ひと夏の思い出(4)

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私の生まれた年に流行った歌に、「ラバウル小唄」があります。作詞が若杉雄三郎、作曲が島口駒夫で、「遠洋航路」の別名もあります。

1
さらば ラバウルよ また來るまでは
しばし 別れの 涙がにじむ
戀し懷し あの島 見れば
椰子の 葉かげに 十字星

2
船は 出てゆく   港の沖へ
いとし あの娘の  打ちふるハンカチ
声をしのんで  こころで泣いて
両手 合わせて  ありがとう

3
波の しぶきで 眠れぬ夜は
語り あかそよ デッキの上で
星が またたく あの星 みれば
くわえ 煙草も ほろにがい

4
赤い 夕陽が 波間に沈む
果ては 何處ぞ 水平線よ
今日も はるばる 南洋航路
男 船乗り かもめ鳥

5
さすが男と   あの娘は 言うた
燃ゆる 思いを  マストに かかげ
ゆれる 心は  憧れ はるか
今日は 赤道  椰子の下

この歌詞 に出てくる「ラバウル」は、パプア・ニューギニアのブリテン島にある町で、かつて旧日本軍の航空隊の基地がありました。この歌は、軍歌ではなかったのですが、兵士たちに好んで歌われたようです。大阪港から「蘇州号」に乗って上海に向かった船の中で、この歌を思い出した私は、波を見ながら歌っていました。ところが二日目、台風が行ったばかりの外海は、荒波が立っていたのです。これまで5回ほど乗船経験があり、この歌の三番の歌詞の「波の しぶきで 眠れぬ夜は 語りあかそよ デッキの上で・・・」のように、道連れになった方たちと語り合うことが多くありました。しかし、今回は、そんな気分はなれなかったのです。「船員も船酔いしていたようです!」と後になって聞いたように、船が前後に揺れて、朝食を摂ったあとは、昼も夜も食事を食べずに、水分補給だけはして、船室のベッドに横になるばかりだったのです。さながら船内は「ゴーストタウン」のように静まり返っていました。小さな子どもたちでさえも、走り回らなかったのです。

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そんなこんなの船旅で、上海で下船したのですが、上海は朝から真夏日が照り付けていました。「動車(中国番の新幹線)」のチケットを買っておいてくれた学生さんと落ち合う喫茶店に、何と徒歩で向かったのです。近いはずなのに、体力がなかったので遠く感じられ、荷は重くて倒れるばかりでした。その朝も食べられなかった私は、息子が「はい、おやつ。持っていって!」と渡してくれた「干しイチジク」を食べていたので、どうにか持ち堪えることができたのです。Nさんと会えて、始発駅まで送っていただきました。彼女に荷物を一つ持っていただいた時は、彼女が天使のように思えて感謝でいっぱいでした。

Nさんと息子のお陰で、「熱中症」にもならないで、無事に帰宅することができたわけです。「次回は、飛行機!」と決心したのですが、あの何とも言えない船のゆったりした揺れと語らいが、懐かしくなってきていますので、この決心は撤回されるかも知れません。初めて「吐き気」を覚えた夏の出来事でした。

(写真上は、上海と大阪間を就航する「蘇州号」、下は、「上海」です)

ひと夏の思い出(3)

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息子の自転車にまたがって、全国高校野球選手権の「西東京大会」の決勝戦が行われる「明治神宮球場」に、麦わら帽子をかぶり、ザックを背に出かけました。午後一時試合開始でしたから、夏の陽がジリジリと照りつけていました。入場券を買うために、長い行列ができていましたので、その最後部に並んだのです。「もう少し日陰がほしい!」と思ったのですが、じっと我慢しておりました。3塁側の応援席に陣取って、球場全体を見回すと、ほぼ満席の状況で、さすがに決勝戦の熱気に満ちていたのです。久しぶりの都立高の決勝戦出場を果たした「日野高校」の応援をしたのです。私が都合、十五年ほど住んだ街にある都立高校だったことが、そうさせたわけです。卒業生ではなく、戦後の団塊の世代の受け入れで、1960年代の初めに新設された高校でした。対戦は日大三高、西東京の雄で、甲子園で優勝経験もあるほどの名門でした。

