てんでに

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クラス担任が、『てんでに持ち物を持って、外に出なさい!』と言われて、私たちは、手に手に鞄を持って、教室から出た覚えがあります。この「てんでに」は、標準日本語なのでしょうか。「手に手に」が促音していて、一人一人が各自で、何かを持ったり、行動することを、そう言うのです。「平家物語」にも出てくる言葉ですから、標準語なのでしょう。

小学校入学以来、号令一下、『走れ、止まれ、右にならい、気を付け、休め!』で、団体行動をしてきましたので、従うことはできても、自分で考えて、自分で決断して、自分で一番良い行動を採るというのは、日本人の私たちには、だいぶ難しいことなのです。

『ヒロタさん!』、私の娘のところで、真っ直ぐな列が乱れていて、先生に注意されるのが、いつも私の娘でした。また、もう保育が始まっているのに、一人だけが、園庭の遊具に、のんびりと私の娘が乗って遊んでいるのです。平気なのです。それで、叱られて、不承不承、口をとんがらせてクラスルームに入ってくるのです。

そういう行動を、家内が、娘に聞くと、『おやすみ時間に、あたしが遊具に乗ると、ほかの人が乗れないので、私は、使っていない時に、遊具に乗るの!』と答えるのです。親の欲目ですが、娘には一理あります。奥手の友だちは、待っていても乗れないので、自分の番を譲って、自分は時間外に行動する、こう言った行動形式で、私の下の幼い娘は生きていたのです。

団体行動の得意でない、彼女は〈てんでに生きる〉特異な日本人で、けっこう珍しい珍奇種だったのでしょう。規則通りにやりたくないのは、よく注意され、叱られ、立たされた父親譲りで、その遺伝質のせいで、〈はみ出し者〉だったのでしょう。

ところが、最近、そう言った〈別行動形式人間〉が、新しく評価されているのだそうです。災害時に、団体行動に人を駆り立ててしまうよりも、〈てんでに〉に、ある人は右に、ある人は左に、ある人は高い所pに、ある人は物陰に、各自の確信と選び取りで行動する様に勧められているのだそうです。何も持たず、物を教室や家に、取りに戻らないで、空手で逃げるべきです。

でも、指導者に好都合な団体行動しかできない人には、決断能力が養われていませんので、とっさに、そんな行動は、かえって不安と恐れに苛まれてしまうのです。みんなと同じ色や形状のものを持つことで、持たない不安から救われるのです。休みの日にどうするか、『Aちゃん、Bちゃんはどうしてるんだろうか?』を見て、自分がどうするかを決める行動形式をとるのが、私たち日本人です。

大陸で13年過ごしました私は、大陸人も、日本人に似た面がある様を感じます。東アジアに共通する行動形式かも知れません。この娘が、アメリカ西海岸の街で、二人の子育て中です。ちゃんと信念を持ちながら育てていて、学校制度の枠の中に入れないで、“ Home school ” で教育を受けさせているのです。画一な教育ではなく、各自が選び取れ、親や本人の意思を入れられる教育です。昨年末に、ビデオが送られてきました。

それは、1783年12月23日に、ジョージ・ワシントンが、陸軍最高司令官の辞任のおりのスピーチを、高一の男孫が全て暗記し、同じ様な教育を受けてる子たちの合同授業のおりに、発表している様子です。日本では、吉田茂内閣総理大臣の演説を暗記させる様な教育は行なっていないと思われます。
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〈てんでに〉決められる能力、採れる行動規範、価値観、人生観、生命観を培っているのです。それは自分の責任で生きていくためです。私も、あまり人が選ばない様な生き方をしてきました。功績も、誉も、家だってありませんが、これでよかったと、関東平野の北のアパートで、今を感謝して、家内と過ごしております。

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要請

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『わたしたちの大統領のために祈って!』とのメールが、今朝、“ White house ” から飛び込んできました。メイフラワー盟約の約束の上に始まったアメリカ合衆国が、経済力の増強、国防の強化のためではなく、政治的な指導者を、その使命の重大さのゆえに、『時宜に叶って、正しく政(まつりごと)を行える様に、支えて欲しい!』、そう言った要請を出すというのは、この国の強さではないでしょうか。

