注意を要する人がいる

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 「要注意人物」、中学生の頃、きっと学校ではそうだったのでしょう。それなのに処罰されずに、不問に付されたことが二、三度ありました。親は知っていたのに、そのことで叱られなかったのですが、それが、ちょっと不気味でした。昔の感化院(今では児童自立支援施設ですが)、そこにも行かないですみました。少年院だって、入院資格が十分だったのです。青年初期、思春時の危機を通っていたのです。

 中学校の3年間の担任が、三年の三学期の通知簿の欄に、『よく立ち直りました!』と書き込んでくれていました。教師の目に、そう見えたのでしょう。私立の中学でしたから、職員会議で、校名を汚したのですから、退学だってあり得たのに、附属の高校に上げてもらえました。何と、教員資格を取るための「教育実習」までさせてもらいました。その上に、古墳や貝塚の発掘の指導をしてくれ、一緒にシャベル作業をした社会科教師の紹介で、研究所に仕事を見付けてくださったのです。

 その研究所の所長の紹介で、都内の女子校の教師に採用されたのです。仕事を始めて間も無く、中学と高校が一緒だった級友が、〈みんなの代表〉だと言って、本当に教師をしているのかどうかを、菓子折りとお祝い金を持って、確かめに来たのです。職員室からやって来たのを見た彼が、目を真ん丸くして見ていました。

 牧師になった時、『そう、君もお母さんの道を行くんだね!』と中学校の担任が言ってくれました。母と同じ信仰を表明した私にだったのです。でも、もう同級生たちは、確かめには来ませんでした。中学を卒業する長男を連れて、また担任を訪ねたことがありました。長男を見た担任が開口一番、『君は大丈夫だね!』と言って、太鼓判を押していました。中学時代の私と比較したのでしょう。息子の手前、なんてことを言ってくれたんだと思いましたが、正直、そうでした。その息子が、後に牧師になったのです。

 自分が、その要注意人物だったので、世界では高い評価を受けた人の中に、〈要注意人物〉がいるのが分かるのです。変に鼻が効くのです。私は、シュバイツアーを評価しません。自分がへそ曲がりでもあるからでしょう。「密林の聖者」、「生命への畏敬」で有名になって、ノーベル平和賞まで受賞した人でした。この人は、代々のクリスチャンが信じてきている、イエスが「神の子」であることは信じていませんでした。「自由神学」の立場で、奇跡も復活も再臨も信じていなかったのです。医療についても倫理観についても問題があったと言われています。総じて、アフリカの人たちからは評判は芳しくなく、欧米諸国からの評価は高いのです。

 カルカッタの聖女だといわれ、同じ様にノーベル賞を受賞したマザー・テレサも、高評価の影にある、実像を知らされてしまい、説教の中で、この人を引き合いに出して評価したりは、私にはできないのです。この人は、『キリストの受難のように、貧しい者が苦しむ運命を受け入れるのは美しいものです。世界は彼らの苦しみから多くのものを得ています。』と言っています。キリストは苦しまれたのだから、同じように弱者や病者は苦しまなければならない、と言うのです。病気による痛みへの緩和治療も、衛生的な洗濯されたシーツも施設も、より良い薬の投与もありませんでした。

 莫大な募金がありながらも、そのお金を、収容者や施設の奉仕者の必要に使うことをせずに、口座に蓄えていたのだそうです。一緒に働いた方が、その証言しているのです。宣伝用に作り出された campaign  で、聖女とされた人でした。やはり実態が分からずに、一人歩きしてしまった人でした。

 アメリカの祝日に、「キング牧師記念日(1月第3月曜日)」があります。公民権運動で、アフリカ系の人々の地位向上のために立ち上がり、アメリカの社会を揺り動かした、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアでした。その行動の途中に、暴徒に暗殺されて、その生涯を終えています。でも彼には、scandal が知られています。公民権運動の勇者であったのは事実ですが、彼の生活に中に、ある道徳上、倫理上の問題があったと聞きました。それで私は引いてしまったのです。

 多くの本が、日本のキリスト関係出版社から出されています。ハーバード大学の教授であった人で、そこを退職した後に、知的に弱さを持つ方たちの「ラルシュ共同体」の奉仕に転身されたヘンリ・ナウエンの愛読者が多くあるそうです。素晴らしい洞察力をお持ちで、弱者に対する優しい気持ちを持って接していました。とくに「霊性の神学」の分野に通じておいででした。しかし、人生の後半で、自分が同性愛者であることを、著書の中で告白していることです。聖書的に見て、同性愛は受け入れられませんから、どんな思考、主張が優れていても、敬遠すべきだと判断するのです。

 このみなさんとは、お会いしたことも、直接お話を聞いたこともありません。でもこの人たちの神学的な問題、倫理的な問題、金銭上の問題があったり、偽善や秘密など、陰の部分があるなら、その影響力を受けないことにしています。小学生の頃、シュバイツアーは立派だと思っていました。カルカッタの貧民窟で、社会に弱者に支えていたテレサは偉いと思っていました。黒人の地位向上に命をかけたキングは勇敢だと思いました。ナウエンが著した「放蕩息子の帰郷」を読んだ時の印象は良かったのです。でもこの人たちの実態を知った時に、彼らからの感化を遠ざけました。

