[ことば]亡びよ

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 日本は興(おこ)りつつあるのか、それとも滅びつつあるのか。わが愛する国は祝福の中にあるのか、それとも呪詛(じゅそ)の中にか。興りつつあると私は信じた、祝福の中にあると私は想(おも)うた。

しかし実際、この国に正義を愛し公道を行おうとする政治家の誰一人いない。真理そのものを慕うたましいのごときは、草むらを分けても見当たらない。

青年は永遠を忘れて、鶏(ニワトリ)のように地上をあさり

おとめは、真珠を踏みつける豚よりも愚かな恥づべきことをする。

かれらの偽(いつわ)らぬ会話がおよそ何であるかを

去年の夏のある夜、私はさる野原で隣のテントからゆくりなく漏れ聞いた。

私は自分の幕屋(まくや)の中に座して、身震いした。

翌早朝、私は突然幕屋をたたみ私の子女の手をとって

ソドムから出たロトのように、そこを逃げだした。

その日以来、日本の滅亡の幻影が私の眼から消えない。

日本は確かに滅びつつある。あたかも癩(らい)病者の肉が壊れつつあるように。

わが愛する祖国の名は、遠からず地から拭(ぬぐ)われるであろう。

鰐(ワニ)が東から来てこれを呑(の)むであろう(注1)。

亡びよ、この汚れた処女の国、この意気地(いくじ)なき青年の国!

この真理を愛することを知らぬ獣(けもの)と虫けらの国よ、亡びよ!

「こんな国に何の未練(みれん)もなく往(い)ったと言ってくれ」と遺言した私の恩師(内村)の心情に

私は熱涙(ねつるい)をもって無条件に同感する。

ああ禍(わざわ)いなるかな、真理にそむく人よ、国よ

ああ主よ、願わくはみこころを成(な)したまえ

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 藤井武は、1930(昭和5〕年7月に、この「滅びよ」を書き表し、「聖書より見たる日本」に、一文を残しました。ほとんど100年前の藤井の感じた「青年の国」日本への鋭敏な時代感覚を知らされのですが、現代日本に感じるものは、さらに深刻になっているのではないでしょうか。

 藤井は、1888年に、富山県金沢で生まれています。第一高等学校、東京帝国大学で法学を学んでいます。卒業後、京都府の官僚、山形県警察本部の警視、山形県理事官になっています。官吏を辞職して、無教会を始めた内村鑑三の助手となったのです。

 友人の結婚に関して、内村とに間に問題が生じ、内村のもとを去り、独立伝道者となりました。胃潰瘍で、1930年に亡くなっています。四十代の初めの彼の死は、大変惜しまれたのです。神のことばである聖書に、真摯に向き合った信仰者でした。二十代の私にとって、その全集を読んで知った彼の教えは驚くものだったのです。

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報道の自由と責任

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 『良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。 (イザヤ527節)』

 事実を伝える、これが報道の使命です。『もう紙の時代ではなくなったよ!』と十数年前に、下の息子が言っていましたが、もう新聞の時代ではなくなってくていそうです。もちろんラジオも、そしてテレビさえも。今ではインターネットの情報発信に譲った感がします。その〈即時性〉が持ち味のネットが発信する情報は、最新のニュースが伝わるからなのです。

 でも、だれでも発信できますから、悪用されて、事実と異なる情報や迷惑情報が多くなっているのも事実です。事故や災害による死者数を、ある国では、大災害ににもかかわらず、死者が20人、30人と言う、公の知らせには、驚かされてしまいます。国の威信を揺るがしかねないので、そんな正しくない報道がなされて、かえって人々は、不信を募らせているケースが、多くみられます。

 それはよその国のことではなく、事実を伝えていないのは、私たちの国でも同じです。『こんなことを伝えたら、社会が混乱してしまう!』という理由でしょうか、『知る必要がないから!』とでも判断して、真実が伝わらないことも多いのです。

 こんなことがあったのです。『勝った、勝った、また勝った!』、戦時下の新聞やラジオ放送で、事実を隠して、軍の威信を保つために、報道が管理され、統制されていましたので、事実の報道がなされないままで、国民は負け戦を知らされないまま、敗戦を迎えた経緯がありました。

