代返

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私の学んだ学校に「百番教室」がありました。その教室で、「法学」の授業が開講されていたのです。一般教養の必修科目で、受講学生も多かったのですが、この担当教授が、名前を呼んで出席をとったことがありました。

大分県別府から入学してきた「古村潤(仮名)」を、教授が呼んだ時、ちょっと間をおいて、『はい!』と返事がありました。彼は出席していなかったのです。今もあるのでしょうか、〈ダイヘン(代理返事)〉だったのです。家を行き来する学友だった彼の〈ダイヘン〉は、なんと女子でした。教授は二度呼んで、二度答えた彼女に、なぜか『本当に君は古村潤なんだね?』と言って聞き、また彼女は『はい!』を答えたではありませんか。それで出席簿に記入したのです。

ところがこの教授は、卒業後の数年後にあった、古村の結婚式の媒酌人をしていたのです。彼と教授が、そんなに親しい関係だったのを、その時、初めて知って、驚いたのです。その教授は、体が不自由でしたので、足を引き摺りながら、教室に入って来て、教壇に上っていました。

聞いたことはなかったのですが、この先生は、彼の父君の部下だったのだろうと推察した私でした。大陸で、敗戦後の残留軍の指揮をとって、多くの部下を戦死させた悔いを、父君は感じていたそうです。内乱が落ち着いて、生き残りの部下を日本に帰還させる見返りに、自死して責任を取ったのが、彼の父君でした。部下の兵士と共に、帰国することもできたのにです。

ところが父君の上官は、部下を騙して残留させて、秘密裡に、初期に、日本に帰国していたのです。それが日本の旧軍の隠し持っていた弱さだったに違いありません。それに引き換え、彼の父君は「真正の武人」だったのです。

〈ダイヘン〉を断行し、押し通した女子も、なんと言う〈度胸女子〉だったことでしょう。遠くにいて、だれかを確かめられないままで終わりました。さらに、そう言って押し通した〈ダイヘン〉を見逃すことのできた教授も、事実を知っていたのに、実に心の寛い人だったのには驚かされたのです。これも青春の日々の面白い一コマであります。

(綺麗な別府湾の風景です)

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大陸のこと

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『人を見たらドロボーと思え!』とは、ずいぶん猜疑心の強い、〈人間観〉ですが、昨今は、『人を見たらコロナと思え!』と言い換えていて、敬遠、いえ忌避が普通になってしまい、人との関係が希薄、疎遠になってしまい、つまらない時代を迎えてしまいました。

先日、近くの公園で、ベンチに座ろうとしたら、すでに座っていた方が、家内が、日向に座らないでいい様に、自分の座っていた席を譲ってくれたのです。いたく感謝した家内と私と、この方と3人で会話が始まりました。

私より4歳ほど若く、長くダンプを転がして生きてきたそうで、昨年暮れに奥様を病で亡くされたそうです。闘病生活、病院談義、読んでいた本、自分は料理ができないで、出来合いを食べ繋いでいること、子どもがいないことなど、なにかと内輪話をされたのです。

孤寂(こじゃく)をかこつ、独りぼっちを語っておいででした。厳(いか)つい男性の様ではなく、事務系の仕事をして来た様にしか見えないのです。いくつかの公園に行っては、日光浴をしたり、相席の方と談笑して、食事時になると、スーパーで弁当を買いに行く日を重ねているとのことでした。

〈老い〉と〈孤独〉、これがわれわれ年配者の心なのでしょうか。それに、コロナ騒動で、人との距離が遠くなってしまっているわけです。家内は、携帯していたバッグの中にある小冊子を、この方に差し上げていました。亡くなられた奥様は、本が好きでいらっしゃったそうで、この方も感謝して受け取られました。

ヘミングウエイの「老人と海」の話を、英語の教科書で学んだことありました。キューバ人の老漁師とカジキマグロとの死闘を描いていました。その文中に、ライオンが、夢の中で登場します。若い頃の彼の姿を投影しているのでしょうか。力や若さを象徴しているのかなと、今になって思わされています。

そういえば、自分も、若かった頃の失敗や成功を思い出すことが多くなってきています。老いたからでしょうか。恥ずかしい過去の方が、はるかに多いのですが、それも皆ひっくるめて、自分そのものなのでしょう。『若者は幻を見る!』、しかし『老人は夢を見る!』と言われますが、家内は、よく夢を見ては、朝食の時に、その夢を話してくれます。