 神の御心から逸れた行いは、人や社会が、どんなに高く評価を下し、褒賞を与えても、聖書が言っている「愛」と「義」と「聖」とからかけ離れているのなら、近づくことは危険です。かつては、曖昧さや、不徹底さ、後ろめたさの中に、私がいたからです。その人を動機づけていたものが何か、それを見極める必要があります。

(一片の雲もない快晴の青空です)

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残された物の意味

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 すぐ上の兄と弟と弟の孫と4人で、東日本大震災の茨城の被災地に出掛けたことがありました。弟の教え子が経営する大きな観光旅館のある、「五浦(いずら)」の近辺を訪ねたのです。その旅館も、津波被害を受けていました。美しい広々とした海岸線は、夏には海水浴で賑わうと言う部落でしたが、2011年の大震災から3〜4年経っていたその辺りは、あの猛威の爪痕を、まだ生々しく残していました。

 その海岸部を北に行きますと、福島県に接した所に、「いわき市(磐城)」があります。地震と津波の被害で、いわき市は500人ほどの犠牲者があったそうです。福島は脚光を浴びましたが、ここいわき市も津波の被害を、大きく被った地でした。その海岸部に「豊間」と言う地があります。

 そこに「豊間中学校」があり、ここも大きな被害にあっています。2011311日に、「卒業式」が行われましてから、3時過ぎに、あの大地震に襲われ、津波警報が発令されたのです。生徒や教職員は高台に避難したそうです。十五の春の門出の式典で、校歌などを演奏したピアノがも塩水と泥を被ってしまい、式の行われた体育館のステージの段に置かれてありました。

 その体育館を、自衛隊のみなさんが、4日間をかけてきれいに掃除をし、床はピカピカにされていました。気掛かりだったのは、生き延びたピアノです。そのピアノは、お孫さんが通う同校の体育館が新築された時に、蒲鉾店を経営する方が、お祝いに寄贈されたものでした。津波の被害は大きかったのですが、その中で残されたピアノは、寄贈者の思いや残されたものの価値が認められ、修復が決意されたのです。

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 自衛隊の山口隊長も、「復興のシンボル」にするという意気込みで、体育館の中央に置きました。瓦礫として処分されるところを、震災から2週間後に、いわき市でピアノ店を営み、調律師でもある遠藤洋氏が修理をかって出たのです。誰が見ても修理不能のピアノを、修復チーム6人の作業で、一万個ものparts が修理され、半年後ついにピアノの音はよみがえったのです。

 その翌年3月、豊間中学校の生徒が学ぶ仮校舎では、 新しく卒業生を送り出すために、卒業式が行われ、校歌と「未来へ」という曲がこのピアノの伴奏で弾かれたのです。うしなった物はおおかったのですが、残された物に思いを向けるのは、私たちの人生に似ていそうです。

 今、《ピアノを弾こう!》と言う campaign があちこちであるようです。わが栃木市の栃木駅(JR両毛線、東武日光線)のコンコースに、一台のピアノが置かれてあります。先ごろ閉校し、第一中と合併した市立藤岡第二中学校のグランドピアノなのでです。卒業生には懐かしい一台です。家内は、『この街に主への賛美を響かせたい!』と、楽譜を持って、時々駅まで歩いて行って弾いています。

(被災後の「豊間中学校」と「奇跡のピアノ」です)

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近所付き合いを

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 私は、「世捨て人」ではありません。25から、真剣に聖書を読み始めて、神さまは、この世に呑み込まれないで生きる様にと導かれ、自分でも目標を掲げました。

 それ以前は、押し寄せてくる誘惑を払い切れずに失敗者になってしまいました。そんな轍(わだち)からなかなか抜け出せずに、自己嫌悪の中にいたのです。上手く言い訳をしながら誘惑の中にいる生き方を、それでもやめたかったのです。それで、あるきっかけがあって、この自分の周りにある世界の日陰から、日向に跳び出せた様に感じたのです。

 妥協することなどしないで、「肉の欲、目の欲、暮らしむきの自慢(1ヨハネ21516節)」に誘惑されない秘訣を獲得できたのです。それは、第三位格の神でいらっしゃる、「助け主」という別名を持たれる「聖霊」に助けられたのに違いありません。それで浮き上がらない生き方ができる様にされたのです。それは驚くべき体験でした。

 世から、世の誘惑から抜け出られたのですが、世は捨てませんでした。そこには愛する人、よくしてくださる人、懐かしく感じる人が大勢いらっしゃるからです。一緒に酩酊することも、猥談や噂話の仲間にはなりませんが、彼らの近くにいることにしています。


