書を読み

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Students Youth Adult Reading Education Knowledge Concept

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首相官邸が、災害時の「非常持ち出し品」のリストをまとめています。

* 飲料水、食料品(カップ麺、缶詰、ビスケット、チョコレートなど)
* 貴重品(預金通帳、印鑑、現金、健康保険証など)
* 救急用品(ばんそうこう、包帯、消毒液、常備薬など)
* ヘルメット、防災ずきん、マスク、軍手
* 懐中電灯、携帯ラジオ、予備電池、携帯電話の充電器
* 衣類、下着、毛布、タオル
* 洗面用具、使い捨てカイロ、ウェットティッシュ、携帯トイレ
* ※乳児のいるご家庭は、ミルク・紙おむつ・ほ乳びんなども用意しておきましょう。
  
ところが、ユダヤ人は、子どもたちに、『お前が家を焼かれて、財産を奪われたとき、持って逃げるものは?』と言う問いに、次の様に教えるのだそうです。それは無形、無臭、無色なものだと言う条件付きです。その答えは「知性」だそうです。

どうも、「本」、良書との出会いや携行を言っている様です。親が子に処世の術を教える時に、日本の内閣府が見落としていることに、注目させている様です。人は、物、パンだけで生きているのではなく、思想とか、精神とか、知性とかで生きるのであって、子どもたちの物を得ようとの思いから、目を転じさせようとしているわけです。

件の災害持ち出し袋の中に、「本」がないのは残念でなりません。物質主義が横行し、物で氾濫した世の中で、物よりも大切なものがあることを、ユダヤ人は教えているわけです。例えば、『旅先で、故郷の人が知らない本に出合ったら、必ず持ち帰れ!』、『貧しい時に売るのは金、宝石、家、土地。しかし本は売ってはならない!』、『本は敵にも貸さなければならない。さもないと知識の敵となる!』などの格言が残っているそうです。

父は、小学生の私に、『辞書をひいて本を読め!』と、よく言いました。現代の日本人は、本を読まないのだそうです。スマホの影響だけではなく、知識欲が衰退しているに違いありません。批判や批評能力は相当なものを持ちながら、知性的な貧困が見られるのです。避難所で、電気も何もないなら、蛍雪や月明かりでも、本を読むことはできます。

『書を捨てよ!』と主張した寺山修司は、口にすることとは裏腹に、驚くほどの読書量があったのを見落としてはなりません。二十一世紀の若者に、『書を懐に旅に出よ!』と言いたい、いえ、旅には出なくとも老人にもです。そんな思いの2019年の年の暮れです。

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里帰り

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13年前に、天津の語学学校で、中国語を学ぶために出かける決心をして、35年分の所帯道具を整理しました。ほとんどの物を、『エイッ!』と廃棄した中で、 家内の妹に、使って欲しくて上げた物がいくつかありました。それが、先日、送り返されてきたのです。

次女の婿殿の母君が、芸術家で、ご自分で作られた物を何点かいただいたのを、差し上げたのですが、栃木に住み始めた家内に、戻してきたわけです。壁などにかける飾り物なのです。〈出戻り〉でしょうか、〈里帰り〉でしょうか、久しぶりに手にして、懐かしくなってきました。

母君は、お病気で、数年前に召されたのですが、料理上手で、何度かご馳走になったこともありました。太平洋の港町に、白亜の別荘を持っていて、泊めていただいたこともありました。創作の場でもあった様です。この方のご主人が、面白い趣味をお持ちなのです。太平洋の波に運ばれた浮遊物が、砂浜に打ち上げられるのですが、それを朝早く、拾い集めて歩くのだそうです。

魚網につけるガラス製のブイや、波に削られた木材や、まあ思いもよらない物もある様で、もし自分も海岸に住む様なことがあったら、真似をしてみたくなる趣味です。実際に泊めていただいた時、海岸を物色したのですが、何も手にできませんでした。
遅かりし内蔵助でした。東日本大震災の津波で、三陸海岸などから、漁船やオートバイなど、様々な物がさらわれて、海流に乗って、アメリカの海岸に打ち上げられているそうです。

知多半島の美浜町に、「三吉漂流記念碑」と言う碑があります。街の広報に、次の様にあります。

『(小野浦の漁民の岩吉・久吉・乙吉が)1832年、宝順丸という千石船に乗り江戸へ向かう途中嵐に遭い、太平洋を1年2か月も漂流した後、アメリカ西海岸へ漂着。その後イギリス経由でマカオに送られ、そこでドイツ人宣教師ギュツラフの聖書の和訳に協力、翌年モリソン号に乗り日本へ。しかし浦賀、鹿児島で砲撃を受け帰国を断念。中国にて、多くの日本人漂流民の援助を行い、送還の手助けをする。また、イギリス海軍の通訳として日英交渉に力をつくした。美浜町が生んだ日本最初の国際人。』

