美人薄命

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私が選択した第二外国語は、フランス語でした。“ bonjour(ボンジュール) "や“ mademoiselle (マドモアゼル)の響きがやさしくて、きれいだったのと、題名を忘れてしまったフランス映画を観たのが理由でした。叶えられませんでしたが、『いつかパリに行ってみよう!』と思っていました。

最近、フランス映画の女優の写真を観たのです。あんなに美しい女性だったのに、老いると「おばあちゃん」になると言う、人の世の現実に、ちょっと驚かされました。〈美人薄命〉は、「美貌」の意味も含んで、そう言われてきた言葉なのでしょうか。

すみません、男性も同じ様に、老いていますので。時間とは、残酷なのでしょうか、または正直なのでしょうか、〈人間とは何ぞや?〉、いつまでも美貌のままでは、これからの人に申し訳ないので、衰えたり、退くのは《公平》なのかも知れません。

華南の街のわが家に、時々、赤ちゃんを連れた来訪客がありました。その赤ちゃんたちは、透き通る様な、まるで真綿かマシュマロの様なホッペをしていて、人差し指で、ツンと軽く突いて触ると、指先が埋まれてしまいそうなのです。みんな、その時期には、そんな柔らかさをホッペも心も持っていたのに、人生の嵐に揉まれている間に、こんなに固くなって、シワもシミもできてしまうのです。

これって、私が思うには、次の段階に移っていくのだと言うことです。加齢し、老いていくなら、ありのままの自分を受け入れることなのでしょう。『準、髪にブラウンヘアーがあるね!』と、後頭部を見られない私に、二十歳違いで、同じ月の同じ日の誕生日の恩師が、四十代中頃の私に言ったことがありました。ご自分が通ってきた所を、今まさに通っている私を見守ってくれていたのです。

この恩師は、十代の頃には、〈街一の悪〉だったそうです。それなりの立場にあったご両親を悩ませた過去があった人でした。対日戦争に征って、ガラリと変わって帰って来たのです。そして、お父さんと同じ道を選んで、その敵国日本にやって来たわけです。いくつかの倶楽部を建て上げ、御子息や日本人の青年に任せていきました。晩年、病を得て、召されたのですが、告別式に、彼の住んだ街の市長さんが、参列して、その人格の高さに賛辞を送ったそうです。

一緒にテニスを興じたこともあり、度々、私たち家族を招いてくださったりして、好い交わりが与えられていたのです。この方のお子さんたちと、私たちの子どもたちと《次世代交流》があり、感謝な時を持っている様です。

実は、教師が間違えて採点したのでしょうか《AAの優》、フランス語の私の成績でした。半世紀がたって、全く使えない第二外国語になってしまっています。青年期の私の憧れのフランシス・アルヌール、この方の写真でした。私の恩師は、北欧系のダンディーな映画俳優にしたいほどの素敵な男性でした。

(萩須高徳のパリの下町風景です)

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街道に立つ

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この住み始めた家の裏手に、あの「例幣使街道」が残されてあります。かつて、駿河の久能山から、日光東照宮に改葬された徳川家康の墓所に、毎年、京都から、「例幣使」が遣わされて通った街道です。

例幣使は、「幣帛(へいはく/神道で御幣,みてぐら,ぬさなど神への供え物の総称。布帛,衣服,紙,玉,器物,神饌(しんせん)のほか,幣帛料,金幣といって金銭をあてる場合もある。特に布帛の中では麻が代表的であったのでぬさ(幣)ともいう。古くは勅旨によって奉る幣帛を奉幣といった。)」を奉納するためにでした。

勅使は、京都から中山道(なかせんどう)を下り、倉賀野(くらがの)(現高崎市)から太田、佐野、富田、ここ栃木、合戦場(かっせんば)、金崎を通り日光西街道と合わさる楡木(にれぎ)を経て日光に至ったのです。

この街道は、西国の大名もまた、参詣していますので、「参勤交代」以外にも、その他にも務めを果たす義務を負わされていたのですから、死して物言わぬ家康の威光、徳川政権というのは、驚くべきものがあったことになります。「栃木宿」については次の様な記述があります。