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 引っ越して四年、江戸、明治、大正、昭和、平成、令和と連綿と続く、この地域の隣り組、自治会のみなさんがいて、今やこの自治会の「福寿会」の会員、仲間になっているのです。一緒に蕎麦を食べに行きますし、老人の日には祝金一封と赤飯をいただき、先月には山間(やまあい)の蕎麦店に行き新蕎麦を食べ、ラジオ体操会に参加し、この日曜日には、礼拝を守った後、午後には、「カラオケ交流会」に誘われて、「Amazing Grace」と「Holy Night」を家内と二人で賛美し、みなさんから喝采を受けました。

 孤立してしまわないように心掛けているのです。ミシン屋さんで電気も扱う、九十二歳になられる会長さんが、「愛燦燦(美空ひばり歌唱曲)」を、シミジミと若い頃を思い出すかの様に、マイク片手で俯きながら歌っていました。とても素敵な風景だったのです。お病気の奥様を支えながら、現役で車まで運転されて働いておいでだそうです。

 この方とお会いし交れるだけでも、何か意味のある時を共有できた感じがして満足しています。自分たちの生き方、信仰を明らかにしていると、みんさんに受け入れられているのかも知れません。婦人会の忘年会にも、家内は招かれて、出席するそうです。

(「室」と印字された提灯、近所に咲く花、夕焼けで富士も見えます)

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事故のないことを切に願って

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 華南の街で、『もうすぐだから!』と言うので、付いて行きますと、なんと小一時間もかかって、目的地の親戚の家に着いたのです。『ちょっと山歩きを!』と誘われて一緒に出かけたのはいいのですが、険しい谷をおり、谷を鉄製の階段で上がる、けっこうな難コースでした。時間感覚、距離感覚、さらには年齢感覚というのは、国や地域によって違う様です。六十を出たばかりで中国に行きましたら、『爷爷yeye/お爺さん』と言われて、あたりを見回しました。まあけっこうお爺さんでしたが。

 帰国して、75を過ぎると、後期高齢者だと市役所から連絡がありました。お陰様で、保険の自己負担は一割、市内のバスも一律100円、恩典を被って、東奔西走の日々です。

 やはり高齢者は、年寄りなのでしょうか。先日、福島市の97歳の方の運転で、死亡事故が起こってしまいました。地方で生活し始めて、一番の不便は、交通です。何処かに行くにも、バス離線は縮小されていますし、「ふれあいバス」も路線はけっこうありますが、本数が少なく、利用者は極少です。またタクシーは金額が高く、「蔵タク(相乗りタクシー)」がありますが、時間通りには来てくれないそうです。

 歩くには関節や腰が痛く、自転車に乗るとよろけてしまう方が多そうです。とかく世間は、年寄りには住みにくくなってしまった様です。それで、自分よりも年寄り度の高そうなご婦人が、おぼつかなく歩いて車に行き、ドアーを開いて、乗って運転を始めて去っていきます。

 足がないので、若い頃に取得した免許証を持ち続けておいでなのです。視力や判断力、認知機能の衰えには個人差がありますし、病気の程度もいろいろです。今の道交法は、運転免許更新時に、70歳以上は講習、75歳以上は認知機能検査を義務化しているのですが、3年ないしは4年ごとにしか確認できないのだそうです。

 通院、買い物、親戚付き合いなど、どうしても自分で運転していくのが便利なのです。かくいう私は、60過ぎて、華南の街に住み続けて、車を運転する機会がありませんでした。帰国時に、13年間で3回ほどしか運転していませんでした。それで、免許の更新をせずに、運転を止めました。一番の理由は、『加害者にならないため!』でした。

 そうしましたら、家内の通院が大変難儀でしたが、慣れると、電車だって、バスだって便利で、もう何でもなくなります。でも雨や嵐の時には、『あったらなあ!」と弱音を吐いてしまいます。日光例幣使街道を、散歩で歩いて感じるのですが、江戸時代には、京都からここを通過して日光までの往復を、二本足で歩くだけでしたから、それを思えば、自転車はあるし、たまには人に乗せてもらえます。

 タクシー代を払う方が、また知人にお願いする方が、取り返しにつかない大事故を起こしてしまって、後で悔やむよりはよいのです。潔く、免許証の返納をしてしまう方が良いのでしょう。加齢も、咄嗟の反応が遅くなったことも、感謝感謝で生きることですね。ハイ!