やはり一方的な試合運びで、大差で日大三高の勝利に終わってしまいました。でも試合を捨てることなく、最後まで善戦した日野高校の選手たちに、最大級の拍手を送って席を立ちました。人気のないスポーツをしていた私には、このメジャーな高校野球の沸騰するような人気が羨ましくも感じたのです。同じ運動場の右と左に別れての練習は、時たま打球が入り込むこともありました。野球部とは、仲良く励んでいたのです。私の部は、先輩たちや後輩たちによって全国制覇をしたこともあり、野球部に比べたら認知度が高かったのですが、マイナーだったのは悔しい限りでした。都の予選の決勝戦では、一点差で敗れ、インターハイに出場できなかったのです。すぐ上の兄とは同じ学苑の中等部と高等部で、兄は、その野球部に所属していたのです。確か東京の「ベスト16」で、甲子園の夢は破れてしまいました。

帰りも同じコースを通ったのですが、途中、「国連大学の前庭で<フリーマーケット>をしているんだけど、面白いよ!」と息子に言われて送り出されたので、寄ってみました。何と、そこでは、多くの野菜や果物の中に、私の古里産の「桃」が売られていたのです。咄嗟に「食べたい、」と思って息子と私の分を買って帰ったのです。懐かしい味と、みずみずしさとで美味しく息子と食べることができました。

太陽、高校野球、自転車、麦わら帽子、桃と五つが並びますと、どうしても「夏」ということになるのでしょうか。熱中症にもならずに、日本の夏を楽しむことができた一日でした。

(写真は、決勝戦の行われた「明治神宮球場」です)

ひと夏の思い出(2)

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渋谷から地下鉄「半蔵門線」に乗って押上駅で降りますと、そこは「東京スカイツリー」の真下でした。出張で帰国中の長女と次男とで、「一度は登ってみよう!」とのことで出掛けたのです。平日でしたので空いているかと思ったのですが、あにはからんやの夏休みで、学生と小さな子連れの家族で溢れていました。「(待ち時間)70分」とサインの出ていた最後部の列に並んだのです。今や「東京一の人気スポット」ですから、仕方なく「お上りさん」をしてみました。幸い列に最後部は、建物の中で、しっかりと冷房が効いていたので助かりました。「一人2000円」の入場料は高いと思いましたが、娘に払わせてしまいました。

高速のエレベーターで、一気に登ったのですが、「こんなに展望台に人がいて大丈夫?」と思うのは素人考えで、構造上も工学上も問題がないのです。二十一世紀の日本の科学技術の粋を凝らして作られたのですから、展望台に足を置いても不安はありませんでした。少々曇り空でしたが、千葉、埼玉、神奈川、山梨の隣県も眺められ、東京の街は足元に見ることができ、こう言ったのを「鳥瞰(ちょうかん)」と言うのでしょう。大空を舞う鳶(とび)にでもなったような気分でした。高度が「むさし(634m)」の駄洒落(だじゃれ)なのがいいなと思わされます。

上の展望台に登るのは別料金でしたし、その展望台を満喫しましたので、下りのエレベーターで降り、次の目的地の「浅草」に向かいました。「鰻を食べたい!」という娘の要望で、お目当ての店に息子が案内してくれたのですが、あいにくの休業日だったのです。唾を飲み込んで、道を行きますと、「蕎麦屋」があり、「ここでいいか!」と言うことで暖簾をくぐったのです。空腹だったこともあり、結構美味しかったので、満足して隅田川にかかる「吾妻橋」を渡りました。

もうそこは「浅草」でした。都市整備で道路の車線も増えて、道路ぎわの建物もほとんどがコンクリートのビルになっていて、ずいぶんと様変わりしていました。私が、そう思うのですから、父が生きていたら、目を丸くして驚いたことでしょう。仲見世をぶらぶらしながら、ちょっと疲れたこともあり、路地裏の喫茶店に入りました。そこは六十年代の雰囲気を感じさせる店でした。そこを出て、今度は「浅草線」で渋谷に向かいました。息子と私は「東横線」に乗り換え帰宅し、「ちょっと買い物を!」と言って娘は渋谷で降りて行きました。

