星屑を拾うようにして

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 私たちの住んでいる栃木県の県都、宇都宮市は、粋な呼び名で「ジャズの街」なのだそうです。サキソフォン奏者の渡辺貞夫の出身地で、そうアピールして街興しをしているようです。

 娘がジャズにアレンジした Praise and Worship の曲を、先日送信してくれました。これでコーヒーがあったら最高なのですが。それで昔よく聞き、日本人のJazz fan が大好きな曲を思い出しました。” Stardust ” で、この英語も、日本語の「星屑」も、ことばの響きが、とてもいいですね。

Stardust

And now the purple dusk of twilight time
Steals across the meadows of my heart
High up in the sky the little stars climb
Always reminding me that we’re apart

You wander down the lane and far away
Leaving me a song that will not die
Love is now the stardust of yesterday
The music of the years gone by

Sometimes I wonder why I spend
The lonely night dreaming of a song
The melody haunts my reverie
And I am once again with you
When our love was new
And each kiss an inspiration
But that was long ago
Now my consolation
Is in the stardust of a song

Beside a garden wall
When stars are bright

You are in my arms
The nightingale tells his fairy tale
of paradise where roses grew
Though I dream in vain
In my heart it will remain
My stardust melody
The memory of love’s refrain

そして今、たそがれ時の紫の夕闇が
私の心の草原を覆い尽くす
空の高みに小さな星たちが登り
いつも離れている私たちを思い出させる

あなたはあの道を行き遠く離れてしまった
私に消えることない歌を残して
恋は今、星屑は昨日のもの
過ぎ去りし年月の音楽

時々何故か過してしまうのは
あの歌を夢見る孤独な夜
そのメロディーが空想に悩ませる
あなたともう一度いること
私たちの恋が芽生えたころ
キスにはいつもときめきがあった
しかしそれは遠い昔のこと
今私を慰めるのは
あの歌の星屑の中にあること

ガーデンウォールの傍らで
星が輝くころ
あなたは私の腕の中
ナイチンゲールは
バラが花咲く楽園のおとぎ話を語る
けれど見果てぬ夢
私の心に蘇るのは
私の星屑のメロディー
沸き出でる恋の思い出

 原曲は、1927年に発表されていて、Nat king Cole の持ち歌の一つでした。日本では、ザ・ピーナッツが、196164日から1972101日に第1期の日本テレビの「シャボン玉ホリデー」の番組のエンディングで歌っていました。実に懐かしい曲で、青年期の素敵な思い出なのです。

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 『私たちの間でキリストのためになされている良い行いを、すべて知ることによって、あなたの信仰の交わりが生き生きとしたものとなりますように。(ピレモン1:6)』

 春と秋に、二泊三日ほどの schedule で、「打ち合わせ会」が開かれ、誘われて、何年も続けて参加しました。日頃、牧会に従事して忙しい身でしたが、テニスラケットとシューズを持って、八ヶ岳に、みなさんが集まったのです。テニスばかりか、温泉に入ったり、ドライブしたり、ソフトクリームを食べて、話をし、一緒に寝泊まりをしたのです。

 名だたるみなさんでしたが、身に付けたタイトルや業績や誇りを、家に置いて集っておいででした。誘われて仲間入りした私が、一番年下でした。同じ主の業に仕えている人たちの親睦の交わりで、みなさんは謙遜でした。東北出身の方、お兄さんも牧師の弟さん、有名大学を中退して献身された方がおいででしたが、すでに召されておいでなのです。

 心地よい疲れを覚え、励まされて、自分の任地に帰って来て、まさに英気を養われた経験は、何にも変え難いものでした。留守を守ってくれた家内がいて、その故のひと時でした。今では、ラケットもお飾りになって蔵入りしてしまいました。でも貴重な思い出は、いつまでもあり続けるのでしょう。

 そんなことを考えていましたら、八ヶ岳の夜空に瞬いていた星々、星屑の光景を思い出し、星屑を拾うような思い出で、ナットキング・コールの歌声が聞こえてきたのです。

(次男が撮影した「星空」、ウイキペディアの「テニスボール」です)

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母恋し

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 秋になると、と言っても、今年は「短い秋」だったので、秋を満喫しないままなのでしょうか。作詞がサトーハチロー、作曲が中田 喜直の「ちいさい秋みつけた」が思いに浮かんできたのです。

1)だれかさんが だれかさんが
 だれかさんが みつけた
 ちいさい秋 ちいさい秋
 ちいさい秋 みつけた
 めかくし鬼さん 手のなる方へ
 すましたお耳に かすかにしみた
 よんでる口ぶえ もず)の声
 ちいさい秋 ちいさい秋
 ちいさい秋 みつけた

2)だれかさんが だれかさんが
 だれかさんが みつけた
 ちいさい秋 ちいさい秋
 ちいさい秋 見つけた
 おへやは北向き くもりのガラス
 うつろな目の色 とかしたミルク
 わずかなすきから 秋の風
 ちいさい秋 ちいさい秋
 ちいさい秋 みつけた

