限界

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 私の愛読書に次にようにあります。

「だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。あなたは確かに知っている。」

 台風10号が、沖縄、奄美、九州に接近中で、厳重な注意が必要だと、今朝のラジオニュースが伝えています。熊本の球磨川の氾濫警戒も出ているそうです。風速も雨量も気温も、これまでは、上限や下限が《定められ》ていたのです。ところが近年、とりわけ去年あたりから、生命の危険水準を超えてしまって、これまでにない量や質となってしまっています。

 私たちは、どう言った時代の中に生活をしているのでしょうか。今や、しばし熟考する必要があるように感じてなりません。北関東の地から、大きな被害から守られるように、今朝も心から願っています。とくに熊本は、私の人生の一つの大きな節目となった地なのです。鹿児島も宮崎も大分も福岡も佐賀も長崎も、守られますように!

(ベランダに咲く金魚草です)

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ライスカレー

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 先日は、九十歳になったばかりのご婦人とお嫁さんとが、わが家を訪ねてくれました。お元気で、お顔の肌も表情も若くて、はっきり物を言われて、とても好い交わりが与えられました。林檎の本場、長野の生まれで、東京に嫁いで、二人の男の子を育て上げ、次男のご家族と、県南の町でご一緒にお住まいです。

 カレーライスを作って、お昼を共にしました。華南の街で、何度作ったでしょうか。留学生、日本語教師、教え子、友人とその家族など訪ねて来て、何度も何度も作った同じカレーでした。ふみ子さんが、『美味しいです!』と言ってくれました。ちょうど、図書館で借りて読んでいた本に、「ライスカレー」の話がありましたので、転載してみます。

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 ライスカレーとナッパづけとは妙なとなり合わせだが、ともにわたしの家では、だれもが大好きな食品である。

 このごろ日本中で、ライスカレーが幅をきかせている。それは池田さんが、首相に就任されたとき、『ライスカレーでも一緒ににつっつきながら何でも話し合おう!』といわれていらいのことだそうだが、わたしの家のは麦飯もライスカレーも、ともにはえぬきで、池田さんのおしきせでないところがミソ。

 もともと貧乏とは生来の仲よしだが、一時は貧乏と疎遠になりかけた時代もあるにはあったけれども、それも終戦のかけ声とともにまたこれに逆戻り。でも家の中はカラリとしていて、ただときどき驟雨がくるぐらいのもの。むしろこれは生きていくための必需品。

 そうそう、きのうはわたしどもの二十九回目の結婚記念日だったが、別にぎょうぎょうしいこともなく、それこそライスカレーをつっつきながら、越し方、行く末のことの花が咲いた。食事中こどもに、『かあさんのライスカレーは日本一だね!』とたきつけられ、『このナッパづけは色香ともに天下の絶品さ!』とあふられる(煽られる)におよんでは、もう感激でポーツとするばかり。

 だけど何がうれしいといって、主婦にとって家族全員が健康な顔を並べて、手料理にシタづつみをうってくれることほど、うれしいことがまたとあるだろうか。わたしはこれからもライスカレーをつくり、ナッパづけをコトコトきざむことに明けくれするだろうが、ぴりっとからいカレーの味で、流転の激しかったこれまでの旅路を思い、せめて人生の終末だけは、このお菜づけのように、おだやかでありたいなと願ったことだった。

 1960(昭和35年8月29日  田辺早苗 主婦・51歳 佐賀市
(「戦争とおはぎとグリンピース」所収)

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 母と同世代のお母さんの手記です。池田首相は、ライスカレーにまで言及した方だったのですね。麦飯に、これをかけて食べたら、脚気にもならないで、国民の健康が維持できると勧めたのでした。《海軍発祥》のカレーライスは、その頃から《国民食》になったのでしょう。今回は、旬のトマトとナスをたっぷり入れたのですが、リンゴを入れ忘れました。ライスカレー、カレーライス、どちらが正統なのでしょうか。どちらにしろ、コロナ禍でも、美味しく食べれて感謝です。