「打ち合わせがあるので!」と言って出掛けた息子が、九時ごろに帰ってくると、娘が渋谷で買ってきたケーキにロウソクを立てて火をつけました。電気を消したら、「ハッピーバースデーツーユー」と歌い出したので唱和して、息子の誕生日をお祝いしたのです。ローソクの火を消した息子の横顔は実に嬉しそうでした。もう何年も、誕生日を家族に祝ってもらったことがなかったことでしょう彼は、久しぶりの誕生祝いに、きっと「家族っていいなあ!」と思ったに違いありません。そう、私も「家族っていいなあ!」と思ったことです。

(写真は、新しい東京のテレビ塔の「スカイツリー」です)

ひと夏の思い出

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帰国時に、すぐ上の兄と弟と彼の孫とで、福島県の津波被災地の二年半後の様子を見ることができました。八月でしたから、神奈川県下の片瀬海岸にでも匹敵しそうな広く美しい、豊間の海岸線は、夏の陽を浴びて、キラキラと輝いていました。かつては週日でも、この海塩屋岬と合磯岬の間にある海水浴場は賑やかだったのでしょうけど、私たちが参りましたおりには、サーファーが十人ほど遊んでいるだけで、閑散としていたのです。

車をおりて、歩いて見たのですが、家の基礎が残っているだけで、「ここが玄関で、そこは風呂場だったんだ!」と分りますが、蛇口をつけた水道管が剥き出しになっていたのが哀れでした。何代も何代も埋葬されてきた墓場の墓石がなぎ倒されているのですから、地震と津波の勢いがどれほどであったかが想像できました。人間が積み上げたもの、人の一生の最後を記念する家名を刻んだ墓石でさえも、一瞬にしてさらわれていくのだと思うと、「物を豊かに持つことが、人生の目的でも手段でもないんだよ!」と語りかけられたようでした。

日本の国が、豊かに作り上げ、積み上げ、誇らしく思ってきた有形無形のものが、自然災害の前では、赤子の手をひねられるように、一瞬のうちに略取されてしまうのだとしたら、私たちは大自然と、その造物主の前で、何一つ誇れないことになります。昨日も、台風のもたらした豪雨が、日本を襲ったとのニュースを聞きました。たびたびの異常気象の様子を耳にしますと、ここ中国の少数民族の「ミャオ族」に語り伝えられている「洪水伝説」も、作り話ではなく、歴史的事実だったのではないかと思われてしまうのです。

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今朝のこの街では、碧空が広がり、吹く風は肌に心地よく感じられますが、陽差しは、まだまだ夏そのものです。家内が買い物から帰ってきた物の中に、「さつまいも(甘藷)」がありました。あんなに西瓜やメロンが食べたかったのに、今や芋類を口にしたくなるのですから、巡りくる季節の産物というのは、 実に不思議な自然界の備えだと思わざるをえません。ちょうど母親が、育ち盛りの子どもたちに、「食べ物」を備えるような優しい心配りがあるように感じられてなりません。

地震と津波の被災地の復興が、まだまだのようです。また、福島の原発の放射能の問題も、「どうしたらいいのか?」から一歩も進んでいないそうです。課題だらけの日本ですが、生まれ育った祖国の課題ですから、門外漢でいるわけにはいきません。共に負いながら生きて行こうと決心したところです。それはそれとして、昼には、芋をふかしてもらうことにしましょうか。

(写真上は、美しい「海」、下は「さつまいもの花」です)

♭「ああ母さんと・・・」

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この季節になると、歌いたくなる歌があります。作詞が斎藤信夫、作曲が海沼実で、川田正子が歌った、「里の秋」です。1945年の暮れに発表されています。

1 静かな静かな里の秋
  お背戸(せど)に木の実の落ちる夜は
  ああ母さんとただ二人
  栗の実煮てます いろりばた

2 明るい明るい星の空
  鳴き鳴き夜鴨(よがも)の渡る夜はっq
  ああ父さんのあの笑顔
  栗の実食べては思い出す

3 さよならさよなら椰子(やし)の島
  お舟にゆられて帰られる
  ああ父さんよ 御無事でと
  今夜も母さんと祈ります

この歌詞の中の「お背戸」は、OKwaveによりますと、「家の裏口(または裏手)を意味します。」とあります。今では、「囲炉裏」があるのは、茅葺のレストランで、郷土食を提供する店くらいにしかないのでしょうね。いつでしたか、山奥の家を訪ねた時に、老夫婦が、この囲炉裏に案内してくれたことがありました。夏でしたから、炭も薪(まき)も燃えていませんでしたが、井戸水で冷やしたトマトにたっぷりの白砂糖を載せたものを食べさせてくれました。ちょっと驚いたのですが、気持ちがとても美味しかったのです。

