このわたしはあなたを忘れない

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 『「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。(イザヤ49:15)』

 近くの公園にも、散歩コースの小高い丘の上にも、この街で、市長として業績を残されたのでしょうか、亡くなられた後に、それを忘れないみなさんによって建てられた顕彰碑が置かれてあります。ノーベル賞をもらった受賞者の方が、故郷に、胸像を作ってもらって、その除幕式で、ご満悦なご本人と像との映った写真を見たこともあります。また、首相在任中に、『不条理に押し付けられた憲法の条項を改正したい!』と、その実現のために、任期中に一心不乱な方もいました。

 人は、忘れられたくないので、だれかに覚えて欲しい、いつまでも自分の業績、自分たちを導いてくださった恩人を、誉めて、覚えていたいと願うからでしょうか。人はだれも、自分が死んでしまっても、忘れ去られたくないのかも知れません。だから、足跡を残し、手形を残し、像を残し、著書を残し、業績を覚えていてもらいたいのでしょう。

 私たちが、もう何年も何年も、繰り返し毎朝開いているデボーションの本があります。オズワルド・チェンバース(Oswald Chambers, 1874624日〜19171115日)の『いと高き方のもとに(My utmost for his highest/湖浜馨牧師訳、まだ「百万人の福音」誌に連載されていた頃から読んでいました)」です。それは、この方が、書き残そうとした著作ではないのです。聖書学校で、学生たちに長年話した講義などを、夫人が速記されていて、それを編集して、43歳で召された後に、夫人によって出版されたものです。

 友人牧師が紹介してくれた F.W.ロバートソン(1816年2月3日〜1853年8月15日)も、37歳で召されましたが、彼の説教で養われた、英国の Brington教会のみなさんが、その感銘的な説教を本にして著したものでした。最近、古書店から私は買い求めて、200年ほど前の牧師の説教の邦訳を読んで、大きな感銘を与えられているのです。

 多くの説教者が、ご自分の学んだこと、説教されたことを、本にして出版されています。吉祥寺教会で牧会をされた竹森満佐一牧師の奥さまで、ご主人の出張された日曜日に、講壇に立たれて説教され、ご一緒に牧会をされた竹森トヨ牧師さんの説教集があります。ご主人に勝るとも劣らない名説教者で、多くの牧師さんが神学生の時代、その説教を聞かれたものを、召された後に説教集として刊行されたものです。それも私の愛読書の一つなのです。

 私を導いてくださった宣教師さんも、アメリカの彼の友人牧師の教会で、何冊もの著書を出版されておられました。良い聖書教師、説教者だったから、出版を勧められたのでしょう。

 少し話は変わりますが、まだ若かった頃、一緒に、同じ奉仕の道を歩んで、助言し、激励し、慰めてくれたみなさんが、一人一人と、ご自分の歩みを終えられて、主のみ許に帰っていかれました。神学校も聖書学校も出てないで、宣教師さんに8年間訓練されて、他の教会の世話で、他所に行かれた宣教師さんから、後の群れの責任を委ねられて、家内に助けられ、励まされ、注意されたりで、61まで、やっとのことで奉仕をさせていただきました。けっこう長い時間でした。

 時々呼ばれて母教会で説教が終わると、『準ちゃん、今日のお話は良かったわ。ありがとう!』と言われたことが何度もありました。聖会で、集会の終わりの祈りをすると、『説教をなさった牧師さんのお話の後に、そのお話をまとめるような、準さんの祈りがとてもよかったです!』と言ってくださった姉妹もいました。
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 また、『美味しいヨーグルトを作って持ってきたので食べてください!』と、母に導かれて、教会に来られて、忠実に教会に仕えておられた姉妹がいました。よその教会の特別集会に呼ばれると、『こんなお話は、これまで聞いたことがありませんでした!』と、牧師さんに言われたこともありました。大きな大会で賛美を導いて司会をしたことがあり、何年も何年も経ってから、『あなたの司会が、これまで一番よかった!』と、先輩牧師が言ってくれたのです。

 マザコンだとか、甘ったれだとか、『◯◯牧師みたいに説教をして!』とか、非難ばかりが多かった自分を、そんな風に言ってくれたみなさんが、わずかにいてくださって、やっと立っていたのですが、もう今は、主のみ許に帰っていかれ、激励してくれる人はいなくなりました。このような方々を忘れられないでいますが、そう言った激励者がいなくなったこと、覚えていてくれた人がいないことに、最近思い当たって、寂しさを禁じ得ません。

 憐れみと恩寵によって、生かされてきた、ただ赦された罪人の自分ですが、秋風が吹いてきたからでしょうか、朝顔の花が萎れて地に落ち、咲き終わった今、また最近では、近所の家の庭の木の枯れ葉が散って、秋風に舞っているのを目にして、枯れた葉っぱが自分のように思えて、落ち着きません。

