感謝の思い

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『もう一度肺炎になったら死ぬことを覚悟し、十分に注意して生活して下さい!』と言われてから、何度目の誕生日でしょうか、異国の空の下で、昨日、迎えることができました。小学校入学前に、風邪をこじらせて肺炎にかかり、街の国立病院に入院しました。どのくらいの期間、入院したのか覚えていませんが、木造の古い建物で、人が歩きますと、床がギシギシと音を立てていたのです。この街にあった連隊の兵舎を利用した病舎だったのだと、父から聞きました。入院中の私を、母はつきっきりで献身的に世話をしてくれたのです。その甲斐があって、退院することができ、今日まで生き延びることができました。

入院中のベッドが寒かったので、父の祖父が、イギリス海軍に技官として遣わされて学んだ帰りに、お土産に買ってきた「純毛の毛布」を、実家から取り寄せて使わせてくれたのです。退屈していた私は、ハサミとか紙を家から持ってきてもらって、工作をしていたのですが、しまいにはシーツとか毛布まで切り刻んでしまったのだそうです。ある時、大勢の人が病室に入ってきました。後で聞いたら、この県の知事さんが、私を見舞ってくれたのだそうです。偉そうな人がいたのだけ覚えています。

すんでのところで落雷を避け、台風で荒れた海で溺れかけ、上の階のガス爆発で九死に一生を得たり、交通事故をすんでのとこで避けたり、自転車の転倒で車道に投げ出されないで歩道に倒れたり、まだまだ数え上げるますと多くの危険や死に直面したことがあるのです。こういう私のことを、「しぶとい奴」と言うのでしょうか、いつも思うのですが、『自分は<おまけ>を生きてるんだ!』と。母が生きてる時に、自分に誕生日が来るごとに、『産んでくれてありがとう!』と電話をかけて、産んで育て、死線をさまよった時にしてくれたお世話に、心から感謝をしてきました。母が召され、去年も今年も、もう、それが叶えられなくなった自分の誕生日になりました。でも四人の子どもたちが覚えていてくれて、『おめでとう!』と今年も言ってくれ、教え子も同僚の教師も言ってくれたことが、また嬉しかったのです。

今の時を、このように異国で過ごすことは、祖国に何も持っていない私にとって、最善の生き方に思えるのです。これは強がりではなく、自分の「生き始めたこと」の仕上げを、ここでしているつもりでいます。あ、訂正しなくてはなりません。祖国には、素晴らしい友人や父母を同じくする兄弟たち、息子たち、娘たちがいることを忘れてはなりませんね。健康で、満ち足りて、年が越せそうです。父が、『雅、死ぬなよ!』との思いで、欠かさないで買っておいてくれた「バター」を病後に食べていたのを思い出します。それででしょうか、今日も、近くのスーパーで、「黄油」と呼ばれるバターを買ってきました。

(写真は、「バター」です)

地産地消

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こんな「川柳」が、ある新聞に載っていました。

鎖国して地産地消でやれた江戸 

実に面白いと、感心してしまいました。「地産地消」というのは、住んでいる地域で生産した食料で、その地の人々の「食」を賄うことを言っています。つまり、江戸の街に住む人たちは、近郷近在のお百姓さんが作る米や野菜、漁民の獲る海産物、家内工場で作る味噌や醤油、油や豆腐や油揚げなど、薪や炭と言った燃料、生活の上下水、トイレの汲み取りに至るまで、生産と物流の都市機能が十分に発達していたことになります。

当時のパリやロンドンに比べても、江戸の都市機能は、大変に発達していたのです。近在のお百姓さんが、荷車に野菜を積んでやって来ます。「厠(かわや)」のものと、その野菜を交換して帰って行きます。それで「堆肥(退避)」を作って、美味しい野菜生産のための「土作り」をするのです。この「循環機能」が、上手に働いていたことも、驚くべきことだったわけです。自然農法として普通のことだったわけです。少し臭い話をしましたので、今度は、「生活用水」のことに触れてみましょう。太宰治が入水して有名な「玉川上水」は、江戸市民の生活用水として、1653年に工事を開始し、人工的に作られたものでした。おどろくべき、「水道事業」だったのです。これは「江戸六上水」の一つで、多摩川から取水して、江戸市中に供給され、「飲料水」として使われていました。