「栃木は、皆川氏五代広照が、天正19年(1591)南端の城内町に、栃木城を築いて城下町を形成したのに始まる。皆川氏没落と共に廃城となるが、巴波川の河川交通を利用した市場町として、また、例幣使道の宿駅として発展した。明治維新後、一時は宇都宮・栃木ともに県庁が置かれたが、宇都宮に県庁が移り、栃木は県名に残るだけになった。」

私は歩きと自転車で通るのですが、きっと籠や馬車が行き合うことができるほどの道幅だったのでしょう。ここ栃木は、商都でしたが、宿場町でもあったので、今でこそ高速道や新幹線から遠く、過疎の感じがしますが、徳川の御代には、賑やかな佇まいだったことでしょうか。

この街道の上に、自分の足で立ってみますと、そんな賑やかな馬車や籠や人の行き交う音が聞こえそうです。京都から延々と、朝廷の勅使、例幣使がやって来ると言うのは、徳川支配が朝廷をもはるかにしのいでいたわけで、明治の御代になってからは、随分と静かになったのでしょうか。

でも、巴波川の舟運も盛んでしたから、人、物、文化の往来で栄えたのです。その名残が、蔵の存在です。豪商たちが、江戸で豪遊していたのだそうで、彼らの援助で、浮世絵師たち、とくに喜多川歌麿が、注文を受けてでしょうか、彼の描いた肉筆画が残されています。それもまた夢の夢、今は静かで、住み心地が好い素敵な「蔵の街」なのです。何やら『エイホ、エイホ!』の駕籠かきの声が、街道筋から聞こえてきました。アッ、空耳でした。

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逆転

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「ケバルの川のほとり」ではなく、「巴波川」のほとりに、家内と一緒に住み始めた私は、その流れを見下せる四階の新居のベランダから、昇ってくる朝日を眺め、夕日も眺めています。東に行くと茨城を超えて太平洋、南は関東平野、北は日光山塊、西に群馬の地の利にある街です。

三羽の白鷺が、流れに足をつけてい、カモも泳いでいるのも見えるではありませんか。実に静かです。通勤や通学や観光の電車駅から5分ほどの所に、こんなに静かで、日当たりもよく、買い物も便利で、市役所にも近いのです。

台風19号に被災した私たちに、与えられた今回の家は、四人の子どもたちが、見付けて、経済的な援助をしてくれたものなのです。賃貸契約者は、長男で、両親が住むと言う契約です。もう全てが逆転、人生の舞台の主役は、子どもたちの世代に、私たちから移ってしまいました。

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家内と四人の子どもたちを、強引に引っ張って、生きて来た私は、ちょっと拍子抜けだとお思いでしょうが、『老いては子に、何とやら!』で、ちょっと《おんぶに抱っこ》なのです。これって好いものですね。戦さに出て征くのは願い下げですが、矢筒に矢を満たす《子沢山の幸い》を、私たちは感謝し、このことを満喫しているのです。

六十過ぎてからの天津への留学、机を並べて家内との学習、華南の地への引越し、国語教師、クラブのお手伝い、家内の発病、入院、退院、帰国、闘病、被災、避難、転居をしながらの今日です。人生の後半が多彩です。家を持たない身分だからこそできた、冒険なのかも知れません。

もう11月になりましたが、家内の病気で帰国した私たちに、子どもたちは、心配と安心の入り組んだ思いにいるのでしょう。朝な夕な、今住む町の平安、繁栄、幸福を願いながら、十三年住んだ天津と華南で出会った友人たちの安否を問いながら、南向きの窓からの茜色の夕日も、実に素晴らしいものです。

(ケバル川と巴波川です)

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暖炉

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1974年の1月のことでした。よく聞こえてきたのが、「襟裳岬(作詞が岡本おさみ、作曲が吉田拓郎、唄が森進一)」と言うフォーク調の歌でした。暦の上では「初春」でしたが、まだ真冬の天気、そんな寒さの中で、聞こえてきたのです。

北の街ではもう 悲しみを暖炉で
燃やしはじめてるらしい
理由のわからないことで 悩んでいるうち
老いぼれてしまうから
黙りとおした 歳月を
ひろい集めて 暖めあおう
襟裳の春は 何もない春です

君は二杯めだよね コーヒーカップに
角砂糖をひとつだったね
捨てて来てしまった わずらわしさだけを
くるくるかきまわして
通りすぎた 夏の匂い
想い出して 懐かしいね
襟裳の春は 何もない春です