 留学中の子どもたちにも、聞いて欲しくて、読んで欲しくて、その週に語った説教を、次週の週報に載せて、まとめて彼らのいる所に送ったのです。そんな作業をくりかえしていました。また、次男に勧められて、どんなことを考え、どんなことをしてきたか、どんな夢や幻を持って生きてきたか、どんな失敗があり、どんな出会いがあったかなどを、子どもたちに伝えたくて 、けっこう赤裸々に書いてきた Blog を始めました。今の titleBlog は、もう3000号を越えています。『あんなことまで書くんだね!』とか『あのブログ の記事、よかったよ!』とか講評してくれて、子どもたちには覚えられているのは励みです。open してますので、お読みくださる方もおいでなのです。

 これだって、子どもたちには忘れないでいて欲しい、覚えて欲しい、父親の願いからのことであるのでしょう。痣(あざ)も黒子(ほくろ)も切り傷も、心の傷も、母は覚えていてくれたのですが、既に帰天してしまい、この地上には、覚えていてくれる人がいなくなっても、『このわたしはあなたを忘れない。』と言われるお方が、忘れないでいてくださるのです。これで十分だと納得の秋の宵です。

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世間に吹き荒れる風の中で

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 海岸の防風林に、松が植えられているのを見かけたことがあります。強い海風にあたって、陸側に大きく傾いているのは印象的でした。その風に耐えるほど、松には、耐性があるのでしょうか。変形してしまっても、しっかりと根を張っている姿は、たくましさとか忍耐とか我慢を表しているのでしょうか。それは、防風林、防砂林に松が適しているからです。

 人の世の中にも、世間の風、浮世の風が吹いていて、海風よりもはるかに強烈なのかも知れません。私たちを、この時代に吹き荒れる防風から、身を守ってくれる、「防風装置」は、どこにあるのでしょうか。この時代は、だんだん良くなっていくのでしょうか。それとも徐々に悪くなっていくのでしょうか。身を守る術は残されているのでしょうか。

 それぞれの時代の風の強さを測るかのように、内閣府や官公庁や新聞社などがよくしている「世論調査」があります。いまの社会でも国民意識とか、世の中の動向とか、消費動向などを調べたりしています。よくみられるのは、時の内閣の支持を調べている政権調査です。国民の現政権への「期待」、「不安」、「失望」、「満足」の程度を調査してきています。今の政権は、偏向していないで、大丈夫でしょうか。

 人間の集まる組織や集団には、個人の意思だけではなく、組織の意思があります。世間からの認知を受けたいからでしょうか、組織を維持するために、独自のスローガンとかマニフェスト(manifesto))を作り上げます。支持されたり、協力を得るために、世間に自分たちを知らしめたいと願うからです。ただの宣伝文句で終わってしまうことが多いのですが。

 私たちは、世間の動きが分からずに、無知にならないために、世の中を、しっかりと知る必要があります。それが、正常な人の願いなのです。私が学んだ学校に、「社会調査」と言う講座があり、私はこれを興味津々で受講したのです。あんなに面白く学べた講座は、他にありませんでした。世間知らずだったから、もっと世間とか周りの社会を知るために、こういったことのできる仕事をしたいと思わせたほどでした。

 江戸時代の「浮世草子」などを著した作家に、「井原西鶴」という〈世間通の人〉がいました。その作品の中に、上方の町人たちの年末の生き方を描いた「世間胸算用(せけんむなざんよう)」があります。「時」は、元禄期の年末のどん詰まりの大晦日の一日に、「場」を西の商都大阪に、「人」を巷の中下層の町人たちに設定しています。この人たちが、どう過ごして、一年を締めくくり、新しい年を迎えていくかを描いています。例えば、

巻三 小判は寐姿

 「夢にも身過ぎの事をわするな」と、これ長者の言葉なり。思ふ事をかならず。

夢に見るに、うれしき事有り、悲しき時あり、さまざまの中に、銀(かね)拾ふ夢はさもしき所有り。

今の世に落とする人はなし。それぞれに命とおもふて、大事に懸(かく)る事ぞかし。いかないかな、万日廻向(ゑかう)の果てたる場にも、天満祭りの明(あく)る日も、銭が壱文落ちてなし。

兎角(とかく)我がはたらきならでは出る事なし。

 江戸ではなく、西の大阪の庶民の生活を、西鶴は、生まれながらに知っていたのでしょうか、その観察眼は驚くほどのものがあるのです。決して調査をしたわけではないのでしょうけど、身の回りに起こっていること、世間に見られることへの関心、見聞には、驚くほどのものがあります。

 令和の世、今や〈情報過多の時代〉に生きる私たちは、世間に煩わされることの多い時代に生きているのではないでしょうか。その情報は、偏向していて、情報操作がされていないでしょうか。自分勝手な情報の発信のできる世間で、価値観が揺れ動いて定まらない浮世で、右や左に振り動かされないで、しっかり、社会の動き、人の動機などを見極めることが必要です。

