葉物

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 日本の食卓に上る葉物で、最も人気があるのは、「ほうれん草」でしょうか。イランが原産で、そこから東西に、「絹の道(シルク・ロード)」で伝えられて、日本には、中国から江戸時代の初めに伝わっています。中国名が変化した、この呼び名になったようです。交配が繰り返され、今のような多くの種類が生産されているのです。昨日食べたのは、丸く生えた種類で、よくスーパーにあるまっすぐ行儀良く袋に入ったものとは違っていました。甘みが多かったのです。

 もう一つ人気があるのは、「小松菜」です。父の家の正月のお雑煮には、小松菜が入っていて、それに鶏肉、鰹節と醤油で作った出汁で煮たものが定番でした。それででしょうか、小松菜のおひたしや味噌汁を、今でもよく自分で作るのです。

 名のない菜葉(なっぱ)だったのだそうですが、八代将軍の吉宗が、鷹狩の折に出された菜葉を気に入ったのだそうです。それが、江戸は小松川の産であったことから、「小松菜」と呼ばれたのだそうです。

 長く甲府で生活をしましたので、そこに、塩漬けにした「地菜(じな)」を、油揚げと一緒に油炒めした物があって、よくいただいて食べたのです。漬かり過ぎてしまったものを、塩抜きにして作るのです。信州では野沢菜、確か熊本など九州では高菜と呼んでいたと思います。

 中国の華南の街でも、同じようにして料理された菜葉が出て来て、驚いたことがありました。それと、小松菜は同族の菜葉だそうで、父が好きだったからでしょうか、私も好きなので、味噌汁の具は、豆腐かシジミか、この小松菜が多いのです。

 この小松菜は、ビタミンA、鉄分などのミネラルを多く含んでいて、冬場が一番美味しいのだそうで、カルシュウムの摂取には最適だと言われています。食生の不思議さを常々感じるのです。どの国にも、どの民族にも、健康の維持や増進にために、独特な食材があることです。それを偶然に土地から得るか、造物主の配慮ととるかで違いますが、造物種に配慮によるのでしょう。一番は、その土地土地によって、地産地消の食物を摂ることによって、最適な食物があって、人の健康が支えられているのです。

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富山県

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 父の家に、長い間置かれていたのが、「越中富山の薬箱」でした。定期的にやって来て、それまでの間に使った薬の数を勘定して、精算し、新しい薬を補充して帰って行くおじさんがいました。縁側で、母が応対していた姿が思い出されます。『このおじさん、随分遠くからやって来てるんだ!』と、顔を見ては思ったのです。

 その薬売りを comical に歌った「毒消しゃ、いらんかね(三木鶏郎作詞作曲、歌・宮城まり子)」がありました。

「毒消しゃいらんかねー」
わたしゃ雪国 薬うり
あの山こえて村こえて
惚れちゃいけない他国もの
一年たたなきゃ会えやせぬ
目の毒 気の毒 河豚の毒
ああ 毒消しゃいらんかね
毒消しゃいらんかね
わたしゃ雪国 薬うり
おなかがいたいは喰いすぎで
頭がいたいは風邪ひきで
胸がいたいは恋わずらい
目の毒 気の毒 河豚の毒
ああ 毒消しゃいらんかね
毒消しゃ いらんかね
わたしゃ雪国 薬うり
どんなお方が口説いても
無邪気にエクボで笑ったら
毒気を抜かれて立ちんぼう
目の毒 気の毒 河豚の毒
ああ 毒消しゃいらんかね
毒消しゃ いらんかね
わたしゃ雪国 薬うり
旅のカラスか渡り鳥
好いたお方が待ってても
雪がとけなきゃ帰りゃせぬ
目の毒 気の毒 河豚の毒
ああ 毒消しゃいらんかね
毒消しゃ いらんかね
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 どうして富山は、「薬都」と言われてきたのでしょうか。江戸時代初期の富山藩二代藩主・前田正甫は、薬に精通していた藩主で、領民への薬の提供を心掛けていたそうです。そのように、富山藩で重用される薬を、家の常備薬として家々に置くようになり、やがて全国展開が始まり、戦後、東京郊外にあった父の家にも、置かれるようになったのです。