状況を正しく判断し、適確に決断するためです。今こそ、「指導者たちのための祈り」が、必要とされている時です。アメリカ一国のためではなく、世界が戦争を回避し、危機を乗り越え、万国の平安のために、自分たちの国の指導者が誤りなくことを処していく様に、アメリカ市民が願うからです。

これまでも、世界的な危機の時に、こう言った要請を受けてきました。わが国の、いえ世界中の国の指導者たちが、何百、何千、何億もの民の安寧をもたらす判断と決断のために、それを必要としているからです。

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春三月

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大学生だった上の兄が外出して、留守の時に、兄の部屋の壁にかけてあった学生服を、中学生の私は、こっそり着て、また角帽もかぶって家を出て、街の目抜き通りを歩いたことがありました。弟にとって、上の兄も下の兄も、《憧れの的》だったのです。何かにつけて真似をしてみたかったからです。この兄は、東京六大学の有名校に通い、花形の運動部に所属していたのです。

喋り方も、学校での話題も、歩き方も何もかも、兄たちの真似でした。そんな風にして、兄の様になりたかったからです。これって〈弟の心理〉なのかも知れません。アメリカン・フットボールのレギュラー選手で、《Rice Bowl》という、当時、東京と関西のリーグの優勝校同士の対抗戦が、正月に行われていて、兄は、そのスタメンで活躍したのです。

弟の私だけではなく、三人にとって、そして父の自慢でもあったのです。そして一流企業に就職し、静岡県下の工場勤務をしていました。県のラグビーチームに誘われ、そこでも活躍していたのですが、草薙の競技場で、試合中に負傷してしまったのです。頭を打って、一週間ほど人事不省の大怪我でした。父は会社を、人に任せて、付きっきりで入院先の病院で、兄の世話をしていたほどです。

怪我が癒えて、東京本社の営業部に転勤になり、将来を嘱望されたサラリーマン生活を送っていました。ところが、父の期待を裏切って、自主退社してしまったのです。その決心は固く、家族も会社の方も驚きでした。新しい生き方を、兄が見出したからです。それは潔い身の振り方でした。それ以来、その《聖職の道》を全うし、今は引退しています。

この兄が、3月15日に、《八十歳》になりました。生死の境を超えて、臨死体験までし、また自動車の事故にも遭いながらの〈八十〉なのです。その朝、私は、メールで「誕生祝い」を、次の様に、兄に送りました。

『誕生日おめでとうございます。いよいよ大台に上がったわけです。
ますます健康が支えられて、喜びが増し加えられます様に願っています。
兄でいてくれ、大変助けられて、今があります。
ありがとうございます。
今は亡き両親にも感謝ですね。
でも再会の望みがあります。
内なる人が強くされます様に!
おめでとうございます。』

若い頃に運動部での怪我が多く、今の兄は満身創痍の体ですが、『散歩に励む日を送っている!』と、返信がありました。これも一つの、兄独自の人生なのです。兄が結婚して、孫ができた時、父が嬉しそうに、その孫を抱いていた顔が思い出されます。父の期待を裏切りましたが、『俺の子が聖職に就くとは!』と、別の感動を、兄が父に与えたのは事実でもあります。兄を超えることは、私にはありませんでしたが、兄に殴られた日もありながら、大変に助けられて生きてこれているのです。

『兄弟は苦しみを分け合うために生まれる』

と、愛読書にあります。すぐ上の兄は、年子ですから、来年、弟と私は、数年すると、大台に到達することになります。喧嘩に明け暮れた四人が、仲良く交わりを続けているのを知ったら、生きていたら父も母も、あの頃住んでいた街の人たちも喜ぶに違いないと、そう思っている春三月です。

(「マンシュウキスゲ」です)

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不如帰

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体が元気な時には、そんな思いにはならないのですが、病む人の多くは、母を呼ぶのだそうです。献身的に私たちに仕える様にして、育ててくれた母がいて、誰もの今があるのです。弱さを覚える時に、母を思い出しては、とくに男子は、そうなのです。