海外渡航を禁じた徳川幕府は、石数(こくすう)の小さな船底の浅い船だけに制限したため、当時の漁船や運搬船は、大嵐に耐えられなかったので、宝順丸も難船してしまったわけです。三浦綾子が、「海嶺」と言う本を書き、映画化されました。土佐のマンジロウも、難船した船員でしたが、賢い人だったそうで、幕末明治に語学に通じていたことで、大変有為な仕事をされています。

「雪中花」と呼ばれる水仙は、中国の河を下り、海に出て、波に運ばれて、日本の海岸に漂着して根付いたので、日本の海岸線に多く棲息し続けてるのだそうです。椰子の実だけではなく、様々なものが渡来してるのは、ロマンがあって興味深いのです。日本人の一部は、その海流に乗って渡来した民なのでしょう。

渥美半島の突端で、何かないかと砂浜を見て歩きましたが、収穫がなかったことがありました。波ではなく、郵便によって〈里帰り〉した額が、今、食卓を見下ろしています。

(知多半島の美浜町の海岸です)
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ボランティア

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「被災」と「罹災」とを、市役所は別に捉えているのが、今回の災害経験者として知ることができました。証明書の発行のために、それぞれ違った定義をしているのです。「被災証明書」は、「地震、火災、風水害などで被害を受けた家財、自動車など動産の被害を証明するもの」なのです。一方、「罹災証明書」は、「被害を受けた家屋・事業所など建物の被害状況を証明するもの」なのだそうです。

10月の台風19号の水害を被った私たちは、みなさんの勧めで、市役所に出かけ当該担当課で、被害状況を撮ったiPadの映像を見せながら、窓口の若い事務方の女性から、「罹災者」の認定を受け、被害程度が、「半壊」との証明書を受けました。

被災者の医療費の免除と言うことで、来年の1月いっぱい、家内の継続治療費や眼科治療費、そして私の内科診察の地浪費も、市が負担してくださっています。やはり大きな助けを受けることができて、ありがたいことだと感謝しているのです。

私たちが住んでいた家の県道に面した家具店の休館が、同じ様に床上浸水をしていて、展示家具が汚水を被ってしまいました。東日本大震災でボランティア奉仕をされた方が、“ SNS ” でボランティア募集をして応答してくださった多くのみなさんの奉仕で、店と私たちの住んでいた家の汚泥を取り除いたり、床材を剥がしたり、廃材を置き場に運んだりしてくださって、綺麗になったのです。

店の再建に取り掛かる前、この年末に、災害復興コンサートが、12月14日に、旧店舗のコンクリートの三和土(たたき)を会場に行われました。お二人の女性歌手、音楽奉仕をされて来た夫妻、マレーシアから来られてボラティアをしてくださったみなさん、参加者全員で歌ったりの演奏や奏楽や歌、社長さんの友人のお話など、とても素敵な手作りコンサートが行われたのです。

永野川の氾濫で被災された薗部町の方たちが〈豚汁〉、ボランティアを指導してくださった方の奥様たちが握った〈おにぎり〉、みかんやなどで昼食をとって、午後の部もありました。大分の尾畠さんは有名ですが、年の瀬も迫った今日も、無名のボランティアのみなさんがお出でになって、被災地の復旧に取り掛かろうとされておいです。

(洪水以前の巴波川です)
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望みを持って


私たちの家の北に「男体山」、東に「筑波山」、西に「富士山」が見えます。真冬の晴天の朝、凍てつく様な茜色になった筑波山方面から陽が昇って、なんとも言えない荘厳さを見せてくれます。夕陽を背にした富士山を遠くに見て、懐かしさを覚えてしまいます。残念ながら、建物に邪魔されて、富士山は頂上付近しか見えません。南は、関東平野が広がっています。

曇りの日には、三方向に山はありながらも、姿が隠れてしまって、ちょっと寂しい思いをしております。駅から、本数は少ないのですが、南に行く特急電車に乗ると、乗り換えなしで湘南に行き来することができます。また、ここから小山に出ると、茨城県の水戸や磐城の海に行くJR線があって、無理すれば日帰りが可能です。その他は山また山ですが、岩魚や山女などを焼いて、蕎麦でも食べられそうです。