 さまざまな情報を持った売人が、面白おかしく、巧みな話術を持って訪ねるからでしょうか、家庭婦人に支持されたようです。それが、この富山県と私の接点、原点でしょうか。日本海と北アルプスの山々に挟まれた地域で、律令制下で、「越中国」と呼ばれていました。北陸道(北國街道とも呼ばれていました)が、山陰道から連なり、越後に続いていました。

 江戸期に、越中には、富山藩(加賀・越中・能登の三ヶ国が所領)がありましたが、隣の加賀百万石の加賀藩は、加賀、富山y越中の一部を支配していたのです。ここも行ったことのない県です。この地の方言で有名なは、「きときと」は魚に付けられていて、「新鮮で生きがよい」、活魚を言い表す言葉なのです。日本海に荒波に揉まれた魚介類は美味しいと評判です。

 この正月は、隣の越後の寺泊から送られてくる魚を、在京の中国の友人夫妻が買って、調理してくださって、美味しくもてなしていただいたのですが、越中の魚も美味しいと言われています。ここは明治以降、工業化が進んでいて、YKKや三協立山などの企業が操業しています。時々、日本海の富山湾から南に向かった北アラプスの写真を見る機会がありますが、旅情を誘うような実に綺麗な風景です。

 人口が102万、県花がチューリップ、県木が立山杉、県鳥が雷鳥、県獣がニホンカモシカ、県魚が鰤(ぶり)です。級友の中にも、父や母の知人にも、知り合いはいないのです。雪深い、農業県ですが、早くに工業化にも積極的に努めていました。雪国の人は忍耐強く、県出身者の源氏鶏太は、「泥臭さ」が、富山県人の特徴だと言っていました。

 立山連峰、黒部渓谷、黒部ダムなどで、有名を馳せた県ですが、残念なことには、一度も観光旅行でも仕事関係でも行ったことがありません。北陸新幹線が開通していますし、飛行機でもよいのですが、一度は訪ねてみたいものです。ちなみに富山空港は、「富山きときと空港」が正式名称ですから、この件の最高の appeal は、やはり、日本海産の魚類にあるのでしょうか。

(立山連峰を背景に飛ぶ全日空機です)
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大寒

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 今日は「大寒」、最も寒い時なのでんですね。でも、樹々の蕾は、しっかりとついていて、膨らむ時を、じっと待っています。富士の上方星が寒そうに来る朝を歓迎しているようです。

大寒の 大平山は 風の中

白鷺の 驚き飛ぶや 大寒か

巴波川 氷もせずに 流れおり

大寒に 強く咲きおり ガーベラは

険しきか 女の道を 妻も来る

よろよろと 男の道を われも行く

吉右衛門(ひと)去りて 我も行くぞと 寒の朝

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汽笛

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 子どもの頃に聞いた「音」があり、それを最近では、全く耳にしなくなってしまいました。このブログを読んでくださる神奈川県在住の方が、『・・・話は変わりますが、夜中に家から 汽笛の音は聞こえませんか?実は私にはそれが懐かしいんです。』と言って来られました。JR両毛線と東武日光線の栃木駅の近くに住んでおいでで、朝な夕なに汽笛を聴いた記憶がおありなのでしょう。学校を終えて、東京に出て大学に通い、一仕事終えた同世代の方です。

 昔は、踏切、しかも無人の踏切が多かったからでしょうか、『ポーッ、ポーッ!』と、よく聞きました。中央線の線路が下に見える小高い丘の上に家はありましたので、電化する前の蒸気機関車の汽笛が、私にも懐かしく思い出されるのです。今は、風向きによって、踏切の警報音だけが、時々聞こえて来ます。

 機関士のおじさんが、運転台で、上から吊るされれた太めの紐を引いて鳴らすのです。あの紐は、憧れの的で、いつか引いてみようと思いながらも、叶わぬ願いを持ったままです。映画の中では、今でも時々聴けるのですが、あの車輪を回す、『シュッ、シュッ、シュッ!』という「音」も、もう聞けません。数年前に、東武日光線の下今市駅の基幹区に、週末に走行するための準備でしょうか、蒸気を出している機関車「大樹」が、線路上に停車していました。

 かつて中央線の立川駅に、五日市線のホームがあって、そこに停まっていたのを見て以来、この目で見たのは、半世紀以上ぶりの機関車でした。客車を牽く機関車では、石炭を燃やして蒸気機関を動かしていたのですが、その煙の「匂い」がしていました。冬季の学校の教室で焚いていたストーブも、石炭やコークスだったので、同じく懐かしい「匂い」だったのです。

