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先週、近くのスーパーの果物売り場で、「柿」を見つけました。早速買ってみたのです。美味しいかどうかは、食べてみないと分からないので、二個ほど買って食べてみました。以前、たくさん買って帰ってきて、皮をむいて食べたら、渋かったことがあったので、ちょっと警戒して慎重だったのです。食べましたら、何と、日本にいる時、この季節に食べていた「富有柿」と同じ歯応えと甘みがあるではありませんか。美味しくて満足したので翌日は、15個ほど買って帰ってきました。こちらでは「硬柿」と表示されていて、驚くほどの安さでした。家内は、「百匁柿」を天日で干した、「干し柿」や「アンポ柿」が好きですが、私は歯応えのあるのが好きなのです。

子どもの頃に、農家の庭には、柿の木があって、たわわに実っているのが実に羨ましくて仕方がありませんでした。枇杷とか庭グミとか無花果(いちじく)もあって、「農家の子になりたい!」と本気で考えていたのです。美味しく柿を食べましたら、父が話してくれた、「石田三成」の逸話を思い出したのです。豊臣秀吉の家臣だった彼は、秀吉の死後、徳川家康の仕えるのですが、逆鱗に触れて京都の河原で処刑されることになったのです。ちょうど今頃の季節だったようで、最後に柿を食べるように進められるのです。ところがそれを固辞したのです。柿は体を冷やすので、三成は食べたことがなかったのです。もう間も無く斬首される「末期の柿」ですから、体を冷やすも何もないのです。ところが三成は、食べないまま果てたのです。

柿好きの私には信じられないことで、私が進められたら、この世の終わりに、三つも四つも美味しく食べてしまうに違いないと思うのです。しかし三成は死の間際まで、節を曲げることがなかったのです。「すごい信念の人だ!」と思ったことです。でも一方では、「柿が赤くなると、医者が青くなる」とも言われるように、柿は病人を回復させるほどに、滋養に富んでいるのですが、三成は、それを認めなかったのでしょうか。

冷蔵庫に入れておいた最後の柿を、今夕食べてしまいました。明日は、学校の帰りに、「柿探し」に出掛けてみようと思っている、「秋深し」…の月曜の宵であります。

(写真は、日本の「柿」です)

明日への夢

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先日亡くなった、私たちの時代のスター選手・川上哲治は、どんな選手だったかを<ウイキペディア>で調べてみました。そこで新発見をして、ちょっと驚いているところです。というには、子どもの頃に、『うわ、すげー!』と憧れて見上げていたプロ野球選手は、「大男」だと思っていたからです。もちろん、グランドに降りて、肩を並べたことなどありませんでしたが、意外だったのです。ここで、何人かのプロ野球選手の「生まれた年」、「身長」、「体重」をアップして見ましょう。

沢村栄治➡1917年ー174cmー71kg
川上哲治➡1920年ー174cmー75kg
大下弘➡1922年ー173cmー70kg
王貞治➡1940年ー177cmー79kg
前田智徳➡1971年ー176cmー80kg
イチロー➡1973年ー180cmー77kg
田中将大➡1988年ー188cmー93kg
廣田雅仁➡1944年ー173cmー72kg

という違いです。最後は誰かと言いますと、この私です。川上も沢村も大下も、私と変わらない体格だったことが新発見だったのです。前田やイチローは、私の二人の息子たちの世代で、私よりもはるかに背が高いので納得ですが。今年のプロ野球で、綺羅星のように輝いて、大活躍をした田中将大投手の大きさには驚かされてしまいます。これだけの体格でしたら、米球界でも引けを取らないでしょう。栄養事情の違いでしょうか、戦後のプロ野球で、川上と並んで、「青バット」でホームランを数多く打った、「大下弘」と、ほぼ同じ体格の自分のことを改めて考えて、「野球をやっておけば好かったのに!」と思ってしまいました。