(日光例幣使街道を行く公家の一行です)

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麗しさはいつわり

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 見目かたちがよく、最近では肌や歯が綺麗なことが宣伝され、美しさの標準になっています。でも、みんな歳を重ねていくと、ちょっとやそっとではシミなんか取り除けなくなってしまい、歯だって入れ歯になったり、背も縮むし、みんなおばあさんとおじいさんになり、最終は骨だけにされます。

 大切なのは「心」です。お金をかけて得た加工された美貌は、元に戻ってしまいます。何十年も前に注入したシリコンが劣化して、美顔崩壊が起こり得ます。natural が一番、ちょっと歯が出てても愛嬌ですし、シミだって年輪のひとつですから仕方ないのです。背の高さだってキリンの横に立ったら誇れませんし、低かったら低地からの展望もまたいいものです。

 青年期に、驚き見入ったソフィアローレンとかエリザベス・テーラーとかオードリーヌ・ヘップバーンは、ミロのビーナスの彫刻のように美しかったのです。ところが、晩年になっての写真は、あの美しさは見る影もなく普通のおばあちゃんでした。男も同じです。

 ありのままが一番、歳なりの美や格好よさがあります。毛が薄くなってしまって、ちょっと、頂上付近が光り出してきても、いいおばあちゃん、いいおじいちゃんが、多勢います。かく言うオレだって、まだ捨てたものじゃあないのだと思っています。

 聖書は、『麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。 (箴言3130節)』と言っています。

 まさに至言ではないでしょうか。イエスさまの弟子であったペテロが書き送った手紙にも、次のように記されています。『あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。 1ペテロ334節)』、とです。

 「美しさ」、「強さ」、「優秀さ」を追い求めていくと、そうでない者が排除されてしまいます。でも、「弱い者」、「欠けた者」、「傷ついた者」に、愛や憐れみを向けておられる神さまは、誇らず、卑下せず、ありのままを感謝していくことを、私たちに願っておいでです。

 反神のナチスが、1936年に、〈レーベンスボルン(生命の泉)〉と言う政策を始めています。強く、美しい優秀なドイツ人から成る国家を形成するためでした。「アーリア人(ゲルマン人)」の人種的特徴(金髪・青い目・長身)を身に付けたナチス親衛隊員と、同じ特徴を持つ女性とを結びつけ、できるだけ多くの子どもを生ませ、それを将来のエリートとすることを目的として作られた、ナチス的な人種政策でした。

 ヒットラーの参謀のヒムラーの「超人種アーリア人」の妄想が原点です。ですから当時は、障害を持つ者、見劣りにする人を国には不要だとして抹殺されたのです。これによって生まれた子どもの多くは、1944年の段階で、推定40,000人ほどで、ほとんどが「私生児」だったそうです。あのナチスでも、このことを公然とは行わないで、秘密裏に行っていました。建国を目指した「第三帝国」に、優秀な人材を人為的に生み出そうとしたわけです。

 ナチスは、最も理想的なアーリア人として、ポーランド人に目をつけ、金髪碧眼のポーランド人の子を誘拐することもしたのです。でも、首謀者のヒットラーは自殺し、ナチスも、第三帝国も崩壊してしまいます。残された〈レーベンスボルンの子〉たちは、存在の意味をなくしてしまったわけです。私と同世代の彼らは、戦後をどう生きたのでしょうか。

 たくさんの悲劇がありました。社会に適応できない子どもたちが多かったのです。その一人、イングリッドについて次のように語られています。

 『「わたしはイングリット・フォン・エールハーフェンです。自分のことは、名前以外はまったく知りません」、自己紹介でこんな言葉を言わざるを得なかった彼女が味わった絶望の深淵は計り知れない。わたしならそのどん底でもだえ苦しんだ挙げ句に生きる活力を失ってしまうだろう。しかしイングリットは同じ境遇の仲間たちを得て、空疎な穴から見事這い上がった。それどころか最終的には、自分を無の存在にしてしまった(ナチス以外の)人々すら赦す。あまり愛していなかった幼い自分と弟のディトマールを危険を顧みずにソ連占領地域から連れ出してくれた養母ギーゼラのことを、イングリットは〝この上もなく勇敢な人〟と呼んだ。しかしそのギーゼラによって失われてしまった本当の自分を取り戻すべく、それこそ〝魂の命〟を落としかねない危険な旅路に敢えて出て生還し、ものの見事に本当の自分を見つけたイングリットも、ギーゼラ以上に勇敢で強い女性だ。』と告白しています。

(レーベンスボルンの少女たちです)

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大分県

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 同級生が、大分県の別府の街の出身で、『温泉がいいぞ!』と言うのを聞かされた私は、その街の温泉に入ろうと寄ったのが、19の夏でした。そうなんです、ここ大分県は「温泉県」と言える様です。それから何年も何年も経って、四国の愛媛県の八幡浜からフェリーで、この別府に上陸して、九州を縦貫して熊本を訪ねたことがありました。 

 関門海峡を国鉄の列車で、九州に入るだけではなく、海路をたどって上陸することもでき、もちろん空路も可能でした。旅の趣きで、いちばん面白いのは船ではないでしょうか。でも、もっとも原初的は方法は、地面の上を歩くことに違いありません。また車や列車で移動することができます。その船、そして飛行機です。
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 たしかに福岡や熊本や長崎や鹿児島は脚光を浴びていますが、大分は、ちょっと遠慮がちの九州の一つの県でしょうか。この県で有名なのは、「青の洞門」ではないでしょうか。菊池寛の作品で、「恩讐の彼方に」に出てくる、仏僧の禅海が、かつては難所で遭難者が多かった邪馬渓(中津市)で、ノミと槌だけを使って岩壁を掘ったのです。なんと30年もの歳月を経て、元和元年(1764年)に貫通させています。

