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同級生が、大分県の別府の街の出身で、『温泉がいいぞ!』と言うのを聞かされた私は、その街の温泉に入ろうと寄ったのが、19の夏でした。そうなんです、ここ大分県は「温泉県」と言える様です。それから何年も何年も経って、四国の愛媛県の八幡浜からフェリーで、この別府に上陸して、九州を縦貫して熊本を訪ねたことがありました。
関門海峡を国鉄の列車で、九州に入るだけではなく、海路をたどって上陸することもでき、もちろん空路も可能でした。旅の趣きで、いちばん面白いのは船ではないでしょうか。でも、もっとも原初的は方法は、地面の上を歩くことに違いありません。また車や列車で移動することができます。その船、そして飛行機です。
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たしかに福岡や熊本や長崎や鹿児島は脚光を浴びていますが、大分は、ちょっと遠慮がちの九州の一つの県でしょうか。この県で有名なのは、「青の洞門」ではないでしょうか。菊池寛の作品で、「恩讐の彼方に」に出てくる、仏僧の禅海が、かつては難所で遭難者が多かった邪馬渓(中津市)で、ノミと槌だけを使って岩壁を掘ったのです。なんと30年もの歳月を経て、元和元年(1764年)に貫通させています。
この大分は、狭い地形の中に、開墾した田圃が多かったことから、「多き田」と呼ばれていたのだったそうで、それが転じて「おおいた(大分)」と呼ばれるようになったと言うのが、県名の由来だそうです。律令制下では、筑前国の一部とこの地を「豊国(とよのくに)」と呼ばれていて、豊前国(ぶぜんのくに)、豊後国(ぶんごのくに)の二国だったのです。
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戦国時代は、大友氏の所領であったのですが、江戸時代には、中津、杵築(きねず)、日出(ひじ)、府内(大分)、臼杵(うすき)、佐伯、岡(竹田)、森(玖珠/くす)の八藩が分立していました。この他に、日田(ひた)は、幕府の直轄領でした。現在の人口は人110万強、県都は大分市、県花と県木は豊後梅、県鳥はメジロです。産業形態では、農業生産がめざましいものがあります。
華南の街の日系企業の社長をされていた方の奥様が、日田の出身で、先日も、『故郷から〈かぼす〉が送られてきたので!』と言われて、お裾分けしてくれました。このご夫妻は帰国されて以来、今に至るまでお付き合いがあります。水産業も、工業も盛んな県なのです。
慶應義塾を始めた福沢諭吉は、中津市(中津藩)の出身です。大阪の藩の屋敷に、下級武士の子として生まれますが、父親は儒学者でもあった様です。その父親が、諭吉一才の時に死去後、中津に戻り、やはり学問を好んだ人で、長崎にも出掛けています。遣欧使節の一員として出掛けた経験から、『天は人の上に人をつくらず・・・と云へり。』で有名な、「学問のすすめ」を著しています。
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私の青年期に出会った女性が、日田の出身で、福岡のとある協会で働いていました。九州弁の訛りがあって、まさに日田美人でした。背が高くて、実に素敵な方でした。上の兄のいた街に一緒に行き、その後に、太宰府を案内してもらい、出張を終えた時を過ごしたのです。歌の歌詞にあったように、『指も触れずに』、別れて帰京したのです。旅の若者は23歳ほどでした。
あの後、しばらくしてこの方が上京して来たのです。弱冠の私でしたし、まだ結婚は考えられませんでしたので、会えば、そんな話が出そうで、奥手の私は、そのままにしてしまったのです。何通か便りを受け取ったのですが、返事もせず仕舞いでした。ちょっと後ろめたい思いもあったのですが、諦めてもらうしかなかったのです。そんなことがあった二十代前半で、ほろ苦い青年期の思い出の一つです。
家内と結婚してから、由布院(湯布院)に出掛けたことがありました。熊本で、牧師会が開かれて、そこに参加の途次でした。その湯布院に、知人のお父さまの湯治用の家があって、右肩の腱板断裂の怪我をして、手術後にリハビリをしていた頃でしたので、1週間ほど、その家をお借りしたことがありました。大きな湯船に、温泉供給の栓を開いて温泉を入れて、実に快適な1週間でした。必要な物を近くのお店で買い求め、台所で調理をしてもらいながら、湯布院の湯は快適でした。温泉街を散歩したのですが、のんびりとした湯治場で、よく見られるケバケバしさは見られませんでした。
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そんなことで、大分県は、けっこう身近に感じられているのです。いただいた、日本一の生産量を誇る「かぼす」が、まだ冷蔵庫に残っているでしょうか。香りが高く、味も良くて、サラダや、揚げた魚にかけて食べるのです。時々、日田名物の和菓子、羊羹をいただくのですが、ことのほか美味しいのは、懐かしい、ちょっと申し訳のない思い出があるからなのでしょうか。
一昨日、19の夏の九州旅行を一緒にし、別府の温泉にも一緒に入った友人のご夫人から、彼の訃報が届きました。カバンを持って校門で待っていてくれて、一緒に帰った友でした。お父さんが、Tailor をされていて、何着かの背広を作ってもらったことがありました。国文科に進学して、中学校の国語教師を勤め上げたのです。退職後は、あちらこちらへの旅行先から、よく版画絵を擦り込んだハガキをもらいました。もう仲間や友人が亡くなってしまう年代になったと言うことでしょうか。
旅先のことも、一緒に時を過ごしたことも、遠い昔のことですが、学友、遊び友だちがいなくなると、さらに思い出が遠のいてしまったようです。人生には、「至る處青山あり」だと言われてワクワクしていたのに、青山は紅葉に変わり、やがて落葉してしまいます。でも、木々の葉が落ちると、すぐに、来季の芽吹きの準備に入るのは、自然界の驚異です。
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人は再生の命ではなく、「新生のいのち」に預かることができると、いのちの付与者である創造主が、私の若い日に、聖書で語ってくれました。
『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3章16節)』
友人の他界と、大分とは関係なさそうですが、一緒に温泉につかった懐かしいことも、楽しかったことも、過去へ追い返されてしまいますが、私の前には、「永遠」があるのだと確信しながら、人生の旅を締めっくくる準備、「収活」をすることにしましょう。
(豊後梅、大分全図イラスト、青の洞門、カボス、由布岳、別府です)
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