「仕事」

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「そば畑」長野県信濃町

 長野県下の中央自動車道に、「伊北」というインターチェンジがあります。その近くに、家内と私の行きつけの「蕎麦屋」がありました。飯田の近辺で、英語教師をしていた娘婿たちが住んでいましたので、ちょくちょく訪ねていたのです。その飯田からの帰り道を、高速を走らないで、国道を走っていましたら、一軒の「蕎麦屋」を見つけたのです。食事時だったこともあって、入ってみました。「ざるそば」を頼んでから、メニューをみますと、「そばがき」が品書きにありました。それで、注文してみたのです。きっと素朴なものが出てくると思っていたのですが、出てきた「そばがき」は、もちろん、そば粉を練ったものなのですが、まるでプリンのようでした。胡桃で造られたソースが掛けてあって、350円ほどだったと思います。口の中で溶けるようでしたし、「そば」の香りと胡桃とがほどよく調和して、美味しくいただきました。

 その味に魅せられた私たちは、帰り道を同じようにとって、四、五回でしょうか、そのお店の暖簾をくぐったのです。何度か目に行ったときに、ご主人がいなくて、息子さんが「そばがき」を作って出してくれました。ところが、お父さんのような味が出ていなかったのです。なんとなくザラッとした感じで、その違いが一目瞭然でした。最初に行った時に、『そばがきを自分で作ってみたいので、そば粉を分けていただけますか?』と聞きましたら、直ぐに返事が出なかったのです。『素人の方では、ちょっと・・・』と言葉を濁されたので、諦めて帰ったのです。その意味が、息子さんが作って出してくれたのを食べた時に、分かったのです。単なるそば粉をお湯で溶いたものを、と思っていたのですが、やはり、「職人芸」というのでしょうか、年季が入らないと、あのようなものは作れないのでしょう。あの味を知ったら、「そばがき」は、これしかないことになって、それ以来、よその蕎麦屋に入っても、「そばがき」の注文はしたことがありません。

 このお店で、最初に「そばがき」を食べた時に、調理場から暖簾を押しながら、私たちの「ざるそば」の進み具合を伺っていました。それは、食べ終わって出す頃合いを見計らっていたのです。そんなに細かい心配りがあって、あの「そばがき」を美味しく頂いたわけです。いつ出しても構わないのではなく、そこまで気配りをするというのは、本物の「蕎麦職人」なのだと分かって、とても嬉しかったのを覚えています。『たかが蕎麦、されど蕎麦!』と言うのでしょうか、ご自分の天職に情熱を傾ける心意気というのが、私たちより一回り半ほど年かさの名のない職人さんの内側に宿っているのを感じました。

 こういった世代の技能者が、あらゆる職域にいて、プロ意識を持って、頑固に、愚直に生きてきていたのです。その世代が消えてしまい、次の世代が台頭してきます。この世代は、ほんの短い期間の修行で、独立して一城の主(あるじ)に収まる傾向があるのでしょうか。やはり、前の世代の職人芸には、程遠いのです。かつての「職人」たちは、さしたる高等教育は受けていなくても、仕えた主人の技術を盗んで覚え、会得してきた職人だと聞かされています。這うように修行した人がほとんどだったのです。その仕事をやめたら、次の仕事が待っているような今日日とは違っていましたから、「石の上にも三年」の努力をし、下働きをしながら「仕事」を覚えたのです。ですから仕事への愛着と意識を強固に持っていた世代でした。そういったおじさんたちが、アルバイト先に、何人もいたのを覚えています。みんな「頑固オヤジ」でした。それだからでしょうか、学ぶことが多かったのです。四月朔日、今日から「新年度」でしょうか。新たに社会人になる方の「仕事」が祝されますように!

(写真は、ぶろぐ〈FOTOFARM信州〉の信濃町の「蕎麦畑」です。

夕食

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 昨晩の「夕食」が綺麗だったので、写真を撮ってアップしました。「日本食」の感じ100%です。味噌汁と梅干し、キャベツの塩もみと菜の花のおひたしと果物が添えられています。健康や食生活に注意しながら過ごしています。ご安心ください。

「夜桜」

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「目黒川の桜」

 今朝一番で、次男が送信してくれた「目黒川の桜」をアップします。早朝でしょうか、昨晩でしょうか、華の東京の名所の「夜桜」です。上野も綺麗ですが、春の宵を、そぞろ歩きながらの「観桜」は、この川ぞいの堤の桜が最高です。写真で、「桜」を楽しませてくれる気持ちに感謝して! 