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 日本を、長いこと留守にしている間に、この社会は、さらに〈一流志向〉の様相を強めてきているのだそうです。その一流から漏れると、つまらない人生の連続で終わると考えられているのだそうです。『勝ち組に入らなければいけない!』と言う圧力がかかって、勝負は幼稚園の時点でで決まるとまで思われているとのです。

 あの「大阪教育大学附属池田小事件」が起きたのが、2001年6月9日でした。23名の生徒と教師が殺傷された衝撃的な事件でした。犯人は、犯行時に37歳でした。犯行に及んだ学校は、国公立大学の教育学部に付属する、ある意味では、その地域でのエリート校、もう一面では、教育実験校でした。街のお弁当屋さんとか豆腐屋さんの子ではなく、医師や弁護士や部長さんのような親を持つ子の通う学校を選んでいたのです。

 そんなことを犯したTは、上昇志向の少年だったので、この附属小学校に併設の附属中に通いたかったそうです。ところが、『けったいなオヤジ、頭の非常に回転の悪い、不安定な母親!』の子の自分、と自虐していた彼には、入学は叶いませんでした。願いが成就しない鬱積が、積み上げられていったのでしょうか。もし飽きっぽかったら、こんな無残な犯罪に走ることはなかったかも知れません。

 自己認識が甘いのは、問題です。こう言った事件が繰り返される中で、『子は鎹(かすがい)』を『子はカスがいい!』と聞き間違えたお母さんが、子どものありのままを受け入れ、そう言った母親に育てられた子が、緊張から解かれて、道を外すことなく、けっこう好い子に育った話を、何かの雑誌で読んだことがあります。

 こちらは落ちこぼれなどとは無縁に生きてきた人がいます。その人の生い立ちです。

 『1931年6月1日、東京府内(中野区)で生まれる。太平洋戦争末期は旧制中学生で、空襲により自宅を焼失している。好きな科目は理科で、東京府立第四中学校(現・都立戸山高校)、旧制浦和高等学校(埼玉大学の前身)を経て、新制の東京大学理科1類に進学。通産省就職。工業技術院院長に就任。瑞宝重光章を受勲。』

 とても順調な経歴です。しかしこの人は、2019年4月19日、車を運転中、池袋で、暴走行為を起こし、母子を轢き殺してしまうのです。これが華々しい経歴を誇る、勲章まで授かったエリートの晩年の様子です。

 池田小事件も池袋事件も、関係がなさそうですが、人の命を、それぞれの形で奪ってしまったことには変わりありません。エリートで生きても、そうでなく生きても、大同小異なのでしょうか。驕っても、卑下してもダメ、ほとんどの人は可もなく不可もなく、凡として生きています。『人様に迷惑をかけないで生きよ!』と、親に言われて生きてきた私も、この世の片隅で、凡として生かされております。
 
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公平

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 「美」とは、どういったものなのでしょうか。アメリカ映画の「ジャイアンツ」に出ていた “ エルザベス・テーラー “ は、絶世の美女でした。十代のはなたれ小僧の私でも、スクリーンに映された、この女性の美しさには息を飲んでしまいました。自分の母親が、《今市小町》と言われた、けっこう綺麗な人でしたが、それには比べられないほどで、彫刻刀で彫った様に彫りが深く、魅惑的でした。

 〈世界三大美女〉が、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町なのだそうですし、今でも、「世界ユニバース」、「ミス◯大」などで選ばれる女性も、投票で選ばれる〈◯◯ベスト美女30〉も、「美」、つまり〈顔の造作の良さ〉に対する賞賛、憧れ、羨望、さらには嫉妬などは、ものすごいエネルギーがあります。

 ところが、映画女優の晩年の写真を見た時、『えっ、この人がオードリーヌ・ヘップバーン!あ』と驚いたことがありました。どうも、「美」は、束の間、過ぎゆくもの、偽りなのだということが分かったのです。一番残酷なのは、「時」なのだという訳です。