日々の暮らしはいやでも やってくるけど
静かに笑ってしまおう
いじけることだけが 生きることだと
飼い馴らしすぎたので
身構えながら 話すなんて
ああ おくびょう なんだよね
襟裳の春は 何もない春です
寒い友だちが 訪ねてきたよ
遠慮はいらないから 暖まってゆきなよ

この歌詞に、「暖め合おう」とか「温まっていきなよ」と誘っている「暖炉」があり、暖房は、炬燵と火鉢、薪や石炭や石油のストーブ、そしてエアコンくらいしか知りませんでしたから、「暖炉」は、どんなにか暖かいかと羨ましく想像していたわけです。

古い歌に、「ぺチカ」という暖房器具が歌われて、知っていましたが、歌を聞いただけでは想像することができませんでした。満州やシベリアで使われていたもので、暖炉と調理に使われてていた様です。朝鮮半島では、薪やワラを、近年では練炭を燃やした「オンドル」があります。壁や床に暖気を送って、部屋を暖める暖房です。

子ども頃、父の家には、炬燵と火鉢があっただけで、それが標準的な日本の冬の暖房でした。それでも寒さの記憶がありません。三年前に入院した札幌の病院で、病友の子どもの頃の冬の「開拓部落」の昔話を、食後のテーブルで、何度も聞かされました。と言うか、聞き出したのですが。

窓の隙間から入ってくる雪で、朝になると、肩の辺りの掛け布団に雪が積もっていたとか、雪を沸かして水を作ったとか、馬橇(うまぞり)で雪かきをしたとか、冬の生活の大変さを語っていました。でも、そんなみなさんから、逞しさが伝わってきたのです。

もう北海道、襟裳あたりでは、「暖炉」に火が入ったことでしょうか。燃料は、薪ではなく、重油が燃やされて、部屋を暖かくしているのでしょう。そして、『温まっていきなよ!』と誘っていることでしょう。そう言えば、山形の新庄の出身の同級生が、冬の東京の寒さに凍えていました。東京の暖房が、十分な熱を与えていなかったからです。半世紀も前の話です。横浜に住んでいる様ですが、どうしてるでしょうか。

先日、お邪魔した矢板市(高根沢町の隣りです)在住の方の家にお邪魔した時、客間に「薪ストーブ」が焚かれていて、実に気持ちよい暖かさで、一足早く冬を感じたのです。昨日、大型スーパーの暖房売り場に、「電気暖炉」がおいてあり、郷愁に誘われたのでしょうか、オイルヒーターの代わりにいいなと思ったのです。あんなに暑い夏が、嘘の様に、冬の寒さが、もう見え始めて来ています。

ふるさと

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作詞が高野辰之、作曲が岡野貞一で、「故郷(ふるさと)」は、1914年に、小学校6年生用の音楽教科書『尋常小学唱歌(六)』に掲載されました。

兎追いし彼の山
小鮒釣りし彼の川
夢は今も巡りて
忘れ難き故郷

如何にいます父母
恙無しや友がき
雨に風につけても
思い出づる故郷

志を果たして
いつの日にか帰らん
山は青き故郷
水は清き故郷

誰にもいるのが「両親」、誰にもあるのが「故郷」と言えるでしょうか。でも「故郷」は、一体、何処にしたらよいのでしょうか。出生地、生育地でしょうか。生育地でも、転勤の多かった父親の子は、幼児期を過ごした街でしょうか、小学校の初期、中期、後期、どの頃でしょうか。中学や高校時代を過ごした街は、もう「故郷」とは思わないかも知れません。

この歌の二番に、「恙(つつが)なしや友がき」とありますが、『共に小鮒を釣り、里山を駆け巡り、学び、叱られ、涙した幼な友だちは、平穏無事な今日を生きているだろうか?』と言う意味でしょうか。跳びはねていた友も、もしかすると病と老いの日を送っているかも知れません。

家内の治療費を払い、薬をもらうために、院内のベンチに座って待っているのですが。目の前を歩いて行く方たちの多くは、初老、いえもう全く老人となったみなさんなのです。戦時下を、戦後を耐えて生きた世代です。校庭を隅から隅まで思いっきり走り抜き、柿の木に登っては実をもぎ、桑の実を頬張った、あの力が漲(みなぎ)った日々があったのだろうと思ってしまうのです。もちろん自分も含めてです。