3)だれかさんが だれかさんが
 だれかさんが みつけた
 ちいさい秋 ちいさい秋
 ちいさい秋 見つけた
 むかしの むかしの
 風見の鳥の
 ぼやけたとさかに
 はぜの葉ひとつ
 はぜの葉赤くて 入日色
 ちいさい秋 ちいさい秋
 ちいさい秋 みつけた

 「異端児」と言ったらいいのでしょうか、子どもの頃から、どうにも手のつけられない不良少年だったそうで、山手線内にあった留置場のほとんど全てに留置されたそうで、感化院に収容された少年期を過ごしたのが、こんなに naive な詩を作った男、サトウハチローの少年期だったのです。

 もしかしたら、こんな詩心は、不良だからこそ、心の中から浮かび上がり、ほとばしり出てきたのでしょうか。繊細さや甘ったれさや厳しさ、そして豊かな感情に溢れて詩を詠んだ人でした。西条八十という作詞家に、17歳から学んで、20歳頃から詩作をし、雑誌に発表したようです。お父さんが、劇作家で俳人の佐藤紅緑でした。身持ちの悪い父親で、後に両親は離婚しています。そんな人生の悲しみを経験したハチローは、「悲しくてやりきれない」を読みました。

胸にしみる 空のかがやき
今日も遠くながめ 涙をながす
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このやるせない モヤモヤを
だれかに告げようか

白い雲は 流れ流れて
今日も夢はもつれ わびしくゆれる
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
この限りない むなしさの
救いはないだろうか

深い森の みどりにだかれ
今日も風の唄に しみじみ嘆く
悲しくて 悲しくて
とてもやりきれない
このもえたぎる 苦しさは
明日も続くのか

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 お母さんは仙台の出身で、多感な中学時代に生き別れをしています。母親と離婚をした父親に反発して、拗ねた少年期をハチローは過ごすのです。忘れない「母の匂い」を求めたのでしょうか、それで、父親の故郷には数度でしたが、お母さんの故郷、陸奥仙台には50回も訪ねたそうです。そして生涯に3000もの母についての詩を詠んでいるのです。ハチローの「お母さんの匂い」です。

おかさんの匂いは どんな どんな匂い
朝はかまどの けむりの匂い
 昼はおべんとの おかずの匂い
 晩にはかすかな おふろの匂い

おかあさんの匂いは どんな どんな匂い
春はうれしい ちょうじの匂い
 秋はやさしい もくせいの匂い
 冬はひなたの ふとんの匂い

おかあさんの匂いは どんな どんな匂い
ひざにだかれりゃ くず湯の匂い
 おはなしなされば おも湯の匂い
 うたをうたえば レモンの匂い

おかあさんの匂いは どんな どんな匂い
ねえさんかいもうとに よくにた匂い
 おもどに いろりに ただよう匂い
 わかった わたしの おうちの匂い

 私の父も、家のしきたりや格などの理由で、父を産んだ母は家を出されています。継母に育てられますが、父の多感な中学の時に家を出て、東京にあった親戚の家から旧制の中学に通ったようです。子どもの頃、時々、畳の上に横になった父が、このハチローが作詞した「めんこい仔馬」を口ずさんでいたのです。

1 ぬれた仔馬のたてがみを
  なでりゃ両手に朝のつゆ
  呼べば答えてめんこいぞ オーラ
  かけていこうかよ 丘の道
  ハイド ハイドウ 丘の道

2 わらの上から育ててよ
  今じゃ毛なみも光ってる
  おなかこわすな 風邪ひくな オーラ
  元気に高くないてみろ
  ハイド ハイドウ ないてみろ

3 西のお空は夕焼けだ
  仔馬かえろう おうちには
  おまえの母さん まっている オーラ
  歌ってやろかよ 山の歌
  ハイド ハイドウ 山の歌

4 月が出た出た まんまるだ
  仔馬のおへやも明るいぞ
  よい夢ごらんよ ねんねしな オーラ
  あしたは朝からまたあそぼ
  ハイド ハイドウ またあそぼ

 この詩にも、「母さん」が出てきますから、自分が「めんこい仔馬」でもあるかのように、お母さんを慕い、思い出していたのでしょうか。母子分離が強制的なものであったことは、やはり一生に影を落としてしまうのでしょうか。母子もののドラマを観ていて、涙を流した、追憶の中の父の辛い過去を見たようでした。

 『しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。(詩篇22910節)』

 母親の愛や優しさを得られなかった父も、亡くなる直前に、上の兄に導かれて、ローマ人への手紙1010節に従って、主をキリストと告白したのです。母が子を抱くように、救い主に抱かれたのであります。
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ハマスよりも厄介なもの

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Soon  He comming

 

