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今の群馬と栃木は、毛野国(けぬのくに、けののくに)と呼ばれていたそうです。律令制下では、群馬は上毛野(上野国/こうずけのくに)、栃木は下毛野(下野国/しもつけのくに)と呼び名が替えられています。栃木を北から南に流れる、「鬼怒川」がありますが、その呼び名の漢字表記が、毛野川、衣川、絹川を経て、鬼怒川に定着したと言われています。漢字伝達以前に命名され、呼ばれていたのを、漢字表記をしたことから、そう考えられています。
関東平野の奥まったこの地域は、氾濫原であって肥沃で、穀物、とくに米をよく産出したようです。確かに、東京から電車でも車でも乗って、栃木に向かう地は、延々とした平野であることが分かります。その地を、勤勉に、農家のみなさんは耕して植えて実りを収穫してきた姿が、見えるようです。
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源平の合戦の折に活躍した、源頼朝に仕えた「那須与一」が有名で、大田原市に、その名にちなんだ「与一温泉」があります。これも温泉ブームで誕生した温泉であって、郷土の偉人の名を冠しているのです。関ヶ原の合戦前に、小山において「評定(ひょうじょう)」がもたれています。
この「小山評定」は、徳川家三百年の安泰の道筋をつけた重要な軍議だと言われます。慶長五年(1600)の七月に、家康は、会津の上杉景勝を討つために北上の途上、小山に本陣を置くのです。その時、石田三成が兵を動かしたとの知らせがあって、急遽家康は本陣に諸将を招集したのです。『このまま上杉を討つべきか、石田を討つべきか?』を軍議にかけ、家康の従う者たちの結束ができ、石田征伐を決めます。これが「小山評定」なのです。
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この軍議が行われた場の近くに、思川が流れ、今では、「思川桜」が、きれいに咲き誇り、もう間もなく観桜できそうです。
江戸時代には、宇都宮藩、壬生藩、烏山藩、黒羽藩、大田原藩佐野藩、足利藩、吹上藩、高徳藩、喜連川藩がありました。とくに喜連川藩は、参勤交代なし、江戸下屋敷もなく、大名の石高は極めて少なかったのですが、高位の大名の取り扱いを受けたのだそうです。
私たちにとっては、〈まさかの栃木〉で、住み始めるとは考えたこともありませんでした。それなのに、今や第三の故郷のように感じてきているのが不思議です。宇都宮氏の居城のあった宇都宮は、県都です。実は、栃木市が、そうなるべきだったのかも知れませんが、明治維新政府の県令、薩摩藩士だった三島通庸の一存で、そうなったのだと聞いています。この栃木は、自由民権運動が盛んだったそうで、それを嫌った三島の独断だったのかも知れません。
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ところが、この三島は、『手にすくう水もなし』と言われた那須野ケ原に、開拓の手を入れ、その貢献は大きいのです。福島県令も兼務したので、猪苗代湖から「安積疏水」を作り、栃木には「那須疏水」を作っていますので、栃木の開発には尽力した人でした。自分の別荘を、那須に作っていますから、この地が好きだったのでしょう。乃木大将も別宅を設けていますし、大山勲、松方正義、青木周蔵らの明治の元勲たちが、この地を愛したようです。後に、三島は、警視総監を務めています。
サキソフォン奏者の一人者の渡辺貞夫の出身地であるからでしょうか、それよりも以前からでしょうか、宇都宮は〈ジャズのある街〉と言われています。アメリカでは、ニューオルリーンズが有名ですが、そういえば、宇都宮も栃木も佐野も足利も、街を歩くと、喫茶店が大変多いのです。我々世代がよく席を温めながら、美味しそうに珈琲を楽しんでいる姿をよく見かけます。
上野国の北に那須があります。温泉地や御用邸で有名ですが、かつては、「国造(くにのみやっこ)」が置かれ、後に大田原氏の居城のあった、現在の大田原市が中心でしょうか。この街に、大田原宿の近くに、「黒羽(くろばね)」と言う、黒羽藩があって、芭蕉は、ここを訪ねています。私たちの知人のお母さまの故郷なのです。