 日本国憲法の「第二十一条 」に、『集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 検閲は、これをしてはならない。 通信の秘密は、これを侵してはならない。』とあります。

 平和を取り戻した日本では、憲法の条文に従って、「表現の自由」の決まりに従って、報道の自由を得たのです。事実報道こそが、報道に携わる者の使命だと、やり直したわけです。『みんなが事実を知ったら混乱や、パニックが起こるので!』と言うような理由付けで判断が下されるなら、それはいつの時代でも、どの国でも危険極まりないからです。そこで、官憲や軍や特定の団体、信者数の多い宗教団体の偏向報道、宣伝を規制してきたのです。

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 これまで、この私のブログでは、思うこと、子や孫や友人に伝えたいことを、思いのままに書き続けてきました。政治批判はしたつもりはなく、ただ個人の見解ですが、ただ事実だけを伝えるにとどめています。父や母の時代には、難しい時代があったのですが、自分たちは、平和憲法のもとに、良い時代を生きてきましたが、今、国際情勢の難しさの中で、報道や表現が微妙になっている様に感じています。

 人心を乱す様な、悪意に満ちた情報が、多くなりつつある中で、《だれに聞くか》は重要なことになっています。撹乱されないで、騙されないで、良質、優良な情報に、耳を傾けたいものです。

 聖書の発信者は、天地の造り主でいらっしゃる神さまです。平和で、安心を約束されて生きていける様に意図された情報が、発信されています。それこそが、「良き知らせなのです。唯一、嘘偽りのない《知らせ》は、神さまからきます。

(「江戸の100人展」から瓦版を売るかわらばん屋です)

[街]日光

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 小学校の修学旅行は、「日光」でした。東京都下の小学校は、だれに聞いても、どの学校も、あの頃の修学旅行はは、日光だったのだそうです。それだけ関東平野にある小学校にとって、徳川幕府の開闢(開闢)を担った徳川家康の業績が偉大だったからでしょう。

 日光で有名な鳴き竜、招き猫、見ざる言わざる聞かざるの三猿、さらには、いろは坂、華厳の滝、中禅寺湖が印象に残っていて、家康の墓所には、まったく関心がなかったのです。

 江戸期に人気の伊勢参り、出雲参り、松島見物と同じで、その日光詣でも、見知らぬ土地への物見遊山の方が、主だったのではないでしょうか。名物の蕎麦や湯葉や団子や饅頭が味わえるのが楽しかったのではないでしょうか。

 小学生の自分には、家康の偉さの印象なんて全くなく、珍しいお泊まり旅行で、枕投げやくすぐりっこがおもしろく、泊まった旅館の大部屋で、みんなに個人個人の膳が備えられて、同じ物を食べるといた経験が興味深かったのです。いろは坂を、バスを連ねて走ったのは、非日常さを楽しんだものでした。

 かの有名な足尾の銅山に行ってみたくて、わたらせ渓谷電鉄の機動車で、2020年の6月に訪ねたのです。群馬の桐生駅まで、JR両毛線で出かけ、そこで一両編成の気動車に乗り込んだのです。若い運転手さんと話ができ、いろいろなエピソードを聞かせてもらったのです。

 その春季の渡瀬の渓谷美は圧巻でした。銅山で栄えていた頃は、宇都宮に次ぐ人口を擁した栃木県下の第二の街だった足尾でした。その駅前からは、バス路線があって、東武電鉄の日光駅まで乗車したのです。途中下車の方を含めて3人だったのは、まさにローカル体験でした。

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 逆方向からの日光は、修学旅行以来の訪問で、寂れてしまった足尾と違った観光地で、週末は賑わっているようです。クリスチャンの修養会のための施設、「日光オリーブの里」に行った時に、職員の方と仲良しになって、彼に仕事の合間に、中禅寺湖や華厳滝に連れて行ってもらうことがありました。華厳の滝で、長い階段を歩いていた家内に、彼が驚いていました。実に美しい景観だったのです。一緒に蕎麦を啜たりしたのです。

 この日光には「落武者の里」と言われる平家の落人の部落があって、バブル期には大いに賑わっていましたが、ここも観光客が激減だそうで、われわれ世代の温泉客もまばらでした。平成の合併で、日光の市域は広がったのですが、人口は8万ほどだそうです。時々買って食べる「湯葉刺し」が美味しいのです。