 今、時々買い物に行く、近所のドラッグストアーのレジを打つ女性が、急に、綺麗になってしまったのです。新しい人が入ったのかと思ったら、化粧を上手にする様になって、美しくなったのです。きっと化粧を落としてしまうと、元の顔に戻ってしまうのでしょう。以前の顔を知らない、若い男性に、以前の彼女を教えないことにしています。

 ある人は、親にもらった顔に、小細工をして、隆鼻術を施したりします。ところが時間がたつと、シリコンが劣化してしまったりで、けっきょく、もとの鼻の低さに戻ってしまうのだそうです。私の愛読書に、「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。」とあります。



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 美も醜も、紙一重、黛一本、白粉の一塗りの差だけです。公平に年を重ねるように、醜女も美女も、鼻の高さも肌の色艶も、ほぼ大きな差がなくなってしまっています。心の内面を飾って生きてきたご婦人は、生き生きとしておいでです。遠慮がちに生きている女性は、みな美しいではありません。ここに上げたのは、若かった時と晩年のエリザベス・テーラーの写真です。美って、けっこう〈錯覚〉なのかも知れません。さもなければ〈比較〉かも知れません。

 中学生の頃に、動物園に行った時、一番驚いたのは、孔雀でした。『私って美しいでしょう!」と、あの羽を広げて、これでもかこれでもか、『どう!』と誇っていた姿を見て、『美しさって疲れるだろうなあ!』と、正直思ったのです。男も同じです。あんなに男盛りに輝いていた人も、老いて、顔だけではなく、心にもシワが寄ってきて、〈栄枯盛衰〉、見る影もなく萎んでいくのが、人の世の常です。分け隔てなく、どなたにも衰えの時が訪れるわけです。まさに《時は公平なり》です。

(エリザベス・テーラーと田中角栄です)

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静思

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 中学校に通学するために、上下車した JR中央線の駅の近くに、「名画座」がありました。大学が、その駅の周りに何校かあり、その学生を目当てに、けっこう評判の映画が、三本立てで上映されていた映画館でした。中学校には制服があって、どこの学生か分かっていて、授業をさぼってチケットを買うのに、店主は売って、観せてくれました。

 そこで何度も観たのが、ジェームス・ディーン出演の「エデンの東」、「理由なき反抗」、「ジャイアント」でした。アメリカの俳優に憧れるという矛盾の偽軍国少年だったのです。テキサスの大牧場で働く牧童のジェットを、ジミーが演じたのです。広大な牧場を舞台に、物語が展開され、仔牛を丸焼きするバーベキュウ・パーティーの場面には、アメリカの豊かさを知って圧倒されました。

 そのジェットが、一人で石油の掘削をし続けているのです。牧場の地下には、原油が埋蔵されていると信じていたからです。ある日、その小さな掘削穴から、石油が天高く吹き上げるのです。その原油を全身に浴びて、真っ黒になったジェットの姿に、圧倒されたのです。日本では想像できない光景だったからです。

 その原油で汚れた姿のままで、同世代の牧場主に、石油掘削の成功を見せつけにするために来て、何かの言いがかりをつけて、殴り倒す場面がありました。ジェットは一躍石油王、大富豪となるのです。

 その重油塗(まみ)れの姿を、重油タンカーの座礁で、漏れた重油をかぶって、真っ黒にされた海鳥を思い出したのです。インド洋の島国モーリシャス沖でも、近頃、座礁事故がおき、原油が流出しました。人口が増え、工業化が進むと同時に、石炭などの固形燃料から、石油やガスなどの液体燃料に移る、燃料革命が起こり、莫大な量の地下資源が掘削されて行きます。
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 それに伴って、石油タンカーの事故が頻発し、生態系に甚大な被害を与えて、破壊してきています。その原因は、輸送船の積載量を多くする、船の大型化なのではないでしょうか。いっぺんに多量の原油を運んで、コストダウンを図るからでしょうか。そう言った儲け主義の結果が、この写真の様な、哀れな自然界の破壊であり、それが見せる惨状が、〈人の業(ごう)〉なのでしょうか。