 この大分は、狭い地形の中に、開墾した田圃が多かったことから、「多き田」と呼ばれていたのだったそうで、それが転じて「おおいた(大分)」と呼ばれるようになったと言うのが、県名の由来だそうです。律令制下では、筑前国の一部とこの地を「豊国(とよのくに)」と呼ばれていて、豊前国(ぶぜんのくに)、豊後国(ぶんごのくに)の二国だったのです。

 

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 戦国時代は、大友氏の所領であったのですが、江戸時代には、中津、杵築(きねず)、日出(ひじ)、府内(大分)、臼杵(うすき)、佐伯、岡(竹田)、森(玖珠/くす)の八藩が分立していました。この他に、日田(ひた)は、幕府の直轄領でした。現在の人口は人110万強、県都は大分市、県花と県木は豊後梅、県鳥はメジロです。産業形態では、農業生産がめざましいものがあります。

 華南の街の日系企業の社長をされていた方の奥様が、日田の出身で、先日も、『故郷から〈かぼす〉が送られてきたので!』と言われて、お裾分けしてくれました。このご夫妻は帰国されて以来、今に至るまでお付き合いがあります。水産業も、工業も盛んな県なのです。

 慶應義塾を始めた福沢諭吉は、中津市(中津藩)の出身です。大阪の藩の屋敷に、下級武士の子として生まれますが、父親は儒学者でもあった様です。その父親が、諭吉一才の時に死去後、中津に戻り、やはり学問を好んだ人で、長崎にも出掛けています。遣欧使節の一員として出掛けた経験から、『天は人の上に人をつくらず・・・と云へり。』で有名な、「学問のすすめ」を著しています。
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 私の青年期に出会った女性が、日田の出身で、福岡のとある協会で働いていました。九州弁の訛りがあって、まさに日田美人でした。背が高くて、実に素敵な方でした。上の兄のいた街に一緒に行き、その後に、太宰府を案内してもらい、出張を終えた時を過ごしたのです。歌の歌詞にあったように、『指も触れずに』、別れて帰京したのです。旅の若者は23歳ほどでした。

 あの後、しばらくしてこの方が上京して来たのです。弱冠の私でしたし、まだ結婚は考えられませんでしたので、会えば、そんな話が出そうで、奥手の私は、そのままにしてしまったのです。何通か便りを受け取ったのですが、返事もせず仕舞いでした。ちょっと後ろめたい思いもあったのですが、諦めてもらうしかなかったのです。そんなことがあった二十代前半で、ほろ苦い青年期の思い出の一つです。

 家内と結婚してから、由布院(湯布院)に出掛けたことがありました。熊本で、牧師会が開かれて、そこに参加の途次でした。その湯布院に、知人のお父さまの湯治用の家があって、右肩の腱板断裂の怪我をして、手術後にリハビリをしていた頃でしたので、1週間ほど、その家をお借りしたことがありました。大きな湯船に、温泉供給の栓を開いて温泉を入れて、実に快適な1週間でした。必要な物を近くのお店で買い求め、台所で調理をしてもらいながら、湯布院の湯は快適でした。温泉街を散歩したのですが、のんびりとした湯治場で、よく見られるケバケバしさは見られませんでした。

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 そんなことで、大分県は、けっこう身近に感じられているのです。いただいた、日本一の生産量を誇る「かぼす」が、まだ冷蔵庫に残っているでしょうか。香りが高く、味も良くて、サラダや、揚げた魚にかけて食べるのです。時々、日田名物の和菓子、羊羹をいただくのですが、ことのほか美味しいのは、懐かしい、ちょっと申し訳のない思い出があるからなのでしょうか。

 一昨日、19の夏の九州旅行を一緒にし、別府の温泉にも一緒に入った友人のご夫人から、彼の訃報が届きました。カバンを持って校門で待っていてくれて、一緒に帰った友でした。お父さんが、Tailor をされていて、何着かの背広を作ってもらったことがありました。国文科に進学して、中学校の国語教師を勤め上げたのです。退職後は、あちらこちらへの旅行先から、よく版画絵を擦り込んだハガキをもらいました。もう仲間や友人が亡くなってしまう年代になったと言うことでしょうか。

 旅先のことも、一緒に時を過ごしたことも、遠い昔のことですが、学友、遊び友だちがいなくなると、さらに思い出が遠のいてしまったようです。人生には、「至る處青山あり」だと言われてワクワクしていたのに、青山は紅葉に変わり、やがて落葉してしまいます。でも、木々の葉が落ちると、すぐに、来季の芽吹きの準備に入るのは、自然界の驚異です。
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 人は再生の命ではなく、「新生のいのち」に預かることができると、いのちの付与者である創造主が、私の若い日に、聖書で語ってくれました。