江戸の街作りは、驚くべきもので、「百万都市」を機能させたわけです。幕末にこの江戸を訪れた外国人を感心させてやまなかったそうです。土木の技術も水準も、雲泥の違いの現在よりも、かえって優れていたのではないでしょうか。モッコに土を盛って、人力で担いで土砂を運んで、河川や上水道の掘削や埋め立てをして、あのような事業をしたのですから驚かされるのです。江戸幕府に、それほどの財力と人材があって、そのような首都機能を円滑にしたことは特筆すべきことです。

もちろん、長崎の出島から、ヨーロッパの近代工法などを学んだことは確かですが、「鎖国」という制限の中で、知恵を振り絞って国づくり、街作りをしたことは、私たち現代に生きる日本人の「国の誇り」であってよいと思うのです。きっと私利私欲に捉われない役人たちがいたからでしょう。東京は、「首都高」などの改修や改築の時期だと言われています。古い文献にある記録を見直し、江戸から学ぶことをお勧めします。

(写真は、現在の立川市砂川を流れる「玉川上水」です)

よき生き様

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不二を見て 通る人有(あり) 年の市 与謝蕪村

この夏、「スカイツリー」の展望台が、富士山をかすかに感じることができました。かつて江戸の街から、富士山が、よく見えたのでしょう。高いビルも、大気汚染の公害もない時代だったからです。「年の瀬」は、江戸の昔から、慌ただしく人が街中を行き来していたのでしょう。最近はどうなのでしょうか。あの年末の独特な雰囲気から遠ざかっていますので、『さあ、いらしゃーい!いらっしゃい!』の掛け声を聞いておりません。師が走り、主婦も学生もサラリーマンも、何かに追いかけられているように、せわしなく往来している、あの風情が懐かしく感じられます。

わが家の隣にある大型モールには、年末セールというよりは、「クリスマスセール」で、ジングルベルが建物中に流れている時季になっています。中国は、「旧暦(農暦)」の正月、「春節」を祝いますから、新暦の日本とは違って、「年の瀬」の賑わいはありません。来年は、一月三十日が、新年の始まりになっています。その時には、おじいちゃんやおばあちゃんが、孫に新しい服を買ってあげ、親は、おじいちゃんたちに服を買うのでしょう。みんなが新調の服装で、新年を迎えるのです。家族全員で、新しい年の始まりを祝い、特別な食事を共にとり、感謝し、祝福し合うのです。子どもたちは、「お年玉」をもらう習慣あり、日本と同じです。

『雅、お年玉!』と言って父からもらったことが思い出されます。ところが、自分の子供もたちに上げたことがあったのか、忘れてしまいました。我が家は、私がしていた、サイド・ビジネスで、元旦には、スーパーマーケットの床掃除をするのが恒例でした。みんなに手伝ってもらったことが、よくありました。それで、学校に行けたのですから、感謝な機会だったのです。仕事を終え、二階の休憩室のコタツに、みんなで入って、家内が持って来てくれた「おせち料理」を食べたのです。あゝ言う「団欒」のひと時は、もう二度と戻ってこないのでしょうね。でも、ああ言った経験が、子どもたちにあって、今の彼らがあるとすることで、好いのでしょう。何時でしたか、その時の店長さんが優しい方で、「福袋」を、子どもたちが貰ったことがありました。彼らは大喜びをしていました。あの頃の子どもたちの年齢に、孫たちが近づいてきています。

こちらに来るまで住んでいた街の我が家の窓からも、山越しに、「富士山」の八号目付近から頂上にかけて、晴れた日には見え ました。やはり、春夏秋冬、いつ眺めても綺麗な山でした。江戸の街は、年末の市が立って、ごった返すような賑わいだったのに、悠然として富士山を眺めている人を、蕪村は見掛けたのでしょう。世の中の流れに巻き込まれないで、泰然自若として生きている人がいたのです。その人は、蕪村自身だったのかも知れません。『おい、俳句なんか読んでる時じゃあないぞ!』という声を聞いても、馬耳東風だったのでしょうか。この余裕、よき生き様ですね!