 今回のコロナ禍は、欲に踊る人間が、天然自然の理を無視し、秩序を破壊したことと、何か関係がありそうに思えてなりません。〈疫病の蔓延〉は、単なる自然現象だけでない、人間への警告の様にも聞こえ、見えるのです。傲慢で、感謝を知らない人間に、もう一度立ち止まって、静まって考える時が与えられていないでしょうか。

 アメリカの社会で働いている娘が、先日、連絡して来ました。経常利益が上がらず、このままでは、会社が立ち行かない事態に直面していて、人員整理をしなければならないのだそうです。共に働く仲間に代わって、管理職の彼女は、身を引くことを考えている様です。全世界で、当たり前であった好調さが、乱れて、壊れて、経済界に厳しい現実をもたらせているのです。生きにくい時代のただ中で、生活に変化が生じています。

(ジェットを演じたジェームズ・ディーンと重油まみれの海鳥です)

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朝顔四種

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 朝顔の最盛期が、夕べ、ものすごく強い雨が降り、あの酷暑を追い払ってしまって、肌寒く感じている今頃にくるとは思いもよりませんでした。今季、咲いてくれた四種類の朝顔の花が、今朝は揃い踏みの様に、力強く咲いています。九月になって、咲く花の数がこんなに多いのも驚きです。

 巴波川には、二羽の白鷺が、流れの中に立って、餌をじっと探しています。流れの向こうには、カモもまた、餌探しに余念がありません。家内は散歩に出て行きました。暑さが一段落した感がして、『よかった!」の《長月(ながつき)》です。

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 「小江戸」と呼ばれる街が、今でもいくつか残されています。関東圏には、佐原、川越、栃木、香取などがあります。埼玉県に住んでいた時に、川越に連れていってもらったことがありました。街の中心に、「火の見櫓(ひのみやぐら)望楼」が残されていていたのです。ここに立って、四方八方に目を配って、見張りをするのと、「時の鐘」を鳴らして、時刻を住民に告げる役割を果たしていたのです。

 父が家を買って住んだ、東京都下の街には、消防署があって、火の見櫓がありました。火事を見つけて、半鐘やサイレンを鳴らして、危険を知らせ、消火活動に消防団の発動を促すための、昔ながらの消防管理法だったのでしょう。最近の消防管理は、建物の構造の中に、感知機ができていますので、高台に登って、煙や火を見つけたりする必要はなくなったからなのでしょうか。

 私たちが、生活した華南の街には、「鼓楼gulou」というバス停がありました。建物は無くなっていましたが、街の中に、「鼓楼(望楼)」が設けられていたのです。中国の街には、どこにも、それがあって、街の中心で、象徴の様な建物でもありました。かつては、消防だけではなく、敵の襲撃を監視するという必要があったわけです。

 城下町を訪ねたこともありました。『殿様が、城下町の民の生活を知るために、舶来の遠眼鏡(とうめがね)を持って登るのだろう!』と思っていましたが、熊本城の天守閣に上がって、市内を眺めた時に、そこは、敵の侵入や火事を見張るためにあるのだということが分かったのです。

 古代の書に、「力の限り、見張って、あなたの心を〈力の限り〉見守れ。いのちの泉はこれからわく。」とあります。街を見張り、見守る以上に、《心》を “ all of diligence “ で、見守る様に勧めています。最大の注意を向けなければならないのが、《心》なのでしょう。つまり、《自己査定》の必要性です。
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 あらゆる欺瞞や偽り、不義や汚れから、意図的に守らない限り、《心》は、こういったもので溢れて、占領されてしまうからです。毎朝毎夕、多くの人が家の前をジョギングしています。体の健康のためにです。また 有機栽培、国内生産に目を光らせながら食品を買っています。有害なものを排除するためにです。それと同時に、いえそれ以上に、《健全さ》を保たなければならないのが、この《心》です。《心》を覗き込んで点検すべきなのでしょう。

 ふと立ち止まって、今何を考えているか、何を想像しているか、何を心に満たしているかなど、点検してみることです。これを若い時に学びました。何を考えようが計画しようが、心の働きは各人の自由です。だから、どうしても《見張る》必要があります。人は容易に、〈邪悪な計画を巡らす心〉を持ち、〈心は暴行を企む〉からです。

