一筆啓上

 

 

これらは、福井県丸岡市の「丸岡文化財団」が、去年26回になる「日本一短い手紙のコンクール・一筆啓上賞」、テーマは「先生」の優秀賞を得た作品です。中国の学校で教師をしていた時、これをヒントに、宛先を決めて、「短い手紙」を、日本語学科の学生に書いてもらいました。

俳優の渥美清が、ロケ地のアフリカから「拝啓御袋様、ボク元気」、南極越冬隊員の夫への妻の書き送った「あなた」を読んで、いたく感動した私は、中国一短い手紙を日本語で書くように、作文テーマを与えたのです。六、七年続けたでしょうか。 中国の街に、その作品の一覧ファイルに残してあります。

ことば数が多ければ気持ちが通じるだけではなく、一言二言で気持ちを表すというのは、難しいのですが、いらないことばを省く技術を身につけて欲しかったからでした。良い作品が多くありました。やはり、ふるさとの母親宛てが一番多かったでしょうか。

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ハプニング

 

 

1月31日、家内を見舞って、病院にいましたら、友人から電話がありました。家の浄化槽が満杯で、業者に連絡されたそうです。『処理が翌日になるので、市内のホテルに宿を取りますから、そこに泊まってください!』とのことでした。

それで、借りたレンタカーを、次女が運転して、一旦家に戻って、ホテルに向かいました。1ヶ月振りの雨の宵でした。遅くなってからは雪に変わったのですが、この浄化槽と雪のハプニングに、生活のリズムが変わって、老舗のホテルに投宿したのです。

心憎い配慮を友人夫妻がしてくださって、広い浴槽の湯に、思いがけなく入ることができました。中国で大きな愛を受け、ここ栃木でも、友人夫妻、ご子息ご家族から愛を受けながら、2人の娘と過ごしております。お湯の温もりと人の心の温もりが、重なり合って溢れております。

昨2月1日の明け方は、ホテルの6階の窓から見られたのは、実に綺麗な朝焼けでした。三日月と明けの明星が、凍てつく空に光輝き、それを押し切るようにして、太陽が昇ってくるのを、しばし祈り心で眺めていました。東に筑波山、南に富士山も見られたのです。実に神秘的な冬の朝焼けでした。

再び家に帰って、家内の着替えや愛読書などを持って娘たちと、東武電車で病院に参りました。ところが「面会全面禁止」とのことで、家内に会うことが叶いませんでした。と言うのは、インフルエンザの猛威から、入院患者さんを守る措置が取られていたのです。ただ、ナースステーションに、持参品は委託することができるとのことで、4階の病棟まで上がったのです。

家内の洗濯物を、看護士さんが届けてくれ、その中に、メモがありました。そんな意思の疎通しかできない中、家族への心遣いが記されてありました。持参した家内が、幼い日から読み続けて来た愛読書(版は何度か替わっていますが)や着替えを、看護士さんにお渡しし、それぞれに3人が記した手紙も添えました。そんな3つのハプニングの日でした。

(ホテルの6階からの富士山です)

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平忠度

 

 

この絵は、栃木県立美術館所蔵の「薩摩守平忠度桜下詠歌之図」です。今週、家内の妹が、友人と一緒に家内を見舞ってくれました。年寄りに、自分の家系を聞いたことがあったのでしょうか、父方と母方のことを、姪たち(私たちの娘たち)に聞かせていました。聞くところによると、父方は、源平の戦いで敗れた平家の武将の末裔なのだそうです。

日本中に、平家の落人が、隠れ住んだ山や谷があるのですが、その一族なのでしょう。平家と言いますと、平忠度(たいらのただのり)という武将がいました。「薩摩国(今の鹿児島県西部です)」の国司の任に当たっていたので、「薩摩守忠度(さつまのかみただのり」と呼ばれていました。

詳しい戦歴や職歴はことはともかく、この人は有名な人なのです。何で有名なのかと言いますと、電車などの乗り物に、〈無賃乗車〉をする、けしからん人を、「薩摩守」と言うのです。お分かりかと思いますが、この人の名が、「ただのり」、すなわち、〈ただ乗り〉に語呂合わせするからです。

ある方が、東海道線の米原(まいばら)駅を訪ねて、『昔ここで大変お世話になりました。駅のために使ってください!』と言って、《十万円》を置いて、十三歳(大正末期)の時の〈無賃乗車〉を詫びたのだそうです。両親のいない彼は、都会にいる姉を頼ろうと行こうとします。路賃がなくて、仕方なく不正乗車をしたのです。北陸本線と東海道本線との乗換駅の米原駅で捕まってしまいます。ところが駅員たちは、この少年の事情を聞いて同情したのです。彼らは財布から少しずとお金を出して、少年にカンパをしたそうです。