 中央線も東海道線も福知山線も山陰線、母のふるさとへ行った旅で乗った列車は、トンネルを通過すると、窓の隙間だか、連結部分からか、「煤(すす)」が入り込んできました。線路のレールの繋ぎや切替箇所を通過する時には、『ガタガタ、ゴト、ガタ!』と、振動と共に「音」がしていました。今では、レールに繋ぎ目のない「一本レール」に溶接された物が敷かれているので、その音がしなくなりました。


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 鉄道 fan(フアン)には、〈乗り鉄〉と言われる人がいるようです。運行がやめられる路線の最終列車に、その知らせを聞くと、どこに出かけてでも乗ろうとする人たちがいるのです。また、電車の行き先板、plate platform で撮ったり、電車や蒸気機関車の曲がり角や、山の上や、鉄橋から走る列車にcamera を向けて撮影をするのを〈撮り鉄〉と呼ぶようです。rule を守らない者がいて、大きな問題になっているようです。

 華南の街から、鉄道関係の雑誌の特集号が発刊されるのを知って、弟に mail をして、買い置きしてもらったことがありました。駅弁の特集が組まれていたからでした。昨年の秋頃からでしょうか、いくつものスーパーマーケットで「全国駅弁即売会」があって、駅伝ブームが起こっているようです。それを買って帰って、家内と二人で懐かしく食べたのです。駅弁を食べて旅をした当時を思い出して、その「味」も「音」も「匂い」も懐かしかったのです。

(下は父も乗った南満州鉄道の「あじあ号」です)

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文化習慣

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 華南在住の折、アパート群の中に住んでいて、向かい側の南向きの棟のベランダは、わが家の北側のベランダの窓越しに見えます。そこには洗濯物が満艦飾のように干されてあるのです。大きなシーツが、下の家の半分ぐらいを塞ぐようにして干してある家が何軒もあり、我が家の目の前にも、時々、それがありました。「わが王道を行く〉、なのでしょう。

 驚いたのが、ご婦人の下着の干し方なのです。日本では、ring の物干しに、周りに手拭いなどで目隠しをして、内側に干されてあったりしますが、あちらでは、ベランダの真横に、堂々の内衣、しかも真紅なものが干されているのです。大体、どこででも同じような干し方で、『あれって何なんだろう?』と思って、ある方に聞いたことがありましたが、答えてもらいませんでした。

 冬になると、とくに今頃の「春節」を迎える頃になると、真紅の上下揃いのシャツとタイツのようなものが、箱に入れられて山のように積まれて、多くの店で売られているのです。men’s ladies’ もです。縁起担ぎや魔除けなのでしょうか、確かに「紅」は健康色なのでしょう。

 一度、買おうと思いましたが、躊躇して、手を引っ込めてしまいました。温泉好きの私は、帰国して銭湯に行っても、入浴施設に行っても、真っ赤な下着を脱ぐ姿を想像しただけでも、好奇の目に晒されてしまいそうで、できないなあでした。そんなこと構わないではいられない日本人の窮屈さなのでしょうか。

 見ようとして、見たのではないのですが、隣家のご婦人が、わが家の物干しの真横に、それを干していて、洗濯当番の男の私は、どこに目をやっていいのか困ることしばしばでした。日本人は、〈恥じらい〉を美徳のように思うのでしょうか、大陸の女性は、おおらかなのかも知れません。文化や習慣なでしょうか、〈紅旗〉を掲げる国情もあって、中国のみなさんにとっては、独特の意味合いがある色彩なのです。

 今住んでいる家の南側に、駐車場を隔てて、立派な二階建ての家があります。子育てが終わったて、孫を持つ身のわれわれ世代のご夫婦が住んでおられます。もう亡くなったのですが、飼っていた犬の散歩中に見かけた家内と、話が始まって以来、交流が始まったのです。旅行のお土産や頂き物のやり取りをしたりする仲です。先日の上京中、『洗濯物が、一週間も干されていなかったので、どうしたのかなと思っていました!』と、路上で会って言ってたそうです。こちらは、『ご主人の車が、朝早く動かないので、どうしかたな?』と思っていたとのやりとりで、双方が〈見守り》をし合っているのです。