人生、七十年、八十年、瞬きの間でした。いつまでも元気過ぎては、若い方たちに申し訳ないのでしょう。遠慮がちに、今を生きているかの様です。誰にも親がいて、誰にも故郷があるのです。ピシッとネクタイを締め、背広を着、ピカピカに磨き上げた黒靴を履いて、綺麗に散髪をして、颯爽と東京に出かけて、帰って来る父の姿が、五十代の後半から、ガラッと変わったのです。

何処が故郷であっても、そこに父や母がいました。歳をとった私を、子どもたちが、今見ているように、あの父の変化は、まだ若かった私の目にはちょっと衝撃的でした。でも今思うに、これこそが人の生きて行き、生きて来る道だと、やっと分かって納得できるのです。

それにしても、この歌の歌詞が変わってしまったのが納得できません。「恙なしや友がき」と、けっこう前難しいのに、「いかにおわす父母」を、「いかに居ます」に変えてしまったことです。『故郷の父や母はどうしていらっしゃるだろうか』の意味が微妙に違ってしまっているのです。作詞者の原意や作意を変えてしまうのは、どうでしょうか。

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引越し第一夜

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向こうの空に見える、明けの金星、明星です。カーテンの寸法を間違えて、カインズで買ってしまって、カーテンなしの窓から、明けの明星が見えます。隣で、いびきをかきながら長男が寝ています。

昨日、友人が通勤ラッシュで道路が混んでいる中、高根沢まで、家内と私を迎えに来てくださって、無事に新居に着きました。友人と長男が助けてくれ、友人のご子息の家具店の車を借りて、小物の移動が終わりました。今日は、長男のクラブの方、華南の街から医療路用ロボットの研究で留学中の若き友人、昔、共に多くの日を過ごしたご婦人、次男が、手伝いに来てくれます。

数えるのをやめたいほど、引越しを重ねて来た私は、今や、ほとんど長男に任せにすることができるほど、歳を取りました。実によく働いてくれています。家財道具のない私たちなので、多くを友人から頂いています。巴波川の流れが眼下に見え、眺望の好い四階に住み始めたところです。

〈引越し魔〉の私に、よく我慢してついて来てくれている家内も、病気を忘れさせてくれるほど順調です。『わたしは病人ではないんです!』と、樋野興夫氏の著書を読んで啓発されて、自分を見ています。昨夜は、なんとか言う、うどんのチェーン店で、熱い牛肉と大根おろしうどんを美味しそうに食べていました。ちょっと肉が固かったのですが。

ここが私たちの「終の住処(ついのすみか)」にはならないで、まだ引越しを重ねて行くのでしょうか。ここは、まさに〈住めば都〉です。訪ねて来る人が、元気になり、励まされ、命に満ち溢れて、楽しくなれる様な家でありたいと願っています。

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残された子熊

 

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.読売新聞に、次の様な記事がありました。

『24日午後10時17分頃、新潟県湯沢町湯沢のJR上越線で、長岡発越後湯沢行き普通列車(4両)がクマ2頭とぶつかった。乗客乗員約20人にけがはなかった。親子とみられるクマ2頭は死んだ。越後湯沢―六日町間では、上下線で一時運転を見合わせたが、25日午前8時半に運転を再開した。

南魚沼署やJR東日本によると、クマは親子3頭で線路付近を歩いていたとみられ、母親とみられるクマは体長1メートル20、子とみられるクマは60センチほどだった。この事故で普通列車5本が運休、3本に遅れが生じ、約900人に影響が出た。

現場ではしばらくの間、もう1頭の子とみられるクマが、付近にとどまっていた。県猟友会南魚沼支部湯沢分会長の山田周治さん(70)は「子グマはどうしてよいか分からず、母グマのそばから離れられなかったのだろう」と話していた(読売新聞)。』

自然界は、厳しさと優しさを持ち合わせています。親子の死別、残された小熊は、その内なる力で、過酷な環境を乗り越えて生きていく恵みがあります。人間だけは、保護が必要なのでしょう。それでも、上野や新宿で、この目で見た戦災孤児たちは、どっこい生きていったのです。人には、特別な恵みや憐みがあるからです。

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一葉の葉の写真が、目の底に焼き付けられています。空襲で崩された瓦礫の中で、この少年は、何を缶の中に入れて煮ているのでしょうか。その横顔に、しゃにむに生きていこうとする、『生きるんだ!』との逞しさが見えるのです。生きておられるなら、今は九十才近くになっておいででしょうか。こんな〈ひもじい時代〉があって、今の物満ち溢れた時代なのです.