正岡子規(本名は〈常規、幼名は升〉だそうです)は、短い34年の生涯の後半の7年程は、結核に冒されて、闘病生活を送っています。喀血を発病した1889年5月に、升は「子規(しき)」と称する様になっています。この「子規」は、「ほととぎす」と読むのです。他に、「杜鵑」、「不如帰」、「時鳥」と漢字を当てて表記することがあります。どうして、彼が「子規」と名乗ったのかの経緯は、次の様です。

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「杜鵑の吐血」という中国の故事が由来です。「蜀」は古代中国、長江流域(四川省)で栄えたとされる国だ。蜀といえば「三国志」の蜀が有名だが(3世紀、日本なら卑弥呼の時代)、それよりも千年以上も前に蜀という国があったという(それに関係したらしい三星堆遺跡が1986年に発掘され、多くの金器や青銅器などを出土、黄河流域中原文化とは別の、中国特異な文化遺跡として大きな注目を集めた)。

 その蜀が荒れ果てていた時、杜宇という男が現れ、農耕を指導、蜀を再興した。彼は帝王となり、望帝と称した。望帝杜宇は長江の氾濫に悩まされたが、それを治める男が出現、彼は宰相(帝王、補佐)に抜てきされた。やがて望帝から帝位を譲られ、叢帝となり、望帝は山中に隠棲した。実は、望帝が叢帝の妻と親密になったのがばれたので望帝は隠棲したともいわれる。

 望帝杜宇は死ぬと、その霊魂はホトトギスに化身した。そして、杜宇が得意とした農耕を始める季節゜(春~初夏)が来ると、そのことを民に告げるため、杜宇の魂化身ホトトギスは鋭く鳴くようになったという。月日は流れて、蜀は秦(中国初の古代統一国家。始皇帝が建国)に攻め滅ぼされた。それを知った杜宇ホトトギスは嘆き悲しみ、「不如帰去」(帰り去くに如かず。帰ることが出来ない。)と鳴きながら血を吐いた。ホトトギスの口が赤いのはそのためだ。
 以上がホトトギスを不如帰、杜宇、杜鵑、蜀魂、蜀鳥、杜魄、蜀魄などと表記するゆえんだ。

ホトトギスは実際血を吐くことはないのですが、口の中が真っ赤であることと、その時の泣き声がとても鋭く甲高い声なので、血を吐いてもおかしくない様子から、先の故事とホトトギスの姿を重ねて見ていたのだと思われます。(“ 教えてgoo ”から)

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病んだ子規は、母親を思い出してもいたのでしょうけど、故郷の「伊予国温泉郡藤原新町(現松山市花園町)」を思い出して、次の様に、短歌を詠んでいます。
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足なへの病いゆとふ伊豫の湯に 飛びても行かな鷺(さぎ)にあらませば
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ここで子規は、「ほととぎす」ではなく、『鷺でもあるかの様に!』と詠んでいるのです。水漏れ箇所の工事のために、同じアパートの二階に引越しを余儀無くされた私たちは、引越し前日に、「日光オリーブの里」に宿をとって、二泊いたしました。そこは、この正月に、家族14人で宿泊して、交わりを持った宿泊施設で、肺炎騒動でキャンセルがあって、「貸し切り」で、投宿客は私たちだけでした。

そこには、「伊豫の湯」と同じ様に自噴温泉があって、闘病中の家内のために、『ご一緒にどうぞ!』と、フロントの方の、優しい計らいで、一緒に温泉に入ることができました。家内の背中を流し、頭髪洗いの助けをすることができたのです。まだ彼女が元気な頃に、娘が宿をとってくれて、京都の「大原の湯」に入って以来の、家内の温泉浴でした。

時三月、間もなく、不如帰の鳴き声も、染井吉野の桜も楽しめそうです。今の切なる願いは、コロナ騒動が終息し、平常な生活が戻ってくることです。

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卵焼きとボタン

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2014年11月の「写作(作文のことです)」の授業の時に、「三行ラブレター」を書いてもらいました。「日本語文章能力検定協会」が、毎年募集して、多数の応募作文の中から優秀賞を決め、表彰してきています。私も、日本語学科の必修授業の中で、このテーマを提示して、八年ほどの在職の間に、書いてもらっていました。その中から、2014年度の四編をご紹介しましょう。