 思いの記憶庫に残された様々な過去が、どなたにもあります。そのままに放置しておいてよいのか、時々考えてしまいます。ある方の本を読んで、《過去を精算する》ことを、しばらく考えさせられたりもしています。長く人と関わってきて、相容れない意見の違い、喧嘩別れ、無言の訣別など、和解しないままなことが、いくつかあります。一言の謝罪で、関係の回復ができるのですが、互いに誇りや面子などが邪魔をさせて、それができないのかも知れません。

 どうしても決定的なことを言わなければならない時が、私にもありました。家族を守り、自分の働きを正しく行うためにです。それとて、それでよかったのかを、査定しているのです。『義を行い、誠実を愛し、謙っているか?』に照らしてです。消防車がサイレンを鳴らして、火事現場に急行しています。《心》に火の手が上がっているかの点検は、今の世だからこそ必要なのです。

(川越の火の見櫓と中国西安の鼓楼です) 

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胡瓜の花

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 昨日、酷暑の中、朝に夕に、また日中に、水やりをして、家内が世話をしてきたキュウリの苗を、刈り取ってしまいました。ベランダの手摺から、外へ外へ行こうとする蔓を、内側に向きを返させたりしながら育てたキュウリでした。下の娘が置いていった種を蒔いて、収穫したのが、たったの3本のキュウリでしたが、今まで食べた中で、最高に美味しかったのです。

 栽培法を調べて世話をしないといけないのを学びました。プランターの土では足りないのか、種蒔きの時期がずれていたのか、虫除けや肥料なども、もう少し学びながら育てるべきだったと、反省しています。自分の手で、まだ青い葉がついているのに、刈ってしまったのは、安倍さんと同じで、〈断腸の思い〉です。

 春に、家内が薔薇の花をいただいた近くのご婦人が、ベランダのキュウリの葉の緑を眺めて、褒めていてくれた様です。息子さんが飼えなくなった老犬の「アッちゃん」を、最近飼い始めたり、ご主人が5回も手術を繰り返しているとの話を話してくださる方です。記念に撮った、そんなキュウリの花です。『長い間の緑をありがとう!』の8月の最後の日でした、

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人道の港

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 人類史上、最も残忍な指導者は誰でしょうか。きっとヒトラーかスターリンを上げることができそうです。他にもいそうですが。私は歴史を学び、歴史を教えた者として、過去の事実から、人間とは、これほどに残酷なことを、臆面もなく考え、それを実行できるのだと言うことを知って、愕然とさせられました。

 その様な残酷さや残忍さが、自分の内にも潜んでいるのだろうかと、魂の深みをのぞき見ようとした日がありました。ありました、憎悪、赦さない思い、復讐心、否認、いじめなどがあるのを見つけて、慄然としたのです。ヒトラーにしろスターリンにしろ、初めから、残酷に生きたのではなく、小さな〈苦い種〉があって、それが大きく、増殖され、増幅されていき、もう制御できないほどに大きくなって、爆発してしまったに違いありません。

 もしかすると、彼らは、自分の魂を〈闇の勢力〉に売り払って、その勢力下に自らを置いたのではないかと思うほどでした。そうでなければ、あれほどの残忍な仕業をすることなどできないからです。または、いつか、どこかで、間違ったスイッチを、心の中で押してしまったのでしょうか。

 ショパンを生んだポーランドから、765人の孤児が、1920年と1922年の二度に亘って、日本赤十字社の手で救出され、福井県の敦賀港に連れて来られています。ポーランドは、1700年代の後半に、ロシア、プロイセン(ドイツ)、オーストリアによって3度も分割され、国を失います。そのロシアとの戦争で多くの子どもが、親を失って孤児になってしまいました。彼らは、シベリヤに抑留されたり、送られたりしていた子どもたちです。
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 その孤児が、日本に来て、敦賀市民によって、手厚く歓迎や世話をされたのです。「うさぎとかめ」の童謡があります。

