私の長女が小さい頃のことです、おめかしをしていましたら、ある女性が、『◯◯◯ちゃん、「馬子にも衣装」ね!』と言いました。きっと、『よく似合いますね!』と言おうとしたのですが、言葉を間違えたのだと思います。「ことわざ辞典によりますと、『どんな人間でも身なりを整えれば立派に見えることのたとえ。』とあります。まあ善意に解釈すると、普段、褌を締めて粗末な身なりをして働く馬子だって、きちんとした衣服を身につけたら、お大尽にだって見えるのです、とです。人は身なりの外見によって判断できないものだというふうに取れなくもないのですが。しかし、この言葉は、「侮辱(ぶじょく)」の思いが込められていて、使われるのが普通です。あのような場合に使う言葉ではなかったわけです。
もし私が、みなさんが綺麗に着飾って私の前に立たれた時、『「馬子にも衣装」で、今日はとても美しいですね!』といったら、きっと憤慨して、私とは二度と口をきいてくれなくなることでしょう。娘に、そういった方は、若い時に、小学校の先生をしていた方ですから、「諺」の真意を理解していたに違いありません。きっと私と家内へ特別な感情があって、こういった言い方をしたのだとしか思えないのです。でも、私は、その方をよく知っていたので、腹が立ちませんでした。かえって「気の毒」に思ったほどです。そう言われた娘は、ほめられたと思って、ルンルン気分でスキップしていたのです。
子どもっていいですね。「馬耳東風」、「馬の耳に念仏」、言葉の意味や語る人の悪意にかかわらず、快活に生きていけるからです。この子は、優しくて敏感な心を持っていますが、大らかなのです。まだ幼かった長男が硬い桃をかじりあぐねていた時に、『お兄ちゃん、こうやって食べるんの!』と言って、『ガブリ、ムシャムシャ!』と、二歳違いの彼女は食べてしまったのです。柔らかい桃しか食べていなくて慣れなかった長男に、どんな硬さでも美味しく食べられる、「臨機応変」な生き方を身につけていたからでしょうか。
体格も大きく育ったので、クラスのリーダーだったのです。上級生にいじめられてる同級生を助けたり、高校の時には、先生の人生相談をしたりしていました。ピアノが好きで、音楽大学に進学したかったのですが、叶えてあげられませんでした。それで、東京の夜間の短期大学に進学し、昼間は働きながら卒業し、働きながら蓄えた資金と私の兄に借りたお金で、アメリカの大学に留学してしまいました。しっかり学んで卒業したら、ロスアンゼルスで働き始め、今はシンガポールで働いています。すでに借りたお金は、きちんと返済しています。留学先から帰ってくると、妹と同じスーパーで、ピンクの制服で身を包み、『いらっしゃいませ!』のレジのアルバイトを、ずっと続けていました。
何を言われても、すぐ忘れてしまえるのは、ああいって揶揄されたり、侮辱されても、それを跳ね返せて、平気で生きていける心の質を持っているからなのでしょうか。それは素晴らしいことだと思います。ちやほやされたり、甘やかされなかったことが、人のことに気配りできる優しさを培ったのでしょうか。会社の中枢になっている今、時々、私たちを気遣っては、『元気?』と電話をくれます。まるで「春風(しゅんぷう)」をうける「福寿草)ふくじゅそう)」の花のようです。