手袋を編んでくれたお母さんは、冬支度をする晩秋の頃に登場するのでしょうか。「栗の実」を煮ていた母は思い出しませんが、「干しいい(お釜の底にこびりついた米を水にふやかして、天日干ししたもの)」を炒って食べさせてくれたのが懐かしく思い出されます。母が得意だったのが、「ハンバーグ」と「硬焼きそば」でした。「もう一度・・・!」と願っているうちに、天の故郷に帰って行ってしまいました。ところが、家内の作ってくれる「ハンバーグ」の味が、「お袋の味」なのです。日本から上海経由で帰って来ました晩に、遅い夕食を食べた時に、食卓に、その「ハンバーグ」を並べてくれたのです。子どもたちの育った街の言葉で、言いますと、「まそっくり」だったのです。実に美味しかったので感激してしまいました。これって「嫁の味」になりますね。

日本滞在中、弟の家にいました時に(帰国時の息子の家の他の常宿になっています)、彼が料理を作って、何食も食べさせてくれたのです。十五年前に病気で、彼の奥さんのヨシエさんが召され、それ以来、「男手ひとつ」で仕事をしながら、三人の子を育ててきています。今夏の兄貴の来訪時にも、腕を振るってくれたのです。「筑前煮」などを作るほどの腕です。普段は忙しいので、出来合いのおかずで済ませてると言っていましたが、味噌汁はうまいし、目玉焼きの焼き具合も程よく、キャベツも細かく切っていて、いいかげんにしか作れない自分に比べた腕の良さに驚かされました。十五年のキャリアには負けてしまいます。

年を加えて足が弱くなってきていた母が、「轍ちゃんの家に行って手伝ってあげたいわ!」とよく言っていました。母親とは、息子がいくつになっても心配でならないのですね。我が家の「母親」も、いつも遠くにいる四人の子どもたち(妻や夫や孫も含めて)に思いを向けているようです。男の私には叶わないことの一つです。「ニッポンのお母さん」も「中国のお母さん」も「アメリカの母さん」も、その眼で子どもたちを見守り、手で繕ったり作ったりし、足で訪問したり、心で心配して育てておいでです。二十一世紀の「お母さん」に、心からの感謝とエールを送りたいと思っております。そう、お母さんの代わりをしてきた「お父さん」にも、心から、「ご苦労様!」と言いましょう!

(写真は、秋を代表する花「秋桜(コスモス)」です)

はだし

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韮崎から渓流沿いに車を走らせて、山に分けいる時は、幾つも幾つも「九十九折り(つづらおり)」になっている山道を高度を上げなが登って行きました。多くは未舗装でしたから、凸凹みちで、大雨の降ったあと、川のようになって流れた跡が分かるようでした。春には、新芽が萌え出し、ウグイスの鳴く音(ね)が聞こえ、雪解けの「瀬(せせらぎ)」の音も聞こえ、遠くの高い山の頂には雪が残ってるのが見えました。夏には、時たま涼風が頬をなぜ、汗の流れる首筋に心地よかったり、雷鳴が聞こえ、雷雨に見舞われたこともありました。山奥の寒村で生まれたせいか、昨日の山行きは、古里に帰ったような感じがして、何かタイムスリップしたようでした。

秋には柿をもぎ、栗の木を揺すっては栗をひろい、弦から「アケビ」をもいだりしている兄たちに従って遊んでいました。もっと山奥からは、猟師が打ち取った熊や、家の床の間に「鹿の角(つの)」がありましたから、鹿も「索道(ロープウエー)」で運ばれて、父の家の玄関のわきに置かれていたのを覚えています。そんな野性的な環境の中で、幼児期を過ごしたのです。すぐ上の兄は、山裾にあった「分教場」に通っていました。戦後の父の職場は、「石英」の採掘と搬出から、県有林から払い下げられた木材の伐採と搬出に替わっていたのです。

ヒグラシやフクロウなどの鳴く声だって、耳の奥の残っています。自然そのものの生活環境というのは、私たちの原点なのではないでしょうか。そこから離れた現代人は、多くのことを失ってしまっていることになります。ですから、昨日の深山(みやま)の一日は、水を得た魚のような、山に帰ってきた野猿のような「故郷回帰」でした。