〈夢幻の如き人の一生〉と、人の世の儚さを言うのですが、様々に人と出会い、別れ、また再会したり、結構楽しい年月だったのが、私たちの共通することです。『難波のことは夢の夢!』と秀吉が言ったそうですが、《大陸のこと》は、思い出すたびに、実に祝福の時と出来事だったのです。そこに素敵な出会いがあり、自己発見も、国家間の過去の禍根の和解もありました。

(私たちの住んだ街に咲いていた「ブーゲンビリア」です)

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お父さん

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同じ年の生まれに、実に綺麗なボーイソプラノの歌手がいました。三宅公一という歌手でした。この人の歌ったのが、昭和33年、作詞が野村俊夫、作曲が船村徹で、「逢いに来ましたお父さん」でした。
 
1 母さん作った 日の丸べんとう
  一人たべたべ 汽車の旅
  夢でみていた 東京の町を
  地図をたよりに 九段まで
  逢いに来ました お父さん

2 泣き泣き拝んだ 靖国神社
  合わす両手に 桜散る
  待っていたよの たゞ一言を
  聞いてみたさに はるばると
  逢いに来ました お父さん

3 お別れした時ゃ 乳呑児だった
  丁度あれから 十五年
  つらい淋しい 片親そだち
  故郷(くに)のはなしを お土産に
  逢いに来ました お父さん

小学校の同級生にも、中学、高校、大学の同級生にも、母子家庭の子がいました。父のいる私には、そんな級友の寂しさや、辛さ、切なさなんか分かりませんでした。でも、みんな精一杯に戦後を生きていたのです。お母さんが八百屋の店員をしていた同級生も、後に市長を務めた同級生もいました。

お母さんが、電電公社(今のドコモです)で働きながら、息子を私立の高校に行かせていました。とびっきりの悪戯小僧で、よく気が合って、家に遊びに行ったりしたのです。卒業して、何年も経って、同窓会に出た時に、その頃、私は酒をやめていましたが、彼の行きつけの新宿の飲み屋に寄って、彼の家に泊めてもらったのです。

その客間の長押(なげし)に、軍帽をかぶった軍人の写真が掲げてありました。高校時代に行った時の家は、お母さんの家でしたが、泊めてもらったのは、彼が建て替えた、有名な設計士による家でした。彼のお父上のいない理由を聞いたことがなかったのですが、その時初めて彼の生まれを知ったわけです。

その同窓会がはねた後、飲み屋で、彼が歌っていたのが、「上海帰りのリル(1951年津村謙が歌ったものです)」でした。お父上は、大陸で戦死したのでしょう、亡父の死地を思って、切々と歌っていました。その後、私は、華南の地で生活をしたのですが、私の父も大陸で過ごした年月がありますから、いつかまた会って、いろいろと話をしてみたいと、今思うのです。
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高倉健の映画に誘ってくれ、一緒に観た同級生のお父上も、大陸の太原(たいげん)で亡くなっています。彼は、自分の父親を語ってくれたのです。有名な大将の弟君で、ベルリンオリンピックの馬術競技に、補欠に選ばれ、渡独したほどの名手だったそうです。子どもの頃、お母さんの故郷の九州で育っていて、その家に残された『父の軍帽をかぶって、チャンバラをやって遊んだ!』と言っていたのを思い出します。学校に行っていた頃、この彼を、家に連れて来て、私の父にも会ってくれました。どんな気持ちで、父と話していたのでしょうか。

彼らは、どんな思いで、この「逢いに来ましたお父さん」を聞き、九段の靖国を訪ねて、逢えることなどないのですが、どんな思いで、父を亡くした戦争を思い返したのでしょうか。戦争が終わって後、どんな思いを抱きながら、これまで生きて来たことでしょうか。この8月で終戦75年になります。私たちのそれぞれの戦後であります。

(中国山西省太原の街の古写真、残留日本人を記録した書物です)

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global

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“ グローバル【global】” とは、goo辞書に、次の様にあります。
[形動]世界的な規模であるさま。また、全体を覆うさま。包括的。「グローバルな視点」

どうも習ったことがないと思っていたら、英語辞書の“英辞郎”によると、〈保険業界の用語〉なのだそうです。“globe” という「地球」という語からの用語です。「地球規模の」という意味で、日本語では、「グローバル化」の様に使っているのです。