 『なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。 (レビ17章11節)』

 最近聞いた〈新しいことば〉に、「糖化」があります。血液の中に起こる現象のことだそうです。流しの入れ物にしまっておいた「土鍋」を出して、電気釜の代わりに使ってみたのです。昔懐かしい調理器具で、さすが伝統ある鍋で炊いたご飯は、美味しかったのです。火加減のタイミングが難しいので、これまた懐かしの「お焦げ」ができてしまいました。

 室にいても 「老化(廊下)」と言うは いとおかし

 このお焦げが、血液の中に起こる「糖化」に似ているのだそうです。『まずはじめに、糖化とは、食事によって摂り過ぎた余分な糖とタンパク質・脂肪が、体熱によって不正常な結びつき方(変性)をする現象のことです。体温の熱が関与することから、糖化反応は「体がこげる」反応とも言われています。糖化が起こると細胞の老化が進み、肌の衰えや体調不良、さらに様々な病気の温床になります。』

と解説されてあります(「抗糖化コラム」にありました)。これが、老化現象を早めるのであって、如何とも避け難い、今の我が身に当てはまる「老化」の現れなのです。どうも、日頃食べているお菓子や甘い物や甘い飲み物の「糖分」が、血液の中に残留して、作り出されるのだそうです。

 「多い」から 一字除くと 「老い」になり

 過ぎたるは及ばざるが如し、まさにその通りです。必要以上に、元気盛んな頃と同じように食べたり飲んだしてはいけないんだと、分かっていても、寂しい口と喉が、甘い物を恋しがるのです。私たちの体内に流れる血液こそ、人体の中にある《神秘》の極みなのでしょう。親族から流れ出て、毛細管一本にも行き渡り、それが心臓に戻って来て、体内を循環し、浄化してくれます。心臓の働きも驚くばかりです。

 〈ミスター・タイガース〉と呼ばれた、掛布雅之は、349本の本塁打、0.292の打率、本塁打王3回、ベストナインが7回などの好選手でした。ただ15年の選手期間は、だいぶ短かったようです。膝を痛めていたりでしたが、まだできそうでした。でも、それには原因があったようで、怪我で療養中の食習慣に問題があったようです。バリバリの現役時代と同じカロリー摂取の食生活を続けたことに、選手生命を短くした原因があったと言われています。

 この年齢になると、箸休めとかデザート、ちょっと甘い物をと、我が口寂しいで、摂り過ぎの傾向があるようです。また頂き物に、焼き菓子や和菓子の多いこともあり、それらは、「終末糖化産物」(AGEs)」と言うそうで、食べ過ぎは赤信号だそうです。いけないのは、〈そんな物があるからだ〉ではなく、手にし、口にする自分にあって、花林糖や贈り主にあるのではありません。

 喫煙、飲酒、夜遊びは、〈華の二十五〉を境に辞めた、いえ辞められた、いえ辞めさせていただいたのです。ところが甘い物、脂身のロース・ステーキの美味しさはなかなかの天敵で、ロシアよりも怖く、ハマスよりも厄介なのです。若い日には若さがあり、老いては、老いの実りがあるのでしょう。

 誘惑、これに勝たなければ、真の《漢(おとこ)》にはなれないので、もうひとガンバリしようかなの決心の快晴の今日です。人の一生には、一つ一つの場面があって、その積み重ねに、それぞれの今があるのですね。最近、老いのリスクを痛感しております。

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夢を解き放つ世代に

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 新宿駅東口の近くに、店の名前は忘れてしまったのですが、昔、大きな大衆食堂があって、よく入って食べたことがありました。どこの駅前も、駅周辺は区画整理されて、ああ言った店は、もう無くなってしまったのでしょうか。

 あの東口と反対の西口の淀橋浄水場の方に回る地下道が、汚れていて、そんな所で寝起きをする人たちがいたのを覚えています。駅の西口のガード寄りに、「思い出横丁(今はそう呼んでいるようですが)」の一間か一間半ほどの間口の食べ物屋が、軒を連ねていて、高校のバスケット部の試合のボール持ちで応援に行った帰りに、そこで、先輩にご馳走になりました。なんだか訳ありの物だったかも知れませんが、先輩につられて食べて、美味しかったのです。

 高野フルーツ店もありましたが、高級な果物が売られていて、パーラーの店もあったと思います、一、二度入ったでしょうか。食べ物の記憶しかないのは、一に食べることが関心事の中学生だったからでしょうか。

 学校に通うようになって、落語の寄席の末廣亭にも出入りするようになりました。ちょっと背伸びしてみたのでしょうか、級友を連れて一、二度入ったことがありました。格好をつけてみたのですが、まだ落語の味など味わうほどではなかったのです。

 札幌から上京していた同級生を、この末廣亭に誘ったことがあったのです。いいところを見せたくて、木戸を潜ったのですが、何か落ち着きませんでした。けっきょく終わりまでいて、そこを出て駅まで連れて行き、小田急線で帰っていく彼女を見送ったのです。