そればかりではなく、駅員は、事情を車掌に話したのでしょう、「車掌室」にかくまって、この少年を東京に運びます。無事に姉のもとに着いて、その後、一所懸命に働きます。何年も何年も経ってから、少年期の温情を思い出したのでしょう、代替わりをしている米原駅を訪ねて、過去の経緯(いきさつ)を話して、金銭的な弁償と感謝を表したわけです。

この「薩摩守」は、素晴らしいですね。そういえば、社会人になってからは一度もしませんでしたが、学生の頃の私は、「薩摩守」でした。不幸なのは、一度も「ただのり」を見破られなかったことです。処罰され、弁償し、頭を下げていたら、繰り返さずにすんだのに、捕まらないままで、時効になってしまったわけです。

「恥な過去」に、心が疼(うず)くことが、今でもあります。赦されていながらも、精算していないことだからです。だから、40年ほど前に、そういった形で精算をされた方の決断と行為が羨ましいのです。今でも遅くはないし、今でもできるし、しなければなりません。そんな栃木の二月初頭の朝です。

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流感

 

 

日本語名は、「流行性感冒(流感)」である〈インフルエンザ〉が猛威を振るっています。学級閉鎖や学年閉鎖が、多くの学校であり、内孫たちの学校でもでもあったそうで、それを幸いに、こちらに、見舞いに来てくれたのです。

このインフルエンザを、江戸時代は、「タニカゼ(谷風)」と言いました。江戸の山谷から吹いてくる風が、〈インフルエンザ菌〉を運んできたのではありません。江戸期の相撲取りに、「谷風梶之助」と言う人がいて、酷い風邪をひいて、亡くなってしまったのです。屈強な男、角力(すもう)のチャンピオンを滅ぼしたのが、〈インフルエンザ〉だったのです。

それで誰言うともなく、〈流行性感冒」を「タニカゼ」と言う様になったそうです。その経緯が次の様に語られています。

『(谷風梶之助は、)身長6尺2寸5分(≒189cm)、体重43貫(約161kg)というあんこ型の巨人。容貌・人格共に温和で人望を集め、小野川との取組が評判であったそうだ。仙台伊達家のお抱え力士。1795(寛政7)年1月9日(新暦2月27日)、はやり風邪(インフルエンザ)に罹り、現役中に逝去(45歳)。このときの流行り風邪を「谷風」と呼んだ。しかし、谷風が天明 4年頃に「土俵上で儂を倒すのは無理。儂が横になっているのを見たければ風邪に罹った時に来い」と豪語した時に流行った風邪が「タニカゼ」と称されていたもので、横綱・谷風の死因となった当時のはやり風邪は、正しくは、「御猪狩風」と呼ばれていたものだが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。兎に角こんな体力のある凄いお相撲さんでも、病気には勝てない時があり、そこで悪性のはやり風邪(インフルエンザ)のことを「風」にひっかけて「谷風」と呼ぶようになった。「無敵の風邪」という意味だろうね。そして、この谷風の命日が「風邪の日」となった。(HP「今日のあれやこれや」から)』

毎年、香港や中国大陸から、決まってやって来る、渡り鳥の様な〈流感〉には、中学せいの時に、一度かかったことがありました。体の節々が痛くて、近くの開業医に見てもらって、ものすごく高額の注射を打たれたのを覚えています。それなのに効きませんでした。今年も、早く流行がおさまります様に。

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漫ろ歩き

 

 

栃木の街は、巴波川の舟運で開けたと言われます。河岸の起源は元和年間 (1615~1623年)、この頃から日光社参の〈御用荷物〉を輸送したそうで、江戸からの〈上り荷物〉は、日光御用荷物をはじめ、塩・鮮魚類・ろう・油・黒砂糖・干しいわしなどが、江戸川~利根川~思川を経て、栃木の河岸に陸揚げされ、栃木からの〈下り荷物〉は、木材・薪炭・米・麦・麻・木綿・野菜・たばこ・猪鹿の皮・石灰・瓦などでした。

舟は、〈都賀船(米50俵積み)〉で、「部屋(藤岡町)」まで下り、そこで高瀬船(米200~300俵積み)に積みかえ、渡良瀬川、利根川、江戸に向かいました。江戸までの船路は、約43里(172㎞)あり、急ぎで3日ほど、普通は七日かかったそうです。帰りは帆を使ったり、かこ水主 2~3人で舟につけた綱を、川岸に設けた「綱手道」から引き上げたりしました。