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父さんが作れる たった一つの料理
中国料理の特に卵焼き
どんな料理よりも優しい味 (お父さんへ)

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もらった命、もらったやさしさ
きつく叱られた幼き日々も 贈り物だったんだ
本当にありがとう (お母さんへ)

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お天気予報
最初にあなたの住む街を見ます
今日はあたたかくなりそうですね (友だちへ)

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午前中ずっと私の歩く道路に沿って探していて
ただ、私の服から落ちたボタンのためだったと知って
涙が止まらなかった  おばあちゃん ありがとう (おばあちゃんへ)

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二年間学んできた日本語、習得した語彙を使って、必死に作文に取り組む学生の姿が、まだ昨日のことの様に思い出されるのです。以前は、農村部から、都会に出て来て大学に進学するというのは、大変な親御さんたちの経済的な負担でした。そうですから、学ぼうとする必死さが伝わって来たのです。あの頃の教え子のみなさんは、もうお父さんやお母さんになっているでしょうか。

『子をもって知る親の恩』、名のないお父さんだけど、たった一人のお父さんの作る卵焼き、美味しかったことでしょう。お腹を痛めて産んでくれたお母さんに、叱ってくれた深い感謝が現れています。堅く結ばれた友人は、他の街で学んでいて、今日の天気を心配するほどの篤い友情で結ばれていたのでしょう。当時はボタン一つが貴重だったんでしょう。娘の歩いた道を辿って、見つけ出してくれたお婆ちゃんへの思いは、どれほどだったのでしょうか。

あの作文を書いた頃には比べることができないほど、大人になるにつれて、感謝がいよいよ募るのではないでしょうか。

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鈴蘭水仙

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今朝のテーブルの上の花です。お餅屋のおばあちゃんが、家内のために、ご自分の家の庭から切ってきてくれて、持たせてくれた、「すずらんすいせん」と「ばいもう(この地方の呼び名でしょうか)」です。一週間も、急ごしらえの蜂蜜入れの筒の中で咲き続けています。

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手紙

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最近書かなくなったのが、手で書く〈手紙〉です。義理の父から、グアム(義姉家族を訪問してです)、サンホッケ(ブラジル・サンパウロの近郊/義兄に招かれて召されるまで住んでいました)の消印の手紙を、よくもらいました。身の回りの出来事、ブラジルの風習などを伝えてくれました。実の娘にではなく、義理の息子の私宛のものでした。

手紙と言えば、最も印象的なのが、大統領のアブラハム・リンカーンが、ビクスビ夫人宛に書き送ったものです(本文の引用は岩波文庫の『リンカーン演説集』から)

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                     1864年11月21日
ビクスビ夫人

拝啓 陸軍省の書類綴りのなかにありましたマサチュセッツ州軍務局長の報告書をみまして、夫人が名誉の戦士をされた五人の令息の母上であることを知りました。かくも大いなる損失の悲しみに打ち沈んでおられる貴女をお慰めしようとしても、私の言葉はどんなに力弱く甲斐ないものとなることでしょう。しかし私は、五人の方が命を捧げて護られた、わが共和国の、捧げる感謝の言葉を、あなたの慰めとなりうるかと存じ、申し送らぬわけに参りません。願わくは天にいます我らの父が、肉親を失われた貴女の悲しみを和らげ給わんことを、失いし愛し子の、よき思い出のみを貴女に残し給わんことを、また自由の祭壇にかくも価(あたい)高き犠牲を捧げたため、あなたが持っておられるにちがいない厳かな誇りを、あなたの胸に残し給わんことを。 敬具
                 

                   エイブラハム・リンカーン
                   マサチュセッツ州ボストン市

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南北戦争に従軍した五人の子を戦死させた母親に、この様な手紙を出した気持ちが、大統領でもない私にも、ほんの少しだけ分かります。一国の指導者は、戦争の遂行や終結のために、自分の名で、戦場に兵士を送るための召集令状を出さなければなりません。私たちの国では、「一銭五厘」の令状が、「聯隊区司令部」の名によって招集がかけられ、指定された聯隊に、決められた日時に参着を認められました。それは、国家命令だったのです。