ちょっと環境変化が欲しいのですが、願いを思いの中に秘めているのが一番いいのだそうです。決して閉塞状態にあるのではなく、〈ブラ旅〉を、ブラブラしながらしてみたいだけなのです。家内は、『温泉でも行って見たら!』と言ってくれますが、それとて〈ヒトリボッチ温泉〉の気分にはなりません。

フランクルが著した「夜と霧」に、収容所の中で、明日への希望をつなぎながら、今日を望みを持って生きている人たちが、過酷な中を生き延びたと書いてあります。『あの人と結婚しよう!』とか、『こんな仕事をしたい!』とか、『あそこに旅をしてみたい!』とか、今日の苦しみの中で、明日や来月や来年のことを考えることがいいと言ってるのです。

冬枯れの奥深い街に住んでいますと、おのずと海が恋しくなってしまいます。潮騒を聞いたり、潮風に当たってみたくなるのです。サザエの壺焼きなんかを食べてみたら、素晴らしいのですが。家内にも、『よくなったら一緒に・・・』と、口癖の様に言ってしまいますが、言い過ぎると重荷になってしまうでしょうか。

今は、孫たちがやって来るのを楽しみにしています。それで今日、家内は、思い立って、散髪に行ったのです。独身時代の彼女は身だしなみで、一週間に一度は、美容院通いをしていたそうで、後は両親に給料を袋ごと渡していたそうです。夏に、近所の美容室に行ったのですが、今回は高いので、理容室に行くと言って、駅前に出かけて行きました。綺麗にして、子どもたちや孫たちを迎えたいのでしょう。

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我慢強さ


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以前に治療した歯が、また〈悪さ〉をし始め、帰国する度に、歯科通いをしてきました。今年の帰国で、家内の治療が長引くと考え、それで、じっくりと歯の治療を始めたわけです。だいぶ削った後に、『抜かないと!』と、地元の歯科医に言われていたのですが、治療前の測定で、血圧が高いと言って、三度ほど抜かれずに過ぎていました。

ちょっと不安に駆られた私は、秋風が吹き始めた頃に、この歯科医に代わって、前回帰国時にかかった、日本橋の歯科医に診てもらったのです。随分以前に、治療した歯でしたが、歯と歯茎の間に、食べかすが溜まって、化膿し始めていたのです。それを、昨年の帰国時に、この兜町の証券取引所の株屋さんたちを患者にされている歯科医に、切開していただいたのです。

その後、中国の華南の街に戻って、いただいた歯ブラシで丁寧に歯磨きを励行していました。そのおかげで、回復していたのです。それを、今年帰国してから、地元の歯医者を訪ねましたら、最初から抜くと言われて、削ったまま、ずっと治療停止状態のままでした。

双方とも《抜かない歯医者》との触れ込みなのです。抜こうとしていた歯は、日本橋の歯科医の話では、この奥歯は、《我慢強さの歯》なのだそうです。この歯を噛みしめることによって、忍耐力が涵養されるのです。七十の私にも、もっと我慢強くしていて欲しいと、日本橋では、抜かないですむ治療を施してくれてきたのです。

この先生が話し好きで、口を開けて、返事のできないでいる治療中の私に、しっきりなしに話しかけるのです。友人の息子や、タクシーの運転手や、知人のことを、歯の治療に関してです。私が中国に行き来していることや家内の病などを話したことがあって、思い出した様に、そんな話題に触れるのです。

ところが応答できないのを承知で、治療の退屈さを紛らすためか、耐えるためにでしょうか、話しかけられるのです。漫談師になっても、やっていけそうなほど話題が豊富なのです。治療が終わって、話の返事をしようとすると、次の患者さんが来ていて、そのままで終わってしまいます。一方通行の話って、どうしたらいいのでしょうか。

そんなで、大切な歯が、ギリギリの所で、残ったわけです。まだ奥歯を噛んで我慢することもあります。この歯が残っていることで、まず自分に我慢できてるのが一番でしょうか。この左右の《我慢強さの歯》が、若者たちに残されることで、きっと犯罪も少なくなれるのかも知れません。

国語辞典に、「奥歯を噛む」について、『悔しさ、苦しさなど、耐えがたいことを、じっとこらえるさまにいう。歯をくいしばる。※杜詩続翠抄(1439頃)九「奥歯をくうて憤発而言た躰也」』とあります。〈地団駄(じたんだ)を踏むためにではなく、自分に忍耐するための我慢をしながら、新しい年を迎える準備中です。