「もしもし かめよ かめさんよ
せかいのうちに おまえほど
あゆみの のろい ものはない
どうして そんなに のろいのか」

「なんと おっしゃる うさぎさん
そんなら おまえと かけくらべ
むこうの 小山(こやま)の ふもとまで
どちらが さきに かけつくか」

「どんなに かめが いそいでも
どうせ ばんまで かかるだろう
ここらで ちょっと ひとねむり」
グーグーグーグー グーグーグー

「これは ねすぎた しくじった」
ピョンピョンピョンピョン
ピョンピョンピョン
「あんまり おそい うさぎさん
さっきの じまんは どうしたの」

 この歌を、ポーランドの子どもたちが、敦賀に滞在中に覚えて、口ずさんでいたそうです。髪の毛を洗い、銭湯に連れて行き、服を着せ、食べ物や飲み物で、敦賀市民が養ったのだそうです。この後、1940年代には、リトアニアからのユダヤ人難民が、杉原千畝の発行した、「通過ビザ」を握りしめた、およそ6000人のユダヤ人が、この敦賀に上陸しています。ポーランド孤児同様の厚遇を受けているのです。

 関西淡路大震災で、多くの子が、同じ様に孤児になりました。その孤児のみなさんを、ポーランドは国に招いて、歓迎し、かつての感謝を表したのだそうです。ポーランドの孤児の最後の一人、マリアさんは、『日本の人が、優しく膝の上にのせてくださったことや、看護婦さんによくしてもらったことを覚えています(2008年の記事です)!』と述懐しています。

 『捨てる神あれば、拾う神あり!』で、残忍さの対極で、優しく人道上の愛を示した、日本赤十字社や敦賀市民のみなさんがいて、ほっとさせられます。それで敦賀を、《人道の港》と言うそうです。

(福井県の敦賀港、曽祖父が過ごした港を訪ねたポーランド人のひ孫です)

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風鈴

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 華南の街で、夏を迎えた頃、仕切りに欲しくなったのが、「風鈴」でした。聞きしに勝る中国一暑い街での夏は、驚きでした。木陰のコンクリートの上で、上半身裸のおじさんが、お腹を出して寝ているのです。また犬は、水たまりに腹をつけ、四足を開いて涼をとっていました。

 そんな様子を見、汗をふきながら、『チリン、チリン、チリン!』と、風を受けて鳴るガラスを叩く音が恋しくなっていたのです。杉山平一に、「風鈴」という詩があります。

かすかな風に
風鈴がなっている

目をつむると
神様 あなたが
汗した人のために
氷の浮かんだコップの
匙(さじ)をうごかしておられるのが
きこえます

 風鈴の音を、詩人は、そう言った風にして聞いているのかと思うと、人の感性って凄いんだなと知らされたのです。父の家に、この「風鈴」があったかの記憶がないのです。四人の気の荒い男の子を育てていて、風流などといった気分にはなれなかったのでしょう。

 地球をば 風鈴(りん)に見立てて 鳴らしたし

 2020年、どんな音を奏でて、風鈴は鳴っているのでしょうか。『ショッピングセンターに行ったら買おう!』と思いながら、何度も足を運んだのですが、物の多さと、口のマスクのせいでしょうか、毎度、買い忘れて帰って来てしまいました。同じ杉山平一に、「希望」があります。

夕ぐれはしずかに
おそってくるのに
不幸や悲しみの
事件は

列車や電車の
トンネルのように
とつぜん不意に
自分たちを
闇のなかに放り込んでしまうが
我慢していればよいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
広がって迎えにくる筈だ

負けるな

 夕暮れは静かにやって来ます。お腹が空いて、家に帰りたいけど、まだ遊んでいたい思いと戦いながら過ごした、幼い日が昨日の様に感じられます。一番星が輝き、煙がたなびき、闇が濃くなろうとしていました。さんまの煙です。お腹が、グウと鳴っています。明日も、人生の夕暮れに負けないで、『天気になーれ!』でした。必ず、朝が来るからです。
 
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