(写真は、横浜の「みなとみらい21」の向こうに見える「富士山」です)

面子

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映画全盛の頃、立川駅の南口の改札を抜けて、左に行きますと、東映の映画館があり、よく観に行きました。その映画というには、時代劇だったのです。その当時の私たちの遊びの一つは、林の中に入って行っては、適当な木を切って作った「刀」で、集団でやりあう「チャンバラ」でした。スクリーンに映っていたのと同じ動作の再現だったわけです。小学校の国語では教えてくれない、『おぬし』とか『せっしゃ』と言った台詞を覚えて、使うのです。それが、『おまえ』と『おれ』だと分かって使うのです。さらに、『めんぼくない』とか『かたじけない』も、よく真似たものです。

全神経を集中させて観て聞くのですから、何でも覚えてしまったわけです。漢字で捉えないで、耳で覚えるというのが、「ことばの学習」で、一番好いのではないでしょうか。『漢字でどう書くの?』と聞くと、『辞書を引け!』と言っていた父が買ってくれたのが、初版の「広辞苑」でした。それを手にしたのは、小学校の5年の時だったのです。ぶ厚い辞書を引いては、漢字の習得に心掛けたのです。意味を調べて、類似語を引くと言ったことを繰り返して、「ことば」を覚えたのです。ああ言うのを「知的遊戯」と言うのでしょうか。とても面白かったのです。

「めんぼくない」は、「面目ない」でした。その意味は、そう語る侍の表情や、相手とのやり取りで、『「めんぼく」っていうのは侍が持っていて、目には見えないけど、とても大切なものなんだ!』と、何となく分かったのです。町人や芸人やお百姓は、そんな言葉は決してしゃべらなかったからです。この日曜日に、私たちの住んでいる街の中心を流れる河の下流にある街に、車で行きました。車中で、「面子(めんつ)」が話題になったのです。これを類語辞典で調べてみますと、「面目 ・ 立前 ・ 点前 ・ 表 ・ 顔面 ・ 立て前 ・ 建て前 ・ 顔 ・ 建前」と出ています。中国人や日本人だけではなく、イギリスやフランスやどこの国でも、『誰でももっていて、人として保つべき大切なものだ!』と言う結論になりました。

その朝は、いつになく背広にネクタイの服装で、おめかしして出掛けたのです。『セーターとGパンでは失礼になるから!』、「礼儀」として、そうすべきだと思ったからでした。外国人の「点前(てまえ)」としてでした。これって、好い意味で「面子」とか「面目」を保つことなわけです。『面子があるから、こうしないわけにはいけない!』というよりも、「礼儀」だったのです。

映画の中で、侍が楊枝をくわえてる場面がありました。『あっ、「武士は喰わねど高楊枝」なんだ!』と、子どもの私は納得したのです。ひもじい侍は、絵になりませんし、「いざ鎌倉」の時に駆けつけられません。どうしても「型」や「格好」が重要とされてきたのです。それは『貧しくとも、身だしなみはきちんとして生きよう!』との生きる姿勢なのでしょう。さて、人としての「面目躍如」を期して、2013年の今年を終えたいものです。

(写真は、「面子」と書いて「めんこ」と読む、子ども頃に遊んだカードです)

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「今年の漢字」に選ばれたのが、「輪」だと報じらていました。「解字」で調べて見ますと、偏が「車」で、旁が「侖」になります。「車」は、二つの「くるま」が、何かを載せたり、腰を下ろしたりする部分の「田」の軸を挟んで対峙しています。「侖」は、「册」が順序よくならんだ様子を表しているようです。漢字を作った人が、どのように発想して作字したかは、推測するしかありませんが、漢字学者の白川静は、そのように論じています。