(日本橋の古写真です)

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へそ曲がり

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正月に「お雑煮」を、土用の丑の日には「鰻」を、年の瀬には「蕎麦」を、日本人は食べて来たのですが、これもそんな古い習慣ではなさそうです。12月24日、降誕節の前日に「チキン」と「ケーキ」を食べる様に、いつの頃からか、そうなりました。戦前には、そんな誰もがの食習慣はなかったのですが、アメリカ軍が進駐して来てから、アメリカ文化に感化されて、そうなったのでしょうか。

アメリカでは、この時期に、「七面鳥」をグリルして食べていたのだそうですが、調理が面倒なのと高価ですし、手に入りにくいので、手っ取り早く、「代用品」の〈鶏肉〉、それも、骨つきの足の部分を食べ始めたのです。ケンタッキーフライドチキンが始めたのだそうで、もう日本では、この食習慣も〈日本的〉になってしてしまいました。

「デコレーションケーキ」は、もう少し古く 1910年に、不二家が売り始めたのだそうです。真っ赤な鼻のトナカイのソリに乗った、白いひげで真っ赤な服を着て、袋をかついだ「サンタ」が登場したのはコカコーラが、1930年代に宣伝したことによるそうです。

北欧や西欧、アメリカの文化が、戦後、怒涛の様に、〈商業主義〉の波に乗って、日本に入り込んできたわけです。私の恩師は、アメリカ人ですが、キリストの誕生は、秋の10月頃であって、この時期になったのは、古代の王・ニムロデという指導者の誕生日や、バビロンの祝日、冬至の祭りに合わせた祭り事だと言って、根拠希薄で、特別に祝うことはしませんでした。

サンタクロースが主役になって、大騒ぎする様なものは、異質なのでしょう。子どもの頃、12月25日の朝になると、枕元に、ギフトが置かれていて、大喜びをしたことがありました。あの父とサンタのギフトと、あまり似合わないのが、ミスマッチで面白かったのです。

私も、この恩師に倣って、この文化に馴染めないまま、今があります。私にとっては、毎日が「降誕節」であって、そう言った日常が定着してしまっているのです。ラジオのコメンテーターまでもが、〈Merry〉と祝い言葉を使っていて、ちょっと不思議でなりませんでした。これって口先のことではなく、心の中の出来事なのですから。少々〈へそ曲がり〉かも知れませんね。

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私たちの国の高校野球は、強豪校の多くが、有能な選手を国内留学させて、甲子園に出場を目指す様です。授業料免除、奨学金支給もあるそうです。すでに小学生の頃から、目覚ましく活躍する野球少年に目を向けているのです。勝つため、つまり〈甲子園出場〉と言った大目的のために、青田買いをしているのです。そんな中、チーム全員が秋田県出身で構成する秋田の県立金足農業高校が、2018年の甲子園で大活躍していました。

出場校が、ほとんど私立の中、県立高校が高校選手権大会で、準優勝したのは快挙でした。野球界だけではなく、柔道でも、高校進学のための〈国内留学〉があって、一人の高校生が、私たちが住んでいる街の柔道の名門校に入学しました。時々、私たちの事務所に顔を見せてくれました。

二十代の前半に、私は左腕を骨折をし、住んでいた街の〈名倉堂〉と言う柔道整復院で診てもらいました。複雑骨折で、この方の手に負えないで、三つ先のJR駅の近くで開院されている、この方のお父上の所に行く様に言われたのです。

レントゲンを撮って、治療していただき、副木を当てられて、だいぶ通院しました。骨は繋がったのですが、〈くの字〉に曲がった腕が伸びませんでした。『甲州増富の温泉がいい!』と言われて湯治に出かけたりしたのです。ある時、時を見計らっていた父先生が、『エイッ!』と掛声をかけて伸ばして、それ以来、冬場にも痛みなしで半世紀になります。

あの高校生は、柔道界では、オリンピックに行ったりの活躍はできなかったのですが、お父上と同じ柔道整復師の資格を、3年の学びをして取得しました。その資格をとった彼が、ふと私の家にやって来たのです。そして『お世話になったお礼に、マッサージをさせてください!』と言って、最初の施術をしてくれたのです。

そんな律儀な彼に感謝して、喜んで受けたのです。すごく世話を焼かされた方がいても、そんな感謝をされることがないことが多い中、その気持ちが、とても嬉しかったのです。音沙汰がなくなって、もうだいぶ時が経ちます。先日、冬場に、十数年来起こる腰痛で難儀している中、長男が家内の通院の助けで来てくれた時、電話の向こう側の嫁御の勧めに従って、整形外科に連れて行ってもらいました。