 聖書に、次のようにあります。

 『主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。 あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。(詩篇13913節)

 『神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。(詩篇1392324節)』

 世間を知り、世間に知られるよりも、自分が何者なのかを知る方が、大切なのではないかなと思うようになりました。とてつもなく複雑な世間に押しつぶされないためです。世間は不安定で、浮動していて定まりませんが、《私を知っていてくださるお方》がいらっしゃいます。詩篇の作者は、その確信がありました。これまでの自分の人生の行程の全てをご存知の神さまがいることをです。

 《神に知られている》としたら、これ以上の認知は、他になさそうです。神さまは、自分が生まれてから今まで、いえ生まれる前から知っていてくださるとしたら、こんなに頼れるお方は、他にありません。

(「山陰浜坂海岸」の松です)

Nudge

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Illustration of greeting with elbow to elbow.


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 最近、一つの英単語を見つけました。” Nudge Najjiです。討論会などが行われていて、それに加わって意見を述べるように、隣の人が、肘で軽く突っついて、『どう、君、素晴らしい意見を持ってるんだから発言してみたら!』と言って、相手を促す行為のことのようです。

 また居眠りをしている隣の人に、『寝ないで!』と、注意を促すときに、肘でツンツンと突くことがありますが、そう言った合図を言ってるのでしょう。実際には肘で突っつくようなことはしなくても、テレビのコマーシャルで、購買を促すようなことって多くあります。強制はしませんが、『あったら便利かも知れないな!』と思わせて、手を伸ばして、買いたくなるように促すことが、テレビのShop では、よく観られます。

 これって巧妙な勧誘方法のようです。ドイツのナチス党に、ケッベルス( Paul Joseph Goebbels )という宣伝相がいました。背後で、巧みに党の政策の宣伝を行い、ヒトラーに共鳴し、宣伝方法を駆使して、独裁国家を陰で支えた人物でした。その宣伝方策は、賢明なドイツ人を陥れて、支持を盗んだのですから、驚くほどのものがあったようです。

 ナチスへの国民支持を、あれ程に操作した宣伝手法こそが、第一次戦後の困難な国際関係、経済問題などのもとで、ドイツでナチス台頭を促し、発展させ、驚くべき戦争犯罪を起こさしめた原因でもあったのです。総統と呼ばれた男の悪魔的な演説能力と、悪賢い宣伝で国を一つにしましたが、ドイツ民族に最大の汚点を残させたことで終わりました。

 人が与えられた能力や才能が、正しく用いられないと、大変な結果を家庭でも、学校でも、会社でも、国家でさえも、滅亡へと導いてしまうのです。聖書にも、優れた助言者が登場しています。ダビデの議官のアヒトヘルです。

 『当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はみな、ダビデにもアブシャロムにもそのように思われた。(IIサムエル1623節)』

 そう言われるほどの助言のできる人物に裏切られて、息子の謀反で滅びるところでした。ところが神さまが介入されて、フシャイという人を、もう一人の助言者に立て、けっきょくアブシャロムは、アヒトフェルではなく、フシャイの助言に聞くのです。それで、謀反は失敗に終わります。

 悪についたアヒトフェルは、自分の進言が受け入れなかったことで、故郷に帰って、家を整理した上で、自殺してしまうのです。《誰に聞くか》、これが大切です。この時代も同じです。溢れるような情報があって、さまざまな動機で発信されています。家内は、病んだからでしょうか、〈食べ物情報〉に強い関心を示しています。私は、『神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。(Iテモテ4:4)』という考えでいますが、科学的に体に良くないものは、もちろん極力避けてはいますが。そんなに神経質ではありません。

 でも、これからは、情報については、sensitive でなくてはならない時代でしょうか。私たちの脇腹を、そっと突っつくような促しもあれば、アヒトフエルの様な悪い助言もあるからです。でも今や、もっと気をつけなければならない情報源があります。

 今や、宣伝や広報は、” AI “ を用いたの時代になっています。それを用いて、” Fake News “ が発信されているのです。それは、頻繁に起こっていて、さらに増え続けるに違いありません。聖書は、「欺く者」がいること、切羽詰まった時代の只中で、偽情報を故意に発信されて、神により頼むことのないように、神に反逆するように働きかける時代こそ、今だからです。

 『諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る」と。 (エレミヤ31:10)』

 今こそ、「主のことば」を聞く時です。情報操作がなされ、さまざまな動機で語られる声、情報の間で、義なる神が語られることを聞く必要があります。右にも、左にも逸れることなく、真理の大路をまっすぐに歩むためにです。聖霊なる神さまは、私たちの脇腹に、肘を触れて、” Nudge Najjiされるに違いありません。「主のことば」を聞くように促してくださるのです。

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日本語

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 これは、高校二年の国語の教科書に載せられた、夏目漱石の「こころ」の冒頭の部分です。