十年ほど前に、中国の辺境の貧しい人たちに、生活物資や衣料品を持って来たことがありました。知人が、「大連」にいて、彼の元を訪ねたのです。一月の厳冬期でしたので、路面は降った雪が踏み固められて凍っていました。それで、街の中のショッピングセンターに、家内の滑り止めのついた靴を買うため行ったのです。そこで気付いたのは、東北地方の男性たちが、私より頭一つ、いえ一つ半ほど背が高いことでした。日本で、私の世代では、まあ少し背が高い部類だったでしょうか。ところが、中国の東北人の男性が、こんなに身長が高く、肩幅も広く、顔もキリッとして凛々しいのには驚かされたのです。

まあ人間の価値は、身長にはないことは分かっていますが、完全に見劣りがしてしまっていました。人は、際限なく大きくなるのでしょうか。馬上に雄々しいナポレオンも、旧ソ連のスターリンも、背が高くなかったそうですから、気にしないことにしておりますが。それでも、「英雄」のように憧れていた、大下や川上が「大男」に見えたのは、やはり、芋ばかり食べていた国民が、やっと「コロッケ」を食べ始め、みな自信喪失の時代に、「明日への夢」を与えてくれ、「輝いていた」からに違いありません。

(写真は、「青バット」の「大下弘」です)

漢語

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私たちが住む公寓が建てられたのは、七年ほど前だったようです。今日の自家用車ブームの到来を予見して、駐車場を作っておけば良かったのにと、他人事のように思うのですが、どうしても今、駐車スペースが不足しています。構内の道路上に、青空駐車をする車でひしめいているのが現状です。きっと車の所有者は、「今日は、どこに停めようか?」で頭が痛いのではないでしょうか。 どうも早い者勝ちの感が否めません。その反動でしょうか、もう乗らなくなった古自転車が、そこかしこに埃をかぶって放置されています。経済発展がもたらした今日日の様子です。

そんな車も、日本のメーカーのものが一番多く目につきます。高嶺の花のクラウンやレクサス、ベンツやアウディーやBMWなども結構あります。青空駐車をするような車ではないのに、高級車がかわいそうに見えます。大通りのロータリーに、昨日から信号が付きました。「こんな所で渋滞?」と思ったら、これまで無かった所に、信号が設置されていたわけです。これでハラハラが少なくなったのようです。じょじょに、渋滞などの対策が講じられてきているのはよいことです。

自動車の増加に伴って、ガソリンスタンドも多くなってきています。これを中国語では、「加油站」と表記しています。まさに「油」を「加える」ための「站(ステーション)」であるのです。この「加油」は、『頑張って!』という意味をもって使われています。「油」を注入することを日本語では「注油」といいますから、「激励」や「応援」の言葉としては理にかなった言葉だと思います。

中国語を少しずつ理解できるようになってきて、「漢語」がなかったら、日本語が成り立たないことを切に感じるのです。文字だけではなく、思想も文化も教育も法制も、これほど影響されている中国との近さを、今更ながらに思わされております。日本古来の「やまとことば」だけだったら、日本語はどうなっていたのだろうかと考えさせられてしまいます。「新聞」は、<ニュース>のことであり、「手紙」は、<鼻紙>のことだったりしますが、とても面白さを感じております。明治期に、ヨーロッパ言語が日本語に翻訳されたのですが、その翻訳語が、中国語の一部になってもいるわけで、「民主」、「主義」、「共和」という言葉は、その一例だそうです。

この何年もの間、学生のみなさんの「作文」を指導させていただいて、思うことが多くあります。これほどに深い交流をしてきた両国、DNA検査をするまでもなく、「民族の血」にしても、私たちは、純血種の「やまと民族」ではなく、漢民族や韓民族の血を受け継いでいるのを感じるのです。中国のみなさんは、日本人よりも、はるかに「外向的」な民ですが、時折り「はにかむ」素振りは、まさに日本人そのものです。大陸に育ったのと、島国に育ったにとの違いだけでしょうか。更なる「友好」の回復を心から願う晩秋の十一月です。

ツバキ

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公寓の庭の植え込みに植えられた「椿」の蕾が、このところ、膨らみを増してきました。暑さの中では咲かないで、木枯らしが吹く中に咲くので、「耐寒性植物」と呼ばれますから、「反骨の花」の様に感じるのです。中国の花だとばかり思っていたのですが、日本原産なのです。そうしますと、海を渡って大陸にやってきたことになります。