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宝積寺駅

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台風19号の増水で被災した私たちが、高根沢町に避難して、早2週間以上が経ちました。病気治療中の家内のために、静かで暖かな住まいで過ごすことができ、ここの倶楽部のボスとみなさんに、心から感謝しているところです。

幸い、この間に、新しく栃木市内に部屋を見つけることができ、11月1日に引っ越しをすることになりました。この2週間、近所には、幹線道路沿いに、ケーキ屋さん、餃子屋さん、百均、ドラッグストアー、パン店、内科医、農協即売所、和菓子屋さん、ファッションセンター、眼鏡屋さん、信用金庫、Do it yourself、予備校まであって、とても便利でした。ケーキ屋も予備校も信用金庫も縁がなかったのですが。

この街の「宝積寺(ほうしゃくじ)駅」を初めて利用した時に、駅舎のデザインが、JRっぽくなくて、斬新なのに気付いたのです。前に、『JRに、隈研吾の作った駅がある!』と聞いていたのですが、下の息子とお嫁さんが電車で、疎開先に来てくれた時、宝積寺駅で降りて、やって来て、『あの駅は隈研吾の作品だね!」と言ったので思い出したのです。

JR中央線の国立駅、日野駅、高尾駅は、昔のままでノスタルジックだったのですが、今は、農家のわらぶき風の駅舎の日野駅だけが残っている様です。古い物の価値も残し、隈研吾の様な、新しい物も取り入れて行く、これが均衡があっていいと思うのですが。

さて、宝積寺駅は、やはり著名なデザイナー、建築家の作品で、素晴らしいのです。今日も、行き帰りに、この駅舎を歩きながら、とくに改札を出た天井を見上げて、素敵でした。“ ウイキペディア ” に次の様にあります。

「駅舎は、2008年に竣工した橋上駅舎で、駅舎および自由通路は隈研吾建築都市設計事務所によって設計された。改築に伴い東口が新設され、1番線(宇都宮線下り列車)プラットホームは嵩上工事が実施された・・・2008年9月30日には、鉄道デザインの国際デザインコンペティション『ブルネル賞」で建築部門の奨励賞を受賞。」とあります。
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この隈研吾は、来年日本で開催される東京オリンピックの主競技場のデザイナーなのです。宇都宮郊外の町の駅舎も、“ オリンピックスタジアム ” も、この方には、同じ意味と価値とがあるのですね。今日のNHKニュースに、『2019年10月28日 21時47分 西日本豪雨、去年の西日本豪雨で壊れた山口県岩国市の橋が、世界的な建築家、隈研吾さんのデザインで再建されることになり、その案が報道関係者に公開されました。』とありました。

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親切

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「都道府県 魅力度ランキング」と言うものがあるそうです。この10月17日に発表されたランキングは、北海道、京都、東京の順で、魅力度が高いのですが、それに反して、低い県が、北関東に集中しているのが、気になります。茨城、佐賀、群馬、徳島、栃木、埼玉が、低魅力県の順位だそうです。

「市の魅力度」ですと、函館、札幌、京都、小樽の順で高く、下位ランキングは見つけることができませんでした。でも諺に、《住めば都》がありまして、私たち夫婦にとって、今年四月に県民になった「栃木県」は、大好きな県になっています。

昨日、通院日で、滞在しています宿舎からタクシーで、宝積寺駅まで行き、宇都宮線で石橋駅に行き、そこからタクシーで、獨協医科大学病院に行ったのです。治療を終えて帰りは、病院発のバスで、石橋駅に行き、そこから宇都宮駅で、黒磯行きに乗り換えました。

宇都宮駅で、私よりも少し髪の毛の薄い男性に、『黒磯駅行きは何番線ですか?』と聞きますと、一瞬迷った素振りを見せて、『私について来てください!』と言って、ホームまで連れて行ってくれたではありませんか。働き盛りの忙しい世代の男性の親切に感動したのです。