 日光例幣使や八王子千人隊の東証宮警備で、歴史的にも興味ある街です。会津藩その末裔の井深大の出身地でもあります。

(秋の中禅寺湖、ホテルの湯葉刺しです)

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食べ続けての今

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 自分の国民性( nationality )や民族意識( ethnic consciousness )が、けっこう拘り過ぎがあって、しかも強すぎたのではないか思うことがあります。つまり、『日本人!』だとの意識が強くて、なんとなく自分でもおかしいと思いながら、それにしがみついていたのが若い頃だったかも知れません。それだけ identity が確かにされていない不安定な時期だったからでしょう。

 思春期って、そう言う時期なのでしょうか。もがきながら、『自分がだれか?』を見つけ出す時だったに違いありません。いったい〈日本人であること〉って何なんでしょうか。日本人の心的状況( mentality )は、外国人にはどう見えているのでしょうか。

 良い点では勤勉さ、几帳面さ、律儀さでしょうか。悪い面では猜疑心が強く、陰気で、執念深く、否定的で、鬱的なのでしょうか。人の目ばかりが気になるような人間でもあるようです。そんな傾向にある私たちですが、農耕民族だからでしょうか。それで、日本人の自覚が呼び覚まされるのは、「米」を中心とした食生活に関わることなのかも知れません。その繋がりって大きいのでしょう。

 毎朝、毎晩、子育てをしていた母の仕事は、米を研いで、火鉢に薪をくべて、鍋でお米を炊き、大根や菜葉やワカメで味噌汁を作り、大根の漬物や干物や納豆などで朝ごはんを済ませ、弁当を作ってもらい、学校で昼ごはんを食べたのです。夕餉の用意も母がしていました。米を炊き、おかず、味噌汁、漬物を食卓に並べてくれました。それは大変な家事だったのです。

 手抜きがなく、不平を言うのでもなく、一途に養ってくてた母を思い出します。時には、パン屋でコッペパンを買い、肉屋でコロッケをかい、ピーナッツバターを塗ったりして買い食いもあったでしょうか。やはり、米を食べて、この体が作られたのです。

 「米」こそ、日本、日本人の中心だったことは言い過ぎではなさそうです。『生きよ!』と願われる、創造主の神さまは、この日本の地に、米作を展開させてくださったに違いありません。大陸の黄河周辺の米作が、朝鮮半島を経由して渡来し、この地に根付いたのです。最初に日本に持ち込まれた古代米という「赤米」を、私は食べたことがあって、何か time slip したような感覚を覚えています。

 米作りは、第一次産業で、米一粒の重さや価値が、日本人にとっては、どれ程のものだったかを、親から教えられたことだったでしょうか。粗末にしてはいけないと諭されたので、今でもお釜に残った米粒をつまんでは食べるのは、その名残でしょう。塩むすびは、どんなご馳走よりも、空腹時には宝物にように美味しく尊いものです。釜についた米を、ザルにとって、日干しで乾飯を作っていたのです。

 肥前の吉野ヶ里とか、武蔵の埼玉(さきたま)、津軽の三内丸山とか、古代に栄えたと言われる村落が、これら以外にも、日本列島には散在していたわけです。今、住んでいます建物から、南を見ますと、富士の高嶺が微かに見え、関東平野が延々と広がり、北には日光連山が眺められ、東には、筑波の山並みが遠望できます。

 群馬県境の、出流川周辺には、マンモスが生息していたと言う記念館があるほどで、この関東平野には、水田が、青々として広がっていて、米中心の文化や経済や生活が、勤勉に営まれ続けているのが分かります。でも、稗や粟や麦や蕎麦に、野菜や獣肉によっても、命が支えられた民が、日本人なのでしょう。米は備蓄されて、不作凶作時にも食べつないできているのです。

 日本の軍隊の食事ですが、陸軍の将兵は、脚気にかかる確率が高く、海軍はほとんどなかったのだそうです。それは、陸軍が米食、海軍がパン食(小麦粉)だったからなのだそうです。お国を守る兵隊さんには、貴重な精米した白米を食べてもらうことが、逆に仇になったのです。ビタミンB1の不足でした。