「おやつ」

おしるこ.

 「おやつ」は、「御八つ」と書きます。gooの辞書によりますと、『《八つ時(どき)に食べたところから》午後3時前後に食べる間食。また、一般に間食のこと。 』とあります。上流の家庭のお母さんですと、『お三時ですよ!』と呼びかけてくれるのですが、母には、『なにか食べるものある?』と、その時間帯になると、聞いていたでしょうか。育ち盛りの子どもたちには、この時間、つまり、まだ夕食まで、しばらく時間があったり、学校から帰ってくる頃には、お腹が、『グーゥ!』とサインを出している時間帯です。お釜でご飯を炊いていた頃、釜の底に焦げ付いていたご飯を水にひたして、取り出し、平べったい、木製のお鉢にとって、母が外に干していました。それでいろいろな物をこしらえてくれたことがあったのです。これが「ほしいい」だったと思います。昔の人は、物を大事にしたのですね。

 山奥から、都会に出てきたばかりの頃、住んでいた家の近くに小さな小屋があって、そこで小父さんが、今では、『昔懐かしい・・・!』と書いた袋の中に入れて、スーパーで売っているか、もうほとんどなくなってしまっている駄菓子屋にあるような「飴」を、板の台の上で、ひっぱたいたり、手でゴシゴシと伸ばしたりしながら、作っていました。『端っこをくれないかな!』と期待して、その作業を眺めていましたが、もらった試しがなく、行くのをやめてしまいました。キュウリやトマト、いちじくやいちご、庭グミなどが目に入ると、「収穫」の助けをしていました。いえ、盗み食いでした。あの頃の私は、いつでも空腹を感じていましたが、今の子どもたちには、「空腹感」とか「飢餓感」というのを知らないほど、物にあふれた時代に育っているのでしょうか。

 あの頃、一番美味しかったのは、小遣いで時々買うことができた、「落花生」を真っ白な粉砂糖でかぶせたお菓子でした。買えるときは、小銭をポケットに入れて、跳んで行き、小さな紙袋に入れてくれたのを、こっそりと食べていたのです。実に美味しかった!よく行く、こちらのスーパーの壁に、いろとりどり、驚くほどの種類のお菓子が並んでる中に、それがあるのです。懐かしくて、月に一度くらいは買ってしまいます。こんなコーナーの光景は、こちらに来たばかりの頃は、本当に珍しいことでしたが、今では、どこに行っても、食べ物があふれていて、子どもたちが、『モグモグ!』と口を忙しく動かしています。

 さて、わが家でも、今日の週末の午後に、「おやつ」が出てきました。「小豆(あずき)」を砂糖と少々の塩で煮たものに、冷蔵庫に中に残っていた、どなたかに頂いた「お餅」を焼いたのを入れて、家内が作ってくれた、「おしるこ」でした。何の期待もなかったので、驚いたぶん、なお美味しかったのです。一瞬、日本にいるような感覚に陥ったようでした。「舌鼓を打つ」とは、こういったことなのでしょうか。辞書には、『あまりのおいしさに舌を鳴らす。舌鼓を鳴らす。「山海の珍味に―」』とあります。たまには、こういった「甘味」も、心にはいいかも知れませんね。美味しい物には、「お」が付くのですね。そんな美味しい三月三十日であります。

(写真は、「おしるこ」です)

味方

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春の海

 子どもたちが小さかった頃の話です。「夫婦喧嘩」に、子どもたちが巻き込まれて心を痛めていたことがあったようです。家内は、おっとりでのんびり、いえ慎重に生きる人です。それに反して、私は、せっかちで、気短で、衝動的で短絡的なのです。男ばかりの間で育ったからと言うよりは、「わがまま」に育ったから、そうだったのでしょう。夫婦でも、家族でも、親しい友人の間でも、隠れた思いを隠れ持っていて、苦い思いが心を満たして、何時か〈大噴火〉するよりは、ときどき〈小噴火〉をしたほうがいいと、単純で、気の短い私は、そう思いながら生きてきました。

 あるとき、上の娘が、お風呂に一緒に入りながら、家内にこんなことを言ったそうです。

 『おかあさんをいじめるから、おとうさんきらい?』
 『きらいじゃあないよ。おかあさんは、「あば(?!)」にあいされているから、おかあさんもおとうさんをあいしてるよ!』