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ここの「奥の細道」の芭蕉が、十三泊十四日で逗留したことで有名です。あの旅の日程の中でも長期滞在したことになります。多くの俳句を詠んでいます。
行(ゆく)春や 鳥啼き魚(うお)の 目は泪
山も庭も 動き入るるや 夏
木啄(きつつき)も 庵(いお)は破らず 夏木立
居心地の良い街だったのでしょうか。ここには、那珂川が流れていて、その水流を利した「舟運」が盛んに行われていました。栃木市の巴波川と同じように、商業で栄えています。
『近世中期の頃から明治の終わり(鉄道開通)頃まで、那珂川には帆かけ船(小鵜飼船)や筏による舟運が行われた。黒羽の属する東野地方は、利根川水系の文化圏に属し江戸と結ばれ、奥州街道の開通によって、南奥(白河、会津方面)にまで商圏を拡大していた。輸送の経路は黒羽から常陸の野田や長倉を通じて水戸に入り、更に一部陸送し、北浦を南下し、利根川をさかのぼって江戸へと、廻米等の物資輸送が行われ、常陸、野州、奥州の文化経済交流の役を果たしていた。黒羽には両河岸(上河岸・下河岸)があり、天保4年(1833年)頃の持ち船は46艘を数え、主な輸送物資は、米、酒、しょう油、たばこ、茶、絹糸、木材等で、帰りの荷は海産物が主で、乗合にも利用されていた。現在下河岸跡には石垣と水神を祀る小祠が老松の傍らに残っている。河原は河川公園となっている。(大田原市資料)』
この栃木の南に、野木町があります。ここには、130年間創業した「煉瓦工場跡」があります。「近代化産業遺産群」の一つに選定されていて、日本近代化に大きな役割を果たしたのです。どんな建物に用いられたのでしょうか。
やはり、栃木県と言えば「日光」です。家康の墓所で、小学校の修学旅行で行きました。左甚五郎の作で、陽明門に「三猿」、回廊に「眠り猫」があって有名ですが、なんか遠くてしっかり見たような記憶がありません。「鳴き龍」の下で手を打ったのですが、無反応でした。この日光は、二宮尊徳の終焉の地でした。小田原の人でしたが、請われて、現在の「真岡(もおか)」の桜町の農村改革に尽力したのです。その後、日光でも、同じように働いたのです。
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2020年の今頃、家内を見舞いに、中国からご夫妻が来てくれました。忙しく教会のお世話をするご夫妻で、よくお招きくださって、親しく交わりを持たせていただいたのですが、家内の闘病に力になってくださろうと仰って、祈るために訪ねてくれたのです。案内して下さる方がいて、日光に行かれ、東照宮の近くにある聖公会の教会の存在を知って、大きな感動を示しておいででした。雪を知らない方で、戦場ヶ原では、雪原に身を投げ打って、子どものように雪の感触を楽しんで、はしゃいでいたのです。
栃木から、SONYの創業者の井深大が出ています。会津藩士を祖とする家系の出で、親戚筋にあたる、井深八重は、神山復生病院の婦長として献身的な看護にあたり、生涯をハンセン病患者の救済に捧げた人でした。井深はクリスチャンで、Sonyの企業的な祝福に原点が、彼の信仰にありそうです。
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かつて下野国の農村部から、国防の使命を託されて多くの若者が、「防人」として、九州の防備に当たっています。京から遠い地の足利は、足利氏の支配地で、室町幕府の開幕に携わった、足利尊氏は有名です。県都宇都宮は、軍事施設があったりで、連合軍の爆撃に遭って、多くの市民のいのちや施設が失われています。県民として五年目を迎えた栃木県は、県花は「ヤシオツツジ」、県木は「トチノキ」、県鳥は「オオルリ」、人口は190万人です。
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