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 パン食の海軍さんや雑穀を食べた庶民は、脚気にはかからなかったわけです。精米した、いわゆる白米だけを食べる危険性が言われています。軍医だった森鴎外は、自ら脚気だったそうで、また明治天皇も脚気を病んでいたそうです。

 パンも、遺伝子組み換えの小麦使用でないもの、Gluten freeの食パンがだといわれて好いのだと聞いて、パンを選び、米粉を用いたパンも食べたり、退院後の家内は、けっこう食べ物に注意深くなっています。創造主からいただいた体を、管理し、最善に保つ責任があるからなのです。

 今も、青々と稲穂が伸び、秋に収穫を待っているのですが、日本人と米との繋がりは、われわれ世代は、ずいぶん強いものがありそうです。コメの石高によって、統治者がの力が測られ、武士階級の報酬も米によって支給され、農民は、米を作り、工商に携わる人たちは、商いで得たお金で米を買って、命を繋いできたわけです。

 子どもの頃以来、コッペパン、アンパン、クリームパンを、今では、硬い黒パン、フランスパン、ベーグル、カンパーニュなど、多種多様のパンが溢れていますが、やはり落ち着くには、トーストしてバターを塗った食パンが好きなのです。お昼には、国産小麦、バターを使用したパンを食べたところです。

 基本は今晩も、一合の米を研いで、一合半炊きの電気釜で、炊こうとしています。一日一度は米飯です。脚気にもならず、今を感謝しながら生きております。魚と納豆と緑色野菜が、定番なのです。もちろん肉だって食べています。昨晩の煮魚を家内に、冷凍保存してあるハンバーグを私が食べるつもりです。食べるって、大切なことだと、つくづく思わされる熱射の夏です。

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水を思う

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 神さまが定められた、天然自然の秩序があります。自然界が、天と地、光と闇、朝と夜、陸と海、男と女、人と動物、人と植物など、そこには、驚くべき区別と順序、役割の違い、互いの均衡が、創造の神さまによって定められています。順序よく創造の業がなされるたびに、神さまは、次にように言われました。

 『神はそれを見て良しとされた。(創世記11012182125節)』

とです。その六日間の創造を終えた時には、次のように言われたのです。

 『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。(創世記131節)』

とです。その御業には、非常に、はなはだ良い「区別」、「順序」、「役割」、「区別」、「均衡」、つまり「秩序」があったということです。

 『神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」(創世記128節)』

 その神の定められた秩序の中に、人は造られたのです。地に人が、作物が、動物が、あらゆるものが、生命に溢れて満ちるように、定められたのです。そのことを、内村鑑三は、次のように言いました。

 『神の定めたまいし順序があります。「女のかしらは男なり。男は女より出でしにあらず。女は男より出でしなり。男は女のために作られしにあらず。女は男のために造られしなり」とあります。男は神の代表者として造られ、女は男の補助者として造られたのであります。共に神に仕うべきであります。しかし男は指導者として、女は助け手として仕うべきであります。この場合において、妻が夫に従うは、神に従うの道であります。従うは、従わるるだけ、それだけ神聖でありまた名誉であります。神の律法に従うところにおいてのみ、真の自由があります。男は神をかしらに戴いて真の自由を得、女は神の代表者なる男をかしらに戴いて、これまた真の自由を得るのであります。(19285月『聖書之研究』)」

 人が、いただいた生命を謳歌するために、すべての《もの》が秩序正しく造られたのです。ところが、人類の始祖が罪を犯した時に、その「秩序」が狂ったのです。殺人事件が起こり、自然の暴威が起こり、人と人、村と村、国と国、人と自然との関係に齟齬が来たり、創造の秩序を乱して、今日に至っています。〈罪の刈り取り〉、蒔いたものを刈るという結果が、近時、世界に見られる、世界中を襲う洪水や強風や犯罪であります。

 社会科の授業で、「国土保全」について学びました。それは、国民の義務です。国土を治め、人を治め、家庭を治める責任です。生活のために与えられた生活環境を、保護していく必要がだれにもあります。