(住んでいたアパートの七回から向こうの棟を撮った写真ものです)

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烏山頭ダム

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 『日本統治の時代には、家に鍵をかけなくても、泥棒が入ることなどなかったんです!』、これは私が、台中訪問の折に、服の縫製と輸出をされれいる方が、お茶を立ててくださった時に聞いた言葉でした。駐在さんがいて、街を守っていてくれたので、平和だったのだそうです。日本が敗戦で、撤退した後は、元の木阿弥(もとのもくあみ)、で、昔の台湾に戻ってしまったのだそうです。

 日本の侵略だけが取り上げられる中で、日本支配の優点を、台湾のみなさんが、前の世代から語り継いでいた日本への好意でした。台湾の南西部の農地は、塩分濃度が高かったそうです。それで、米などの収穫量が、他の地域に比べて少なかったのです。そんな嘉南平原が、農地の生産力を強化して、穀倉地帯に変わっていった理由があります。日本人の八田與一が、農業用水確保のために、灌漑用ダムを建設したからです。

 それが、「烏山頭水庫wushantoushuiku」と呼ばれた農耕用の貯水ダムなのです。これを設計し建設した、八田與一は、石川県の現在の金沢市で生まれ、東京大学で土木工学を学び、台湾総督府の土木部門に就職しています。1918年に、台南の嘉南平野の調査を始めています。旱魃があって、農地としては使えない状況であるのが分かって、灌漑事業の必要性を感じ、国家公務員の職を辞して、一介の技士として、ダム建設に当たったのです。

 1920〜30年の間、途中日本本土の東京を中心と開いた関東大震災(1923年に起きました)の最中も、ダム建設に励んだのです。八田與一は、ダム建設の実務だけではなく、共に働く仲間の福利面に気を使った人だったのです。宿舎・学校・病院なども建設整備しています。温情あふれる指導者だったからでしょうか、顕彰碑(胸像)などが、今でも烏山頭水庫の岸に建てられています。

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 台湾映画「KANO 1931 海の向こうの甲子園」が、2014年に、台湾で製作上映されたのですが、その映画にも、八田與一が登場する場面がありました。嘉義農林学校の野球部を、甲子園中等学校野球大会に出場させた、元松山商業の監督・近藤兵太郎が猛練習の指導をして、台湾代表として出場したのです。共に、台湾で活躍した代表的な人物でした。

 こう言った日本人が、占領下で、政治的な思惑とは関わりなく、人道的な行いをして、活躍したと言うことこそ、21世紀の私たち日本人が忘れてはいけないことに違いありません。上の兄に誘われて台湾訪問をしたのですが、台北から高雄まで、台湾新幹線に乗って、幾つもの街で降りて、兄と私は別々の教会を訪ねて、特別集会を持たせていたのです。

 すっかり台湾贔屓になって、3、4kgも体重が増えてしまいました。美味しい中国茶を飲みながら、日本統治時代を聴かせていただき、いつか家内と一緒に訪ねたいと思っていたら、大陸に導かれてしまい、13年も過ごすことになった次第です。

(烏山頭水庫の全景、八田與一の家族写真です)

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 年明けと共に、北国や日本海側では、大雪に見舞われ、去年の夏の異常な暑さと共に、この冬の降雪量には驚かされます。子どもの頃に、冬になると、雪が降るのを待ちわびたり、雪中で、「ゆき」を歌いました。降っていると綺麗ですが、降り止むと道路や水道管が凍結したり、車の tire slip 事故や、転倒事故が多く見られます。

1 雪やこんこ あられやこんこ
  降っては降っては ずんずん積もる
  山も野原も わたぼうしかぶり
  枯木残らず 花が咲く

2 雪やこんこ あられやこんこ
  降っても降っても まだ降りやまぬ
  犬は喜び 庭かけまわり
  猫はこたつで 丸くな

去年の夏に出かけた群馬県の水上で、三国街道の須川宿の宿に泊まったのですが、朝の散歩で、山を見上げて、この険しい道を、江戸期や明治期には、しかも冬季には、どんなに難儀して越後長岡、佐渡に向かって登って行ったのだろうか、と思っていました。朝早く発って、猿ヶ京から三国峠に向かい、越後の雪深い街道を歩いたのを考えると、昔の人の健脚さには驚かされるのです。