メイフラワー号の乗組員たちが、理想的な国家を建国すると言った幻、「メイフラワー盟約」で始まったアメリカは、どうしても〈奴隷解放〉をしなければなりませんでした。南北対立を治めるために、戦わざるを得なかった戦争だったと、歴史は結論しています。その戦争のさなかに、リンカーンによって出された手紙でした。

1998年に、「プアライベート・ライアン」と言うアメリカ映画が上映されました。次の様な内容です。

『時は1944年。第2次世界大戦の真っ只中、米英連合軍はフランス・ノルマンディのオマハビーチでドイツ軍の未曾有の銃撃を受け、多くの歩兵が命を落としていった。戦禍を切り抜けたミラー大尉(トム・ハンクス)に、軍の最高首脳から『3人の兄を戦争で失った末っ子のジェームズ・ライアン二等兵を、フランスの最前線で探し出し、故郷の母親の元へ帰国させよ!』という命令が下った。』、こう言った顛末の映画でした。

映画の中で、リンカーン大統領の手紙が持ち出されていました。流石、アメリカ映画、一人のライアンのために、八人の兵士が命の危険を冒しながら救出作戦が行われていくのです。こんな映画を生んだ、実際の「一通の手紙の重さ」が感じられます。今日の政治的な指導者にも、こんな手紙を書いて欲しいものです。

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明日に希望をつなぐ

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作詞が松村又一、作曲が上原げんと、歌が岡春夫の「国境の春」と言う歌が、昭和14年に発表されました。

遠い故郷は はや春なれど
ここはソ満の 国境(くにざかい)
春と云うても 名のみの春よ
今日も吹雪に 日が暮れて
流れ果なき アムールよ

ペチカ燃やして ウォッカ汲(く)めば
窓に流れる バラライカ
祖国離れて 旅する身には
なぜか心に しみじみと
響くやさしの セレナーデ

たとえ荒野(あれの)に 粉雪降れど
やがて花咲く 春じゃもの
咲けよオゴニカ 真赤に咲けよ
燃ゆる血潮の この胸に
明日の希望の 花よ咲け

中国東北のロシア(かつてのソヴィエト)の国境あたりの情景が、この歌に歌い込まれています。かつて、広大な地に誘われて、多くの青年たちが、狭い日本を抜け出して、出掛けて行きました。私の父もその一人でした。決して満洲国建設の野望のためではなかったのだろうと思います。あのブラジルに理想を掲げて、多くの移民が出掛けた人たちと、変わらない夢を果たそうとして出掛けたのでしょう。

その満洲の北端に、幻の花とでも言えそうな、《アゴニカ(別名オゴニカ)》が咲いていました。どんな花だったのでしょうか。雪の中を咲きだす、雪割草や雪中花(水仙)の様な、淡い色ではなく、『真っ赤に咲けよ』と歌われるのですから、実に綺麗だったのでしょう。ネットで探すのですが、どこにも見当たりません。

『男命の捨て所!』、こんな歌詞で、誘われ、煽られて、きっと父は海を渡って、満洲の荒野を駆け巡ったのかも知れません。鉱山学を納めた父でしたから、満洲の鉱山開発や試掘のために、朝鮮半島や満州に呼ばれた様です。あの時代に生きようとした若者の選択肢の一つが、「満洲行」だったに違いありません。

父は、その頃のことは、あまり語りませんでした。きっと封じて置きたかったのかも知れません。家にいる時は、炬燵にあたったり、横になって、じっと目をつむりながら、何かを思い出している様な姿を覚えています。父も、《明日に希望をつないで生きる若者》だったのでしょう。この「国境の春」が歌われ始めた年に、兄が生まれ、「満」と父に名付けられています。

(満洲開拓期の幼子の写真です)

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メル友

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このブログを読まれて、コメントくださった方が、私の《メル友》になってくださています。「合戦場」の記事にコメントしてくださって、この地の地誌や歴史を教えてくださっています。ブログで、名前が分るのでしょうか、ご子息と同じ名前なのだそうで、なんだか近くなった感じで、日に二、三度の交信があります。

