華南の街で、『もうすぐだから!』と言うので、付いて行きますと、なんと小一時間もかかって、目的地の親戚の家に着いたのです。『ちょっと山歩きを!』と誘われて一緒に出かけたのはいいのですが、険しい谷をおり、谷を鉄製の階段で上がる、けっこうな難コースでした。時間感覚、距離感覚、さらには年齢感覚というのは、国や地域によって違う様です。六十を出たばかりで中国に行きましたら、『爷爷yeye/お爺さん』と言われて、あたりを見回しました。まあけっこうお爺さんでしたが。
帰国して、75を過ぎると、後期高齢者だと市役所から連絡がありました。お陰様で、保険の自己負担は一割、市内のバスも一律100円、恩典を被って、東奔西走の日々です。
やはり高齢者は、年寄りなのでしょうか。先日、福島市の97歳の方の運転で、死亡事故が起こってしまいました。地方で生活し始めて、一番の不便は、交通です。何処かに行くにも、バス離線は縮小されていますし、「ふれあいバス」も路線はけっこうありますが、本数が少なく、利用者は極少です。またタクシーは金額が高く、「蔵タク(相乗りタクシー)」がありますが、時間通りには来てくれないそうです。
歩くには関節や腰が痛く、自転車に乗るとよろけてしまう方が多そうです。とかく世間は、年寄りには住みにくくなってしまった様です。それで、自分よりも年寄り度の高そうなご婦人が、おぼつかなく歩いて車に行き、ドアーを開いて、乗って運転を始めて去っていきます。
足がないので、若い頃に取得した免許証を持ち続けておいでなのです。視力や判断力、認知機能の衰えには個人差がありますし、病気の程度もいろいろです。今の道交法は、運転免許更新時に、70歳以上は講習、75歳以上は認知機能検査を義務化しているのですが、3年ないしは4年ごとにしか確認できないのだそうです。
通院、買い物、親戚付き合いなど、どうしても自分で運転していくのが便利なのです。かくいう私は、60過ぎて、華南の街に住み続けて、車を運転する機会がありませんでした。帰国時に、13年間で3回ほどしか運転していませんでした。それで、免許の更新をせずに、運転を止めました。一番の理由は、『加害者にならないため!』でした。
そうしましたら、家内の通院が大変難儀でしたが、慣れると、電車だって、バスだって便利で、もう何でもなくなります。でも雨や嵐の時には、『あったらなあ!」と弱音を吐いてしまいます。日光例幣使街道を、散歩で歩いて感じるのですが、江戸時代には、京都からここを通過して日光までの往復を、二本足で歩くだけでしたから、それを思えば、自転車はあるし、たまには人に乗せてもらえます。
タクシー代を払う方が、また知人にお願いする方が、取り返しにつかない大事故を起こしてしまって、後で悔やむよりはよいのです。潔く、免許証の返納をしてしまう方が良いのでしょう。加齢も、咄嗟の反応が遅くなったことも、感謝感謝で生きることですね。ハイ!
(日光例幣使街道を行く公家の一行です)
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