解体

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巴波川を挟んで南側の対岸に、駅からの道の脇に旅館があって、かつては、商人宿として、商いや営業のために、来栃したみなさんが利用したことでしょう。聞くところによると、後継者がなくて休業されて、後に廃業したのだそうです。けっこう部屋数が多いのですが、先週から来解体工事が始められていて、起重機や破砕重機などで、コンクリートの建物が壊されています。

最近の解体工事は、コンクリートの破砕粉が飛んで、近所に迷惑にならない様に、散水しながら作業を続けています。ここ4階から、職人さんたちの無事故を願いながら、時折手際よい作業を眺めております。きっかり5時で、その日の作業を終えて、現場を片付けて、帰って行かれた様です。

この様な作業を、アルバイトでしたことがありますので、ちょっと懐かしくなって、つい手が出そうになってしまう自分を抑えているこの頃です。朝、8時前に作業員のみなさんが来られるのです。子どもの頃に、次の様な歌を歌っていたのです。

♯ 朝の4時半だ、
べんと箱下げて、
家を出て行く土方の大将 ♭

昔は、作業が朝の5時か6時には始まっていたのでしょう。まだ真っ暗な中を、奥さんに作ってもらった〈ドカベン〉に、一升飯を詰めて、昆布かイカの佃煮かメザシ、そして梅干しにたくあんが相場が決まっていたようです。腰には手拭いを下げて、組の名の入った半纏でニッカズボンを着て、地下足袋(じかたび)の出立でした。

そんな姿のおじさんたちを期待していたのですが、今では自動車に乗って、肩から鞄を下げ、頑丈な作業靴に、きれいに洗濯された小綺麗な作業服に身を固めているのです。時間通りに始まって終わる、会社員なのでしょうね。お昼も、出前弁当でしょうか、配達の車が仮駐車場に止まっていました。

こう言った現場で働く人のことを、昔は、〈ニコヨン〉と呼んでいました。〈日当240円〉との賃金が相場だった時代です。更地になったら、アパートとかマンションが建つと聞いています。

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遠足二段

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「ふれあいバス(市営)」の栃木駅北口発で、「星野遺跡」で下車して、石器時代と縄文時代にわたる住居跡の遺跡(東北大学の発掘)を見学に行きました。若い友人がお嬢さんと、歯医者の治療を終えてから、追いかけて来てくださって、一緒に食事をしたり、フルーツを食べたりして、遊んだのです。そして乗って来られた車で、家まで送ってもらうことができました。

一足早い、今春二度目の「遠足」でした。武漢ウイルスの影響が騒がれ、『老人は外出するな!』と言われているのですが、人のいない遺跡は、影響外でしょうか。帰りしな一組の親子連れがいただけでした。3月21日から、「後期高齢者」は、どの路線も、どこまでも、「100円」でバスに乗車できると改定されていて、助かりました。好い一日でした。

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ハサミ

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今春、幼稚園の年長になろうとしているお嬢さんが、お母さんと、時々、わが家にやって来ます。『じゅんさん!』、『ゆりさん!」と、まるでお友だちの様に呼んでくれる、実にくったくのない子なのです。多くのお母さんは、自分の子どもに持たせないのですが、彼女のお母さんは、どう使うかを教えたのでしょうか、ご自分の子に〈ハサミ〉を持たせています。来るたびに、器用にハサミで、折り紙を切って、セロテープで貼り付けて、作品を作って遊んでいます。

わが家に、“ モンキー・バナナ・スタンド"があるのですが、来るたびに、何度も見てきた ” 毛なしモンキー “ を、先週は、ハサミで切った紙で服をこしらえて、この子は、その裸をおおおったのです。そして、リボンまで作って頭につけていました。『これ、欲しいなあ!』と言い続けてきたのを、『これ、小百合ちゃんが置いてったからね!』と、ダメにしてたのです。今回は帰りしなに、このモンキーを借りて帰って行きました。

この子は、『欲しいなあ!』と言う代わりに、『ウチにあるのが一番いいいんけどなあ!』と言う、知恵を働かせるのです。上の娘にメールをして、『上げちゃったけど、ごめんね!』と言ったら、『そこに来て楽しむのがいいのにね!』と言いながらも、承諾してくれました。4〜5才の女の子が欲しそうな物を置いていたので、仕方がないかな。