 『私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。これは世間を憚(はば)かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執(と)っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない。

 私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。暑中休暇を利用して海水浴に行った友達からぜひ来いという端書(はがき)を受け取ったので、私は多少の金を工面(くめん)して、出掛ける事にした。私は金の工面に二、三日を費やした。ところが私が鎌倉に着いて三日と経(た)たないうちに、私を呼び寄せた友達は、急に国元から帰れという電報を受け取った。電報には母が病気だからと断ってあったけれども友達はそれを信じなかった。友達はかねてから国元にいる親たちに勧(すす)まない結婚を強いられていた。彼は現代の習慣からいうと結婚するにはあまり年が若過ぎた。それに肝心(かんじん)の当人が気に入らなかった。それで夏休みに当然帰るべきところを、わざと避けて東京の近くで遊んでいたのである。彼は電報を私に見せてどうしようと相談をした。私にはどうしていいか分らなかった。けれども実際彼の母が病気であるとすれば彼は固(もと)より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。

 学校の授業が始まるにはまだ大分(だいぶ)日数(ひかず)があるので鎌倉におってもよし、帰ってもよいという境遇にいた私は、当分元の宿に留(と)まる覚悟をした。友達は中国のある資産家の息子で金に不自由のない男であったけれども、学校が学校なのと年が年なので、生活の程度は私とそう変りもしなかった。したがって一人ぼっちになった私は別に恰好(かっこう)な宿を探す面倒ももたなかったのである。』

 この文章には、今私たちが話している日本語の代表のような文章、会話、話の展開が記されています。国語教育がなされる以前に、やはり統一言語が必要であったのです。もちろん日本語は一つですが、津軽弁と薩摩弁とで話し合っても、お互いに理解するには、通訳が必要でした。それでも軍隊で、鹿児島出身の上官が、命令を青森出身の部下に、戦場で命令を下しても、聞く方は理解できなく、やっと分かった頃には、敵の打った弾で戦死してしまうのです。

    それで、共通の言語を学ぶ必要があったのでしょう。私たちが13年過ごしたお隣の国の華南では、山を一越しするだけで、言葉(方言)が違うのだそうです。なんとなくは類推できるのですが、意思の疎通は難しいと聞いて、狭い日本で生きてきた私には、驚きでした。ある省の省都の遠距離バスターミナルの壁に、『標準語で話しなさい!』と、省政府の通達が掲げられてありました。

 アメリカだって同じです。とくに移民で出来上がった国ですから、ドイツ語、フランス語、イタリア語など、自分の出身の国の言葉で普段は話していても、一つの国の共通の言語が教えられ、学ばないと、交流もできず、国が成り立たなかったのです。聞いた話ですと、アメリカでは、言語がドイツ語になる可能性もあったのだそうですが、けっきょく英語が共通言語とされたようです。
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 それで、日本語の学習のために、漱石の作品が大きな役割を果たしたと言われています。文章が文語調ではなく、口語調だからです。江戸ッ子の漱石は、根っからの江戸弁の語り手だったのでしょう。それでも、長州藩の世になって、長州弁と江戸弁とで、東京弁ができあがり、それが日本標準語とされていったと言えます。

 江戸の巷間で、人気の娯楽は、寄席の落語でした。三遊亭圓朝が、寄席で話している噺から、漱石は学ぶために、寄席通いをしたのだそうです。この人の道楽でもあったのです。これも、有名な寄席の出し物で、園朝が得意とし、その後も、代々語り継がれている、人情噺の一席の「文七元結(もとゆい)」を取り上げてみましょう。長兵衛と、カミさんのおカネとの話のやり取りのくだりです。

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 長「おう今帰(けえ)ったよ、お兼(かね)……おい何(ど)うしたんだ、真暗に為(し)て置いて、燈火(あかり)でも点(つ)けねえか……おい何処へ往(い)ってるんだ、燈火を点けやアな、おい何処……そこにいるじゃアねえか」

 兼「あゝ此処(こゝ)にいるよ」

 長「真暗だから見えねえや、鼻ア撮(つま)まれるのも知れねえ暗

(くれ)え処(とこ)にぶっ坐ッてねえで、燈火でも点けねえ、縁起が悪(わり)いや、お燈明でも上げろ」

 兼「お燈明どこじゃアないよ、私は今帰ったばっかりだよ、深川の一の鳥居まで往って来たんだよ、何処まで往ったって知れやアしないんだよ、今朝宅(うち)のお久が出たっきり帰らねえんだよ」

 長「エヽお久が、何処(どけ)え往ったんだ」

 兼「何処へ往ったか解らないから方々探して歩いたが、見えねえんだよ、朝御飯を喰(た)べて出たが、それっきり居なくなってしまって、本当に心配だから方々探したが、いまだに帰(けえ)らねえから私はぼんやりして草臥(くたび)れけえって此処にいるんだアね」