後輩が伊豆諸島の利島で働いていて、「遊びに来ませんか!」と誘われまして、子育て真っ最中に、家族で出かけたことがありました。船が着岸して、住宅のあるところまで、だらだら坂を登って行くと、「クサヤ」という魚の加工場がありました。これは、トビウオなどを開きにして、独特のタレに漬けて、天日干しをしたものなのです。だいぶ臭いのですが、実に美味しいのです。そこからすぐの所に、この方の家があり、高台まで歩いていくと、「椿畑」が山すそに広がっていました。

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熱海からだったと記憶しているのですが、そこから大島に船で行き、大島で乗り換えての船の旅でした。この島の主要産業は、この「椿」の種を原料にして絞り出した、「椿油」なのです。ほとんどの食料は、大島を経由して、運ばれてきていました。波止場の近くに泳げる場所があって、夏休みを利用して出かけましたので、防波堤で波の静かな内海で海水浴をして遊んだのです。

これと同じように秋から冬にかけて咲く花に「山茶花」があります。これも日本原産で、巽聖歌の作詞、渡辺茂の作曲による「たきび」の歌詞の中にでてきます。

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
きたかぜぴいぷう ふいている

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
しもやけ おててが もうかゆい

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
「あたろうか」「あたろうよ」
そうだん しながら あるいてく

そういえば、濡れた手が北風にさらされてできる、「しもやけ」とか「あかぎれ」の痛痒さを、子どもの頃に覚えたことがありましたが、手袋をする現代の子どもたちには、もう見られなくなったようです。母用の「椿油」をすり込んでもらったことがありました。椿の膨らんだ蕾を見ていたら、そんな昔を思い出しました。

(写真上は「椿」、下は「利島全景」です)

男の好い顔

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男として、『好い顔だ!』と言うのは、この「高倉健」ではないでしょうか。カメラの前に立った時に、演じている顔ではなく、八十二年間生きてきた化粧のない顔です。その顔で、『ほとんどは前科者をやりました。そういう役が多かったのにこんな勲章をいただいて、一生懸命やっていると、ちゃんと見ててもらえるんだなと素直に思いました。』と、<文化勲章>受賞後の記者会見で話していました。

半世紀前に、初めてこの人の映画を観た時に、『不器用だなあ!』と、正直に思いました。でも、「八九三(やくざ)」の悪(わる)を演じていても、真剣に生きている男の「真実」や「意気」、小説風にいうと、「男気」を感じたのです。六十年近くも、「人の夢の代役」を演じ続けたことへの褒賞を得たことになります。ダムや橋梁やビルを作ったり、工業機械作ったりはしなかったのですが、「義理」や「人情」の冷えた社会に、人の「心情」を表現したことにも「文化的な意義」があるのでしょうか。

1976年に、日本で「君よ憤怒の川を渉れ」という映画が上映されました。濡れ衣を着せられる、地検の検事である、「杜丘冬人」を、高倉健が演じたものでした。この映画が、文革後の1979年に、中国で上映されたのです。驚くことに、数億人が見たと言われるほどの空前の人気を博したと言われています。それででしょうか、中国に来ました時に、『杜丘(duqiu)を知ってるか?』と聞かれて、何を聞かれたのか皆目分からなかったのです。その人は、若い時に、この映画を観た人だったのです。高倉健の名前よりも、主人公の「杜丘冬人」の名前の方が有名だったほどです。この映画を見た青年の一人が、「紅いコウリャン」を監督した「張芸謀」だったのです。彼を映画の世界に誘ったのが高倉健でした。彼の夢は、『いつか高倉健と・・・・!』とで、2006年に、高倉健の主演で「単騎、千里を走る。」を監督し、夢を果たしたのです。

中国の五十代以上では、圧倒的な知名度がある日本人が、この高倉健なのです。きっと、大きな活字で、文化勲章の受賞が報じられることでしょう。スクリーンを通してでも、日中友好が前進したことの強い証左であります。健さん、受賞おめでとうございます。

(写真は、文化の日に受賞した後の会見の模様<産経新聞>です)