『手術!』とは言われずに、温湿布、電子治療を受けたのですが、今は、家内が近くのドラッグストアに、一人で買いに行ってくれた〈ホッカイロ〉を腰に当てています。まあ、この腰痛と仲良くして行くことにしています。運動や重労働もしましたので、医師の診断は〈老の一部〉だそうです。オイオイ "泣いたりしていませんので、ご安心のほどを。

(子どもの頃の漫画の「イガグリくん」です)

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冬至

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中国の街で過ごした13年間の間、中華民族が、4000年もの間、最もこだわり続けたのが、「春節」だと言うことが分かったのです。この「春節」が近づくと、道筋に、年越し用品、正月用品が並べて売り出されます。みなさんは、それを買い求め、「大晦日」には、家族みんなそろって夕食を食べるのです。

そして祝賀の思いを表す、「対聯(〈ついれん〉おめでたい言葉を赤い紙に書いたもの」を、門や家の入り口の門中と鴨居に貼り出します。新年の祝賀と、邪気を払おうとします。そして日本の正月と同じ様に、盛りだくさんで豊かな食べ物を食卓に並べます。爆竹が鳴り響き、花火が打ち上げられ、煙り街中を満たすのです。

寒い冬の最中ですが、「春」の到来を告げる、この「春節」は、寒ければ寒いほど、待ちわびる思いも強いのでしょう。みなさんは、暮に買ったり、贈られたりした、新調した服を着て、街中を家族連れて歩くのです。春を喜ぶ想いが、溢れかえるのです。

今日は、「冬至」です。この日を境に、太陽の光が戻ってくるので、ヨーロッパのみなさんは、この日を喜ぶのだそうです。太陽の回帰、陽の光が戻るというには、冬の寒さに比例した強さになるのでしょう。私たち日本人は、「と」や「ん」のつく食べ物、豆腐、どじょう、唐辛子、冬瓜(かぼちゃのことでしょうか)、蓮根、銀杏、うどんなどを調理して食べる食習慣がありますが、きっとヨーロッパのみなさんにも、国によって、民族によって、独特な食べ物があるのでしょう。

華南の街にいた去年、日本の友人から、「シュトーレン」というケーキを頂きました。ヨーロッパ人、とりわけドイツ人のみなさんが好んで、この季節に食べるのだそうで、実に美味しく頂きました。その味が懐かしくて、今年は、この街で探したのですが、宇都宮にはあるそうで、どうしようかと思っていて、娘が来るので、時季がずれますが、買ってきてもらおうと注文してしまったのです。

今夕は、「柚子(ゆず)湯」にしようかと思っています。前の任地で、柚子を生産している方が、毎年、今頃になると、新しいバケツいっぱいにした物を持って来てくださいました。そう言えば、華南の街でも、よく頂いたのです。

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恩人の死


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戦争が終わって、軍需産業の石英の採掘工場が閉鎖されて、父は、その工場を、平和利用し始めたのです。石英を搬出したケーブルを利用して、県有林の伐採権を得て、木材の切り出しをしていました。搬出先は、京浜地帯の木材市場だった様です。その父のもとで、十代の青年が働いていたのです。

この青年は、戦時中、国防の志を立てて、予科練に志願し、終戦とともに、その志は敗れてしまったわけです。出雲にいた当時、父が好きだった、〈泥鰌すくい〉の手伝いをさせられたことがあって、近く親しい関係があった様です。それで、父を頼って、父が始めた事業を手伝おうとしてやって来たのです。

街から作業現場は、山道を歩いて往復していたそうです。若いこの方が、歩こうとしない私を、父に言われておぶって山奥の家に連れて行ってくれたそうです。しかも若くて屈強の方でしたが、荷物を持ちながら、私を背負い、泣き泣き山道を歩いたことを、母や兄たちから聞かされたのです。

その木材の事業を終わらせた後、この方は、故郷に戻って、日本通運の自動車の運転手の仕事を始め、定年まで働いたのです。父への感謝があったのでしょう、秋には鳥取の二十世紀梨を、年末には出雲そばと「あご野焼(飛魚で作った白身のかまぼこ)」を毎年送ってくれました。