古来、人々は、一所に集まって、村落の必要などを話し合ったり、また、収穫を終えた喜びを、輪のようになって、語り合ったり、踊ったりしてきたのでしょう。「車座になる」のと似ています。私たちの国には、漢字が渡来する以前から、「わ」という言葉があったあったのです。漢字がやってきた時に、「和」、「倭」、「輪」というように表記したわけです。きっと「わ」という言葉は、それぞれに関係があったのかも知れません。これも、素人の推測なのですが。

今年は、2020年に開催されるオリンピックの開催国として、日本が選ばれた年ですから、「五輪」の「輪」に因んでの漢字の選考の理由の一つだったそうです。「輪」の入った言葉に、「内輪」があります。揉めたりしては困りますが、家族内、友人内、会社内など、親しい関係にある人たちの和やかな交わりのことをいうのでしょうか。「輪っか」の中に収められている状態なのでしょう。

この十年ほど、交通事故で亡くなる方が少なくなってきているのに驚きます。1万5千人もの方が事故死していたのに、年々減少傾向にあることは、喜ばしいことです。この交通事故のことを、「輪禍」と言っていますが、車の車輪のことを言うわけです。その他に「輪」のつく字には、「輪廻」、「輪番」、「輪郭」、「輪舞」などがあります。これらは、「輪」が軸の周りを回るように、丸くなって外縁を描く様子を表しています。そう言えば、市内の古い街並みを観光開発した地域に、人力車が走る光景を目にしたことがあります。ハッピは着ていませんが、車夫が観光客を乗せて、石畳の上を二輪の輪っかを回しながら走っていました。

今年は、「車軸を流すような豪雨」が、世界中でありましたが、過去の面倒なわだかまりや因縁などが流れてしまうのは歓迎ですが、人を怯えさせるような豪雨は遠慮したいものです。来年は、あのような被害のないことを願う十二月も中旬、『もう幾つ寝るとお正月・・・』と数えられほどの日数になって参りました。好い年の暮れでありますように!

(写真は、トヨタ博物館の「人力車」です)

『起きなさい!』

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「(財)日本青少年研究所」が、2012年4月に「意識調査」を行っています。その一つの項目に、『自分はダメな人間だと思うことがある。』 がありました。これについて、『よくあてはまる。』、『まあまああてはまる。』と答えた、アメリカ、中国、韓国、そして日本の高校生の割合は、次のようでした。

日本 83・7%
アメリカ 52・8%
中国 32・9%
韓国 31・9%

この数字を見ますと、日本の高校生たちの割合は、他の三国に比して突出していることが分かります。どうしたことでしょうか、日本の若者たちは、自分に対する確信や自信、肯定的な受け入れがなされていないのです。こんなに自然的にも精神的にも経済的にも祝福されているのに、それを享受していないのです。

日本語学科の学生に、「作文指導」をさせてもらって五年ほど経ちます。ある学生が、『私たち中国人は、胸を張って堂々と歩くのです。それは人にバカにされたくないからなのです。』と、ある主題の中に、そう書いていました。そういえば、街中で行き交う人を眺めていまして、建設工事現場などで働く「打工dagong(内陸部の農村からの出稼ぎの人をそう呼びます)」の人たちも、大学教授も商店主も学生も、堂々としているのです。

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日本に帰って来て、空港や港から上陸した途端、『中国の街中と違っている!』と感じる一つのことは、日本人が猫背のように、俯き加減に歩いている姿です。生きる問題に圧倒されているのか、大事な物をなくしてしまったのか、お腹が痛んでいるかのようにしか見えないのです。自信がなくて、うつろな雰囲気が日本人を満たしているのです。いつも思い出すのは、中学の時の担任が、『鎌倉時代の日本人は快活で闊達で溌溂といて生きていたのです!』と言った言葉です。