だから(2)

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先週、一通の国内郵便を出そうと、近くの郵便局の窓口に行きました。封筒の表に、名前⇨住所の順で書き、自分の名前を左上に書いて出しました。そうしましたら、係りの人に、「これではダメ!」と突き返されたのです。中国でも、日本と同じで、住所⇨名前の順で書きます。日本の場合は、差出人の住所氏名は、封筒の裏に書くのですが、こちらでは、表の右下に書く決まりなのです。

アメリカの次女から届く、たまにくる手紙は、はじめに名前⇨住所の順序に書き、左上に、差出人の名前⇨住所の順で書いてあります。
⒈名前(名⇨姓)
⒉住んでいる建物の番号
⒊通りの番号
⒋住んでる市の通りや街の名称
⒌州名
⒍国名
こういった書き順なのです。ところが、日本や中国では、
⒈国名
⒉都道府県の名称
⒊市、郡ー町村名
⒋⚪丁目
⒌番
⒍地
⒎名前(姓⇨名)
で表記します。アメリカなどでは、自分⇨国、日本などでは、国⇨自分と言った、中心になるものの位置づけが真反対なのは、実に興味深いものがあります。欧米のように「個人主義」、「自己主張」が強い国では、中心は「私」、多くの「私」が国家をなしているという考えなのでしょう。ところが、日本では「国家主義」が強く、その自国を形成している一部分が「私」、と言った考えがあるからなのでしょうか。国の支配下に「私」が服していることになります。

国家の成り立ちや、個人の立ち位置の違いが鮮明です。欧米では、「狭い世界」⇨「広い世界」、「小」⇨「大」の順序なのです。「へそ曲がり」の私は反抗的分子なのでしょうか、決まりを守らないでいるのです。だから、封筒の宛名の書き換えを求められてしまいました。「これでいいのに!」と思うのは、「頑固者」の私だけのようです。

(錦絵は、江戸時代の箱根路を走る「飛脚(ひきゃく)」です)

蓮根

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十一月、別名を「霜月」、日本人は、この月をそう呼んできたのです。まさに、霜が降り始める月になったわけです。日本の暦には、「文化の日 」や「勤労感謝の日」などの祭日がみられます。いつも行くスーパーマーケットの野菜売り場で、「レンコン」が山盛りに売られていました。最盛期は、これからということなのでしょうか。ある新聞に、小学生の作った「俳句」が載っていました。

れんこんは とんねるいつつ あるんだな

「そうだったかなあ?」と思って、「野菜図鑑」を調べましたら、「レンコンの穴は通気孔、真ん中に一つ、周りに九つあるのが普通。晩秋が最盛期。」とありました。この作句者が「五つ」と言っているのは、間違えではなく、お母さんがレンコンを輪切りにして、半分にして調理したからなのでしょうか。子どもが穴の中に落ちて、その穴の底から見上げて、「高い穴だなあ!」と言ったと聞いたことがありました。レンコンの穴を「トンネル」というのと同じ観察眼なのでしょうか。

家内が、時々、母が作ってくれたのと同じように、「酢バス」を作ってくれるのです。懐かしい味がする、私の好物の一つなのです。「レンコンのきんぴら」もいいですね。いつでしたか、テレビで、泥田に胸まで浸かって、収穫している映像を見たことがありますが、大変な農作業に驚かされたのです。青果市場でアルバイトをしたことが何度もありましたが、東京市場ですと、近県の茨城産がほとんどでした。これから、正月にかけての入荷量が、うなぎ登りに増えてきそうです。

日にちを数えますと、今年も、残すところ「六十日」ほどになりました。「时间过了很快(時間の過ぎ行くのがとてもはやい)」、驚きです。こちらでは、霜の降りることはありません。それでも、陽が徐々に傾いてきているのを感じます。自然界の運行は、いつも神秘的なものです。そう、今月の「秋分の日」を忘れていました。アメリカでは「サンクス・ギビング・デイ(感謝祭)」、我が師が生きていたら、78歳になるのです。「離合集散常ならず」、です。

(写真は、柚子味のする「酢ばす」です、美味しそうですね!)