舟運で街の回船問屋は栄え、明治末期から大正期にかけて、立派な土蔵や黒塀などが建てられました。 その名残をとどめる蔵が、川面に映える巴波川は、綱手道が格好の散策路となっており、ここからの素晴らしい景観は、「蔵の街・栃木」の観光名所になっています。

昨日は、その巴波川の河岸の遊歩道を、家内と娘たちとで散策しました。吹く風も弱く、太陽がいっぱいの川面を、鯉が悠々と泳ぎ、鴨が群れていました。冬の陽が川面を照らして、なかなかの風情を楽しんだのです。中国の省立医院で、元旦から一週間、飲まず食わずで体力を落としていた家内には、通院ではない、ひさびさの外出でした。

昼を、江戸期から戦前には、大賑わいだった河岸の食堂で摂ったのです。〈水〉なんとかと言うか歌手が来店して、色紙を書き置きしていていた店で、けっこう有名な店なのでしょうか。もうちょっとこ綺麗だとよかったのですが、味はよかったのです。「赤目鯛の西京焼き」の久し振りの定食に、『美味しい!』と言って満足していました。

その後、「街の駅」のお土産店に入り、昔ながらの工芸品や野菜や果物や漬物などが並べてあって、けっこうな人でした。検査の管や針、点滴の針の痛い思いから解放されての《漫ろ歩き(そぞろあるき)》でした。日曜日に、東京の大学院に留学している学生が、お見舞いに来てくれて、“チャット“で、中国の街の友人たちと、画面を覗き込みながら言葉を、家内が友情を交わしていました。

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暴走

 

 

今朝、配っていただいた「下野新聞」は、《郷土愛》が溢れる記事が、一面を飾っています。「那須塩原A 三連覇・・・往路優勝、大田原A2位」とあります。〈県郡市町対抗駅伝競走大会〉の順位です。九面には、〈県小学生駅伝〉で「よろしく真岡R 6連覇」とあります。

スポーツで各市町村が対抗して、郷土への愛着を増そうとしているのでしょうか。スポーツが、とても盛んな県なのだということが伝わってきます。健康志向とか、青少年への激励や応援が感じられてきて、北関東の良さをアピールしているのでしょう。この二週間ほど、読ませていている新聞が、掲載している記事からしますと、衝撃的な事件が少なく、健全さが見られます。

ついぞ関心を寄せたことのない地方都市で暮らして、駅前も、主要道路沿いも、長閑(のどか)で、ゆったりして、落ち着いた感じがするのです。天候も良く、このところの日照時間は、とても多そうです。空気も水も、そして果物も野菜も美味しく、健康県な感じでいっぱいです。

新聞を熟読しているのではないのですが、この今朝の新聞の十九面に、気になる記事があります。作家の藤原智美さんが書かれた「暴走老人!」からでしょうか、「キレる高齢者」と言う寄稿欄です。~虚栄心と孤独で「暴走」~とあります。昔の青年が、今や高齢者になって、ななかなか生きにくくなってしまった時代なのでしょう。

「暴走せずに生き甲斐ある老後を迎えるための提案」がなされています(「この先をどう生きるか」より)。

1.現役時代の価値観を捨て、人生の「初期化」をする

2.過去を見つめ、自己を再生させる「リボーン・ノート」を書く

3.「上下の話法」から「対等の話法」に切り替える

4.「目的」よりも「行為」に価値を見出す

5.日々の「暮らし」を第一のテーマにする

老いの現実を認められないで、昔の夢に酔ってもいけませんし、将来への思い煩いで心を満たしてもいけない、そう言ってるのでしょう。美貌もふくよかさも溌剌さも失せてしまうと言うのは、信じたくない現実です。髪の毛の多かった、私の若い時の写真を見た孫が、『ジイジにこんなに髪の毛があったんだ!』と意外さを言っていたそうです。

イスラエルの人の価値を測る度量衡があって、それによると、もはや13歳になった孫とは逆転して、〈低価値〉の自分を、笑って朗らかに、ありのままで受け入れたいと思うのです。それでも、幼かった子や孫の世話をしていた頃の写真を見ては、一人ほくそ笑(え)んでいます。

あかぎれ

 

 

〈お涙頂戴〉ではありませんので、念のため。結構厳しい寒さを、ここ栃木で経験したからでしょうか。または、炊事の機会が増えたのでしょうか、娘が駆けつける前に、2人の食事の支度と茶碗洗いや洗濯や掃除で、濡れた手を吹かないままにしたので、〈あかぎれ〉ができてしまいました。

子どもの頃に、冬になるとできた覚えがありますが、もう何十年ぶりの〈あかぎれ〉なのです。その痛痒さが懐かしいのです。作詞が窪田 聡、作曲が窪田 聡の「かあさんの歌」がありました。