 長「ナナニ知れねえ、年頃の娘だ、え、おう、いくら温順(おとな)しいたってからに悪(わり)い奴にでもくっついて、え、おう、智慧え附けられて好(い)い気になって、其の男に誘われてプイと遠くへ往(い)くめえもんでもねえ、手前(てめえ)はその為に留守居をしているんじゃアねえか、気を附けてくれなくっちゃア困るじゃアねえか」

 これは、江戸の長屋住まいの夫婦の会話です。江戸の街を我が物顔で歩き回る、薩摩や長州の田舎侍への当てつけで、江戸っ子の心意気を表している噺なのです。この噺は、YouTube でお聞きいただきたいので、内容はともかく、日本語ができ上がっていく段階で、園朝や漱石の果たした貢献度は、シェクスピアが英語を形作ったのと同様に、極めて大きいと言えます。

 中国の学校で、日本語を教える機会が与えられて、教えながら、自分の日本語の背景を学べたことは、とても感謝したことでした。たくさんの準備ノートがありますが、旭川で英語教師をされていて、同じように、中国で日本語教師をされた方から、ご指導を受けたことも、私にとっては、宝のような時でした。

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選手生命について思う

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 組織や団体を維持して、その経営収益を増し加えるために、舞台で歌う歌手、同じ舞台で舞う踊り手、また球場でボールを投げ、打ち、捕り、走る選手たちが誕生しては、消えていきました。そんな彼らの活躍を見続けてきて、その中からわずかなスターたちが誕生していきます。その時の歌手や役者や選手たちの活躍に、一喜一憂しながらフアンは見聞きして、心躍らされてきているのですが、その会社や団体の事情は、スターとなった選手、歌手、踊り手、俳優などがいて、どんな忙しいスケジュールでも、人気のある間に、活躍させて、収益を上げさせたいのでしょう。

 兄の2、3年上の世代のプロ野球選手で、パ・リーグの西鉄ライオンズ(現在の埼玉西武ライオンズです)に、名ピッチャーの稲尾和久がいました。お父さんが大分の漁師で、船で港に帰ってくると、お母さんが、その魚を売りさばいていたのだそうです。彼は、子どもの頃から、お父さんの船に乗って、お父さんの漁の手伝いをしていていたようです。その経験で、強靭な足腰を得たそうです。

 高校を卒業してから、プロ入りをし、14年間に、276勝と言う成績を上げていて、あの時代の日本プロ野球では、最高の存在感を示した投手でした。でも、この方は、1956年から1969年まで現役を続けられたのですが、その最盛期は、『私の投手人生は8年で終わった !』とご自身が述懐されているように、8年間という短い期間だったのです。後半の6年間は、低迷し、32歳で現役を引退してしまっています。長く投手で活躍できる方法が考えられていない時代だったのでしょう。

 「鉄腕」と言う異名をほしいままにしていたのですが、チームへの貢献は驚くほどのものがありましたが、稲尾和久ご自身の野球生命は、実に短命だったのです。体一つで生きる世界で、やはり酷使による〈燃え尽き症候群〉だったと言えるでしょうか。

 以前、『息子には、絶対アメフトはさせない!』と、次女が言っていたことがありました。と言うのには、理由があったからです。アメリカの国民的スポーツの「アメリカン・フットボール」で活躍した選手の中、現役を引退した後には、肉体上の損傷だけではなく、メンタルな面での問題が大きいと言うのです。それ猛烈なプレーで、脳の障碍を負ったことに起因しているからです。

 一人のアメフトのスター選手だった、ヘルナンデスが、殺人罪で服役中の刑務所の中で、27歳で自殺しています。死後に、頭部が解剖され、脳の損傷を見付け、Stage 3 の「慢性外傷脳症」だったことが分かったのです。野球やアイスホッケーやラグビーやアメフトなどの激しい運動をした選手は、その負傷の後遺症を残す可能性が大きいようです。

 観衆を沸かせ、チームに貢献し、チーム経営の球団を富ませた選手が、そのような損傷を肉体に受けていて、引退後の人生は、闘病であったり、犯罪を犯したりするケースが、多いのだそうです。それを聞くと、スポーツをしてきた身としては、悲しくて仕方がありません。

 次女の子は、high school age の野球選手でした。ピッチャーでもバッターでも活躍し、大学に scholarship (奨学金)を貰って推薦入学の機会があったのですが、彼は続ける願いがなかったのです。野球産業の卵たちへの大人の思惑などを見聞きする機会があって、それを知っての彼の決断でした。

 頭部損傷が原因で、様々な後遺症の現れがあります。それがわかった今は、活躍時の選手時代に、健康管理を十分に果たす必要があるようです。初めに取り上げました、稲尾和久氏は、『投げるのが好きです!』と言って、連投に継ぐ連投をした結果、肘や肩を痛めてしまったのですし、勝つためには、優秀な投手起用は避けられなかったと言うチーム事情もあったのですが、それを考えていなかった頃の連投が、稲尾和久の投手生命を縮めてしまったわけです。