もう一つ、カーテンをはさむ猫があって、これもお気に入りなのですが、こちらは諦めた様で、ちょっとホッとしています。オネダリはしない子で、けっこう潔い5才です。そう言えば、わが家の4人の子も、オネダリ下手だったのです。親戚の家に行くと、おもちゃは自分で工夫して作らなければならなった彼らは、珍しい物を見つけても、欲しい素振りはしませんでした。いじらしいほど、じっと我慢の子たちだったのです。

私たちの孫たちも十代で〈工事中〉で、どんな人に造り上げられて行くことでしょうか。このお母さんは《栃木の娘》、お嬢さんは《栃木の孫》だと言ってくれています。スクスクと健全に育って行くことを願う、桜の便りを耳にする、三月下旬です。

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110年

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今日、3月23日は、父の生誕110年の誕生日です。61歳で召されて、半世紀が経とうとしています。この年の1月、逗子開成中学校の13人の学生が、ボート転覆の水難事故に遭って亡くなり、そのことを歌った「真白き富士の嶺(ね)/作詞が三角錫子、作曲がジェレマイア・インガルスー)」が作られました。

真白き富士の嶺、緑の江の島
仰ぎ見るも、今は涙
歸らぬ十二の雄々しきみたまに
捧げまつる、胸と心

ボートは沈みぬ、千尋(ちひろ)の海原(うなばら)
風も浪も小(ち)さき腕(かいな)に
力も尽き果て、呼ぶ名は父母
恨みは深し、七里ヶ浜辺

み雪は咽びぬ、風さえ騒ぎて
月も星も、影を潜め
みたまよ何処に迷いておわすか
歸れ早く、母の胸に

みそらにかがやく、朝日のみ光
暗(やみ)に沈む、親の心
黄金(こがね)も宝も、何にし集めん
神よ早く、我も召せよ。

雲間に昇りし、昨日の月影
今は見えぬ、人の姿
悲しさあまりて、寝られぬ枕に
響く波の、音も高し

帰らぬ浪路に、友呼ぶ千鳥に
我も恋し、失(う)せし人よ
尽きせぬ恨みに、泣くねは共々
今日も明日も、かくてとわに

父は横須賀に生まれていますから、ほど遠くない逗子の海岸で、この事故が起こったのです。この年の8月には、「日韓併合」がなされ、悲しい民族対立の始まりになり、今だにその尾を引いています。また、11月には、江ノ島電鉄が藤沢駅から鎌倉間が開業しています。

「公郷町(くごうちょう)」、これが父の生まれた街の名で、日本海軍の横須賀基地に勤務する技官の家に生まれています。横須賀中学で学び、「教育勅語」を、入学試験で暗唱したとかで、それを褒められて入学許可が降りたと、父が言っていました。

四年ほど前に、下の兄と弟の三人で、父の生家を訪問したことがありました。叔母といとこが住んでいて、久し振りの訪問で、軍港を見下ろす小高い丘の上の家でした。私たちの父母が結婚した時、父は、母の姓を戸籍に登録したのです。その生家に、父の本来の姓の表札がかかっていて、ちょっと驚いたのです。

明治が150年、私たちの下の子が今年、40になりますから、父が生まれた年から40年前は、江戸時代だったことになり、何か数字のマジックにあった様な、不思議な時への思いもして参ります。

(横須賀市の市花の「浜木綿(はまゆう)」です)
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転嫁せず

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Windmill, mill or bakery. Vintage hand-drawn illustration

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「責任転嫁」、自分が負わなければならない責任を、他人の所為にして、何食わぬ顔でいることです。どうして嫁を転ばすのでしょうか。漢和辞典によりますと、「嫁」という字が漢語で「よめ」の意味の他に、「嫁に行く」から転じて「売りつける、なすりつける」の意味も持っているのだそうです。それで、「嫁禍(かか)」、自分の災難を他人に押し付けることを、表すことばとして用います。

ちなみに、「嫁」の旁(つくり)の「家」は、家の意味を表すのではなく「か」という音を表すもので、「穫り入れる」との意味の「稼(かせ)ぐ」ことを言うそうす。そこから、「迎え入れた新婦」のことを、そう言う様です。さらに「稼」の偏の「禾」は穀物の稲を意味しています。それで、「家」が「佳(か)/よい」と同じ音を表すもので、穀物を植え、実らせ、農作業を行い、そう言った仕事に励むこと、稼ぐと言った意味を持っているそうです。