1 かあさんは夜なべをして
手ぶくろ編んでくれた
こがらし吹いちゃ つめたかろうて
せっせと編んだだよ
故郷(ふるさと)の便りはとどく
いろりの匂いがした

2 かあさんは麻糸つむぐ
一日つむぐ
おとうは土間(どま)で 藁(わら)うち仕事
おまえもがんばれよ
故郷の冬はさみしい
せめてラジオ聞かせたい

3 かあさんのあかぎれ痛い
生味噌をすりこむ
根雪もとけりゃ もうすぐ春だで
畑が待ってるよ
小川のせせらぎが聞える
なつかしさがしみとおる

お母さんが、〈あかぎれ〉ができた手の甲か指に、生味噌を塗り込んでいます。水道も洗濯機も炊飯器もない、それほどの家事をした時代なのです。4人の子育てで冬季、〈あかぎれ〉のできていた母は、もう亡くなってしまいましたので、自分で、生ミソの代わりに、〈メンターム〉を塗ったのです。

これは近江兄弟社が製造した薬で、小さな頃からの父の家の常備薬だったでしょうか。私の家庭にも、いつも、この薬があり、中国にも持って行き、今回帰国に際しても、持って帰って来ています。

学校を出て、最初の職場の出張で、滋賀県に行き、この近江兄弟社の高校で研修会がありました。校長先生と一緒に食事をしたのですが、実に温和な方だったのです。まるで、〈メンターム〉の様でした。この薬に似た、シンガポール製造の〈タイガーバーム〉を、長男の嫁が持って来て、風呂上がりの私の腰に、長女の指示で、次女が塗ってくれました。ちょっと腰が痛いと、私が言ったからです。

病と戦える《体力》と《気力》の増強こそが、これからの家内の課題なのです。主治医と次男が、ちょっと弱気になっている家内に、そう挑戦してくれました。〈あかぎれ〉ができるほどに、母業や妻業をこなすことなのでしょうか。そんなことで帰国二週が終わろうとしています。なんと、昨日の治療費は、《0円》でした。40分もの主治医の話でしたのに、驚いております。

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ここ栃木の地方紙、「下野新聞」が、いちご生産農家が、基準値以上の農薬を使用したことを、この数日取り上げています。ことの発端は、ダニの発生だった様です。ダニ駆除のために、〈焦って〉しまった農家が、希釈率を無視してしまったと報じています。

私たちが住んできた華南に、農業大学があります。その子大学院で学んでいたり、教師をしている方たちの交わりがあって、品種の改良、農地の土づくり、適地生産物研究、農薬問題などに取り組んでおいでです。

まだ法整備が十分ではないのでしょうか、農薬や肥料などに、そのいちご生産農家の様な、農薬使用の問題があります。生産者の大敵が、天気と水、とくに病害虫ですから、けっこう強い農薬を使用してしまうのだそうです。

形状や色など、目映えの良い農産物を作ろうとして、つい昼問罪などのしようもあるそうです。私たちが三十数年暮らした、日本の中部山岳の街も、農業、とくに果物の生産農家が多くあり、美味しい果物を生産ました。知り合いの農家から、その果物をいただくことも多かったのです。

『これ自家用に食べる気からとったので、低農薬ですから安全です!』と言われていただくのそうしますと、市場に出回っている物は、生産農家では食べない、食べる荷を避けている、農薬の強いもにだということで、ちょっと複雑な気持ちにされたことがありました。

県の農協では、厳しい指導をしていますが、害虫被害で売れなければ、『死活問題になってしまうので!』、という落とし穴があって、より強い農薬使用になるのでしょう。耐性が病害虫にできてしまって、〈鼬(いたち)ごっこ〉になってしまって、ダニとの対決が、〈収入減」との闘いになってしまうのでしょうか。

昔は、「久能さんのいちご」が有名でしたが、今や、栃木県は、いちご生産量日本一を誇っています。主要なのは《とちおとめ》で、とても甘くて美味しいいちごなのです。こちらにきた当初、この家の持ち主で友人が、そのいちごを届けてくださってから、家内の好物になっています。

それで、そのニュースを聞いてから、『これ何処産かしら?』と聞く様になってしまいました。一軒の農家の失態が、県全体のいちごの生産のイメージ、評判を壊しかねない事件だったわけです。汚名挽回に、必死さが伝わってきます。

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母親

 

 

ロシア民謡の「一週間」は、次のような歌詞です。

日曜日に市場へ出かけ 糸と麻を買って来た
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャー
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