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 今、大リーグで活躍中の大谷翔平も、これまで肘の手術を、二回もしています。稲尾時代には、手術など考えられない時代でしたから、医療による再生など思いもよらなかったことです。こう言った再起が良いのかどうか、今、私は考え中です。やはり、人間の肉体や精神には限界があります。そう言った選手たちを保護するためですが、それを考えずに、活躍を期待し、選手自身も、一度きりの人生を、最高にパホーマンスしたい気持ちは分かります。

 野球部のキャッチャーの次に、ボールの遠投の記録を持っていたのに、野球ではない、ハンドボールを私はしていました。でもその遠投のおかげで、肩を痛めてから、もう遠くには投げられなくなってしまいました。稲尾和久や大谷翔平、その他、志半ばで、怪我でマウンドを降りざるを得なかった多くの投手たちの気持ちが、少し理解できます。肩ばかりではなく、肘や膝や頭部などを痛めたスポーツ選手は、数限りなくおいでです。もし選手の健康管理が、適正になされていたら、もっとスポーツが楽しめたに違いありません。

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Gold nest egg concept for retirement savings and financial planning

 

 大人の世界の都合で、〈金の卵たち〉が、肉体的にも精神的にも社会的にも、損傷を与えられない科学的な配慮がなされて欲しいのです。激しい競争の中で、煽られた選手が、冷静に判断できないで、記録や収入や名声に踊らされて、お金儲けの世界で、消耗品のように、次から次と現れては消えていくような世界で、前途ある若い人たちが悲しむことがないように願ってやみません。

( 稲尾和久投手、漁船、iStockの金の卵です)

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久しぶりな事ごと

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 先日の外出の時に、三、四年ぶりになるでしょうか、「革靴」を履いてみたのです。普段、スニーカーがほとんどなのに、何とはなしに履いてみましたら、足元に重みを感じ、確かな靴音が聞こえ、キリリとした感じがしてきました。丸首のT shirt windbreaker でしたので、襟を正したくなるほどでしたが、けっきょく背筋だけを伸ばしてみたのです。

 父が黒革の靴を履いて、コツコツと音を立てて、家を出て出勤していく時の靴音が好きで、いつか履いてみたいと思っていたのです。学校を出て、黒い革靴を履くようになったら、やっぱり社会人の自覚が出てきたように感じていました。

 もう、Yshirtnecktieで、背広を着るようなことも、全くなくなってしまいました。華南の街で、若い二人の結婚式の司式の時には、一着だけ持って行った背広を着ましたが、あの時以来、帰国してから、ある教会にお招きいただき、着用して、それからは着ることがなくなってしまっています。それでも、一着だけ、収納扉の中に残してあり、もう締めることもないネクタイなんかは二十本もあるのです。でも白いY shirt も半袖しかないのは、まさかのときの用意不足でしょうか。

 また、説教に招かれることもなくなり、冠婚葬祭の機会も少なくなり、何だかナイナイづくしの今です。が、思い出は溢れるほどにあります。5年前に住み始めた街は、住み心地も、空気も、食べ物も、人も好くて、気に入っているのです。一昨日は、なぜか、私の故郷の街の工場で作られた、アップルパイとレーズンパンとヨーグルトをいただいて、故郷の味にひたりました。

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 すっかり秋風が吹き、味の味覚を味わえております。あの生まれ故郷特産で、長い栽培の歴史のある品種の「葡萄」も、もう出回っている頃でしょうか。それは、全国区の葡萄ではないので、食べる機会は、ほとんどないままです。そう言えば、それぞれの地の特産品には、そこで育った人には、格別な思い入れがあるのでしょう。

 そんな葡萄が食べたくなるのも、この季節に、食べたことを思い出すからでしょうか。毎年、葡萄好きだった父に、送られて来ていたのです。夏にはプラムが、暮れには母の故郷から、蕎麦と野焼き蒲鉾が送られて来て、二親の家から独立していった私たち子どもたちにも、毎年送っていただいていました。

故郷を、味覚で感じては思い出して、父や母を思い出し、兄たちや弟のことが気になる、もうたけなわの晩秋なのですが、やけに陽の光が強いのが気になります。

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明治の風を感じて

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 長野県や山梨県の様子は、よく知っていたのですが、今夏初めて、栃木県の県北の那須地方に、帰国中の長女の運転する車で、出かけてみました。家内の出た学校の恩師が開校した農業センターを見学したかったからでもあったのです。そこは緑があふれる農場に水田が広がって、自然農法の実践をされ、アジアやアフリカから研修生たちがおいででした。