広田弘毅は、福岡県の出身で、元外交官、斎藤、岡田、近衛内閣時の外務大臣でしたが、南京事変の時点で、総理大臣の職にありました。その責を問われて、極東裁判で、A級戦犯で死刑判決を受け、処刑されています。広田は、公判中に沈黙を貫きました。『このままあなたが黙っていると危ないですよ。あなたが無罪を主張し、本当の事を言えば重い刑になることはないんですから』と勧められ、無罪を主張するよう促されても、それを拒んだのです。天皇や自分と関わった周囲の人が、不利になることを避けたからだと言われます。

同時期に、A級戦犯で訴追された被告たちのほとんどが、責任を自分で果さない中、『高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては、喜んで全責任を負うつもりです!』と、広田は言って、責任転嫁などしませんでした。石屋の息子で、苦学して東京帝国大学を卒業した人でした。そんな出自の彼の方が、真実な心意気を宿した《気骨の人》でした。

『東條に唆(そそのか)されて仕方なく!』とか『時の巡り合わせが良くなかったから!』とかの言い訳や、責任転嫁をまったくしなかった、潔い人でした。広田の静子夫人については、次の様に記されています。

『広田の妻・静子は、東京裁判開廷前の1946年(昭和21年)5月18日に鵠沼の別邸で服毒自殺している。自殺の理由として、国粋団体の幹部を親に持つ自分の存在が夫の裁判に影響を与えると考えていたためとされている。死因は初め狭心症と発表されており、自殺であったことは1953年(昭和28年)の広田の追悼記念会で公にされた(ウイキペディア)』とです。

(オランダ公使の折、『風車、風が吹くまで昼寝かな』と詠んだ広田弘毅です)

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平和

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今朝は、“ フレンチ・トースト ” の朝食でした。カナダ産のメープル・シロップ、卵、フランスパンがあって、作ってみました。

結婚した次女が、この “ フレンチ・トースト ” を、彼のために作ったのです。卵を解いて、牛乳を加え、塩と砂糖で味をつけて、シロップをかけて食べるのですが、作っているのを見ていた婿殿は、ちょっと戸惑ったのです。サラダ・オイルでパンを焼いていたからです。彼女が子どもの頃に、私が作っていた様にして作ったのです。ところが婿殿のお母さんは、バターでパンを焼くのです。それが正道なのでしょうか。

わが家とは生活の格差のある婿殿との違いが出てきてしまったのです。でもそんなことにこだわらない娘は、もう二十年も結婚生活を、マイペースで続けています。今朝、家内に作ったのは、しっかりとバターと少量のオリーブ・オイルを加えた物で、弱火で焼き上げました。この正月にやってきた婿殿が、メープル・シロップをもってきてくれ、一度だけ使って、冷蔵庫の奥にしまってあったのですが、それをタップリかけて食べたのです。ホッペが落ちるほどに美味しく食べて、家内は大いに満足でした。

ところが卑しいのか、ケチなのか、私は、お皿にこぼれたシロップを、家内の視線を避けて、横を向いて舐め始めたのです。もったいないし、これが一番美味しいのです。『天皇さまの食卓に招かれたらしないからね!』と言い訳しながら、そうしましたら、家内が、宮本百合子さんの逸話を話してくれたのです。

ご自分の誕生日の食卓で、貧しい家に育ったお嬢さんが、ご馳走を食べ終わった時、満場注視の中、そのお皿を舌でペロリペロリと舐め始めたのだそうです。『何と、はしたない。おやめなさい!』と言う代わりに、百合子さんは、そのお嬢さんと同じ様に、お皿を舐め始めたのだそうです。

そう言って卑しい私を、家内は庇おうとしたのです。これって、立場の弱い若いお嬢さんの《急場を救う》と言う場面ですが、そうすることのできた、米沢藩士だった祖父を持ち、裕福な家庭で育った百合子さんの度量の大きさに驚かされてしまうのです。家内は、庇う必要を感じなかったし、人の目もなかったのですが、皿舐めはしませんでした。平和な日曜日の朝です。

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理想に萌え

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大正時代の子どもたちの写真を見つけました。チョコレートとかケンタッキー・フライドチキンとかデズニー・ランドなんかない頃、くったくない笑顔で生きている、逞しさが感じられ、それなのに可愛いのです。彼らは、父の世代だと思われます。祖父の膝の間で、絣の着物を着て、満足そうにしている父の写った写真が、母の写真アルバムにありました。この子たちに似ていました。

私の中学三年間、担任をしてくれた先生は、次の様に言っていました。そう、鎌倉時代の日本人は、大らかで闊達だったと教えてくれた、あの先生です。『近代日本で、大正時代が最も良い時代だった!』と、社会科で日本史の授業で言っていました。

