公平

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 「美」とは、どういったものなのでしょうか。アメリカ映画の「ジャイアンツ」に出ていた “ エルザベス・テーラー “ は、絶世の美女でした。十代のはなたれ小僧の私でも、スクリーンに映された、この女性の美しさには息を飲んでしまいました。自分の母親が、《今市小町》と言われた、けっこう綺麗な人でしたが、それには比べられないほどで、彫刻刀で彫った様に彫りが深く、魅惑的でした。

 〈世界三大美女〉が、クレオパトラ、楊貴妃、小野小町なのだそうですし、今でも、「世界ユニバース」、「ミス◯大」などで選ばれる女性も、投票で選ばれる〈◯◯ベスト美女30〉も、「美」、つまり〈顔の造作の良さ〉に対する賞賛、憧れ、羨望、さらには嫉妬などは、ものすごいエネルギーがあります。

 ところが、映画女優の晩年の写真を見た時、『えっ、この人がオードリーヌ・ヘップバーン!あ』と驚いたことがありました。どうも、「美」は、束の間、過ぎゆくもの、偽りなのだということが分かったのです。一番残酷なのは、「時」なのだという訳です。

 今、時々買い物に行く、近所のドラッグストアーのレジを打つ女性が、急に、綺麗になってしまったのです。新しい人が入ったのかと思ったら、化粧を上手にする様になって、美しくなったのです。きっと化粧を落としてしまうと、元の顔に戻ってしまうのでしょう。以前の顔を知らない、若い男性に、以前の彼女を教えないことにしています。

 ある人は、親にもらった顔に、小細工をして、隆鼻術を施したりします。ところが時間がたつと、シリコンが劣化してしまったりで、けっきょく、もとの鼻の低さに戻ってしまうのだそうです。私の愛読書に、「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。」とあります。



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 美も醜も、紙一重、黛一本、白粉の一塗りの差だけです。公平に年を重ねるように、醜女も美女も、鼻の高さも肌の色艶も、ほぼ大きな差がなくなってしまっています。心の内面を飾って生きてきたご婦人は、生き生きとしておいでです。遠慮がちに生きている女性は、みな美しいではありません。ここに上げたのは、若かった時と晩年のエリザベス・テーラーの写真です。美って、けっこう〈錯覚〉なのかも知れません。さもなければ〈比較〉かも知れません。

 中学生の頃に、動物園に行った時、一番驚いたのは、孔雀でした。『私って美しいでしょう!」と、あの羽を広げて、これでもかこれでもか、『どう!』と誇っていた姿を見て、『美しさって疲れるだろうなあ!』と、正直思ったのです。男も同じです。あんなに男盛りに輝いていた人も、老いて、顔だけではなく、心にもシワが寄ってきて、〈栄枯盛衰〉、見る影もなく萎んでいくのが、人の世の常です。分け隔てなく、どなたにも衰えの時が訪れるわけです。まさに《時は公平なり》です。

(エリザベス・テーラーと田中角栄です)

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