国道が整備され、高速道路も敷設され、新潟新幹線、上越新幹線ができ、空を飛ぶ空路もできた今では、三国峠を越える当時の旅は、想像するだけでも、尻込みしてしまいそうでした。

江戸時代の後期に、「北越雪譜」と言う本が、1837年(天保八年)に、江戸で出版されています。「こしひかり」の発祥地であり、産地の魚沼近辺の様子を、鈴木牧之が記したもので、「青空文庫」にも所収されています。出版されると人気を博して、best seller となりました。冒頭の図は、雪片の図で、科学者のように観察し記録しているのに驚かされます。

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雪道を歩くガンジキや簑(みの)などの図も描かれています。雪深い越後国に生活ぶりが、雪の少なかった江戸などでは想像することもできないほど過酷だったことが、江戸町民の興味の惹き起こしたのでしょう。三国街道の山岳部の険しい山道を、進んで三国峠を越えて行くのは、冬場は、並大抵なことではなかったのでしょう。

新潟の農業学校の校長をされた方が、私の最初の職場においででした。好々爺といった感じの方で、三十代の課長の下で、『はい!」と言って、従っていたのが印象的でした。一緒のバトミントンを、昼休みに楽しんだのです。青二才の生意気な私を可愛がってくれ、生き方を教えてきださったのです。私が知ってる越後人は、この方が代表でした。

今年は、歩いて三国峠を越えてみたいなと思っています。もちろん雪などない、初夏がいいのですが。こしひかりのおにぎりに、竹の水筒(みずずつ)を腰に引っ提げて歩いて、昔にの旅人の思いを辿ってみたいものです。できるでしょうか。

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夢wax

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 よく見る夢があります。精神分析で夢判断をしたら、何か、心の中に潜んでいるものが明らかにされてしまうかも知れません。その夢というのは、〈waxがない〉と言う切羽詰まった状況に置かれている自分なのです。いつも決まった夢です。『どうしよう?』と苦悶しているのです。でも、どうすることもできない状況にいる自分が登場します。

 長い間、真夜中に、スーパーマーケットの床清掃の仕事をしていました。ちょうど、子どもたちが進学しようとしていた時期に、不思議な形で与えられた機会だったのです。学校に行ってる頃に、都内の外資系のホテルでアルバイトをしていた時に、polisher (床などの洗浄機)を使ったことがあったので、その経験が役立って、月に二度の定期でする仕事でした。

 夜11時に、仮眠から起き出して、機材を車に乗せて出かけるのです。4人ほどのアルバイトをお願いしたでしょうか。11時半頃から床を掃き出し、通路にある商品を片付けて準備をするのです。0時の閉店を待って、床にジョウロで洗浄液を撒き、しばらく置いて、polisher  を回して洗浄します。その水を吸水機で吸い取り、その床を mop で2回吹くのです。その作業が終わると、バイト料を払ってみなさんには帰ってもらいます。そして、私が一人で、床に wax を二度塗りするのです。初めの頃は1回目の床の乾燥が十分でなく、powdering が起きて、床のwax が粉化してしまったのです。何度か、そんな失敗があって、順調に作業ができるようになりました。20年近くしたでしょうか。

 その収益は、子どもたちに教育を受けさせることができ、みんなが卒業した後、しばらく続けて、中国に行く2年ほど前に終えました。chain 店が10店舗ほどあって、それを請け負わないかとの会社からの話があったのですが、会社を起こすこともできましたが、本職第一主義の私は、その依頼は断ったのです。

 夢に出てくるのは、最後に仕上げ作業をする段になって、wax が見当たらないのです。どう手配しても間に合わない。午前7時の開店が迫っているのに、ないのです。市内の同業者に連絡しても真夜中なので、連絡できない。そこで目が覚める、そう言う夢です。強迫状況なのです。あの仕事をした年月には、牧師仲間の助けもありましたし、静岡や東京から電車で来てくれた方もいました。機械の断線、人不足などもありましたし、腎臓手術で入院中は、兄や友人たちが助けてくれたことがありました。