何が、その快活さや闊達さや溌溂さを奪ってしまったのでしょうか。どうしたら、それらを取り戻すことができるのでしょうか。<勤勉で律儀な日本人>なのですから、好い意味での<誇り>と<自信>を、若いみなさんに持っていただきたいものです。「山紫水明」の国土の中で生を受け、篤い両親の愛に育まれ、守られてきたのですから、感謝をし、期待に応えて生きて欲しいものです。そうですね、自分を<愛すること>です。ありのままの自分を受け入れて、感謝して、この自分で生きて行くことです。不満や不足を数えるより、「優点(優れて秀でたもの)」を数え上げて生きる方が、どんなにか素晴らしいに違いありません。

その確信を持って、近隣諸国に住む方々と、和して、友好を深めて生きて欲しいものです。『青年よ、あなたにいう。起きなさい!』

(写真は、”MSNの画像”から「城址の紅葉」、"JAPAN WEB MAGAGINE"の「桜」です)

豆腐

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我が家の上の階のご婦人のお母様が、時々、「豆腐」を作られて、そのおすそ分けに預かることがあります。「木綿ごし豆腐」と言うよりは、「生・高野豆腐」のような硬くてしっかりした感触で、とても美味しいのです。昨日も、頂いて、今夕の食卓にのって、食べたところです。こちらのスーパーの「豆腐売り場」には、「日本豆腐」と印字されたパックが売られていまして、黄色がかった「卵豆腐」のようなものです。買って食べたことがありませんが、これが日本の豆腐だと思われているのは、ちょっと残念なことですが。「絹ごし」もありますし、「豆乳」もパック入りで売られていて、これも時々買っては飲んでいます。ちなみに、豆腐の起源は、八、九世紀の中国(唐代中期)で、日本には鎌倉時代に伝わってきたそうです。

この豆腐を代表にして、日本食の中で、「大豆」を加工した食べ物が豊富なことが、一つの特徴だと言えるでしょうか。中国の「醤(jiang)」から、自然的に作られてきたのが(上澄みににじみ出てくる液体)、どうも「醤油」だと言れています。こちらの物は、千葉の野田あたりで作られて市販されている日本のものとは違って、ずいぶんと「濃厚」です。醤油コーナーには、「台湾産」や「韓国産」も輸入されていますし、こちらで製造している「キッコーマン醤油」も、わが家で使い続けてきた物とは、ちょっと 違うのです。調味料として、この「醤油」は欠かせないので、悲しいかな、日本育ちの私は、贅沢はしたいとは願いませんが、『美味しい醤油が欲しい!』と思ってしまいます。

この「醤油」は、<隠し味>に使われていて、何と、日本の「アイスクリーム」の中にも入っているのだと聞いたことがあります。私たちの味覚には、欠かせない物だということが分かります。その他にも、「味噌」があります。これも悲しいかな、若い時は、ほとんど飲まなかったのですが、昨今、『味噌汁が飲みたい!』との思いが、時々やってきて、根っからの日本人なんだと思わされています。先ほどの「醤」は、「びしお」と読み、味噌の源になります。スーパーの棚を探しても、日本の様な「味噌」は見つけることができません。日本の物は、発展的に改良されてきているのでしょうか。

もう一つは、「納豆」です。中国の友人に、日本食品店から買ってきた納豆を出したことがありますが、みなさん顔をしかめて口に入れておいでで、出したそうな顔をして飲み込んでいました。こちらには「臭豆腐」と言う食品がありますが、納豆以上の臭みのある物ですが。それでも、欧米人にように嫌っておられます。だいぶ値が高いので、たまにしか買うことができませんが、これも、時々、『 食べたい!』と思うことがあります。久保田万太郎が、次の様な俳句を詠んでいます。

湯豆腐や いのちのはての うすあかり

死期の迫った作者が、求めたものの一つが、「湯豆腐」だったのです。過ぎ去った日々を、思い返しながら、食しつつ詠んだのでしょうか。冬場、湯気の立った鍋から、熱くなった豆腐をすくい上げて、醤油に小葱や生姜などの薬味を入れてたタレにつけて食べると、『美味しい!』と言ってしまいます。そんな湯豆腐が食べたくなってくるほどの季節の到来のようです。まだ、万太郎の亡くなった年まで、大分ありますのでご心配なく。