 寝る前になって娘が、

 『おとうさん、おかあさんはおとうさんをあいしてるんだよ。おかあさんはおとうさんのみかたなんだよ。おとうさんもおかあさんのみかただね!!』

 そう念を、娘は私に押したのです。子どもたちは、両親が、どう互いを見ながら、評価しながら、一緒に生きているのかを、大きな目を開きながら見て、心全部を向けていたようです。願ったようにしてもらえなくて文句を言い、非難する短気な父親を見ながら、家内の味方をして、両親の間をとり持とうと、悩みながら、考えながら、最大限に知恵をふり絞りながら、執り成そうと努力していたのです。攻撃型の父親と、防御型の母親の衝突は、一方向の争いでした。取っ組み合いの喧嘩をしたことなどありませんでした。もし彼女がヒステリーだったら、「金切り声」を上げて、鳥小屋のような家庭だったことでしょう。

 勝っているのに、私には勝利感がないのです。しかし負けているのに、家内の方は勝利感に溢れているわけです。彼女のほうが大人で、『駄々っ子と一緒に生活をしてきた!』という感じだったのでしょうか。いつでも、子どもたちは母親の味方でした。子どもたちが、みんな出て行ってしまってからは、結局、夫婦の私たちは、「振り出し」にもどってしまったわけです。これまでを総括すると、「オリーブの冠」や「軍配」は、家内、四人の子どもたちの母親に上がるようです。

 後、どれだけ一緒にいられるのでしょうか。もう一つの「振り出し」、どちらかが独りになる時が来るのでしょうね。短い一生で、出会って結婚の契を交わしたのですから、もっと変えられながら、異国の空の下を一緒に生きていくことになります。そんなことを思っている弥生三月も、今日明日で終わろうとしております。こんな両親を、四人は、それぞれ、どう思っていることでしょうか。

(写真は、和(な)いだ「海」です)

「三村マサカズ」

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「やまぶき」

 『日本語ってむずかしいです!』と、こちらで日本語を専攻する学生のみなさんが言います。確かにそうだと思います。「助詞」、「敬語」、「時制」、同じ表記の漢字の意味の違い(「手紙」は、中国語は〈トイレットペーパー〉。「勉強」は、〈嫌々ながら、無理をして〉)、などをあげています。

 今朝、家内と話をしていて、一つの単語が話題になりました。「強力粉」でした。小麦粉に、パンなどを作るときに使う小麦粉を「きょうりきこ」、山小屋の生活用品や登山者や、その荷を担ぎ上る人のことを「ごうりき」と読みます。この他に、「つよ(い)」とも読むわけですから三種類の読み方があるのです。また「力」は、「りょく」と「りき」と「ちから」と三種類あるわけです。「粉」も、「こな」と「こ」と「ふん」とよみます。こんなやややこしい発音で話される言葉を、「強」と「力」と「粉」の三文字で表すわけです。このように発音をする国語・言語は、世界でも珍しいのではないでしょうか。

 日本には、古来、この国の中で話されていた、「やまとことば」があったわけです。「さわやか」とか「あでやか」とか「はぐくむ」といった言葉です。ところが、私たちの国には、文字がなかったわけです。それで、おとなりの中国の文字を借用したわけです。「漢字」が、それでした。それを「音読み」と「訓読み」で発音して文字で描き表してきています。一番ややこしいのは、「姓名」です。同じ文字でも発音が違うからです。これは中国語では殆どありません。「三村マサカズ」という人気お笑いタレントがいますが、この「三村」という「姓」は、「みむら」と読む場合も、「みつむら」と読む場合もあります。どちらなのかは、本人に聞かなければなりません。外国人の学習者にとっては、これもは最上級の難しさなのだそうです。

 その上に、日本語には、「漢字」から創りだした「仮名」があります。しかも「ひらがな」と「カタカナ」があるのです。これら三つの文字で、日本語を書き表し、西洋数字やアルファベットや記号だって加えて使うわけです。また、たとえば「つ」には、小文字の「っ」があるように、小文字表記だってあります。そんなにややこしいので、明治の御代には、時の文部大臣の森有礼が、英語表記や、国語を英語にしようという考えを持っていたと聞いております。もしそうなっていたら、今頃、日本語は消えてしまって、ブラジルやハワイなどの移民先の外国に残っているだけだったかも知れませんね。