赤バット

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私たちの子どもの頃、大人にも子どもにも「夢」を与えてくれたのが、読売巨人軍の一塁手、背番号「16」をつけた「川上哲治」でした。この憧れの名ヒッターが、この10月28日に亡くなられたと、ニュースが報じていました。

父が、戦前からの巨人軍贔屓(びいき)でしたので、兄たちも同じく、このチームのフアンでした。まだ後楽園で試合が行われていた頃に、水道橋の駅から降りて、兄たちに連れて行かれて観戦したことがありました。今の様にテレビが普及していない時代でしたから、押すな押すなの超満員だったのです。その人の波に圧倒されてしまいました。

あの時代、「紅梅」とか「カバヤ」とか言う菓子の会社があって、箱入りの飴を製造していました。駄菓子屋の店頭に並べられてあって、小遣いをもらっては、買いに走って行ったものです。「森永」とか「明治」と比べると1ランク下のメーカーで、美味しくなかったのですが、その箱の中に、相撲の力士や野球選手の「カード」が入っていて、そのカード欲しさに買っていました。その中で、一番人気は、「川上哲治」だったのです。このカードを、「飛ばしっこ」や、手の平で「起こしっこ」をして、ゲームをしました。空き缶の中に、ずいぶんあったのですが、どこへ消えてしまったのでしょうか。

川上哲治は、「赤バット」を使っていた時期があったので有名でした。私はしなかったのですが、すぐ上の兄は、甲子園を目指した野球小僧でした。兄の憧れも、巨人軍の選手で、やはり川上だったのだろうと思います。そんなことを思っている私も、時々、小走りをするのですが、やはり走るのがしんどくなっています。キャッチボールを教えてくれたり、グローブやバットを買ってくれた父も逝き、父の贔屓の巨人軍の名選手・川上哲治も逝きました。父が亡くなった同じ病院で、川上哲治も召されたのかも知れません。一日一日、一人一人、やはり「昭和」が遠のいていくのを感じております。やはり寂しさを禁じ得ません。

(航空写真は、川上哲治が活躍した頃の「後楽園球場」です)

秋深し

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先日、いつものバス停で降りて、大通りに面した門から、アパート群の敷地の中に入って、我が家に向かって歩いていました。建物の角を曲がったところで、聞き覚えのある音楽が聞こえてきたのです。「ちいさい秋見付けた・・・」の曲ではありませんか。まさか、日本の童謡が聞こえるとは思いもよりませんから、驚いたり、嬉しかったりだったのです。立ち続けの授業を終えての帰りでしたから、日本の歌にねぎらわれたようでした。木々は緑の葉をつけ、日差しも暑さを感じ、時々汗ばむような、こちらの秋なのです。それでも吹く風に、なんとなく秋が感じられ、朝晩は、「冷やっ」とした感覚はあります。その曲を聞いた瞬間、日本にいるような錯覚に襲われてしまいました。こう言った歌を知っておられる方がいて、時季に叶ってネットから聞いているのでしょうか。この辺には日本人がいるはずがないのです。

今、PCに向かっているのですが、台所の開けた窓から、正門の隣にある「幼稚園」から音楽が聞こえてきます。この連続する音楽で、園児が踊っているのです。その定番が、「ちびまる子ちゃん」のテーマミュージックなのです。上海万博でも、谷村新司が、「昴(すばる)」を堂々と歌ってもいました。もう少しさかのぼりますと、「北国に春」が、この国で大流行していて、多くの人が、今でも口ずさんでおいでです。「好いもの」には、国境がないのでしょうか。過去のいきさつを度返しして、受け容れる度量の大きさや広さを、こちらのみなさんに感じるのです。