 卒業式の時、彼女の両親に、『楽しいところに娘を連れて行ってもらったそうでありがとうございました!』と言って、お礼を言われてしまったのです。彼女は故郷に帰り、そこから二、三度手紙をもらって、行き来がなくなってしまいました。今は、素敵なおばあちゃんをしておいででしょうか。

 その新宿で、駅近の喫茶店に入って、〈青っくさい談義〉を繰り返して、互いに刺激し合ったのです。いやにコーヒーが苦かったのが忘れられません。みんなどうしてるのでしょうか。あの頃、一緒に時を持ち過ごした級友たち、遊び仲間との繋がりは、そう強くなかったのですが、みなさんそうなのでしょうか。青い青春の色も、色褪せて、少々思い出が寂しい感がいたします。

 でも、この年齢には年齢なりに、磨かれた真鍮の名残が残されていて、燻銀の世代になっているのでしょうか。聖書は、「夢を見る世代(使徒217節)」だと言っています。ふつうに、夢を見るのは、青年であると言われますが、老人こそ夢を見るのだと、聖書は言います。浮世を生き抜いてきて、来世への期待感に溢れながら、未来に向かって、夢を解き放つ世代であると言っているに違いありません。

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木枯らし1号に思う

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 この13日には、木枯らし1号が観測されたとの知らせを聞きました。気象の世界が、常識にとらわれないで、ヤンチャに動く回っているように感じられています。このヤンチャの原因は、地球やそれを取り巻く宇宙全体のバランスを、人が崩してしまったからでしょうか。そんな中、木枯らし情報を得て、歌を思い出しました。

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

 これから本格的に北風が、日光連山あたりからピイプウ吹き始めて、木枯らしが寒さを運んでくるのでしょうか。ここから見える筑波山も、日光連山も、遠望の富士山も、そして地元の大平山も、そろそろ冬模様を見せているのでしょう。

 今では、車も電車も暖房があって、快適な旅ができるのですが、かつては、凍えるようにして背をつぼめて、とぼとぼと歩いて、日光例幣使街道、日光街道、奥羽街道を、侍も商人も農民も歩いていたのでしょう。

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 北国の人は、歩幅が小さく、背を丸めて歩くので、同郷の人には、それが分かって、親近感が湧くのだそうです。高度成長期に、東京に出稼ぎで出て来られた東北出のみなさんは「上野駅」、山梨や南信州の方は「新宿駅」、北陸のみなさんは「米原駅」などが、ターミナル駅で、そこは、お国訛りが聞こえる〈故郷を感じるポイント〉なのでしょう。

 ふるさとの訛り恋しき上野駅

 上野駅よりも、新宿駅の利用の機会の多かった中部山岳の生まれの私ですが、JR新宿駅から信州方面の列車に乗ったことが何度もありました。座席に着くと、周りから、信州弁や甲州弁の訛りが聞こえてきて、車内はもう諏訪や甲府の世界を感じさせられてしまったのです。

 以前、ブログにも取り上げたのですが、「春の背筋と歩幅」と言うことばを聞きました。今年は、すでに木枯らし襲来もあって、もうそろそろ「冬の・・・」に変わって、春から延ばし、この夏の暑さに縮めた背筋を、今度は寒さに縮めるのでしょうか。歩幅だって、豪雨や強雨や強風で狭くしたのですが、天気がよくなりますと、歩幅だって、浮かれた気分で広くなるのです。逆に天気が悪くなったり寒くなると、狭まるのです。

 人生の王道を、背を伸ばし、歩幅もとって、闊歩したいものです。イエスさまは、未舗装、未整備の道を歩まれ、私たちの世界を歩いてくださったお方です。石ころ道や茨の道を、雨や嵐の中を歩き回られました。それは倦み疲れた私たちに会われるためでした。この私にも会ってくださり、それから、主の傍を並走して、今日に至っております。

 もう少し歩んで、到達点に達したいと願っております。生まれてから、どれほどの歩数かは数え切れませんが、つまずいたり、電信柱にぶつかったり、倒れたりしましたが、起き上がって、また歩み続けて、今日まで歩んで来られました。感謝ばかりです。

( “illust  image” のイラストです)

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あれから22年、これからは

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今朝、目が覚めたとき
あなたは今日という日にわくわくしましたか?
今夜、眠るとき

あなたは今日という日にとっくりと
満足できそうですか?
今いるところが、こよなく大切だと思いますか?