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 アフリカ大陸や南アメリカのアマゾンや東南アジアの密林が、世界の気候や環境の保全のために、驚くべき役割を果たしていることを学んできましたが、手付かずの自然が、用地開発のための手を入れ、その地球規模の均衡が崩されてしまっているのです。それが、今日世界中で起こっている異常気象、自然災害の大きな原因の一つなのです。

 砂漠化した地に木の苗植えをし、伐採した森林に植林し、コンクリートやアスファルトに変えてしまった地を、緑の原野に戻していく努力をして、水資源を地球規模で確保する必要があります。工業生産のためには、莫大な量の水を必要としているのです。水の再利用も急務だと言われています。

 本来、地球が蓄えているべき水が、温暖化によって気化して上昇することで、冷えた水蒸気が大雨、暴雨、線状降水帯を生み出す原因なのだそうです。その異常を生み出してきた工業優先が、この異常気象に拍車をかけてきたのです。YouTubeのコマーシャルに、ペットボトルの水の会社のものがあって、スイスやフランスのペットボトル水が輸入されて売り始められた時、何とも言えない違和感を覚えた時と同じ、違和感をそのコマーシャルで感じたのです。水が、製品になると言うおかしさです。

 水質が、飲用に適さなくなってしまったので、自然の恵みの水が売られて、飲まざるを得なくなっている現実こそ、異常です。子どもの頃、母の手伝いで、井戸水を汲む手伝いをしました。釣瓶の桶によるのではなく、ポンプ式の井戸だったのです。井戸の蓋を開けると、その底に自分の顔が、はるか底に映ってたのを覚えています。

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 人が増えるに従って、井戸水の汚染が言われるようになり、市の浄水場からの水道水の供給が始まり、蛇口を捻ると、水が出るように変わっていきました。でも、あの堀井戸から汲み上げた水は美味しかったのです。井戸のことを考えますと、ブラジルに移民した義兄が、「上総(かずさ)掘り」と言う井戸について資料を欲しがっていたことを思い出します。地下水を汲み上げて、天然水を、農業用に、また飲用に利用したかったようです。アフガニスタンで、中村哲医師が、用水路を敷設することに尽力したことも有名な話です。

 水と人とに関わりは、歴史的に見て、人類の生存にとっても、極めて重要です。飲用、農業用、工業用に必要な水も、防雨がもたらす洪水となると、これは一大問題です。今回の台風7号による、鳥取市の先代川の増水のニュースを伝えていました。〈治水〉は古来からなされた重要な対策であるのです。でも昨今の水問題は、どうする術もないような域にありそうです。治山、治水、国土保全に励んできた日本では、それでも甚大な被害を抑止してきています。

 水ジャーナリストの橋本淳司さんが、『台風や大雨など、気候変動の影響を受けている日本で、社会生活が長期間ストップするほどの事態にならないのは、上水道や下水道が整備されているからです。つまり、上下水道インフラの未整備な国や地域ほど気候変動のダメージを受けやすく、洪水や渇水から立ち直るのにも時間がかかってしまうということです。ウォーターエイドの報告書では、世界の貧しい国のほとんどが気候変動への対応力が弱く、それに必要となる安全な水へのアクセスレベルが低いことが指摘されています。安全な水の確保は新型コロナの感染拡大だけではなく、気候変動への対策、ひいては人々の命を救うことにつながるのです。』と言っておいでです。

 これほど、水が暴れ狂う様を動画で見た今、これから地球が内蔵する水と地球を取り巻く水は、どうなっていくことでしょうか。

 『神は国々を統べ治めておられる。神はその聖なる王座に着いておられる。 (詩篇478節)』

 国々を治められる神さまは、地球も天空、宇宙をも治めておいでです。自然界の均衡が破れてしまった様に感じる昨今ですが、神さまの意図を知って、人は、この自然天然の世界に、何をしていくべきなのでしょうか。《治めていく責任》を放棄するわけにも、あきらめるわけにも、人はいきません。

(一滴の水、上総掘りの作業の様子、中村哲氏の著書です)

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私の評価額は

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 今朝読んでいた、「レビ記」の27章に、〈人間の評価額〉が記されてありました。