 二度ほど、実際に wax がなかったことがあったのです。急いで、車を走らせて、倉庫(教会の物置)に取りに行って間に合ったのです。もう一回は、注文を忘れて在庫切れだったのです。店には詫びて、清掃をし直したことがありました。そんな経験が、心の中にしまわれていて、時々夢に見るのでしょうか。ベッドの中で、モゾモゾしていたら、目が醒める、そんな夢だったのです。

 その店は、日本中から注目されていた有名店でしたので、大挙して見学者があるので、そんな日の前日には、飛び入りで床清掃の依頼をされることがありました。夜通し働いて、道具を片付けて、山に向かって走って、山間の温泉の湯船で、一晩の仕事の緊張と疲れをほぐした日々が、思い出されて懐かしいのです。中学生だった娘が、翌日学校があるのに、人が足りなかった時、助けてくれたこともありました。現場が、歩いても5、6分の所でしたから、できたのでしょう。

 暮れになると、家族でしました。店長さんが、店の福袋を、子どもたちにくださったり、けっこう楽しい思い出があったようです。最後の記念の作業日には、次男が助けてくれたのが感慨深く思い出されます。

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美学

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 『ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。(ヘブル人29節)』

 同年生まれ、同学年の波野達次郎、歌舞伎俳優で、先日亡くなられた中村吉右衛門は、日本人の「誉れ」を象徴する「人間国宝」になっています。それなのに、私は、小学校5年時に、工作と絵とで、街の展覧会で銅賞をもらっただけ、それっ切りで勲章も賞状も感謝状も、全くもらうことなく、今日に至っています。

 〈無冠の凡人〉、ちょっと寂しい気持ちがしないでもないのですが、これが実力、実績で、まあこれでいいかの私なのです。いつ頃からでしょうか、「国民栄誉賞」と言う表彰が始まったのですが、それを辞退した人が何人かおいでです。一番面白い辞退の理由が、ちょっとつぶやいたことばの方が大きくなって、『そんなもの貰ったら、タチショウベンもできへん!」と言ったとか、福本豊(阪急ブレーブス野球選手)で、なかなかの好人物です。本音をはっきり言える、この方が羨ましいなと思ったのです。

 この上の素敵な赤色を配した陶器は、河井寛次郎の作です。この方は、島根県安来の出身で、母のふるさとと近いこともあって、素晴らしい作風に魅入られているのです。ここ下野国には、有名な陶器の町があります。「益子(ましこ)」で、この街の窯で焼いたものを「益子焼」と呼ばれています。江戸の末期に、笠間で修行をした大塚啓三郎が始めています。東京が近かったこともあって、日用の釜や壺などが作られて、今日に至っています。

 この河井寛次郎は、「文化勲章」を辞退したことでも名を馳せた人でした。栄誉や名誉を得ることが、陶作の動機ではなかったからです。こう言った人の生き方を、「固執しない美学」と言うのだそうで、師を持たなかった人で、今の東京工業大学の窯業科で学んで、陶作に励んだのです。科学的な方法で陶芸に打ち込んでいた方でした。

 十字架に刑死して、墓に葬られたイエスさまは、「・・・死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。」と聖書にあります。罪のないお方が、罪を赦すために、代わって死なれ、苦しまれたので、「誉れ」を受けられたと言うのです。天地の創造主である父なる神からの名誉の付与であります。

 何も取り柄がなく、『ただ生かされてある!』と言うのが、くすぐったくなくていいのでしょうか。この気持ちで、今年は生き始めています。きっと、人の生き方に見られる《美学》は、そんな風に生きる凡々たる生き様なのでしょう。アッ、訂正があります。子どもたちから感謝されたことがあったのを忘れたことがありました。

(陶芸家の河井寛次郎の作品です)

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長野県

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 次女は、結婚してから、婿殿が、英語教師として、長野県の南信地域のいくつかの県立高校で、3年ほど働いていた時期がありました。それは、「JETプログラム(Japan Exchange and Teaching Programme)」、外務省,総務省,文部科学省,(一財)自治体国際化協会(クレア)の協力のもと,地方公共団体が,諸外国の若者を地方公務員等として任用し,日本全国の小学校,中学校や高校で外国語やスポーツなどを教えたり,地方公共団体で国際交流のために働いたりする機会を提供する事業です。

 その在任中に、私たちの最初の孫が、飯田市立病院で生まれたのです。当時、私たちは甲府に住んでいまして、中央自動車道を走っては、飯田の interchange で降りては、休みの日に、家内と二人で出かけました。孫が生まれる以前から、訪ねると、彼らは、南進地域にある、温泉などに連れて、よく案内してくれたのです。