 訪ねた地には、原野が変えられて、新しい世界が目の前に広がっていたのです。かつては、水利がなくて、茫茫たる扇状地で、原野であった那須野が原に、薩摩藩士だった三島通庸が注目をし、栃木県令になると、那須野が原の開墾に着手します。幹線道路の整備や農業用水や飲料水のための疏水敷設に事業を開始したのです。1885年に、那珂川からの疏水が完成すると、水利を得た原野は、見違えるほどに肥沃な原野に変えられていきました。

 その三島は、維新政府から貸し出された地に、欧米式の大農場を実験的に開拓し、三島農場を興します。それに倣って、ドイツの貴族地主の生活に憧れた、青木周蔵(長州藩出身)も、山林経営を主体とする青木農場を開設して行きます。その他にも、明治維新政府の要職にあった、明治の元勲たちは目を向けたのです。

 薩摩藩(大山巌も農場経営をし煉瓦造の別邸を設け、松方正義は千本松農場を設け、西郷従道も農場を経営してます)、長州藩(乃木希典は質素な別邸を作り、佐賀藩(佐野常民も農場経営をしています)、鍋島藩(藩主であった鍋島直大も農場開拓をしています)などの出身者たちは、欧化主義に思いを向けて、公務の傍ら、次々と大農場経営に力を注いでいったのです。

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 薩摩や長州では見られないような、おおきく広がる原野は、きっと魅力的だったのでしょう。しかも新政府のお膝元の東京には、道路整備をし、鉄道を敷設するなら距離的にも近かったこともあって、開拓に拍車がかかったようです。そして政務に追われる元勲たちの休暇を過ごす、別荘ができ上がっていき、皇室の御用邸も建設されていくのです。

 山中湖や富士市などに、欧米や北欧から宣教にやって来られた宣教師のみなさんの別荘がありました。一度だけ、兄が貸していただいた、その別荘を利用させていただいたことがありました。遠慮がちな、山小屋のような、祈りの家のようで、別荘といっても、明治の元勲たちの豪奢な別荘とは比べものになりませんでした。

 私たちの群れで開拓伝導をされた宣教師さんたちは、本国に帰ることも、極力少なくし、手紙でミッションレポートをすることもなく、淡々と宣教活動をされておいででした。借家の住宅兼礼拝所で育ったお子さんたちは、今は、それぞれに宣教の業に携わっておいでです。また私たちを導いてくださった宣教師さんは、水洗便所ではない家に住み、庭に子どもさんたちの部屋兼教室を増築して、そこで礼拝もしていました。

 娘が、那須でご馳走してくれたお昼は、格別でした。緑の木々や草花の中のレストランで、珍しく贅沢をさせてもらったのです。日常を離れ、都会を離れた那須の地に、吹き渡った明治の息吹に触れられた時でした。もう明治の遺産は、人手に渡り、公社などに替わり、ところどころに明治の建造物が残されていたのです。

 高台から眺めた那須野が原は、自然が溢れ、ちょっとヨーロッパの風景を感じさせるようで、先人の苦労を感じたのです。でも、冬季は寒いのだそうで、ここに住み始めても、長続きしないと、この地の出身の知人が言っておられました。

(「那須疏水」、那須野が原に咲く「クリスマス・ローズ」です)

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セグロセキレイ

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 秋風が吹き始めたからでしょうか、東側の窓の下の屋根の上で、きれいな囀りの声をした「セグロセキレイ」が、飛んでき、囀りの声がしていました。この鳥は、隣街の小山市の市指定の鳥とされていますから、ここ巴波川沿いのわが家でも見られるのでしょう。わが市の鳥は、鴨(かも)です。巴波川には、たくさんいて、最近は、綱手道の陽だまりに群れています。

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江戸切子

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 「ぎやまん」、「ビードロ」とか昔は言われたガラスですが、考古学で、三内丸山遺跡からは、ガラス球が出土されていて、ずいぶん古くから、わが国には、ガラス製品が珍重されていたようです。光を受けて神秘的に屈折するので、珍しがられてきたようです。

 先週、中高と6年間在籍した母校から、「江戸切子」が送られてきました。開校記念に、感謝を込めて協賛や感謝の気持ちを表したことへの贈り物なのです。江戸時代の後期に、加賀屋久兵衛が始めたガラス細工で、江戸の大伝馬町で始まったようです。

 何かを蒐集したりする趣味のない自分ですが、頂いてみると、ガラスへの切り込みが綺麗で、光が屈折して見ることができ、実に美しい物です。落として割らないようにしていますが、茶箪笥か、床の間か、高級品や飾り物の棚があったら、そこに収めるのがいいのでしょう。

 天然自然の草や花にばかり関心が向けられてきていますが、ガラス細工もいい物です。しばらく私たちの教会においでだった方が、鍛金(たんきん)をされていて、よく個展を開いておいでで、その案内をいただいていました。サンパウロ大学で美術を専攻された方で、銅板を叩いて、制作をしておいでなのです。