 『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ316節)』

 友人の他界と、大分とは関係なさそうですが、一緒に温泉につかった懐かしいことも、楽しかったことも、過去へ追い返されてしまいますが、私の前には、「永遠」があるのだと確信しながら、人生の旅を締めっくくる準備、「収活」をすることにしましょう。

(豊後梅、大分全図イラスト、青の洞門、カボス、由布岳、別府です)

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ひもじかった頃のこと

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 芋をかじって、食糧難の戦後を、生きていた人がほとんどだったのです。その芋でさえ食べずに、餓死してしまった裁判官がいたと、小学校の授業で聞いたことがありました。闇で違法に入手ずる食糧に、手を出さない遵法者だったからでした。

 そんな状況下で、1949年(昭和24年)8月に、ロスアンゼルスで「全米選手権」の水泳競技会が開かれました。そこに招待されたのが、古橋廣之進でした。400m自由形で4333800m自由形で93351500m自由形で18190の世界新記録を出したのです。アメリカの新聞は、《The Flying Fish of Fujiyama(フジヤマのトビウオ)》と言って、称賛しています。

 敗戦後の日本は、戦争責任を取らされて、国際水泳連盟から除名されていたのですが、国際水泳連盟に復帰した直後のことでした。この快挙ほど、敗戦国日本を沸かせた出来事は、他にありませんでした。浜松の出身で、日本大学の学生だった古橋は、誰もがひもじさを味わっていた時でしたから、「サツマイモ」で作り上げた記録、まさに《戦後の英雄》であったのです。古橋、二十歳の時でした。

 

 年齢的にピークを越えていた古橋は、ヘルシンキで行われたオリンピックでは、期待されながらも勝てませんでした。でも、まだスポーツの世界は、健全さが保たれていた時代だったのでしょう。今日日のオリンピックが、本来のオリンピック精神から逸脱してしまって、莫大なお金の動く〈 Business chance 〉になってしまった今とは、違っていました。

 そういえばスポーツ界が、才能や努力の時代から、名コーチや名門クラブで、専門的なトレーニングを受けなければ勝てない時代になってしまったと言われています。例えば、高校野球の名門校の選手は、中学校の野球部の出身者は少なく、ほとんどの選手が、名門クラブに所属しているのには、驚かされます。

 テニスにしろ、水泳にしろ、サッカーにしろ、学校スポーツでは名選手にはなりにくい時代になってしまったのは、スポーツが、Business になっていて、まだ十代の若者が、金を産む卵になって、億単位の契約金がもらえるのですから、これまた驚きです。

 もう純粋な意味でのスポーツが、心身の鍛錬の機会を見失ってしまっている現今の様子は、スポーツをかじった私には悲しかったり、また寂しく感じてなりません。選手が、お金を使って作り出されていき、まるでスポーツの robot のように思えてなりません。いい時代なのでしょうか。裕福でなけてば、ある大きな犠牲を払わなれば、スター選手は生まれないのでしょうか。Technic を持った人造的、人工的な学者だって、医者だって、公務員だって生まれてきそうです。いや生まれてるのでしょう。

 こう言うのは、年寄りの懐古主義や、はたまた、ひがみなのかも知れません。または、お金に縁のない者の負け惜しみでしょうか。でも事足りている今に、感謝しなければなりません。お昼に薩摩芋を食べているせいでしょうか、そんな思いがしてきました。あっ、「ひもじい」とは「空腹」を意味する言葉でした。

(古橋廣之進へのインタビューです)

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かくの如き信仰者が

 

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 どう生きたのか、同じような絶対主義下の時代にあって、基督者として信仰を守るか、信仰を曲げるか、それを迫られたのです。国家権力を恐れて、国が国民に求めた「日本人」として生きるか、聖書に従って「クリスチャン」として「信仰」を全うするかを突き付けられた時代がありました。

 そのような時代の動きを掘り返した本が、同志社大学から、昭和43年に、「戦時下抵抗の研究(みすず書房刊)」と題して刊行されています。その中には「無教会」があり、改革派、プリマス・ブレズレン、きよめ派、美濃ミッション、個人として抵抗した「森派(森勝四郎に始まる群れで後に〈耶蘇基督之新約教会》」の後継者の野中一魯男(いちろう)、寺尾喜七らがいました。

 その「踏絵」を踏まずに、生きる窮屈さ、孤立化、非国民と言われ、仕事も名誉も時間も失っても、潔く信仰に生きることを選び取った一人が寺尾喜七でした。この方の選び取りや生き方に、二十一世紀に生きる私は、思いを引き付けられたままでおります。