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昨日、家内のお世話してくださった方の夫人に、驚かされたのです。綺麗なワンピースを着て、かかとの高いサンダル靴を履いておられました。それは街中をぶらぶら歩きするのが一番良い、オシャレな装いでした。石が敷かれている遊歩道で、彼女は、そのサンダルを脱いで手に持ち、裸足(はだし)でー歩き始めたのです。「田舎で育った人は、よくそうするんです!」と、都会育ちの人が説明してくれました。それを見ていたら、「裸足で歩いたら気持ち好いだろうな…!」と思った私は真似しようとしたのです。ところが、彼女の歩いている道は、小枝や石ころがあるのです。「痛いだろうなあ!」と思ってやめてしまいました。野生種が枯れてしまったからでしょうか。鼻が高くて目が綺麗で、二十歳(はたち)の息子のいるお母さんなのですが、まさに「野生児」そのものでした。

そういえば、昨日の山で、我々の年代の方を一人として見かけなかったのです。みんな学生風か、小さな子供を持つ親子連れだったのです。「きつい!」ことを知っていて、年配者はこう言った山歩きはしないのでしょう。知っていたらわれわは尻込みしたことでしょうね。一晩の眠りでは、家内の疲労回復はしていないので、日曜日の今朝は家にいることにしました。ネットで講演を聞くことにしましょう!

(写真上は、日本にいた時に行ったことのある「入笠山(にゅうがさやま)」、下は、「塩見岳への登山道」です)

「敢闘賞」

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「旗山森林公園 」から帰ってきました。二台の車に、12人が分乗して、土曜の一日を楽しく過ごせたのです。体はすっかり疲れ切ってしまいましたが、久しぶりに「森林浴」ができ、埃っぽい都会の空気ばかりを吸っていた「肺」が、清新な空気を吸い込んで、「うわー!」と喜んでいたようです。松の葉の懐かしい匂い、カサカサと踏む落ち葉、木からの木洩れ陽、清流の瀬音などが、家に帰ってきてソファーに座っている今も、目に見え、耳に聞こえ 、肌に感じてくるようです。

今日は家内に、「敢闘賞」を上げようと思っています。「山歩きで、登山ではないので大丈夫です!」と言われ、安心して歩き始めたのです。それでも家内に「杖」をと思って、道路脇にあった倒木の中から、その杖をこしらえて渡したのです。農業用水の池から流れ出している流れに沿って、歩いていたうち内は好かったのです。「瀬音に癒されます!」と言っていました。ところが遊歩道は、「滝壺」に降りるように案内があったのです。しかも二箇所もでした。意を決した家内は、その順路に沿って滝壺に歩いて降り、次の滝壺にも降りたのです。ところが、そこから急峻な鉄製の階段を登らなければならないのです。何と「70度」の勾配、「300段」の階段(写真の右端の下から上まで見えるものです!)を登らなければならないのです(案内板に書いてありました!)。

二年前に、家内が「胆嚢結石」で苦しんだ時に、肘を抱えて病院に連れて行ってくれ、優しく支えてくれた友人(45歳の男性)が、この階段を登る家内を、汗だくでエスコートしてくれたのです。みなさんが、「頑張って!」、「すごく元気ですね!」、「もう少し!」などと言っては励ましてくれ、「少し休みましょう!」と言っては小休止を繰り返しながらの道行きでした。 今年、七十歳の家内の頑張りに、みなさんが驚きなながら、所定のコースを「踏破」したのです。チョコレート、クッキー、梅漬けなどが振舞われ、それを口にしながらでした。

帰りの車では、私の足が、つってしまったのです(痙攣)。ところが家内は、大丈夫で、5階の我が家にも登ることができました。帰ってきてから風呂にしました。実に「天国! 天国!」でした。「日本人っていいなあ!」というのが正直、口を突いて出てきた一言でした。美味しい昼ご飯をご馳走になり、小休止に食べた「マンゴスチン」が元気付けてくれました。疲れたのですが、体も心も満ち足りた秋の一日に感謝して。

(写真は、滝の右端に見える赤い「300段の階段」です)

ブログの再開について

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8月16日以降の「ブログ」が、ミスで消えてしまいました。ちょっと残念ですが、一ヶ月のブランクで、一両日中に再開することにしました。こちらに戻ってからアップした分の再掲載は諦めました。ご了承ください。ご愛読くださるみなさんに心から感謝しています。明日は、近くの農村の風景の綺麗なところに、「小旅行」を友人たちが企画しましたので参加します。8時にこのアパートの門口に、車で迎えに来てくれます。初秋と言っても、日中は32、3度もありますが、秋を楽しもうと思っております。

ただ今、夕刻ですが、とても蒸し暑く、我が家の寒暖計が、まだ30度を表示しています。寝苦しい夜になることでしょう。お休みなさい!