 いつでしたか、ソウルに行った時に、『日本語は詩のように美しい言葉ですね!』と褒めて頂きました。そしてこの方は、『韓國語が演説や講演に向いた言葉なのです!』と語っておられました。たしかに、そうです。小学校の国語の時間に教えてもらった「和歌」を、覚えています。太田道灌が雨の「鷹狩」の中で、雨宿りした家で、一輪の花を少女から受けとったという逸話があります。「蓑(みの、昔の雨避けの合羽)」を借りようとしたのに、花が出てきて、道灌は怒って去ったのだそうです。ところが、歌の心得のある部下が、『蓑がない貧しさを、「山吹(実のない花)」にかけて、その一輪を少女が渡したのです。それは、兼明親王が詠まれた和歌にゆらいするのです!』といったそうです。その和歌とは、

      七重八重 花は咲けども 山吹の 
      実のひとつだに なきぞかなしき

でした。山奥の農家の少女は、それほどの学才があったことになります。これを教えられた時に、『日本語ってすごく面白い言葉だ!』と思ったことでした。それなのに、国語の先生にも学者にもならなかったのは、実に残念なことであります。和歌の真意の解することのなかった無骨の道灌は、それ以来学問にも励むようになったそうです。

(写真は、「山吹(やまぶき)」です)

「かあさんの歌」

 1956年に 窪田聡の作詞・作曲による「かあさんの歌」が発表されています。

     母さんは夜なべをして
     手ぶくろあんでくれた
     こがらし吹いちゃ
     つめたかろうて
     せっせとあんだだよ
     ふるさとのたよりはとどく
     いろりのにおいがした

     母さんは朝いとつむぐ
     一日つむぐ
     お父は土間でわらうち仕事
     おまえもがんばれよ
     ふるさとの冬はさみしい
     せめてラジオ聞かせたい

     母さんのあかぎれいたい
     生みそをすりこむ
     ね雪もとけりゃ
     もうすぐ春だで
     畑が待ってるよ
     小川のせせらぎが聞こえる
     なつかしさがしみとおる

 「凩(こがらし)」とか「囲炉裏(いろり)」とか「土間」が出てきますから、日本の地方の農村を舞台に、子育てをしてくれた、「日本の母」を歌っています。窪田聡は、東京の下町で生まれましたが、戦時中、長野県にあったの父親の実家に「疎開(そかい、gooによりますと、『空襲・火災などによる損害を少なくするため、都市などに集中している住民や建物を地方に分散すること』)」をしたこと、母が家出先に送ってくれた手紙や小包をもらった経験から作詞をしました。歌っていると、絵が見えるような歌で、私も、母や故郷を思い出してしまいます。

 私を育ててくれた家でも、お金が無いこともあったのでしょうか、運動会ではく「足袋(たび)」が買えなくて、母が明日の運動会のために、夜遅くまでかけて、手縫いでこしらえてくれたことがありました。結局、鈍足な私は、賞を取ることが、いつものようにできませんでしたが、『参加に意義あり!』の精神は果たすことができたのです。その母が召されて、ちょうど一年になります。時々思い出してしまいます。生きていたら、『お母さん。大陸の片隅で元気に生きていますよ!』と便りをしたいところです。詠み人のいない手紙は書けませんので、ただ懐かしく、母の手を思い出している、「彌生」の末の週日の朝であります。

(マンガは、「毎日新聞」2013年3月17日付の「毎日かあさん」です)

「江戸しぐさ」

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 いっとき、「江戸しぐさ(仕種・礼儀作法のこと」ということをよく耳にしました。「礼儀正しい日本人」という高評価を得た私たちは、そのルーツを、江戸時代に求め、江戸の街中、特に江戸の街中で生活をする庶民が、周りの人々に「気配り」をした生き方を、そういったことばで表現したようです。そう言えば、母が、『人さまに迷惑にならないようにするんですよ!』と、よく言っていたと思います。あまり細々としたことを注意しなかった母ですが、さすがに日本の母親として、「処世術」を躾てくれたのだと思います。