現下のコロナウイルス騒動が、どこから始まったにしろ、地球規模の問題になっています。こんなに、国家間、人間と人間との間が、地理的に近くなったことは、かつてありませんでした。家内の兄は、1950年代に、ブラジルのサントスの港まで、延々と長い船旅で出掛けたのですが、十数年前、私が、南米に出かけたのは、カナダのトロント経由で1日強でしたから、考えられないほど地理的にも時間的にも近くなったわけです。

ところが、その反面で、人と人との〈心理的な距離〉が、なかなか取れなくなっている時代がきているのではないでしょうか。人種や言語の問題だけではなく、違った背景やモノの考え方の違いを越えられなかったりで、人との関係を避ける傾向が大きいのではないでしょうか。

この月曜日は、家内の通院日で、大学病院に、息子の運転、その息子、私たちの孫の同乗で出掛けましたが、検査士、主治医、看護師の他には会話がありません。廊下を歩いても、どなたも接近を避けようとして、距離を取られるのです。会釈の機会もなくなってしまっているのです。

コロナのせいばかりではなく、人間関係の煩雑さが大きくなっていっても、平気な時代になりつつあるのが、実に寂しいのです。そう、先日のホームセンターでの、『クソジジイ!』と叫んだあの婦人の様に、一方通行の言葉を、矢の様に放った言葉だけになってきているのです。

中学の担任が、『廣田君。おじさんたちに話しかけて、いろいろなことを聞いてみたらいい!』と言われて、それを実行したことがありました。なるほど、親以外に、いろいろなことを教えられたのです。それをしないで、数本の指でキーを打って、思いを文字化はするのですが、言葉で話をしない方が、今は良くなっでいる時代なのでしょうか。

家内は、散歩中に、向こうから来るチベットなどからやって来ている留学生のみなさんに、声をかけて、困ってることはないかとか聞いたり、激励したりしているのです。ベンチに座ってるご老人たちにも、何くれとなく語りかけています。庭で植木をいじっている方には、花を褒め、育て方を聞いたりしています。《人が人である》のは、会話による交流や関係があるからなのでしょう。

これ以上、人と人とが疎遠にならない様に、心から願う、梅雨突入の六月の半ばです。

(“GAHAG”による地球です)

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事実

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第一次世界大戦は、ボスニア系セルビア人の民族主義者によって、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、暗殺されると言った事件(サラエボ事件)が契機となって、ヨーロッパ中、いや世界中を巻き込んだものでした。一人の十代の青年の暴挙が、原因となったわけです。

この青年の心を捉えた「ナショナリズム(民族主義)」ほど、厄介なものはないのです。優秀な男子が、「大セルビア主義」に心酔し、間違った愛国主義によって、世界を震撼とさせてしまったわけです。結果的には、犯人は死刑を求刑され、入獄中に病気で亡くなり、セルビヤ王国は滅亡し、新しい「ナショナリズム」である、戦争責任を問われ、多額の賠償を課せられたドイツに、「ナショナリズム」の象徴たる「ナチス」を台頭させるに至りました。

ナチスは、容姿にも人間的にも優秀な「アーリア人」の支配で、世界を治めようとしたのです。その「第三帝国」も、ナチスの結党後、12年で終わるのです。日本でも「大日本主義」による、東亜五族の支配を目指して戦争に突入しました。しかし、敗戦によって、それは霧散してしまったではありませんか。

しかし今、また民族主義が起こりつつあります。緻密で機敏、工夫や改善によって、世界に冠たる物造り国になって久しい日本が、敗戦の荒廃の中から、不死鳥のように生き返ったのは、この民族の「優秀性」や「優越性」であったと、必要以上に誇示しようとしています。

確かに勤勉で、諦めないものを私たちは、父母や祖父母から受け継いでいます。でもマイナス面も、私たちの国民にはあることも知っておく必要があります。

これまで地下鉄やJRの運転遅延に、何度か遭遇したり、乗り換えの路線変更のアナウンスを何度も聞いてきました。そのほとんどは「人身事故」だったのです。走って来る電車の前に、身を投げ出す事故が、止みません。また鬱病の発症率も高くなり、その予備軍は信じられないほどの数だと言われています。