復興

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東京大空襲

 二度とふたたび立ち上がることなどないほどに、日本全土が焼土と化し、日本人の誇りが打ち砕かれてしまいました。私はまだ幼くて、そういった日本の置かれた情況を知らないで、両親の愛の手で幼児期を過ごしていたのです。都会では食糧不足で大変だったのですが、中部山岳地帯の一角に住んでいたわが家には、食べ物が潤沢にあったので、「ひもじい」と言った経験をしたことがありませんでした。時代の激変の中で、『4人の子どもたちを食べさせていかなければならない!』という必要が父にあったので、しゃにむに敗戦後のどさくさを生きて、育ててくれたのです。

 戦役についていた兵隊たちが復員してきて、瓦礫の片付けから初めて、奇跡的な復興を遂げていき、10年後には、目を見張るほどの国になっていました。日本人が長く培ってきた「底力」や「勤勉さ」が、こういった復興をしてきたのです。ところが、この復興には、二つの戦争が深く関わっていたのです。一つは、1950年6月25日 に始まり、1953年7月27日に休戦した 「朝鮮戦争」でした。そしてもう一つは、1960年代初頭の「べトナム戦争」だったのです。その戦争に関わる物資の調達を、アメリカ軍が日本企業に求めてきたのです。つまり「戦争特需」でした。軍用トラックや武器などが、高い技術と能力と、地理的な近さを買われて製造されていったのです。これが、戦後復興を後押しした大きな力だったのです。

 そういった千載一遇の機会と、日本人の勤勉さが、「東洋の奇跡」を生んだのです。一般的には、企業の業績に脚光を向けてきていましたが、もう一つのことがなされていたのです。城山三郎が、「官僚たちの夏」という小説を書いています。佐橋滋という、通産官僚をモデルに書いた作品で、TVドラマ化もされており、大きな反響を呼んだものでした。この「通商産業省」の役人たちが、戦後の復興に果たした役割は実に大きかったのです。「お役人」と揶揄して、出世や天下りのために、なかなか実務にうといといった印象を持ってしまていたのですが、佐橋滋たちが主導した戦後の経済復興を高く評価する必要があると思うのです。

 とくに、『一家に一台の自家用車!』という国民車構想、そのスローガンを掲げて、国産車の製造を推進していった熱意に、戦後の復興を遂げさせた一点があるに違いありません。日本製品が優秀なばかりに生じた経済摩擦、アメリカとの繊維交渉、石炭から石油へのエネルギー革命、沖縄や小笠原の返還といった困難な交渉もありました。私が子どもの頃に過ごした家の近くに、「大和田橋」という橋があったのです。この橋の袂を折り返しに、「日野自動車工場」で製造された車が試運転をしている様子を、甲州街道の脇に座り込んでベーゴマを磨いていて、毎日のように眺めていました。「産業用のトラック」から「自家用車」への夢を描いて、アメリカに追いつき追い越そうとしていったのです。それは打ちひしがれていた「日本人の心」を元気にしたことになります。

 やがて、その夢が実現していくのです。これまで何度かアメリカに参りましたが、フリーウエイで見かける車に、日本車が多いのに驚かされたのを覚えています。今も、中日の摩擦が大きいのですが、こちらでも一番多く走っているのは日本車なのです。こういったことに世代交代があるのでしょうけど、企業努力だけではなく、官僚の指導があったことを知って、この方たちの評価を変えてしまったのです。この佐橋滋が、事務次官を退任しても、天下りをしなかったことに、彼の「愚直さ」を見たようです。

(写真は、Tokyo空襲後の様子です)