 『その評価は、次のとおりにする。二十歳から六十歳までの男なら、その評価は聖所のシェケルで銀五十シェケル。 女なら、その評価は三十シェケル。 五歳から二十歳までなら、その男の評価は二十シェケル、女は十シェケル。 一か月から五歳までなら、その男の評価は銀五シェケル、女の評価は銀三シェケル。 六十歳以上なら、男の評価は十五シェケル、女は十シェケル。 もしその者が貧しくて、あなたの評価に達しないなら、その者は祭司の前に立たせられ、祭司が彼の評価をする。祭司は誓願をする者の能力に応じてその者の評価をしなければならない。 主へのささげ物としてささげることのできる家畜で、主にささげるものはみな、聖なるものとなる。 それを他のもので代用したり、良いものを悪いものに、あるいは、悪いものを良いものに取り替えてはならない。もし家畜を他の家畜で代用する場合には、それも、その代わりのものも、聖なるものとなる。(レビ27310節)』

 年齢によって、人間の評価を、神さまが定められたのです。ある時、長野県に用があって、出かけた時に、高速道路のサービスエリヤに、「姨捨(おばすて)SA」がありました。近くに、姨捨山があるのです。そこには、次のような民話が残っています。

 『昔、年よりの大きらいな殿様がいて、「60さいになった年よりは山に捨(す)てること」というおふれを出しました。殿様の命れいにはだれもさからえません。親も子も、その日がきたら山へ行くものとあきらめていました。

ある日のこと、一人のわかい男が60さいになった母親をせおって山道を登っていきました。気がつくと、せなかの母親が「ポキッ、ポキッ」と木のえだをおっては道に捨てています。男はふしぎに思いましたが、何も聞かずにそのまま歩きました。

年よりを捨てるのは深い深い山おくです。男が母親をのこして一人帰るころには、あたりはもうまっ暗やみ。男は道にまよって母親のところへ引きかえしてきました。

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息子のすがたを見た母親はしずかに言いました。「こんなこともあろうかと、とちゅうでえだをおってきた。それを目じるしにお帰り」。子を思う親のやさしい心にふれた男は、との様の命れいにそむくかくごを決め、母親を家につれて帰りました。

しばらくして、となりの国から「灰(はい)で縄(なわ)をないなさい。できなければあなたの国をせめる」と言ってきました。との様はこまりはて、だれか知恵(ちえ)のある者はいないかと国中におふれを出しました。男がこのことを母親につたえると、「塩(しお)水にひたしたわらで縄をなって焼けばよい」と教えられ、男はこのとおりに灰の縄を作り、殿様にさし出しました。

しかし、となりの国ではまた難題(なんだい)を言っていました。曲がりくねったあなの空いた玉に糸を通せというのです。今度も男は母親に、「1つのあなのまわりにはちみつをぬり、反対がわのあなから糸をつけたアリを入れなさい」と教えられ、殿様につたえました。すると、となりの国では「こんな知恵者がいる国とたたかっても、勝てるわけがない」とせめこむのをあきらめてしまいました。

殿様はたいそうよろこび、男を城(しろ)によんで「ほうびをとらす。ほしいものを言うがよい」と言いました。男は、「ほうびはいりません。実は・・・」男は決心して母親のことを申し上げました。

「なるほど、年よりというものはありがたいものだ」と、殿様は自分の考えがまちがっていたことに気づき、おふれを出して年よりを捨てることをやめさせました。それからは、どの家でも年おいた親となかよくくらせるようになりました。(千曲(ちくま)市教育委員会の協力をえて、「姨捨の文学と伝説」からの要約)』

 旧英国海軍の基地のあった軍港の高台に、「老人院laorenyuan」があって、5人ほどで訪ねたことがありました。牧師の娘、医師の長女、教師などの背景を持たれる何人もの姉妹たちと交わりをしたのです。こんな方々のように、老いを迎えたいと思わされるほど、輝いて今を生きておいででした。お父さまやお母さまのことなど、街のこと、出会った人々のことをお話しくださったのです。

 社会の厄介者のように、老人への敬意を忘れていた殿さまもも、その知恵や経験を、後にありがたく感謝するようになったのは、実に聖書的なのです。

 『あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。 (レビ1932節)』

 華南の街で、公共バスに座っていた学生さんたちが、ピッと起立して、幾度も席を譲ってくれた経験が思い出されてきます。間もなく外孫が2人、お母さんの故郷回帰に従ってやって来ます。もう、彼らの評価額の方が、私たちよりも、はるかに高くなっているのですが、それでも respect されるのは嬉しいことです。孫たちの訪問を、いつになくワクワクと待っているバアバなのです。