 この「躾(しつけ)」という文字は、実に素晴らしく意味深いのに驚かされます。しかし、漢和辞典で調べてみますと、「漢字」にはなく、「国字(我が国で作れた文字)」で、どなたかが、『身を美しく飾りたい!』との願いを込めて作字したのでしょう。町中や農村といった狭い社会の中で生きていくためには、人と人の距離が近いので、相手を気遣わないといけなかったのでしょうか、『ここまで気配りをするのか?』と思うほど、日本人は注意深く生きてきているわけです。

 家族の中では、とくに甘やかされた私は、傍若無人の振る舞いがあったのですが、〈病弱〉に免じて許されていたのです。最悪のケースでした。それで小学校4年くらいの時に、多摩川の河原の土手の上で、父親に説教されました。そもときの光景も、父の表情も、いまだに忘れないのですから、肝に命じたのだと思います。それを契機に反省した私は、気配りが出来るようになったのかも知れません。それでも、結構やりたい放題だったのですが。そんな私を煙たがらなかった兄や弟には、頭が上がりません。

 駅の近くで、甲州街道から少し入ったところに、「銭湯」がありました。家に内風呂があるのに、広い浴槽と、よく滑るタイルがはられていましたので、格好の遊び場でした。手ぬぐいに銭湯代を手に、近所の仲間とよく行きました。下湯を使ったり、静かに浴槽につかったりしないので、しょっちゅう怒られて小言を言われていました。それでも当時のおじさんたちは、制限内で遊ばせてくれる〈おおらかさ〉があったのだと思います。使った桶や腰掛け(これが当時あったかどうか覚えていませんが)を片付けることも教わりましたから、〈実教育の場〉でもあったのだと思います。

 聞くところによりますと、江戸っ子たちが「銭湯」に、入るときは、『冷えもんでございます!』と、一声かけて入ったのだそうです。冷えている体で、お湯の中に入るので、湯加減をぬるくしてしまう無礼を一言詫びたのです。意味は、『失礼をいたします!』でしょうか。そういった「ことば」と「行為」が、集団の中で生きていく礼儀と術(すべ)を身につけていったのでした。それを聞いている子どもたちは、『そう言うんだ!』と教えられたわけです。こちらには「銭湯」はありませんので、こういった経験はないのですが、雨の日に通りを傘をさしてで歩いていますと、向こうから来る人は、江戸の街中で見られた、「傘かしげ」をしてくれます。江戸の「専売特許」と思っていたら、この町の「仕草(しぐさ)」、「所作(しょさ)」でもあるのです。まあ、相手への配慮は、万国共通でしょう。〈ニューヨークっ子〉だって、〈ベルリンっ子〉だって、きっと、そうすることでしょうね。

(絵は、『火事とけんかは江戸の華』の「出初式(江戸/明治・歌川広重画)」です)

黄河の砂の中から

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 先ほど電話があり、『去年、船の中でお会いした◯川です!・・・・沖縄に関係がある遺跡に来て、会えるかと思って、近くの師範大学に行ったら、親切な方が調べてくれ、お宅の電話番号を教えてくれましたので電話しました。』と言っておられました。私が教えているのは、師範大学ではなく、別の大学なのに、どうして私の電話番号が分かったのか、じつに不思議です。◯川さんがお会いしたのは、どんな「親切な方」だったのでしょうか。実は、我が家の電話番号を知っておられるのは、ほんの僅かな人だけですから、私の働いてる大学も知らないはずなのに、いわんや師範大学では調べようがないのにです。ちょっと、《狐に摘まれている感じ》でおります。多分、『Z女史にちがいない!』と思っていますが如何に。

 500万人もいる省都の中で、外国人の私の家の電話番号、そして電子メールのアドレスを知っている方から、教えられたというのですから、黄河の砂の中から指輪を探し出すようなものです。こんな人と人との出会いがあるのでしょうか。隣に背中合わせにいても、すれ違ってしまって、二度と会えない知人同士、恋人同士だっていると聞きますから、摩訶(まか)不思議です。『これから午後、別の町に行くことになっていて、ちょっとお会いしたくなって・・』と言っていました。しかし私は、『学校があって、今日は時間がとれないので・・・』と、電話でやり取りをしました。

 この方とは、去年の8月から3ヶ月の間、中国中を一人旅すると言って、上海の埠頭で別れたのです。私の名前、この街にいることは覚えておられたのですが、聞いた大学の名を忘れ、多分と思って訪ねた大学で、「親切な方」に借りた電話でかけてきたわけです。昨年の9月15日の事件の最中も、旅行をされて11月に帰国されたのだと言っていました。私の娘婿が働いていた飯田市の出身で、東京に隣接する街に住んでおられ、退職後奥様の許可を頂いて旅行をしていると言っていました。私より1つほど若い方です。