私たちの中学校では、東京帝国大学出の先生は、私の担任だけでした。教え子の中から、同窓生の出ることを願ったのでしょうか、何人かの同級生が呼ばれて、中高六年間学ぶように言っていました。でも誰も、師の願いを叶えるものはいませんでした。

第一次世界大戦が、1914〜18年までありましたが、日本は参戦せず、中国大陸に明治期に欧米諸国に倣って、「租界」を作ったりしていましたが、国際紛争に巻き込まれることもなかったのです。軍部の力が指導的になる以前で、国内は、平和だったようです。この大戦後、日本は、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアと共に、「世界五大国」に数えられています。明治維新から、50年で、その様な国際国家となっていたのです。

私の学んだ中・高校は、「大正デモクラシー」の渦中に、開学したと言っていました。デモクラシーの理想に萌えての創立だとのことでした。男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育が行われ、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な運動が盛んだった時代です。1950年代の終わりに入学した私には、そんな息吹を、学校では感じられませんで、何か古臭さにこだわっているようにしか思えなかったのです。でも、6年間、その学校で学ばせてくれた父には、感謝しました。

そんな自由闊達な時代が、もうひとたび、蘇ってくることがあったらいいと仕切りに思うのです。子どもも若者も、夢を語り、夢の実現のために研鑽努力を惜しまず、理想に萌え、海外に雄飛するそんな時代でした。今ほど物質的には豊かではなかったのですが、精神的な豊かさがあったそうです。そんな時代を、私たちも楽しんでみたいものです。

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雪柳

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昼前、家内が散歩に出かける時に、掃除のために来ていた大家さんのご夫人に、この花をいただいたそうです。「雪柳(ユキヤナギ)」です。春到来、桜の開花の報を聞くと同時期に、咲き出すのでしょうか。清楚で綺麗です。

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活躍

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現在、世界のプロのサッカー・チームで、またアメリカのメジャー・リーグで、日本人が活躍する機会が多くなってしています。近年、オリンピックでも、日本選手のメダル獲得も、結構多くなっていて、スポーツの世界で、ヨーロッパ系の選手に伍して闘えることに、やはり驚かざるを得ません。

子どもの頃に、水泳の古橋広之進、ボクシングの白井義雄の活躍に、心躍らされたのが、昨日のことの様です。食料だって足りない中で、体格の劣る日本人が、西欧人を凌ぐほどに、活き活きと生きている姿に、『俺だってできるんだ!』と言った自信が、まだ幼い私の内から、湧き上がってきたのです。また知的な分野でも、湯川秀樹のノーベル賞受賞は、誇らしいものでした。

このところちょっと元気がなくなっていますが、日本人という枠を超えた、日本人像ができつつあるのではないでしょうか。日本人の体格についても、次の様な報告があります。文部科学省の「学校保健統計調査(平成30年度)」による、身長と体重の平均値は、2018年度で、17歳の男子は170.6cm、体重は62.4kg、女子は157.8cm、52.9kgとなっています。

また、日本人の平均“寿命”は、厚生労働省の「簡易生命表(平成29年)」によると、男性81.09歳、女性87.26歳となっています。ちなみに世界平均の男性69.8歳、女性74.2歳と比較すると、男女ともに10歳以上長生きとだとの結果が出ています。

もちろん、オレゴンの街に行きますと、頭一つ大きな人たちだらけです。15年ほど前、大連に行ったことがありました。冬の街中を歩きましたが、そこも、頭一つ大きな中国人青年たちがいて、驚きました。南の地方では米食、東北地方では小麦粉を食べるので、同じ漢族でありながら体格が、南北では違うのだそうです。

内蒙古に行きました時には、凛々しい顔をした青年たちが多くいて、乳製品を多く摂るので、今はどうかわかりませんが、三十年ほど前は、太っている方は皆無でした。食べ物で、体格が違うには、日本の食生活も変わってきていますから、西欧化の傾向があるかも知れません。オニギリを食べて、満腹感を得ようとする日本人とチーズやバターを摂る欧米人との差が、じょじょに少なくなってきているのは事実です。

オリンピックは、《青年の祭典》と言えるでしょうか。馬術やアーチェリーなどは、年配者がいますが、主に青年たちが、国の威信を背に、覇を競い合うわけです。今回のオリンピックは、〈武漢ウイルス〉の伝染拡大で、開催が危ぶまれていますが、どうなることでしょうか。

(ベルリンオリンピックの競泳・平泳ぎで金メダルに輝いた二十二歳の前畑秀子さんです)

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