(幕屋で仕える祭司、姨捨山(冠着山)です)

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ご覧あれ❗️

 

 『もう、何で咲かないの!』、蕾ができてから、どれだけ待ったか分からなかったほどで、ヤキモキしていました。この7号台風が近畿中国圏に、大きな爪痕を残して、日本海に抜けたのですが、その余波で、強い風が、ベランダにも吹きつけ、花壇の下におろしたら、今朝、開いたのです。《 sun  parasol giant(サンパラソルジャイアント)》です。まさに、ご覧あれ! です。まだ、100%の開花ではないのzですが、待ちきれずにアップしました。

※ 反省  冬越しの2年目ですが、乾燥気味に一年経ったのですが、きっと、花卉用の肥料やりが足りなかったかも知れません。

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弱き者を顧みられる神

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 自分でも、何度か説教をさせていただいた聖書箇所でしたが、そこを読まれて、ある講義がなされました。どこでかと言いますと、ルーテル派の神学校でだったのです。旧約聖書の担当の教授の最後の講義でした。どんなルーテル神学を聞けるのかと、大きな期待で座席についていたのです。ルターについて語るのか、ルーテル派の伝統的な神学論を語るのかと思いましたら、「旧約における弱者救済の論」を講義されたではありませんか。

 長い間、日本の学生のために講義し続けてきた学者が、任地の日本での教えを締めくくるに当たって、「義認論の旧約的背景」などについて聞けると思っていましたら、孤児や寡や在留の外国人を顧み、支えられる神の愛を語られたのです。

 『在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。 思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。 あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。 あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。 ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。 あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。(申命記241722節)』

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 生産的、貢献的でない人間への神の顧みということ、寄るべなき者ものを、決して見捨てられない神さまがいて、人にも、寄るべない者を顧みるように要求する神がいらっしゃることに、まさに聖書が知らせる神さまのご性質の最たるものではないでしょうか。

 生きていたって役に立たない人など、価値も意味もないとしている人間社会に、そう言った人々と共に生きるために、心を配り、物を分け与えるように願う神が、聖書の示すお方なのです。強者だけが生き残れるような人間社会に、弱者保護規定を設けられたお方を、神だと知ってから、自分の生き方が変えられたのです。

 男の子ばかりの兄弟の中で、「強さ」を身につけることこそ男の生きる道だと教わったような気がします。喧嘩にも、経済競争にも、出世競争にも、〈強者生存〉の生き方を身につけようとしていた自分に、この憐れみに富み、恩恵に溢れた神、それは精神的なものだけでなくではなく、〈持っている物〉によって、持たない人々の物の不足を、物によって満たし、補い、助けることを示されたのです。

 まさに、〈食べる物〉を、補い、助けて与えることです。イスラエル民族は、奴隷として、エジプトにいた時の、精神的な苦しみ、神の民なのに困難を通り、虐げられた過去を持っていたからです。具体的には、〈食べ物の不足〉の過去を思い出し、今まさに食べ物に困窮する人に「小麦」を、「オリーブ」を、「葡萄の実」を与えるように命じたのです。

 好意を受ける人が恥じて受けることにないようにとの、配慮も、イスラエルの民に要求したのです。〈強さ〉だけが、生き残る手段であるのではなく、今の強さが、今まさに弱さを覚えている人たちの支えとなれるような配慮、恵みあふれる対応を求めているのです。誰も、『足りない!」と言うようなことがないためです。

 今まさに世界中で、春に植えた稲や小麦などの穀物が、大雨の洪水、貯水ダムを保つためになされる放水で、収穫を見ることなく押し流されています。灼熱の旱(ひでり)、旱魃も世界中に見られます。その上穀倉地帯が、戦火で焼かれようとしています。

 強い者が弱い者を、強く力のある時に、弱く力のない時のために、強い者は、弱いものに、憐れみを示すなら、どちらも、神の要求を満たすことができて、共生することができるわけです。神の国の 《 balance sheet 》なのです。驚くべき神の配慮ではないでしょうか。