すぐに「はい、もちろん」と
いえなかったあなたに
このメールを贈ります。
これを読んだら
まわりがすこし違って見えるかもしれません。

世界には63億人の人がいますが
もしそれを100人の村に縮めると
どうなるのでしょう。
100人のうち

52人が女性です
48人が男性です

30人が子どもで
70人が大人です
そのうち7人が
お年寄りです

90人が異性愛者で
10人が同性愛者です

70人が有色人種で
30人が白人です

61人がアジア人です
13人がアフリカ人
13人が南北アメリカ人
12人がヨーロッパ人
あとは南太平洋地域の人です

33人がキリスト教
19人がイスラム教
13人がヒンドゥー教
6人が仏教を信じています
5人は、木や石など、すべての自然に
霊魂があると信じています
24人は、ほかのさまざまな宗教を
信じているか
あるいはなにも信じていません

17人は中国語をしゃべり
9人は英語を
8人はヒンディー語とウルドゥー語を
6人はスペイン語を
6人はロシア語を
4人はアラビア語をしゃべります
これでようやく、村人の半分です
あと半分はベンガル語、ポルトガル語、
インドネシア語、日本語、ドイツ語、フランス語などを
しゃべります

いろいろな人がいるこの村では
あなたと違う人を理解すること
相手をあるがままに受け入れることが
とても大切です

また、こんなふうにも
考えてみてください
村に住む人びとの100人のうち

20人は栄養がじゅうぶんではなく
1人は死にそうなほどです
でも15人は太り過ぎです

すべての富のうち
6人が59%をもっていて
みんなアメリカ合衆国の人です
74人が39%を
20人が、たったの2%を分けあっています

すべてのエネルギーのうち
20人が80%を使い
80人が20%を分けあっています

75人は食べ物の蓄えがあり
雨露をしのぐところがあります
でも、あとの25人はそうではありません
17人は、きれいで安全な水を飲めません

銀行に預金があり
財布にお金があり
家のどこかに小銭が転がっている人は
いちばん豊かな8人のうちの1人です

自分の車をもっている人は
豊かな7人のうちの1人です

村人のうち
1人が大学の教育を受け
2人がコンピューターをもっています
けれど、14人は文字が読めません

もしあなたが
いやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに
信仰や信条、良心に従って
なにかをし、ものが言えるなら
そうではない48人より
恵まれています

もしもあなたが
空爆や襲撃や地雷による殺戮や
武装集団のレイプや拉致に
おびえていなければ
そうではない20人より
恵まれています

1年の間に、村では
1人が亡くなります
でも、1年に2人
赤ちゃんが生まれるので
来年、村人は
101人になります

もしもこのメールを読めたなら、
この瞬間、あなたの幸せは2倍にも3倍にもなります
なぜならあなたにはあなたのことを思って
これを送った誰かがいるだけでなく
文字も読めるからです

けれど何より
あなたは生きているからです

昔の人は言いました
巡り往くもの、
また巡り還る、と

だからあなたは、
深ぶかと歌ってください
のびやかに踊ってください
心をこめて生きてください
たとえあなたが、傷ついていても
傷ついたことなどないかのように
愛してください

まずあなたが
愛してください
あなた自身と、人が
この村に生きてある
ということを

もしもたくさんのわたしたちが
この村を愛することを知ったなら
まだ間にあいます
人びとを引き裂いている非道な力から
この村を救えます
きっと

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

 200111月に、マガジンハウス社から「もし世界が100人の村だったら」という題で、書籍が売り出され、たちまち話題の一冊になったのです。

 あれから22年経った今では、世界の人口は、80億人を超し、2037年には、90億人に達するであろうと予測されています。比較値は、そう変化がないと思われますが、人口増加の速度は増していって、この本で、『まだ間に合います!』と言っていましたが、22年も経った今は、どうも間に合いそうにありません。

 この記事にある、この部分はどうなっていくのでしょうか。

もしもあなたが
空爆や襲撃や地雷による殺戮や
武装集団のレイプや拉致に
おびえていなければ
そうではない20人より
恵まれています

「20人」もいたのですが、今では、どれほどに数のなっているのでしょうか。今後、どれほど増えていくのでしょうか。統計の数や問題ではなく、平和な生活が打ち破られている現状は、子を持ち、孫のいる私には悲しくて辛いものです。しかし、この現実の中に、救い主が立っておられます。義であられる神は、どのような思いでおられるのでしょうか。

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この不思議さに

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 太陽から照りつける光と熱に、日陰の涼を求めて逃げ込んでいたのに、昨日は、日光浴をしたくなるほどでした。この12週の違いに驚かされいます。地球にある日本列島との距離は変わらないのに、陽の射してくる角度が、被写体の地球の傾きによって違うのです。  

 今日は、1115日で、立冬から1週間が過ぎたのですから、真夏は真上にあって、そのまま西の空に太陽が落ちていくのに、今日は、窓から入り込んで、この居間の中ほどまで光が入ってくるようになっています。

 この違いをもたらす、地球の南北の地軸の23.4度の傾きは何なんでしょうか。どうしてこの角度なのでしょうか。驚くほどの知恵によって定められているのは、太陽と地球の距離、そして地球の回転軸の傾きも、小学生の私を驚かせたのです。創造者の手による以外考えられません。

 それよりも、地球を動かしている動力エンジンはどこにあるのでしょうか。燃料なしでどうして動くのでしょうか。同じ軌道を自転しながら動いて、一年周期であることもです。太陽の光は、一億4960万キロも離れているのに、毎秒299792.458kmで速さで、約8秒で届くのだそうです。