(写真は、「絹ごし豆腐」です)

フェイス

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英語教師をしていたフェイスが、『ボクと一緒に行ってくれますか!』と言うので、禅宗のお寺に、その住職を訪ねたことがありました。フェイスは、東洋的な神秘さを求めて、この住職と出会って、指導を受けてきたのです。ところが、座禅をしても、彼の心の隙間が埋められることがなく、悶々としていたようです。そこで彼は、この交わりを断ることを決心したのです。どう瞑想しても、一向に邪念を追い払うことができなかったのです。それで、この住職からもらったプレゼントを返したかったのです。不安だったのでしょうか、私の同行を求めたのです。

一緒に行き、応接間で、和やかに話が始まったのです。しばらくすると、何かの言葉の行き違いがあったのでしょうか、まだ若い住職が、烈火の如く怒り始めたのです。フェイスは日本語ができると言っても、宗教的な難しいことを表現することなど、まだできる水準ではなかったのです。忍耐の緒を切ったのか、断られたことや、プレゼントの返却に不興を表し、激しい言葉をフェイスにぶっつけたのです。フェイスは驚いていました。彼が怒りをぶつけたことで、フェイスは、自分の決断が間違いでなかったことを得心したようでした。

同職の方、みなさんが、彼のようだとは思いません。立派な人格者もおいでです。 この方は、フェイスと同世代、まだ若かったのです。教えと自分の現実とに、まだギャップのある年代だったのです。心の大波や小波、さらには細波(さざなみ)を鎮めることができるのは、別のことなのだと感じたのです。

このことを思い出したのは、私たちの国の首長が、「禅」を組んだと、今朝のニュースで読んだからです。国会が一段落して、何か「しずまり」が欲しかったのでしょうか。それを終えた首相は、『何か、嵐が過ぎ去ったようだ。』と感想を語ったそうです。国政を司る、大きな責任を負う人でないと、こう言った境地にはならないのかも知れません。首相の顔とフェイスの顔がダブって見えてしまったのです。

盲腸の手術の時、一晩、彼のベッドの下に寝て、世話をしたことがありました。その後の消息をつかんでいません。こちらからも連絡をしていませんから、きっと帰国していることでしょう。可愛いお嬢さんがいました。もう、彼女も、あの頃のフェイスの年齢以上になっているのでしょう。フェイスの心の隙間は、今では、しっかりと埋まっているのだろうと思う、年の暮れであります。

(写真は、アメリカ合衆国の国花の「薔薇」です)

「インビクタス」

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“invictus”という言葉があります。ラテン語の「征服されない」、「屈服しない」という意味です。”morior invictus”は、「死ぬまで屈服しない」と日本語に訳されるようです。強い圧政のもとにいる民衆が、『いつか自由な時代が必ずやってくる!』との「不撓不屈の精神」を持って、自分の信念の上に、立ち続ける姿をいうのでしょうか。

今朝一番のニュースは、ネルソン・マンデラ氏が亡くなられたことでした。アフリカ大陸の最南端の国、南アフリカ共和国の身分差別制度の「アパルトヘイト」に反対しながら、27年間もの間、牢獄に入れられながら、屈服することなく立ち続けた政治家です。1991年、ついにこの悪法が撤廃され、1993年には、ネルソン氏は「ノーベル平和賞」を受賞しています。 1994年には、大統領に就任し、1999年に退いておいます。2009年には、クリント・イーストウッドの監督による、映画『インビクタス/負けざる者たち』が制作上映されました。この映画は、マンデラ氏が、決して屈服することなく、アフリカ人の自主独立を勝ち取った、その生涯を記念して描いた作品でした

久しぶりに帰国した時に、次男が、『とても好い映画があるんだけど、観る?』と言って、ビデオで観せてくれたのが、この映画でした。大統領に就任した時のことです。前大統領の警護要員たちを継続して雇用し続けるとの配慮が、彼らの信頼と忠実さを、新大統領が勝ち取って行く心理描写が 、とても好かったのです。また、南アのラグビーのナショナルチームが、貧困地域の子どもたちを訪問して、人種の垣根を超えて、子どもたちの心をつかんで行くくだりも見ものでした。演じたモーガン・フリーマンの演技がとても好かったのが印象に残っています。