スパンク

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「稚児車(チングルマ)」

 「三つ子の魂百までも」という諺があります。「故事ことわざ辞典」によりますと、『幼い頃の性格は、年をとっても変わらない。』とあります。それだからでしょうか、「鉄は熱いうちに打て!(鉄は、熱して軟らかいうちに鍛えよ。精神が柔軟で、吸収する力のある若いうちに鍛えるべきである、というたとえ。〈コトバンク〉)」と言われて、幼い頃から「躾(しつけ)」の大切さを親に求めてきております。

 戦争に負けて、日本が連合国の占領下に置かれた時、日本の街々に進駐して来たのはアメリカ軍でした。それと同時に、アメリカの物、価値観、文化、教育などが怒涛のように日本に入り込み、それらを日本人は受け入れ、吸収してきました。子どもの「躾」もそうでした。これは一般論ですが、アメリカでは、産まれてくると、子どもはすぐに両親とは別の部屋に寝かされます。少々極端な言い方をしますと、泣いても叫んでも、真っ暗な部屋の中で、幼い日から一人で過ごすのです。それで「独立心」とか「自主性」とか「個人主義」というものが、早くに身につくのでしょうか。ところが日本式の子育てというのは、「添い寝」をさせます。お父さんとお母さんの間で、「川」のようにして床につくのです。また、お母さんの背中にぴったりと接触する「抱っこ」と「おんぶ」もあります。

 総じて、アメリカ人の親子の間には地理的な距離が置かれ、それは心理的な距離も生じているということになります。私たちの目からすると、『孤独で寂しそうで、何となくカサカサと乾いている!』と言った印象がありました。それに対して日本の親子の地理的、心理的な距離は、極めて近いのです。アメリカ人に言わせますと、『日本の親子はベタベタしすぎだ!』と思われていたようです。しかしどちらが好いのでしょうか。それぞれ親の確信が大切に違いありません。私たちが子育てをしたのは、70年代からでした。生まれた2ヶ月の長男を連れて、アメリカ人実業家の家族と共に、東京から美しい自然にあふれた中部日本の地方都市に引越しをしました。

 長男が、グズグズした時に、このアメリカ人の方は、『雅仁、◯◯をスパンクするときは今です!』と私に言いました。私は、その勧めを断る理由がなかったので、それをしたのです。これを皮切りに、「アメリカ流スパンク」を始めて、四人の子育てをしたわけです。「スパンク」とは、”Spank”という英語の日本語読みで、『手やしなやかなムチを用いて、尻を打つこと。』なのです。つまり、「躾の方法」であったのです。「子どもの強い自我を打ち砕く」ことが必要だとされて、私の恩師であるアメリカ人は、二人の息子さんを、「スパンク」によって躾けてこられていたのです。ある時、名古屋で家庭裁判所の調査官をされている方の講演を聞いたのです。家庭問題を調べてきたこの方は、「愛は裁かず」という本を書いていました。彼は、『私は子どもたちを一度も叩いたことがありません!』、『そうやって子どもを育て上げました!』と言っていました。「体罰禁止論者」だったのです。

 この講演を聞いたのは、私の四人が、だいぶ大きくなってきていました。もう「スパンク」の時期は過ぎていたのです。2つの方法論があります。しっかり成人した長男に、この「スパンク」について聞いたことがありました。『スパンクは多過ぎたよ。しかし僕にとっては好かった。そう今思っている!』と言ってくれたのです。今二人の子どもの父親になっている彼は、私のように「強固な意思を砕くスパンク」はしていないようです。『自分の子共は、痛さで納得させたくない!』と思っているのかも知れません。もちろん、私の「スパンク」には、「原則」がありました。「短気を起こした時」、「約束を守らなかった時」、「不従順な時」に限っていました。叩くときには、『なぜ叩くのか?』を説明しました。そして叩き終わって泣いている彼らを、拒絶しないで抱きかかえていました。

 もし、「もう一度父親をするならば」を考えますと、「スパンク」を奨励した恩師は永遠の故郷に帰還してしまっていますので、『今です!』と言えませんが。きっと、臨機応変に、「裁く」と「裁かない」、「打つ」と「打たない」の間で迷うかも知れません。また、子どもたちに会って話すことがあったら、聞いてみることにしましょう。あの調査官を、名古屋まで車で送った時に、彼がご馳走してくれた「五平餅」の味が懐かしく思い出されます。

(写真は、真夏の高山植物の「チングルマ」です)