本当に、私たちが優秀な民族であるなら、どんな人生の重圧をも、跳ね除けて、耐えられるに違いありません。そうできない民族の弱点が露呈されていることは確かです。

自分の生まれた国を愛し、感謝し、そして同胞と共に、さらに素晴らしい国を造ることは素晴らしいことです。困っている国には、いつでも援助の手を延べ、近隣の国とは、友好関係を育てていくことです。過去については、しっかり謝罪をし、二度と過ちを犯さないことを確約するのです。それは、必ず努力すれば可能です。

孫たちには、必要以上に愛国心を煽らないようにしています。しかし、しっかり歴史を学んで欲しいのです。《偏向した歴史観》ではなく、「過去の事実」を知って、自分の国の未来を考えられる人になって欲しいと思っています。そして、自分の幸せの実現ためだけではなく、いつも《他者(他国や他民族を含めて)》を考えられる人になって欲しいのです。大小さまざまな社会問題の中から、自分たちだけを意識した「ナショナリズム」の叫びが、世界中から聞こえてくる只中で、そんな思いにされています。

(ボスニアの一風景です)

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卵売り

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作詞が佐伯孝夫、作曲が利根一郎の「ミネソタの卵売り」と言う歌が、ラジオから流れて聞こえて来たのは、1951年2月のことでした。

ココココ コケッコ
ココココ コケッコ
私はミネソタの卵売り
町中で一番の人気者
つやつや生みたて 買わないか
卵に黄味と白味がなけりゃ
お代は要らない
ココココ コケッコ

ココココ コケッコ
ココココ コケッコ
私はミネソタの卵売り
町中で一番ののど自慢
私のにわとり素敵です
卵を生んだり お歌のけいこ
ドレミ ファ ソラシド
ココココ コケッコ

ココココ コケッコ
ココココ コケッコ
私はミネソタの卵売り
町中で一番の美人です
皆さん卵を喰べなさい
美人になるよ いい声出るよ
朝から晩まで
ココココ コケッコ

実は、ミネソタにも、ロサンゼルスにも、シカゴにも、「卵売り」はいなかったそうですし、今もいない様です。実は、「◯◯の◯◯売り」と言う歌のシリーズが、1950年頃からあって、「リオのポポ売り」、「チロルのミルク売り」というレコードが、日本で売り出されて、その三部作の最後が、この「ミネソタの卵売り」だった様です。

戦争に負けた日本に、アメリカの朝食、「目玉焼きとハム」、「スクランブルエッグとソーセージ」が、憧れの朝食の様に流行って行く時代の歌でした。それはアメリカ食文化の象徴の様な食事でした。

この歌で歌われた、「ミネソタ」は、カナダと国境を接した中西部の州で、州都はセントポールです。その大きな街ミネアポリスで、アフリカ系アメリカ市民が、複数の警官の過剰な確保によって亡くなり、その行為に抗議する運動が起こって、全米に飛び火していて、まだ収まりません。

アメリカ社会には、深い「人種差別問題」があります。リンカーンは、そう言った問題のさなかで、暗殺されています。日本でも、「部落のみなさん」が根強い差別を喫して来ています。同じ血、同じ文化の中にいながら、江戸時代の「逃散」などによって、山中や町外れの一郭に住み着いたみなさんを、部落に閉じ込めて発生しています。

民族的にも、経済的にも、文化的にも〈優位に立ちたい心理〉が、そういった差別や虐待を生んできています。学校で見られる、〈いじめ〉も同じ根を持つ社会問題です。みんなが譲り合って、美味しい卵料理が食べられるような、平和な市民生活がなされる、大きな転換の事件にして行きたいものです。

(「ミネアポリス」の写真〈ウイキペディアから〉です)

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問われる

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「40年」、正確に言うと、1977年11月から2020年6月5日ですから、「42年」になります。

人が生まれて、「惑うことなし」の《不惑》の年齢になる年月が、「40年」だと、孔子が言いましたが、横田滋、早紀江夫妻にとっての年月を思う時、それは他人が測ることのできない、途方もなく長い時間になることでしょう。『生きている!』、『きっと帰ってくる!』と言う望みを持って、無事の帰宅を待ちわびた年月でした。

〈拉致〉と言う、国際犯罪の犠牲になって、お嬢様のめぐみさんが、いつもの様に、帰宅すると思う中を、下校の途中で行方不明になったのです。人の子の親にとって、こんなつらく理不尽なことはありません。