 その長野県は、多くの人たちが、戦前から、満蒙開拓に出かけた地でした。農村は貧しく、農地に比して農業人口が多くて、「人減らし」の政策がとられ、新しい生活を求めて、多くの方々が参加したのです。飯田市の隣に、阿智村(現在では飯田市に編入されています)には、「満蒙開拓記念館」があり、開拓の悲しい歴史を伝えています。国民学校の教師で、阿智村の僧侶の山本慈昭は、団長となって、少年たちを連れて、終戦の年の1945年に、満州に渡りました。ところが、鍬を振るう間なく、ソ連軍の侵攻で、シベリヤ抑留の身となります。

 2年間の抑留生活の後に、帰国して分かったのは、開拓団で出かけた80%の人たちが未帰還であることを知り、満蒙に残留した人たち、とくに孤児の日本帰還のために、山本は奔走したのです。彼自身、多くの子どもたち連れて行った、その責任を感じたからでした。そんなのことで、「中国残留孤児の父」として、中国の黒竜江省に、何度も出かけています。


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 貧しい県であったので、この長野県人は、「教育」を受けることによって、それを克服しようとした県であると聞いています。社会貢献した有名無名の多くの人たちを輩出した県だと言えます。私たちの隣家のご婦人も、長野県人で、高校教師をされていて、とても理知的な方でした。

 そう言えば、木曽や馬籠、妻籠などの旧宿場も訪ねました。映画化もされましたが、農村歌舞伎で有名な大鹿村にも、観劇に連れて行ってもらったのです。初めての歌舞伎が、大鹿村で上演されていたもので、その熱演に感動した私は、みなさんがしていた「おひねり」を、舞台目掛けて投げたのが、昨日のことのように思い出されます。あの歌舞伎は、もう一度観てみたいと思っています。

 朝な夕なに山梨県側から見上げ、冬場は〈八ヶ岳降ろし〉で凍えさせられた八ヶ岳、学校のクラブの合宿で白樺湖に出かけたり、ドライブをして妙高高原、休暇で松原湖、義兄のいた松本市を訪ねたりしたことがあります。諏訪湖の周辺は、「日本のスイス」と呼ばれて、時計などの精密機器の工場が多くあったのです。


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 登山もしたこともありました。一番印象深かったのは、「入笠山(にゅうがさやま)」だったでしょうか。登山付きの方が教会にて、連れて行ってもらったのです。雨降りの翌日、晴れていたので家内と二人で、この山に登ったのです。麓はよかったのですが、登るに連れて、北側の斜面は、雪でした。登るほどに雪の積雪量が多くて断念し、登山道から出て、途中の林道を下山をしたのです。

 危なく遭難しかけたのは、今では笑って話せますが、身の危険を感じたのです。家内の手を引いて、滑ったり、転んだりで、『中年夫婦の遭難!』と言うニュース記事にならないで、やっと駐車場に辿り着くことができました。林道には獣の足跡が残っていたのです。それでも、八方が見渡せる入笠山は、もう一度再挑戦してみたい山、頂上に立つと、気分を爽快にしてくれるからです。

 律令制下では、「信濃国」、また、「信州」とも呼ばれてきました。県花が「りんどう」、県木が「白樺」、県鳥が「雷鳥」、県獣が「ニホンカモシカ」、県人口が「205万」、県都が「長野市」で、山岳県の中に、盆地があって、安曇野や飯田は山々に囲まれて、果物も美味しく素敵な県です。飯田から諏訪湖に向かって、車で走ると、国道沿いの蕎麦屋さんがあって、そこの「蕎麦がき」が美味しかったのです。purine のように練って作られていて、それに出会ってからは、その店に何度も通いました。それは逸品でした。

 そう、一時期は、「駒ヶ根」が気に入ってしまい、《終の住処》は、ここにしようと思ったほどでした。でも、そこには道が開かれず、若い日に思いのあった、そしてずっと思いの中に蘇ってきては消えて行った、「中国行き」の道が開かれたのです。聖書を届けた呼和浩特(フフホト)の街の伝道者が、『来てください!』と言われた声が、思いの中に大きくなって行ったからです。

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