師さんとの関係について、第三者には、どなたにも相談したり、同情を求めたことはないのです。私は、始めた道、導かれた方法にとどまることにしたのです。

 そんなことがあった8年間の後、教会堂建設が行われ、母教会の献金で、会堂用地を買い、母教会のメンバーの建築士の兄弟が、会社を退職して、14ヶ月かけて、逐次与えられる内外からの献金で資材を買い、自分たちの手で会堂を建て上げたのです。宣教師さんたち、近い交わりの教会の宣教師や兄弟姉妹、同じ街の教会の建築会社で働く信者さんたちの助けがありました。

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 竣工して、献堂式が行われる前に、宣教師さんの後の教会を引き受けるようにと言われたのです。それに先駆けて行われた五月聖会で、アメリカの教会から三人ほどの牧師、日本で働く宣教師さん方、日本人牧師などからの按手で、家内と二人の任職式が持たれたのです。

 宣教師さんとは、関係が修復されたのです。そのために、兄や、よく私を特別集会に招いてくださった宣教師さんの関係回復の執り成しがあったのです。人と人が関わる伝道にだって、感情の行き違いや、爆発や不和はあります。でも素晴らしいのは、[和解]と[恢復]がなされると言うことです。

 66歳で、病気を得た宣教師さんは召されたのですが、召される前に、彼を訪ねた時に、彼も一言言いたかったのでしょうか。『準、自分の悪かった点を赦してほしい!』と言ってくれました。私も、自分の不従順や悪感情を詫びたのです。きっとふたりとも正直だからこそ、ぶつかり合うことがあったのでしょう。大切なのは、《和解》です。なぜかと言いますと、「和解の福音」を宣べ伝える者には、それが持ちめられ、しかもそれは必ずできるからです。

(「キリスト教クリップアート」のイラストです)

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サーカス

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 山の渓谷の中にあった家から、父が街中に連れ出してくれて、一度だけでしたが、兄弟たちと一緒に、「サーカス」を観たことがあります。大きなテントの中に階段状の客席が設えてあって、ちょっと高い席から、ピエロや空中ブランコや馬の曲芸があったのを観たのです。何か、パッ!と輝くように楽しかった記憶が残っています。

 ヨーロッパにナチスが台頭し、雲行きが怪しくなっていった1933年(昭和8年)3月22日に、「万国婦人子供博覧会」を記念して、ドイツの「ハーゲンベック・サーカス」が、東京にやって来て、芝浦で催されたそうです。大所帯で、団員総勢約150人、動物が182頭の大きな一団だったのです。父が東京で23歳、母が山陰出雲で16歳の時でした。

 その公演の宣伝のために、西條八十が作詞、古賀政男が作曲し、松平晃が歌ったのが、「サーカスの歌」がありました。

1 旅のつばくら(燕) 淋しかない
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た

2 昨日市場で ちょいと見た娘
色は色白 すんなり腰よ
鞭(むち)の振りよで 獅子さえなびくに
可愛いあの娘(こ)は うす情

3 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ

4 朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
流れながれる 浮藻(うきも)の花は
明日も咲きましょ あの町

 郷愁を感じさせる懐メロです。ディズニー・ランドができてから、子どものためのイヴェントに変化があったのでしょうか、サーカスの公演の噂を聞かなくなったように感じます。街外れの空き地に大きなテントを張って、あのジンタッタ、ジンタッタというな鳴り物を聞かなくなってしまいました。

 井上良雄氏が著した、「神の国の証人 ブルームハルト父子」という著書が出た年に買って、三十代だった私は、一気に読んだのです。そこに「サーカス」の記事が載っていました。ドイツ南部のシュバーベン地方のメットリンゲンと言う村で、ドイツ敬虔主義派の牧師で、ヨハン・ブルームハルトと子のクリストフの物語です。

 この方の子どもたちは、その地方の大きな街に、国内留学をしていたのです。ある時、お父さんは、子どもたちの下宿先を突然訪ねるました。出張中だったのです。下宿の主人は、隠せなくて『息子さんたちは、サーカスを観に行かれています。』と正直に言って不在を告げたのです。それをお父さんが聞くと、『どれ私も行って観ることにしよう!』と出かけたのです。子どもたちを見下ろす特設の高いところの席に座ったお父さんは、みわたして見つけた子どもたちに、『お父さんも、ここで観てるからね!』と、大きな声をかけたのです。

 子どもたちは驚いたのです。父に叱られるとばかり思っていたのに、お父さんが、そんなことを言ったからです。当時、ドイツ敬虔主義というのは、この世の遊びなどを忌み嫌い、世俗から身を引いて生活していて、規律の厳しさが求められていたのに、父に内緒でサーカス見物をしていたから、自責があったのです。

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 ところが、後に、その弟の方のクリストフは、お父さんの後を継いで助手となり、牧師となるのです。どうも厳格なだけではない、一緒にサーカスを楽しんでくれた父親のあり方に、素敵な過去の体験があって、父の道を、自分も歩むようになった、そうクリストフは述懐しています。

 子どもの日々に、父親と共にした良い体験は、人の人生に良い影響力を与えるのでしょうか。私の父は厳格でしたので、悪さをすると拳骨をくらうことがありましたが、キャッチボールをしてくれたり、カルメ焼きを作ってくれたり、揚げ餅を作って、楽しませてくれたり、ドライアイスに入れたソフトクリームを買って帰っては、食べさせてくれました。遊びの体験を、よく父は与えてくれたのです。

 私は父に叱られて、父に悪態をついて、面と向かって責めたことがありました。父には父の過去がありました。その過去を責めたのです。それを聞いた父は黙っていました。そんなことが子どもの頃にあって、大人になったのです。ある本の中に、ある時、どなたが書いたのか記録しなかったのですが、一つの格言に出会ったのです。『父は父なるが故に、父として遇する。』でした。

 26で結婚した一ヶ月後に、父は入院先の病院で、退院の日に、突然召されてしまったのです。老いて行く父と、ゆっくり温泉に一緒に入って、背中を流して上げたかったですし、父の好物をご馳走して上げたかったのですが、できないままの死別でした。そう「父として遇する」を実践したかったのにです。

 この書の著者の井上良雄氏に手紙を書いて、読後の感動の思いをお伝えしたのです。すると井上氏は、シュバーベン語というドイツ語の南部の方言で書かれた、たくさんの資料を送ってくださいました。『簡潔に記されていますから、読んでみてください。』と仰られたのです。そんなバルト神学者との出会いがあって、今日に至っています。

 十九世紀のドイツの地方の牧師の生き方に、強烈な影響を受けたのですが、ちょっと生き方の真似をしてみています。中古の折り畳み自転車が、駐輪場に置いてあります。『主がおいでになられました!」というニュースが届いたら、自転車に跨いで、駆けつけるつもりでいるのです。このクリストフ・ブルームハルトの家の前には、いつも馬車が置かれていて、いつでも、主にお会いする準備ができていたことを知ったからです。

 馬車や自転車で駆けつけることなどないのですが、《再臨待望の姿勢》としての真似なのです。一人一人、任された場と時があって、それぞれが生きて行くわけです。自分の人生も、もう晩期に至り、親しい友も、同じように述懐して、メールがきています。どうも《締めっくくり》を考えることが多くなってきています。少なくとも子たちに、自分の過去や考えを知らせたくて、書き始めたブログですが、明るい復活の望みのある未来があっての、私の過去と今とを記しているのです。

(「サーカスのテント」、「シュバーベン語の看板」です)

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