 この寺尾喜七への「尋問聴取」が残されていて、その記録を読んで驚かされているのです。寺尾が「国体」に反して、自分の信仰を貫いたのを、私は、「沈黙(遠藤周作著)」に出てくる〈キチジロー〉や、戦時下の賀川豊彦と比較してみたのです。〈井上筑後守〉や〈特高警察〉の取調べや拷問や脅しの怖さの中で震えて、踏み絵を踏んでしまうキチジローたち、そして江戸で改名させられて幕府の監視の元を生き続けたロドリゴ、彼らとは違って、転ばずに海浜の十字架で溺れて刑死していく《モキチ》たち、信仰を守り通すか、棄教しても生きて、できれば告解して悔い改めるか、彼らの心の動きを思い出しています。

 大学の教職を追われた方との交わりが、かつてありました。学生のみなさんに福音を語ったと言う違法で失職してしまったのです。未公認の群れの指導者となっている、隣り街の集いに呼ばれたことがありました。失ったものは大きかったのですが、得た立場を、教会の主から頂いて喜んでいた、この方の生き方が強烈に輝いていました。

 以前なら、この方は収容所行きだったのでしょうけど、職や教授の立場を奪われただけでした。また、もう40年近く前に訪ねた街に、主に従ったが故に、13年も収容所で過ごした方の導いておいでの群れを訪ねたことがありました。タクシーを二、三度乗り継いでの訪問でした。溢れる様な人の中で、証しさせていただいたのです。再び収容所送りになることを恐れずに、群れのお世話をされ続けておいででした。筋金入りの伝道者でした。

 「キリストの福音」に仕える決心の強さを持たれる方が、迫害が強くなれば強くなるにつれ、主に仕える生き方に留まり続けるのを見てきました。初代教会に、ヨハネに学び従ったポリュカルポスと言う人がいました。キリストか火あぶり刑かのニ者択一を迫られて、『これまでよくしてくださったキリストを捨てることはできません!』と言って、殉教を選びとった人がいました。

 恐れずに、キリストの教会に仕え続けること、例え命を奪われても、職や人権や権利を奪われても、《教会の主》に忠実であり続けたみなさんの様に、この私は、果たして生きていけるでしょうか。国は、再び絶対的国家になったり、強権行使の政府が誕生したり、世界には、世界統一政府が国々を支配し、隣国が侵略して吸収していくのでしょうか。

 聖書は、終わりの日の困難さに触れています。北からの軍隊、連合軍が、エルサレムに侵攻してくること、驚くほどの力を持って世界を支配する者の台頭があること、キリストでもあるかの様な支配者が出て、世界の難問を解決していくのかも知れません。この者が世界中で崇められ、礼拝される日がくることでしょう。不法の者の出現が間も無くあるかも知れません。

 『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。 (イザヤ411320節)』

 『恐れるな!』と、聖書は繰り返しています。王の王、主の主であるイエスさまが、天の万軍を引き連れて、この地を統治される日が定まっているのです。私も、『マラナ・タ μαράνα θά. –Maranatha 主よ来りませ/ 1コリント1622節)!』と言って、おいでをお待ちしていましょう。

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「る」語

 最近、「辞書に載らない日本語(北原保雄編著、大修館書店2012年刊)」を手に入れて、ニヤニヤしながら読んでいるところです。

 例えば、「る」を語尾にした動詞が出てきます。

 「姉る」 [態度やしぐさ、口調などに威厳があり、同年の人に対して歳上の様に振る舞う。『あの人かなり姉ってるよね』

 ☆わが家は、〈姉さん女房〉ですから、時々、姉っていることが、たしかに見られました。

 「釜る」  家族揃って食事をする。『週末は必ず釜る。』※「同じ釜の飯を食う」から。

 ☆もう釜ることがなくなってしまった〈空の巣〉ですが、時々訪ねてくる方と、一緒にテーブルを囲むのを、〈テーブルる〉と言ってもいいでしょうか。

 「網る」  インターネットを使って調べる。買い物をする。『それなら網ったほうが早いよ。』、「ネッピング(ネット+ショッピング)」。

 ☆翌日配送が時々あります。でも買い過ぎてしまうので注意しないといけません。

 「ドミる」  怒られている人のトバッチリが周囲に波及する。『あいつが掃除をサボったせいで、先生の怒りが、こっちまでドミってきたよ。』※ ドミノ倒しから。

 ☆世界が、ロシア(プーチン)のせいで、ドミっているのが現状ですね。

 「イキる」  〈いきり立つ〉の略。怒って興奮すること。『たかしはイキって枝を折った。』

 ☆若い頃は、たしかにイキることが多かったのですが、正直に告白しますと、今でも時々、イキるのです。困ったものです。歳をとると、そう言った傾向もありそうです。

 「みんなぼっち」   友人同士でかたまっていても、本当はみんな独りぼっちであるという。   

 ☆そう言えば、集団の中で、人と人とのつながりが求められないで、関係づくりが避けられている時代の様です。ひとりぼっちよりも、「みんなぼっち」のほうが寂しそうです。

 「菅ばる」  〈的外れな頑張りを見せる〉。民主党の菅直人氏が、首相をしていた時に、東電の役員や部長に対して怒鳴って接していたことがありました。権威の濫用に見えましたが、そんな行為を、そう言ったのでしょうか。