前々回、宇都宮線を利用した時に、小山駅で、女子高生に乗り換え法を聞いたら、教えてくれました。それで私が教えられた通りに、小山駅のホームで待っていると、そのホームまで駆け足でやって来て、私を見つけて、『宇都宮で8番線に乗ってくださいね!」と、わざわざ追い掛けて来て、教えてくれたのです。

いやー、〈田舎モン〉の私たちに、栃木県民は実に親切なのです。昨日、ホームで待っていて、ベンチに隣に初老の男女が座っていて、会話が始まりました。ご婦人が、〈福祉タクシー券〉を手にされていて、『これ、助かるんです!』と言って見せてくれました。栃木に住んでいると言ったら、『頂けるから、問い合わせてみてください!』と、親切に勧めてくれました。

空気もいいし、夕焼けも綺麗だし、野菜や果物も美味しいし、人もいい、まさに《四拍子》が揃った県の《優点》です。昔住んでいた県は、なかなか受け入れられない気難しさがありましたが、ここ栃木県人は、関東平野の広さが、人の心も広くさせるのでしょうか。ちょっと引っ込み思案かなと思いますが、優しいのです。病んだ家内には、身に染みている様です。

ちなみに、茨城県人に若い友人がいますが、素敵なご夫婦で、いつも親切に接していてくれます。この被災時に、お手伝いにきてくれ、翌日に朝まで食べられた「お手製焼きそば」やお寿司を差し入れしてくれた方が、茨城県人です。涸沼(ひぬま)のシジミが、私は大好きです。

(栃木県の県木「栃の木」の花です)
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「市邑(しゆう)」と言う、もう今では使うことのなくなった言葉があります。内村鑑三が著した「デンマル国の話」の中に使われていたのですが、私には読めませんでした。明治期の文人たちの多くは、幼少期に「四書五経」を学んでいた様ですから、古語に通じていたということになります。その漢字理解のすごさに驚かされます。この「邑」は、”むら”とも読みますが、都市や町や村を意味しているそうです。ですから「村」とは、大分違ったニュアンスを持っています。次の様な解説があります。

「邑(ゆう)は周囲を壁でかこまれた聚落のことで、その象形文字である。前4000年紀の中国の新石器時代、定住生活が始まり農業生産力が徐々に高まっていくなかで、各地に村落(ムラ)が生まれてきた。しだいにいくつかのムラを統合して周辺の人々を集住させ、周囲を城壁で囲んで防衛する規模の大きな城郭都市が出現した。そのようなムラおよびそれが発達した城郭都市を邑といっている。邑の住民は同一血族である氏族と意識され、有力者が族長として祖先に対する祭祀を行い、住民は周辺の農地を支配して租税を納めた。また、周辺の邑との交易も行われ、邑の支配者は経済的な管理も行っていた。このように、邑は他の古代文明圏における都市国家にあたると言える。このようにして成立した邑の中で最も有力となって大邑といわれた「商」を中心にして、邑の連合体として成立したのが殷王朝であり、そのような国家形態を邑制国家ということもある(「世界史の窓」より)。」
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中国の南部に、12、3世紀に造られたと言われる「土楼(どろう)」が、無数に残されてあります。 東北部から、敵の手を逃れて来た人たちが、敵の侵入を阻もうとして、土塁を築き、その城壁の中に、木造の住居を4から5階で家屋を築いて、砦の様な中に集団で住んだものです。現在もなお住居として利用されています。その近くに住んでいる方が案内してくれて、ユネスコ世界遺産に登録されている所に連れて行ってもらったことがありました。

その土楼の中には、集会場があり、生活用水を得るための井戸がありました。それを「邑」とは呼んでいませんが、集落の特徴的な形態を持っていて、大変興味深いものです。日本では見たことがありませんでした。土楼を築いた人たちを、よそから移り住んだ人たちだったので、「客家(kejia/ハッカ)」と呼ばれてきています。鄧小平やシンガポールの建国の父の李光耀(リ・クアンユー)などは、客家人と呼ばれて有名です。

「邑」の方が、「村」よりも<ムラらしく>感じられて、漢字が持つ意味の深さが伝わってきます。北海道に住み着いた、アイヌの人々には、文字がなかったのは残念なことでした。先年、入院して滞在していた札幌も、「邑」の一つでありますが、200万都市を、そう呼んでよいのでしょうか。

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