ああ言う風に国が変わって行く様子を、スクリーンの中に見て、主義主張や腕力でもなく、一人の人の「人格の力」の力と影響の大きさを感じてなりませんでした。もちろん彼にも弱さがあったのですが。日本が封建社会から近代化して行く中で、 若者たちが、『この自分の国を変えて行くのだ!』と言った使命感を持って立ち上がったのを思い出すのです。時代そのものが、そして民衆自身が、新しい時代を求めようとしていた情熱を、上手にまとめ上げて行くことができたから、ああ言った変化があったのです。とくに「市民」の思いが、十二分に熟成し、機が熟していたことを忘れてはいけないようです。その力に、旧封建体制は、必ず崩壊していかざるをえなかったのです。

政治家には、何千万、何億、何十億人もの人たちの命、何世代にも及ぶ平和な生活の責任があります。自分の力ではなく、民衆の力でもなく、人の歴史を大きく動かしてやまない、「偉大な力」に押し出されて、その任に当たるのが、政治家なのではないでしょうか。国の命運と、国民の将来がかかっているのです。誤ることのない判断と決断が下されるにように、どの国の国民も、それぞれの首長のために願い求めていかなければなりません。二度と戦争の起こらないこと、銃弾に子や孫が倒れないことを願いつつ。

(写真は、南アメリカの「ケープタウン」を衛生写真から作り上げて描いた鳥瞰図です)

まだまだの今

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十二月になって、巡り来る季節は正直なのでしょう、学校に行くためにバス停で待つ間に、吐く息が、白くなってきています。さしもの華南の街にも、冬が忍び寄ってきたようです。それでも日中になって日の光が射してきますと、朝、出がけに着た冬用の防寒服を脱がなければならなくなり、気温の日較差の大きさに、注意を払わないと風邪を引いてしまいそうです。この時季、一日に、夏と冬が感じらるというのが、こちらの気候の特徴なのです。先週、『週末には寒くなりますので、着る服にご注意くださいね!』と、今年も学生さんから言われました。外国人で、気候の変化についていけないといけないのでと、そんな優しい気持ちをあらわしてくれるのです。

私を身ごもった母が、中部地方の山岳地帯にある「軍需工場 」に、父が着任したのを追って、険しい山路をやって来たのだそうです。山と山がせめぎ合った、狭い山あいの旅館の離れを借りて住まいとしたのです。冬場の日照時間が、きっと少ない、湿り気の多い寒々とした山村でした。山陰生まれの母には、そんなに苦にはならなかったのかも知れません。その年の暮れの十二月に、私を産んでくれたのです。村長夫人が出産のお世話の経験があったのでしょうか、私を受け取ってくださったのだそうです。弟も、そこ生まれております。

『この子は村長さんのお孫さんですか?』と、村長宅の玄関に置かれてあった私の写真を見て、訪ねてくるお客さんが尋ねたのだそうです。今は全く面影がないのですが、生まれたばかりの私は、『結構可愛かった!』と、母が言って、励ましてくれたのです。やはり、『バカな子ほど可愛い!』のでしょうか。そんな母が老いて、病んだ時に、一度だけ、病院の行き帰りに、おんぶしたことがありました。世代交代を演じたわけです。まだ元気ですが、長生きできたら、息子たちや婿殿は私を背負ってくれるのでしょうか。そんな経験ができるのは、ちょっと楽しみです。

今朝、バスに乗りましたら、すぐに女子高校生が席を譲ってくれました。いつもの『謝謝!』で座らせてもらったのです。まだ90分、立って授業をすることができるのですが、親切を受けるのも大切な生き方の一つのようです。「まだまだ」の今を喜んで生きています。ご安心を!

(写真は、冬の「朝」の風景です)