やがて、北朝鮮の平壌で、めぐみさんに似た女性を見かけたとの情報があって、生存の確信が与えられたのです。それ以来、国家間の交渉が行われましたが、『亡くなった!』と言う報告や、様々な情報があるたびに、ご家族の心が弄ばれる年月を過ごしてこられたのです。そのお父様の滋さんが、この5日に亡くなられました。

かつては、あんなに強面国家だった日本が、敗戦を喫した後は、及び腰になってしまい、義に立てない脆弱さを満たしてしまい、拉致問題解決に、決死な覚悟を取れないまま、今に至っています。国が、手を拱(こまね)いている間に、国連の人権委員会やアメリカの政府や議院に出掛けてまで、解決を求め続けた、「家族会」の働きは必死です。

開発途上国が、〈ヘッドハンティング〉で、優秀な頭脳を得ようとするのとは違って、義務教育を受ける、十代前半の少女を拉致すると言う、非人権の犯罪は、赦せません。人類史上で、組織、会社、国家が犯した犯罪と言うのは、不問に付されることなどありえません。いつか、はっきりとした審判の元に置かれて、それらの責任が、なんらかの形で問われることになるでしょう。

人道に悖(もと)る犯罪、邪悪国家の非道さは、有耶無耶などにはなりません。ローマ帝国、ソヴィエット連邦、コンゴ共和国、大日本帝国、そして北朝鮮などの専制国家が犯した犯罪は、その責任が霧散することなどはありえません。人の生命や尊厳に対する犯罪は、重大だからです。「歴史」は、厳しく国家と為政者とに厳粛な結果責任を問うのです。

(「テミスの女神」像です)

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爱拼才会赢

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タクシーに乗り込んで、しばらく経つと、『これぞ日本演歌!』と言うべきでしょう、カセットテープから、強烈な小節の効いた歌が流れて聞こえてきました。日本からのお客様を、車に乗せると言うことで、演歌のテープをかけて聞かせてくれたのです。

そして、アクロバットの様なハンドルさばきで、追い越しをかけるし、急ハンドル、急ブレーキで、これほど運転の荒さを経験したことのなかった車に乗ったわけです。〈最高の接待術〉を示してくれ、この方は得意げでしたが、こちらはハラハラのしどおしでした。

同乗の案内をしてくださった年配の方が、『割増し料金を払うから、ゆっくり走って!』と、この運転手さんにお願いしていました。とにかく、大変な歓迎を受けたのです。どこの国かと言いますと、「台湾」ででした。

上の兄に誘われて、台北から高雄まで、講演旅行をした時のことでした。私には、初めての台湾訪問です。訪ねたどこの街でも、大歓迎してくださったのです。台湾の方は接待上手で、美味しい料理をご馳走になり、案の定、訪問前よりも、だいぶ太ってしまった旅でした。

日本統治の時代を知っておられる方が多くいて、一様に、日本贔屓(ひいき)で、あの時代を懐かしんでおいででした。玄関を施錠しなくても、物がなくなることなどなかったそうです。ところが日本人が引き上げてしまった後の治安は、とても悪くなった様です。

華南の街の語学学校の若い女性教師が、授業で、「台湾演歌」を教えてくれたのです。台湾語は、大陸の「闽南语(minnanyu )」と同じで、今でも、この方言で一曲だけ歌うことができます。「爱拼才会赢 (aipincaihuiying)」と言う、日本の演歌に似たメロディの歌です。

次に台湾に行くことがあったら、前回行かなかった「山地」を訪ねたいと思いながら、年月が過ぎてしまいました。台湾の金門島は、ビサ査証の更新のため、家内と、3ヶ月に一度、出掛けたのです。「牛肉麺」が美味しく、台湾型のセブンイレブンがありました。今頃は、マンゴーが美味しいでしょうね。

(“写真AC”のマンゴーです)

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三十一年

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「三十一年前」に、世界を揺るがす様な事件が起こりました。私の父が青年期の一時期を過ごした国ででした。私たちよりも一世代若い多くの青年たちが、その騒動の渦中で亡くなったのです。自分たちの国の指導者の死を追悼した集いの中ででした。

とても悲しかったのを思い出します。その国に、2006年に出掛けました。六十を過ぎていましたが、留学のために、家内と二人でまいりました。一年後、出会った方の推薦で、大学の外国語学部の日本語教師として就職したのです。