私には、「中国の歌」が、日本で歌われていた記憶がないのです。「蘇州夜曲」や「上海ブルース」などは知っていますが、これらは「曲名」だけで、日本人が作った歌です。それで、私は、この街のみなさんが、自転車をこぎながらでも、店の前にスピーカーを置いて流していても、よく歌っている歌を覚えたのです。大陸の歌ではなく、台湾の歌手が歌って、以前大流行した歌なのだそうです。一緒に教え子と歌ったこともあります。「愛拚才会赢(aipincaihuiying)」という歌で、恋愛の歌のようです。実は、これは「台湾語(福建省の南の<闽南话>の方言と同じです)」で歌われている歌ですから、耳で聞いて覚えたのです。授業の時に、一度だけですが歌いましたら、拍手喝采を受けたほどでした。日本の「歌謡曲」、「演歌」と同じで、聞きやすく、歌いやすくもあるのです。

バスの運転手も日本の歌を口笛で吹いていますし、文化的にも中国と日本の距離は、至近にあることになります。山の中にある「森林公園」に連れて行っていただいた時も、信州や上州の山奥に分け入ったと同じ雰囲気がして、枯葉を踏みしめた感触も、立ち上る枯葉の匂いも、みんな「懐かしい!」思いがしたほどでした。自然の植生が似ていて、同じ米の飯を食べ、特に華南では「海鮮料理」が好まれ、同じように煮込んだ「うどん」もあるほどです。油分が少なかったら、全く同じではないでしょうか。

もう路傍では、「焼き芋」が売られています。ドラム缶を加工したものに車輪をつけて、引き売りをしているのです。あの独特な匂いが鼻をくすぐります。やはり、ここも秋深しで好いのでしょう。もう、明日からは「十一月」ですから。

だから

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最近、美味しい「フレッシュジュース」を飲んでいます。私たちの住むアパート群の真正面にある「モール」の一郭にある店で、10元払って飲んでいるのです。「注文ナンバープレート」を持って、二階に上がり、階下の作業場が一目瞭然に見下ろせる席に陣取ります。商業用の大きめなジューサーに、「林檎」と「人参」を手ごろに刻んで入れて作っているのです。それは、まさに100%本物の生ジュースです。水を加えたり、瓶詰めのジュースを足しているような仕草は見られません。実に美味しいのです!

喫茶店ではないのですが、ちょっと寛げる「日式レストラン」です。お好み焼き、たこ焼き、味噌ラーメン、唐揚げなどを注文できます。家内と初めて入った時、「日本人吗?」と聞いてきたので、「对(そうです)」と答えたら、店長が出て来て日本語で話しかけてきました。沖縄と東京で修行をして帰国して、店を開いたのだそうです。ジュースの他に、お好み焼きとたこ焼きを頼みましたら、しばらくたってから、「唐揚げ」が運ばれてきました。「这是什么?(これなあに?)」と聞いたら、「送您们(サーヴィスです)!」と答えたのです。初めての客なのに、こんなサーヴィスをしてもらたのは初めてのことでした。それで、「ありがとうございます!」と感謝したわけです。

一昨日は一人で、この店に行って、味噌ラーメンと「りんご&人参ジュース」を頼んだのです。再び、「生ジュース」は美味しかったのです。その時、一人の若い方が、日本語で話しかけてきました。実に流暢だと思ったら、「淡路島出身です!」と言っていました。

そんな日を送っている昨今、関西の有名ホテルで、料理の偽装なのか、不当表示なのか、ネットのニュースで話題になっています。その「フレッシュジュース」が、瓶詰めジュースだったことも発覚して、中国の「小吃店」の方が、はるかに正直な営業をしていることが分かった次第です。この問題の根は深いと思います。寿司屋のネタでも、米でも、大豆でも、日本も「偽装天国」なのでしょう。「儲けは、正直だと上がらない!」という商業理念があるのでしょうか。商人が、三割ほど掛けた料金は、正当なのではないでしょうか。人件費、サーヴィス料、原価の償却費用、運送費、ロスなどを計算して、価格設定するわけでしょう。もし厳選された「本物」だったら、少々高くとも、お客さんは満足して支払うのです。私だって払います。でも、「不正直」な裏切りはいけません。

この街に、美味しい「水餃子」の店があります。バスを乗り換えなければ行けません。それに代金も少々高いのです。諸物価高騰のみぎり、是とすべきでしょうか。でも、いつ行っても味が変わらないのです。「誇りを持って作っている!」からです。だから、いつも小さな店は満員なのです。

(写真は、「りんご」です)