月曜日にお風呂をたいて 火曜日はお風呂に入り
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャー
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

水曜日に友達が来て 木曜日は送っていった
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャー
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

金曜日は糸巻きもせず 土曜日はおしゃべりばかり
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャー
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

友達よこれが私の 一週間の仕事です
テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャ
テュリャテュリャテュリャテュリャーリャー

こんな一週間を過ごす人とは、どんな階層の人、職業人なのでしょうか。この歌詞のような毎日を、〈これが私の一週間の仕事〉だとすると、一見して、貴族のような悠々自適な、生活苦を感じられない人のようですが、庶民なのでしょうか。

社会的な責任を託されて働いて、これまで生きてきて、今、病んだ妻のそばにいる、何度かの一週間は、今までにないものです。そんな日を送っているところに、異国に嫁いだ2人の娘が、母を支えようとして帰ってきました。実家のない子どもたちのうち次女が、家族写真を保管していて、それを持参したのです。

その中に、家内の小学校一年生に時の遠足の集合写真があります。昭和二十年代のセピア色の写真に、敗戦後の復興の兆しが感じ取れるものです。家族が付き添いでの遠足で、おじいちゃんやおばあちゃんも写っていたりで、時代を感じさせられます。食べる物に乏しい時代に、次代を担う子どもの教育をなおざりにしなかった、戦後の復興政策の姿勢が感じられます。

ふくよかな健康にあふれた家内の写真が目立ちます。高校、専門学校時代、職場、結婚後の家族写真を見ながら、時の流れを感じてしまいます。「一葉の葉」という高校時代の英語劇の写真があります。家内が主人公で、ベッドの中に寝ている少女を演じています。〈残された一枚の葉が落ちたら死んでしまう!〉のに、画家がガラスに葉を上手に描いて、友の愛に希望を与えられて、病魔に打ち勝つ物語なのだそうです。

アメリカでも、中国でも、ここ日本でも、家内への祷援があります。みんなに愛されて、支えられているのを、ヒシと感じています。窓から入り込む冬の陽が、ベッドの布団を温めています。youtubeからのインストルメントの曲が、Boseで部屋の中に溢れています。

静かな時が流れています。お腹を痛めて産んだ子というのは、母親にとっては宝物なのでしょうか。そして愛されて育てられた子どもたちが、その母親の愛を感じて、母親を、今取り囲んでいます。明日の検査には、4人全員集合になるのでしょう。長女の主人は、遠くニューヨークで感謝の手を挙げてくれています。次女の残された家族は、来月中頃にやって来ます。長男家族は、明日の通院の送迎のために来てくれ、次男夫妻は、病院に駆けつけると言っています。

そんなに物質的には豊かではなかった家庭で育った子どもたちが、自分たちの母親の試練の時に、犠牲を払って共にいて上げようとしてくれています。

(男体山です)

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ここ栃木は、やって来た前日、雪が舞っていたと聞いて以降、ずっと晴天の連続です。夜半の空は満天の星、今朝も雲一筋ない空が広がっています。早暁はマイナス2度だったそうで、外はキリッとした寒さですが、日当たりの良い居室は、オイルヒーターとコタツで、まるでハワイのような心地よさです。

一昨日は、長男がいることを確かめた友人が、義母が使い、ご自分が怪我をしたときに使った〈電動ベッド〉を出して来て、家内のために子どもたちとセットしてくれたのです。今そのベッドに上で、家内は歌を歌っています。

昨晩は、再々度の検査を、昼間、主治医に電話で告げられて、夕食時に、家内は心を乱していたのですが、医師でさえも限界があることが、今朝は認められて、歌っているのです。娘たちの前で、受け入れたくない現実に、リアクションして、正直な感情を表現していたわけです。娘たちは、ついぞ見たこと、感じたことにない母親の一面を知って、驚いたり、納得したりでした。

一晩熟睡して、人としての医師の弱さもわかり、人への信頼ではなく、いにちの付与者への信頼を表して、歌っているのです。今朝は、トーストしたパンを食べたいと言って、娘に告げて、美味しそうに食べていました。食事作りを娘たちに任せて、私はちょっと楽をしています。

昨日は、その友人が、家に中で、時を過ごしている家内のために、〈Blue toooth〉につながるBoseのスピーカーもってきてくれ、スマホで〈youtube 〉で、家内に好きな曲をダウンロードして、聴かせてくれたのです。 そのBoseの〈Blue toooth〉を置いて行ってくれています。

この人が、極選の卵や出汁の素やリンゴなども持って来てくれています。中国の街でもここでも、多くの人の愛に囲まれて、祝福の時を過ごしています。

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