とこしえへの道に

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 『私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇139:24)』

 暇を持て余したわけではありませんが、しげしげと自分の手や指を眺めていると、『なんとキズだらけなのだろう!』と、自分ながら驚いてしまいます。傷の上にキズがあるという状態で、数え切れない傷を負いながら、膿むことも、破傷風にかかることもなく、今日まで生きてまいりました。

 ケンカの傷跡も身体に残り、よそ見をして足の脛、あの〈弁慶の泣き所〉をぶつけて負傷したりしたのです。その痛さは、跳び上がるほどの激痛がありました。さらに、左脇腹には、大きな手術痕もあるのです。

 温泉や銭湯に行きますと、傷口を見て、ドキッとした様な目で見られるので、肘を当てて隠すことにしているのです。八九三でもなかったのに、出入りで負ったキズだと勘違いされたことがあって、人を驚かせたのです。両肩には鍵盤断裂の縫合手術跡が、お臍にはヘルニヤの手術痕、左足には静脈瘤の手術痕が残っています。親にもらった大事な身体、いえ創造主なる神さまに頂いた身体を、キズだらけにしてしまったのです。

 そればかりか、心に負ったキズだって、数えきれないのです。負った傷よりも、〈負わせたキズ〉の方が何十倍も多そうで、申し訳ないことだと自責の念に駆られます。〈負わされたキズ〉だって、原因を考えると、ほとんどのキズは、こちら側にありそうで、穴の中に隠れたいほどであります。

 この詩篇の記者のダビデは、傷の自覚があり、その痕跡を忘れていないのです。気付いたものは、どうにか対処できます。でも、〈気付かずにいる傷〉があること、それが除かれないと、心の平安や喜びを、真に味わえないので、それを探ってくださるように、主なる神さまに懇願したのでしょうか。

 もう一つ幸福感にひたることができない、〈何もの〉かがあるのを、時々、自分も感じています。神さまと自分の間に〈遮蔽物〉になっているものがるのです。人との関わりは、実に難しく、何が原因かに気付かないでいるのが、そもそもそもの原因に違いありません。それに気付かないほど、自分に甘いわけです。

 それででしょうか、イエスさまは、次のようにお話になられたのです。

 『だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。 (マタイ5:2324)』

 礼拝や祈り以前に、《関係回復》をする、《和解》をすることの勧めです。いいんです、相手がそれに応答しないで、和解や仲直りを拒んで、できなくても。一番大切なのは、《対神関係》だと学びました。神さまとの間に、〈わだかまり〉を置かない努力なのです。真の《赦し》をくださるのは、創造主なる神さまだからです。人って、突っ張っていて、自己義認の生き物で、原因や発端を相手に求めがちです。

 神の前に、どうであるか、そんなことを自らに問いながら、老いを迎えて越し方に思いを向けています。でも過去だけに関心を向けていると自己嫌悪に陥るので、輝ける未来に進むべき道を、主が道普請してくださった「とこしえの道」に、思いを向けて、希望を大きくして、前進しております。

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