 この退職する教授の話の内容は、もう忘れてしまいますが、その講義する姿勢、テキストの聖書箇所、講義を聞く者たちへの配慮、何よりも、神を崇めている時間が、尊かったのです。

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この日に思うこと

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 終戦の日に、満八ヶ月だった私は、前年の十二月に生まれていましたから、あの戦争の記憶はありません。ただ、軍需工場の責任を負っていた父は、軍からの支給で、一家を養っていました。ですから生まれてきた私のための産湯の盥(たらい)も産衣も、寝具も、それで賄われていたことになります。

 ですから戦争と自分とは無関係ではなかったことになるのを、大きくなって理解したのです。中国大陸や東南アジア諸国に送られた戦闘機や爆撃機や特攻機には、父の掘り出した鉱石によって作られた防弾ガラスが、組み込まれていて、父の戦争責任を、少しずつ感じ始めたようです。兄たちや弟には、そんな思いはあったのでしょうか。

 戦時下の外地で、どんな蛮行が繰り返されたかを知るにつけ、とくに大陸に対する、責任を感じられるようになるのです。「真空地帯」とか、「二等兵物語」などの映画を観たり、戦争物の小説などを読むに連れて、その思いは、心の底で大きくなっていったようです。

 私が、2007年の夏から過ごした華南の街の郊外にも、日本軍が海岸から上陸し、飛行場を整備したのだそうです。その街に住み始めた頃には、大きなバスターミナルに、転用されていました。そして、近隣の井戸に毒を投げ込まれたことがあった、と地元の人に聞いたりしたのです。日本語の学びのために、わが家に来ていた若者の家に招かれた時に、彼のおばあちゃんは、江蘇省の農村の出で、日本軍の放った村の火事で、腕に大きな火傷を負ったのを知らされました。無理を言って見せていただいたのです。そして、私は心からのお詫びをしたのでした。

 そのことのためにも、そんな戦争責任のお詫びをするようにと、中国に導かれたのだと思わされたのです。私の授業に出ていた学生のみなさんは、『先生と日本軍の侵略とは無関係です。あれは過去に、軍隊が犯したことですから!』と、言ってくれましたが、その街の大きな河川の脇の1kmほどの石板には、その街の歴史が刻まれ、その中に、『日本軍の爆撃により、300人余りの戦死者出る!』とありました。それは過去の悲しい記録だったのです。

 私が、大学の先生たちの集いの中で、証しを頼まれたことがありました。その時に、軍需産業に従事した父の戦争責任、幼児の私のミルクも産衣も軍からの支給であったことなどを話をしたのです。そして返さなければ負債を感じたことが、中国に来た一つのおおきな動機付けだと言いました。それに感動された方たちが、近寄ってきて握手を求めてきたのです。100人近い先生たちの中には、彼らの父や祖父や親族に、日本軍の侵攻の被害者だっておいでだったに違いないのです。

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 福音宣教のためだけではなく、そう言った謝罪の務めもあって、過ごした隣国での13年は、主が設けてくださった機会だったと思い至り、ただ主に感謝をしているのです。父は、私たちが献身する前に、中国に行く前に、すでに天に帰っていきましたから、私たちの過ごした年月や出来事は知らないままでした。

 終戦78年の今日も、世界中では、国と国との戦争があり、民族間の対立が、そこかしこにあります。中国本土と台湾、沖縄との間で、何かが起こりそうな迫りを感じます。大陸の多くの若者たちが兵士になるように招かれていると、先日おいでの訪問客から聞きました。台湾に接する地では、戦争準備がなされているようです。両岸の交流を叫んでいた口が渇く前に、睨み合いになっています。

 冷静になって、何が起こるにかを見極めなければならない時が来ています。どうしても、次の聖書の言葉が思い出されて参ります。

 『また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。(マタイ24612節)』

 「必ず起こること」、避け難い時を、この時代に生きる私たちは迎えるのです。そのために私たちに必要なのは、〈慌てないこと〉です。78年目の8月15日、「終戦の日」に、そんなことを思いました。

(戦時に飛んだ気宇撃機、石英の結晶です)

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