 人が生活するのに見合った温度で、地球に届くのは、子どもの頃から不思議中の不思議でした。夏の自動車のボンネットの鉄板を触ったら火傷をするのに、夏場は皮膚が黒くはなりますが、焼け焦げないのはどうしてだろうかともp思ったものです。

 地球の重量は、6580000000000000000000トン、一方、太陽(ガスでできてるようです)は、2000000000000000000000000000000 kgです。こんな重さが何によって支えられているのでしょうか。支えがないのに、どのようにして空間に置かれているのでしょうか。この両者の関わりや、バランスは、何よっているのでしょうか。

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 この地球と太陽も、そして大宇宙も、だれが設計したのでしょうか、宇宙の広がりは無限大であること、これもスーパーコンピューターでも、極めることにできない謎なのではないでしょうか。この智慧を、偶然や進化で回答できるのでしょうか。

 『天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。 昼は昼へ、話を伝え、夜は夜へ、知識を示す。 話もなく、ことばもなく、その声も聞かれない。 しかし、その呼び声は全地に響き渡り、そのことばは、地の果てまで届いた。神はそこに、太陽のために、幕屋を設けられた。 太陽は、部屋から出て来る花婿のようだ。勇士のように、その走路を喜び走る。 その上るのは、天の果てから、行き巡るのは、天の果て果てまで。その熱を、免れるものは何もない。(詩篇1916節)』

 聖書は、「御手のわざ」だと言います。太陽は、空気のバランスを保ち、熱と光で植物を生じさせ、動物を育てています。殺菌までしてしまうのです。あんなに身を固くしていた冬の蕾は、この光が来るときに、開いてしまいます。この創造の話を聞いて納得をした日が思い出されます。

 「小宇宙」と言われる人間の身体を通り上げるなら、神さまが、自分の造り主であることを認め、畏怖せざるを得ません。そんな私たちに、『愛してる(イザヤ43章3節)』と言ってくださる神さまに、ただただ感謝の溢れる今曉です。

(先日の朝焼け、次男の撮った星空です)

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今がどのような時か

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 父に教えられた句に、次のようなものがありました。

 桐一葉 落ちて天下の 秋を知る

 さしもの暑かった夏は行き、暦は秋になっても暑さが和らがず、やっと今朝になって、寒さを感じられるようになり、「やっと」を思わせる季節が巡ってきたようです。家のベランダから見える、知人の庭の木の葉が落ちては掃き、落ちては掃きが繰り返されるようになりました。

 わがベランダも、白と紫の桔梗も咲き終わり、サンパラソルがしぶといように花をつけ、まだ蕾が二つほどあります。撫子も盛りがすぎて、遠慮がちに咲き、ペチュニアだけは元気に咲き続けています。盛りの時季を終えて、冬を見据えた秋の到来です。

 わが家に、女の子が二人与えられましたが、昔の人は、誕生と同時にでしょうか、桐の苗木を植えるのだと聞きました。大きく育った桐の木で、タンスを作って、娘の嫁入りに持たすためだとかでしたが、庭などない家にばかり住み続けた我が家では、そんな風流な風習を真似ることもできずに、嫁がせてしまいました。

 秀吉の家紋は、この桐でした。天下を手中におさめた豊臣秀吉の治世も、桐の葉が落ちていくように、終わりかけているのを、上のような句にしたのが、豊臣の武将の片桐且元だそうです。秀吉の配下で、朝鮮出兵にも遣わされた人ですが、最後には、家康についたのです。

 天下の移り変わりに即応して、難しい時代を生き抜いたのでしょう。家老職までこなしながらも、身を転ずるのは、あの時代では珍しくなかったのでしょうか。時を読むことができ、一族の将来を思いながらの決断を、且元はしたのででょう。

 パウロが、「時」について、次のように記しています。

 『あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。(ローマ131113節)』

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 一昨日、次の讃美歌(21 575)、「球根の中には」を聴きました。

球根の中には 花が秘められ、
さなぎの中から いのちはばたく
寒い冬の中 春はめざめる
その日、その時をただ神が知る

沈黙はやがて 歌に変えられ
深い闇の中 夜明け近づく
過ぎ去った時が 未来を拓く
その日、その時をただ神が知る

いのちの終わりは いのちの始め
おそれは信仰に、死は復活に
ついに変えられる 永遠の朝
その日、その時をただ神が知る

 そうですね、「日」と「時」を、知っておいでの神さまが、すべての日と時とをご存知なのです。

 織田、豊臣、徳川と移り変わった時代の流れと、その動きの激しさは、今も同じで、世界中から叫び声が上がっています。戦争と戦争の噂や話題がふえ、国と国、民族と民族の対立が激化しています。人心が乱れ、犯罪が凶悪化し、恐れと不安が満ちています。どんな時代なのかを読んで、「光の武具」で身を纏うように、パウロは勧めています。