その時の同僚で、私のお世話をしてくださった方が、その運動に加わった学生の一人だったのです。お子さんを連れて、教員住宅のわが家に、遊びに来られ、日本の大学院の博士課程で学びたいと言っておいででした。不遇の中を過ごしておいでだったのです。

私の30数年前は、腎臓を悪くして、血液透析をしていた次兄が、体調を崩していて、大変な時でした。それで、私が提供者となって、腎移植の手術を、東京の病院でした後でした。

日本の社会は平穏でしたが、その国は、騒然として、ニュースがひっきりなしに、その状況を伝えていました。私の60、70年代の青年期も、条約の締結の反対の学生運動が盛んでした。国を憂える青年たちが、将来の不安に駆られて、世界中で蜂起していました。

あの手術後、次兄は、職場に復帰し、定年延長で働きを続けできました。今は、悠々自適な時を過ごしています。私は家族のもとに帰って、それまでの生活に戻ったのです。そう30数年もの歳月が過ぎて、今があります。《落ち着いた市民生活》ができることが、今も私の願うところです。

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孤高

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「孤高」と言う言葉があります。「孤高の人」を考えてみると、独房に収監されている人とか、詩人、失恋してしてしまった人など、孤寂(こせき)を覚えている人の様子を言うのかも知れません。

職業としては、裁判官や検察官が、そんな感じを漂わせている仕事かも知れません。厳しく人に接しなければならないので、人との交際にも、言いようもない厳しい制約を自らに課さなければなりませんから、とても孤独な立場にあるのだろうと思っていました。

学生時代の友人でも、親友でも、反社会的な立場にある人とは、闇雲なく交際を表立ってすることはできなさそうです。 ずいぶん窮屈な生き方が強いられていて、大変そうだと思ってしまいます。

そんな窮屈さの中で、そんな立場の人たちにも息抜きが必要に違いありません。登山や釣り、サイクリング、家庭大工、個人ゲームなどは、かえって無聊(ぶりょう)をかこつことになってしまうので、よくないかも知れません。

そんなで、立場を弁えてくれる仲間と、卓を囲みたくなるのかも知れません。食事だったら良いのでしょうけど、件(くだん)の人は、麻雀卓を囲んでしまった様です。時期も悪かったし、囲んだ仲間もよくなかったのです。しかも、賭け麻雀をしてしまいました。

私の父がお世話した方の中に、苦学して検事になった方がおいででした。東京地検の検事で、お相撲さんが花札賭博をして、検挙したことがあったのです。有名な相撲取りでしたが、相撲の勝負も、賭け事にされてしまう様な仕事なのだと聞いていましたから、それでもやってはいけない〈御法度〉の遊びでした。その記念品の花札を、小学生の弟が、この方からもらってきたことがありました。『大人になってするなよ!』の教えと共に。

お相撲さんはともかく、検事さんが賭け麻雀をすると言うのは、お相撲さんがするのとは違います。『仕事がキツくて、息抜きが欲しくてつい!』と言い訳のできない立場です。発覚しても、責任を取らない、潔くない人が、人を罪に定めてきたとするなら、《法》とはなんなのでしょうか。

そんなことを言う私なのですが、潔白な人間なでどではありません。だから、人を裁く立場には立てないのですが、教師になった時、『若気の至りで!』と言う言い訳を捨てて、《聖職者》の責任を重く感じて、悪い習慣を断ちました。それは、自分としても信じられない様な決断でした。

裏表なく生きていく決心をし、夜遊びに誘惑されていた若気の至りを、振り切ったのです。『赤い顔をして生徒の前に立たない!』、そんな単純な決心でした。教師をやめても、その生き方をし続けて、今日に至りました。あの二十代の決心、『どこを切っても、切られても潔くある様に!』は正解でした。面白くなさそうですが、けっこう楽しく生きてこれました。

喧嘩別れして、友情を犠牲にしてしまう〈賭け麻雀〉をよく見てきました。競輪狂いで家庭を壊した人もいました。今、「総長」になれなかった男が、惨めそうに見えて仕方がありません。「孤高を持する人」であった方が、良い一生になったのでしょうに。「孤高」とは、〈俗世間から離れて、ひとり自分の志を守ること〉と、「六法全書」に、いえ普通の国語辞書に、そうありました。

(「孤高の山」の男体山です)

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