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私たちが結婚すると、四人の家に、同じ様に、毎年送ってくださったのです。私が中国に行くまで、それが続いていたのです。父と母が好きだったので、それを父の子たちにも送り続けてくれたわけです。穏やかな方で、私たちは、父や母が呼んでいた様に、『茂ちゃん!』と、〈ちゃん呼び〉を許してくださったのです。

鳥取に出張した時に、出雲のお宅に寄ったことがありました。美味しい、出雲そばをご馳走してくださり、日御碕(ひのみさき)に連れて行ってくださったり、大東の母の親戚までお連れくださったりしたことがありました。その時、父や兄に聞かされた〈昔話〉を話しますと、ただにこにこと聞き流しておられるだけでした。

先ほど、兄と弟から、茂ちゃんが、今朝、九十歳で亡くなられたと、言ってきたのです。みんなで訪ね様との話が何度も、私の帰国時にあったのですが、兄たちは行くことが二度ほどあったのですが、私は実現しないまま、過ぎてしまっていました。もう一度お詫びをしようと思ったのに、叶えられなかったのが残念でなりません。

葬儀のために、兄と弟が明日一番で、出雲に出掛けると言っています。残された奥様と、息子さんの上に、ただ平安を願うのみです。私の大切な方、恩人との戦争後からの出会いと交流に、終止符が打たれたのです。ただ感謝あるのみです。平安!

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遊びと労働

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オランダの歴史学者に、ホイジンガという方がおいででした。ある本の中で、この方の述べられたことが引用されていました。「遊びと労働」についてでした。「仕事(労働)」だけではなく、「遊び(余暇を楽しむ)」ことに触れています。

日曜日と週日、昼間と夜間、青年期と老年期、冬至と夏至、正月(西洋ではXmas )とその他、夏と冬と言う対になったものの様に、「労働(仕事と言っても好いでしょう)と「遊び」があるのでしょう。

奉公に出た丁稚さんの楽しみは、主人からお小遣いをいただいて、弟や妹にお土産を持って帰省できる、盆と正月だったそうです。それを「藪入り(やぶいり)」と言って、旧暦の一月一六日、七月十六日なのです。「故郷(中国語では  老家 laojia ”と言いますが漢字としては実感が強いですね)」、つまり親元に帰って、過ごす日々の楽しみが、日常の奉公を支えていたと言ってもいいのでしょう。

労働だけでは、人間は耐えられない様にできているのでしょう。日常の義務や任務から解放されて、ホッとできるひと時が、激務の時を支えているとも言えるでしょうか。今年の後半は、ラグビー熱がものすごい一年でしたが、前後半の間の “ half time ” が、それと同じ様な役割を持っていそうです。

ただし、正しく日曜日、昼間、青年期、正月、遊びをしないと、意欲を削いだり、怠心が生じたりしてしまいます。私は、本業の他に、スーパーマーケットの床掃除を、月に二、三度でしたが、20年ほどやっていました。自分たちの事務所を建て上げる時、工務店に頼まないで、自分たちの手で建てたのです。その掃除からの収入が、建設期間の十数カ月間の働き手の生活の一部を支え、後には、子どもたちの教育費に当てることができたのです。

その労働が明けると、私はタオルを手に、朝湯の銭湯や日帰り入浴施設や山間の温泉場に出掛けて、息抜きをしたのです。パチンコとか麻雀とか競馬などをしませんでしたから、500円ほどで湯に浸かって、ボーッと山の稜線や飛ぶ鳥を眺めて、昼時には、蕎麦をすすって、小さな安らぎの時を過ごしたのです。

床を洗浄し、モップをかけ、乾いた床面にワックスをかける作業でした。学校に行っていた時に、大手のホテルのアルバイト中に、ポリシャーを使ったことがあって、その経験を買われて、その仕事を得ることができたのです。「労働と遊び」、これが一対をなすのを身を以て経験したことになるでしょうか。

あの忙しさと緊張を解かれて、今の時があります。けっこう懸命に生きて、義務を果たして来れたんだと自負しているのです。多くの人の助け、協力、理解があってでした。今住んでいる、この街の北の方に、入浴施設があって、一度行ったことがありました。同じお湯、似た様な環境でありながら、労働の日々の合間ではなかったので、あの頃の様な感動がないのに気づかされるのです。

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渓谷の谷間に浴場があって、川の対岸の壁に、ぎっしりと氷柱が下がっていた温泉がありました。あの感動は忘れることがありません。ちょうど今頃の季節、厳冬の凍てつく日が続いていた日だったと思います。あの「遊び」の時々があって、「労働」の日々が支えられていたことになります。

(懐かしい山間の公共の日帰り温泉です)

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