 私たち、二十一世紀を生きている者も、目を覚まさないといけないに違いありません。だからこそ、「昼間らしい、正しい生き方」をする必要がありそうです。ソドムから出て、光の中で生きることでしょうか。

(霧の花と葉、球根です)

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古商都の今

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 家の近くに、「コエド市場(まちの駅)」があります。FMラジオのスタジオもあって、パンやお土産、近くの農家が作る季節の果物や野菜果物などが売られていて、けっこう便利です。コーヒー・コーナーもあって、「蔵の街」を観光で訪れるみなさんが、よく出入りしておいでです。「道の駅」の街中版でしょうか。

 この「道の駅」は、最新統計によると、全国に、1209 箇所ほどあるそうです。車社会の中で、新しい形態の複合商業施設で、駐車場、商業施設、休憩所、食堂などを兼ね備えたスポットで、人気度が高くなっているようです。車の運転をしなくなった私も、時々、市内の循環バスや自転車で出掛けています。

 とくに地元の農家が、農産品を記名入りで売っていて、運送費や宣伝などが省かれるからでしょうか、安く買うことができるのと、新鮮さが相まって人気の場所になっています。やはり、この便利なSpot も、功罪があって、社会的な弱者の〈われわれ世代〉に、問題を投げかけているそうです。

 13年ぶりに帰国して、たまに帰国しても短期間で、戻ると言った生活を繰り返してきましたから、日本の世情に疎くなって、ふと頭を上げてみたり、市役所に行ってみたりすると、もう歴とした「後期高齢者」になっていたのです。そう医療費負担の減額などの恩典に浴する世代になっているのに気付いたのです。

 車を利用しない、この高齢者にとっては、近場に、一軒でほとんどの物が揃う、スーパーマーケットがあることは大きな助けです。ここの家の周りは、かつては人の波が押し寄せるほどの賑わいだったのですが、今では多くの店がシャッターを下ろしてしまって、空き地も目立っています。私たちよりも少し年嵩の老い、ご婦人たちに独り住まいが多いようです。5年前に住み始めた頃にあった八百屋さんも、お店を閉めてしまい、クリーニング屋も消えてゆき、小さな魚屋が残っているだけです。

 おばあちゃんが、手押し車を押して買いに行ったスーパーも閉まり、遠道を買い物に行くお姿を見るにつけ、運動にはなりはしますが、ちょっと辛そうです。おっつけ私たちも、そんな姿で、人に見られるようになるのでしょうか。社会は、便利さや軽便さで動いていて、世の中の弱い立場の人たちは忘れられていくのでしょう。

 この「道の駅」などは、過疎の街中に住む人たちには、縁の遠い存在で、お嬢さんや息子さんが、たまに来て、通院の助けのついでに、連れて行ってもらうだけで、日常の生活には、用無しです。大型スーパーの進出で、商店が潰れ、小ぢんまりしたスーパーもやめてしまい、そこに自転車で出掛けていた人たちも、もうお歳やお病気で、乗れなくなってしまっています。さらにアメリカ資本の超大型の店舗がお隣の街にできて、少なからず既存のスーパーなども影響が出ているのでしょう。

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 細々と経営していたお店も、「道の駅」の近くの車でしか行けない距離の住民、とくにお年寄りを支えていた小型スーパーが、一方が栄えるにつれて、もう一方が衰えて、ついには閉店になっているのが現状です。こう言った、「買い物難民」の中には、タクシーを使える人はいいのですが、なかなか買い物の難しい世になっています。

 引き売りの軽自動車の移動店舗だって、山の方に住む人には便利でも、街中の狭間に生活している人には、届き切れてないのです。ここに、軽自動車で、週一回やって来る、高級豆腐の挽き売りがあります。紹介していただきましたが、だいぶ高額なので、いつの間にか手が引っ込んでしまいました。

 駅前のスーパーに代わって、郊外のバイパス沿いに、大型店が出店し、地方都市でも、駅周辺の過疎化が進み、今度は、また次の波が襲ってきているようです。以前は10年のサイクルで変化していたようですが、今は45年の間に変化が起こっているのでしょう。event があった時、どこからやって来られたか、昔栄えた商店街に、人の波ができていて、驚きました。その空き地に kitchen car や屋台が出て賑わっていたのです。住む街の様子です。

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信仰と教育の系譜

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 「日本の良心」を培うために、クリスチャンの果たした役割は大きかったと言えます。東海道の神奈川宿(現在の横浜市神奈川区)に、古刹の成仏寺がありますが、幕府はアメリカ人医師のヘボン(James Curtis Hepburn)の宿舎と施療所のために、ここを使うようにと、幕府は定めました。横浜港に、ヘボンが上陸したのは、1859年の秋のことでした。