 今電話をしましたら、やはり「Z女史」でした。今日は旧キャンパスで教えていたら、知り合いから電話があって、私の電話番号を教えたのだそうです。この知り合いで、「親切な方」は、私のことを知っていて、それなら「Z女史」に聞けば分かるだろうと思って、聞いてこられたそうです。500万もの人の群れの中にやって来て、訪ねた人が私を知っていたというのは、「千載一遇」という出会いなのでしょうか。いやー、ほんとうに驚きました。今日の午後、授業がなかったら、跳んでいけたのですが、まあ、次回の楽しみにしようと思います。◯川さんたち三人の旅の無事を願いつつ、「親切なか人」にも感謝して。

(写真は、黄河中流の「壺口瀑布」の花です)

春風

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 私の長女が小さい頃のことです、おめかしをしていましたら、ある女性が、『◯◯◯ちゃん、「馬子にも衣装」ね!』と言いました。きっと、『よく似合いますね!』と言おうとしたのですが、言葉を間違えたのだと思います。「ことわざ辞典によりますと、『どんな人間でも身なりを整えれば立派に見えることのたとえ。』とあります。まあ善意に解釈すると、普段、褌を締めて粗末な身なりをして働く馬子だって、きちんとした衣服を身につけたら、お大尽にだって見えるのです、とです。人は身なりの外見によって判断できないものだというふうに取れなくもないのですが。しかし、この言葉は、「侮辱(ぶじょく)」の思いが込められていて、使われるのが普通です。あのような場合に使う言葉ではなかったわけです。

 もし私が、みなさんが綺麗に着飾って私の前に立たれた時、『「馬子にも衣装」で、今日はとても美しいですね!』といったら、きっと憤慨して、私とは二度と口をきいてくれなくなることでしょう。娘に、そういった方は、若い時に、小学校の先生をしていた方ですから、「諺」の真意を理解していたに違いありません。きっと私と家内へ特別な感情があって、こういった言い方をしたのだとしか思えないのです。でも、私は、その方をよく知っていたので、腹が立ちませんでした。かえって「気の毒」に思ったほどです。そう言われた娘は、ほめられたと思って、ルンルン気分でスキップしていたのです。

 子どもっていいですね。「馬耳東風」、「馬の耳に念仏」、言葉の意味や語る人の悪意にかかわらず、快活に生きていけるからです。この子は、優しくて敏感な心を持っていますが、大らかなのです。まだ幼かった長男が硬い桃をかじりあぐねていた時に、『お兄ちゃん、こうやって食べるんの!』と言って、『ガブリ、ムシャムシャ!』と、二歳違いの彼女は食べてしまったのです。柔らかい桃しか食べていなくて慣れなかった長男に、どんな硬さでも美味しく食べられる、「臨機応変」な生き方を身につけていたからでしょうか。

 体格も大きく育ったので、クラスのリーダーだったのです。上級生にいじめられてる同級生を助けたり、高校の時には、先生の人生相談をしたりしていました。ピアノが好きで、音楽大学に進学したかったのですが、叶えてあげられませんでした。それで、東京の夜間の短期大学に進学し、昼間は働きながら卒業し、働きながら蓄えた資金と私の兄に借りたお金で、アメリカの大学に留学してしまいました。しっかり学んで卒業したら、ロスアンゼルスで働き始め、今はシンガポールで働いています。すでに借りたお金は、きちんと返済しています。留学先から帰ってくると、妹と同じスーパーで、ピンクの制服で身を包み、『いらっしゃいませ!』のレジのアルバイトを、ずっと続けていました。

 何を言われても、すぐ忘れてしまえるのは、ああいって揶揄されたり、侮辱されても、それを跳ね返せて、平気で生きていける心の質を持っているからなのでしょうか。それは素晴らしいことだと思います。ちやほやされたり、甘やかされなかったことが、人のことに気配りできる優しさを培ったのでしょうか。会社の中枢になっている今、時々、私たちを気遣っては、『元気?』と電話をくれます。まるで「春風(しゅんぷう)」をうける「福寿草)ふくじゅそう)」の花のようです。