 この方のお父さまは、江戸の彫金の職人、芸術家でいらっしゃったようです。江戸文化は、いろいろな分野が盛んだったようで、伝統工芸が盛んな街だったのです。先週末、市立美術館で、浮世絵展をしていて、家内と出掛けてみました。江戸時代の爛熟した文化の一つで、享楽的なものばかりではなく、子どもたちへの教育の教材などがあって、子ども遊びや虫や魚などが、一枚の絵の中に描かれて、図鑑のようなものが見られ、新発見をしたのです。

 もう60年も前になりますが、横浜のデパートで、鏑木清方の個展があって、そこでの警備のアルバイトでしたことがありました。明治から昭和にかけての日本画家で、浮世絵師と俗ぽく呼べない作家でした。それでじっくりと、美人画を見る機会がありました。江戸の文化を引き継いだ作家で、健全な絵ばかりで安心したのです。

 日本人の器用さに、今更ながら驚かされています。中国から伝わった芸術を、より精密に受け継いで、工夫発展させている点で優れているのです。絵の描き方に、精緻さがあって驚くほどです。筆の乱れなどなく、驚くほどに描写力が優れているのです。そういえば、「芸術の秋」を迎えているのに気付いた次第です。

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とにかく遠くに行きたかった頃

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 「青春の讃歌」と呼べる歌が、私には三つほどあります。一つは、立川の日活の映画館で、裕次郎を観ました。「風速40メートル」と言う映画でした。あの時代に青春のシンボルなのでしょうか、カッコいい兄貴のような裕次郎の歌を、足を引きずりぎみにして歩きながら、口づさんだのです。1958年、生意気盛りの中学生だったでしょうか、作詞が友重 澄之介、作曲が、上原 賢六でした。

(セリフ)何だいありゃ
(
セリフ)何、風速40?アハハ

風が吹く吹くやけに吹きゃァがると
風に向って進みたくなるのサ

俺は行くぜ胸が鳴ってる
みんな飛んじゃエ 飛んじゃエ
俺は負けないぜ

(セリフ)おい風速40米が何だってんだい、
(
セリフ)エ、ふざけるんじゃねえよ

風が吹く吹くやけに吹きゃァがると
街に飛び出し 歌いたくなるのサ

俺は歌う 俺がうなると
風もうなるヨ 歌うヨ 俺に負けずにヨ

風が吹く吹くやけに吹きゃァがると
風と一緒に 飛んでゆきたいのサ

俺は雲さ 地獄の果てへ
ぶっちぎれてく ちぎれてく
それが 運命だョ

(セリフ)◯◯野郎、
(
セリフ)風速40米が何だいアハハ

 風速40メートルなんて、風の強さは想像することができませんでした。「太陽族」と呼ばれた湘南の若者たちの物語の映画音楽でした。父の生まれ故郷と目と鼻の先で、なんとなく馴染み深さを覚えていたようです。裕次郎が普段着の顔のようで、夏の海浜を思い出させてくれた歌でした。ちょっと捨てばちさが、十代には強烈だったかも知れません。

 2つは、作詞が永六輔、作曲が中村八大の「遠くへ行きたい」で、まるで不良少年のような感じのジェリー藤尾が、1962年に歌っていました。

知らない街を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい

知らない海を ながめてみたい
どこか遠くへ 行きたい

遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅

愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か幸せを

愛する人と 巡り逢いたい
どこか遠くへ 行きたい
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 とにかく、「現状打破」 、新しさへの憧れ、大人になりかけた年頃で、父の家を出て独立したいけど、父の援助なしでは、まだ生きてはいけない自分の未熟さがわかっていたのですが、とにかく「逃亡」とか「脱走」願望が強く、〈だれか〉との出会いたい思いが強かったのです。道への憧れの強かった頃の歌でした。

 3つは、作詞が伊野上のぼる、作曲がキダ・タロー、歌が北原謙二で、「ふるさとのはなしをしよう」でした。1965年に発表されていた「昭和の歌」です。

砂山に さわぐ潮風
かつお舟 はいる浜辺の
夕焼けが 海をいろどる
きみの知らない ぼくのふるさと
ふるさとの はなしをしよう

縁日の まちのともしび
下町の 夜が匂うよ
きみが生まれた きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう

今頃は 丘の畑に
桃の実が 赤くなるころ
遠い日の 夢の数々
ぼくは知りたい きみのふるさと
ふるさとの はなしをしよう

 自分にもあるふるさとの光景と、砂山の潮風、夜店のともしび、丘の畑の柿の実とは違いますが、木通(あけび)取りに、兄たちの跡を追って山の中に入って行って、実をもいだり、家の前の小川で泳ぐ魚を追う兄たちがいました。あの木通をもいだのを手にしたのか、家に帰って、米櫃の中に入れて、追熟して、ほのかに甘い果実を食べた味が忘れられません。どんな秋の味覚よりも、懐かしさからすると、それが秀逸なのです。だれにもあるふるさとの歌でした。

(“DANRO” からです)

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