 ☆そうすると、「森ばる」 とか、ウクライナを侵略する「プーチンばる」、80になっても「バイデンばる」なんかもよさそうですね。ロケットやミサイルをメッタやたらと打ち上げるのを「金ばる」でしょうか。

 ✳︎ そこで「爺(じじ)る」はどうでしょうか。白髪が目立ってきたり、年をとってきて足腰が痛くなったり、躓いたり、ひっくり返ったり、こぼしたり、チビったり、そんなソソウが多くなってきているので、〈爺る〉この頃です。

 「鬱る」  コロナ禍、物価高騰、恐怖や不安が人の心をとらえています。

 ☆どうも一億総鬱病の時代を迎えた様な感がしてきました。首都圏の電車の人身事故も急増して、電車運行の遅延の知らせが増えています。

 そうですね、もう「がんばる」も「つっぱる」もない年齢になってしまい、「ひきこもる」ことのないように、チョクチョク外に出かけています。そろそろ「さむがる」になりそうです。

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ふるさとを想う

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 作詞が山口洋子、作曲が平尾昌晃の「ふるさと」を耳にしたのは、長男が産まれた翌年の1973年でした。私のふるさとに、宣教師のお供で帰って来ていました。私が産まれたのは、後に町村合併した山深い村だったのです。

祭りも近いと 汽笛は呼ぶが
荒いざらしの Gパンひとつ
白い花咲く 故郷が
日暮りゃ恋しく なるばかり

小川のせせらぎ 帰りの道で
妹ととりあった 赤い野苺
緑の谷間 なだらかに
仔馬は集い 鳥はなく

あー 誰にも 故郷がある
故郷がある

お嫁にゆかずに あなたのことを
待っていますと 優しい便り
隣の村でも いまごろは
杏の花の まっさかり

赤いネオンの 空見上げれば
月の光が はるかに遠い
風に吹かれりゃ しみじみと
想い出します 囲炉裏ばた

あー 誰にも 故郷がある
故郷がある

 兄たちが八十代、弟と私が七十代後半、父が召されたのが六十一歳でしたから、《これからの親孝行》ができずに、父を天の御国に送ってしまいました。ゲンコツをもらい、小遣いをもらい、restaurant に連れて行ってもらった子どもの頃、長じてから教育を受けさせてもらい、財産は、小さな家を残しただけの人で、太く短い一生でした。

 でも、父の大きさ、何でも知ってる、恰幅やカッコのよさ、教育を受けさせてくれたことなどは、子どもの私の誇りでした。故郷は、やはり、人を抜きにしては語れないのではないでしょうか。大平山を越え、群馬の赤城山、埼玉の秩父山地、信州に連なる山また山を越えたあたりに、私の生まれた山村があるのです。

 石英採掘の仕事を任されて、山形からでしょうか、軍命で転勤になったのでしょう、三十代初めに赴いた地で、私と弟が生まれました。父の仕事に関わった方でしょうか、父だけではなく、私の名前を覚えていた方と、その村の宿泊施設で、偶然会って、あちらも、こちらも驚いて見つめ合ったことがありました。

 自分を覚えていた方がいたら、そこが故郷なのでしょうけど、父の世代の方でしたから、もうとうにお亡くなりになっていらっしゃることで、縁者は皆無です。とすると、小学校時代を過ごした街こそが、「ふるさと」と呼べるのでしょうか。ウサギを追ったことはありませんが、ヤマメの魚影を見たり、ハヤを捕まえたり、トンボやホタルを追ったりしたことも、栗やイチゴやイチジクやドドメ(桑の実)を積んだこともあります。

 夕日を見たり、墜落した米軍機の破片を見付けて持ち帰ったり、怖い場面を見たり、祭りの囃子に誘われて、小屋掛のチャンバラ劇の舞台を見たり、カンテラの灯りのもとでヨウヨウをつり落としたり、綿飴を買って頬張ったり、たい焼きを買ったりしたのです。

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 街のおじさんたちの仕事っぷりを眺めたり、桶屋のヒノキのカンナっくずに鼻を当ててかいだり、電車の踏切の遮断器の上げ下げに手をそわせてもらったり、保線区の工具を触ったり、バタ屋のおじさんの手伝いで小川に入って鉄屑を拾ったりしました。かくれんぼ、鬼ゴッっこ、宝島、馬乗り、馬跳び、メンコ、ベー駒、三角ベース野球、防空壕跡の探検、貝塚で土器の破片や鏃を拾ったりしたのです。

 遠ざかっていく様で、寂しい思いがありますが、《永遠のふるさと》が、私にはあるのです。

 『しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 (ヘブル1116節)』

 ペンネーム「寄留者」の私にとって、ここへの帰郷こそが、私の旅の終点です。セピア色になり、うすはかなくなった地上のふるさとは見えなくなりますが、この私を迎えてくれる「永遠の都」が待っていてくれます。ここへの憧れに浸る今なのです。

(石英の原石です)

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