 このヘボンは、おもに眼科医で、当時の日本には眼を病んだ人が多く、彼らの治療のために心血を注いだのです。「毛唐(外国人への蔑称です)」を撃つ機会を探って使用人として、ヘボン邸に同居した武士(身分を隠した刺客でした)が、その機会を探っていました。ヘボンの生活振りや挙動を見守るのですが、何の非も見つからないばかりか、その人格の高さに平伏し、ともに居住する必要を感じずに、暇乞いを願って、去ったと言われています。

 このヘボンは、ヘボン式ローマ字を作り、英和辞書を作り、聖書の翻訳をしています。さらに教育にも着手し、「ヘボン塾」を開学しています。後の明治学院の始まりでした。

 医療、宣教、教育などの面で、日本の近代化に果たした役割は、実に大きなものがありました。とくに教育が果たした実りには驚かされます。横浜で成された業だけではなく、熊本、松江、弘前などでも、聖書に基づいた宣教、医療、教育をもって、多大な影響力は、二十一世紀の今に至っても及んでいます。

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 札幌に農学校が開校されにあたって、来日した人が、あのクラークでした。1876年に来日し、翌年に離日していて、札幌には9ヶ月しかいませんでした。ヘボン上陸から17年後のことです。教頭職という立場で、教壇に立つにあたって、北海道開拓使の清田清隆に、農学を教えるばかりではなく、道徳教育を要請したのです。そこで、「聖書」を基にして、それをしたいと願ったクラークに、頭を縦に降らなかったのですが、結局は、清田が折れて、「聖書」が用いられたのです。

 クラーク(18261886)は、マサチューセッツ農科大学、アマースト校の校長でしたが、南北戦争に従軍した、北軍の士官でもあったのです。アマースト大学のカリキュラムで、教育が行われました。一期生が16名いたのですが、英語で教育がなされ、彼らには英語の基礎はありながら懸命に、辞書を引きながら学んだのです。しかし彼らは、187735日の日付で、「イエスを信ずる者の盟約」を結ぶのです。

 明治の初年、長い封建時代が終わって間も無く、札幌にやって来た若者たちが、イエスをキリストと信じたのには、驚くばかりの出来事でした。その一期生の主だった人は、佐藤昌介(北海道帝国大学総長)、大島正健(言語学者、旧制甲府中学校校長)、内田瀞(牧場主)、黒岩四方之進(牧場主)、伊藤一隆(道庁勤務を経て石油会社経営)、渡瀬寅次郎(教育者、種苗店経営)、柳本通義(台湾官吏)でした。

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 この他に、新渡戸稲造、内村鑑三が、二期生にいました。直接クラークの薫陶を受けなかった青年たちが、キリスト者として、後の日本や世界に大きな感化を及ぼすのです。とくに、教育や伝道で内村の働き、そして国際連盟での新渡戸の果たした働きは驚くほどのものがあります。

 私たちの在華中、説教の通訳や訪問の手伝いや結婚式の試式など、生活に全般にわたって、手助けしてくださった方は、省立の師範大学法学部の教師をされておいででした。彼女は、裁判官の仕事を経て、日本に留学し、広島大学法学部で、博士号を取得されておいででした。先日も、家内の見舞いのために2週間ほどの間、訪ねてくださったのです。
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 その広島大学は、戦後、総合大学として新しい一歩を記すのですが、その初代学長をされたのが、文部大臣や国会議員を歴任した森戸辰男でした。被爆地の復興とともに、若者教育を担った福山藩士の背景の人で、一校、東京帝国大学に学んでいます。一高時代は、校長であった新渡戸稲造の倫理学の講座に学んで、人格上の深い感銘を受けたのだそうです。この人の精神的バックボーンには、そんな出会いがあったのです。

 この森戸辰男は、どのように、新しい大学を導いたのでしょうか。どうも、新渡戸稲造の教育観の強い感化が見られます。

  『新渡戸 の教育は人格教育といわれています。森戸は、新渡戸 教育・大学の目標を、「職業的能率ではなく、専門的 知識ではなく、人格の涵養」にあると考え、それを体 験的に「吾々の精神の一般教育(ゼネラル・カルチュ )であった」としたのでありました。  森戸にとって大学とは、人格の涵養を行う場所であ り、大学教授とは教育者であったと。そして、森戸に とって新渡戸教育が新制大学――現在、広島大学は新制広島大学になっているわけですが――における一般 教育の原型と森戸は述べており、また、それを実践し ていきました。( 広島大学文書館 館長  一)』

 この、クラーク、クラークの感化を受けた農学校の一期生、新渡戸稲造、森戸辰男に至る「信仰の系譜」を眺めて、そんな教育理念で行われた広島大学で学び、広島の教会で信仰復興をした姉妹に至る流れは、神さまのご計画と導きに違いありません。この姉妹は、私たちの帰国後、教会のお世話を担って、愛兄姉とともに立っておいでです。

(ヘボン、クラーク、新渡戸、新渡戸と内村、新渡戸とこの中に森戸がいます)
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