私が引っ越して住み始めた家の近くの出身だということが分かって、子どもの頃には、正月に私たちの家族写真を撮ってもらった写真館の庭で遊んでいたり、巴波川周辺が遊び場だったり、山本有三や吉屋信子の生家、山口智子の住んでいた辺りを教えてくださっています。

この街の歴史や地誌に詳しく、色々と教えくださって、栃木理解が深められているこの頃です。今朝のメールではトンカツの下ごしらえの話まであり、料理当番の私に知恵をつけてくれています。同じ自転車乗りで、どこへでも、自転車をこいで行かれる、健康志向に生きておいでの方です。

時代なのでしょうね、電子メール上で、こんな出会いがあり、意思の交換や疎通ができる時代に、驚かされています。弟と同じ、兄上と同じで、同じ時代の空気を吸いながら生きてきたわけです。

ここ栃木は、古いものを残そうとする気風の街で、小山や佐野の方が、新しいものを受け入れて、豹変して行くのに、拘りを持ち続ける《頑なさ》が、家内も私も好きなのです。ここに人がやって来て、疲れた心を癒され、往時を懐かしむのは、私たちの世代には似合っていそうです。

防人(さきもり)を送り出し、清和源氏の八幡太郎義家も、この下野国を訪ねたことがあり、時代が降って、芭蕉も訪れていますし、歌麿も栃木のお大尽に招かれ、萩藩の高杉晋作も、お隣の壬生を訪ねています。

蕎麦が美味しく、干瓢や下駄や湯葉を産し、例幣使や大名が、家康の墓所を詣でを往来した街です。水と空気が美味しく、野菜も果物も美味で、葱などは、下仁田に勝るも劣らない程に、抜群に美味しいのです。父が自分で割り下を作って、霜降りの牛肉に、焼き豆腐、しらたき、春菊、たっぷりの長葱で作っては食べさせてくれた《すき焼き》を思い出して、時々作りますが、この《宮葱》に栃木牛で作ると、極上の味なのです。

北の方には、源氏に追われて、住み着いた平家の部落が残されています。野岩鉄道線に、湯西川温泉駅があって、そこからバスが通じています。ひっそりと何百年も住み続けてきた部落です。朝一で鳴き出す鶏を買うことを、頑なに拒んだと聞きます。まだ行ったことがないのですが、湯西川温泉で、鶏肉の《すき焼き》を食べてみたいな、と思う晴れた三月の朝です。そう言えば、今日は東日本大震災のあった日ですね。

(観光地化した湯西川の河岸の風景です)

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恨みを超えて

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「恨み骨髄に徹する」、人の感情の中で、最も激しく破壊的なのが、「恨み」でしょうか。

父親の寵愛を一身に受ける弟に、十人の兄たちが抱いた感情が、「恨み」だったとあります。これは、イスラエル民族の族長たちの、子どもの頃から青年期に至るまでの出来事なのです。弟だけへの父親の偏愛に業を煮やして、ついには、弟殺しを企んでしまいます。この民族の歴史の中に、そう言った「恨み」が横たわっているわけです。

太平洋戦争中、フィリピンに侵攻した日本軍兵士によって、高地で仕事に従事していたアメリカ人夫妻が、殺害されました。情け容赦のない残忍な処刑でした。その両親の悲報を、お嬢さんが聞きました。「恨み骨髄に入る」のだろうと思われたのですが、彼女は違いました。日本軍の兵士の捕虜収容所に出かけて、ボランティアを始めたのです。父を殺した日本軍の捕虜の戦病兵の傷の世話のためでした。

戦後になって、この女性のことが記された書を読んだ一人の人が、「敵をも赦す」、その思いと行為に甚く感動して、人生が変えられてしまうのです。その体験話ーを、東京の中野で、直接聞いたことがありました。まだ二十代の私でした。この方は、『本十二月八日未明、我が軍は米英と戦闘状態に入れり!』で始まった、太平洋戦争への真珠湾攻撃の攻撃隊長の淵田美津雄でした。

『奇襲攻撃に成功せり!』と打電した《真珠湾の英雄》の淵田美津雄の戦後は、手の裏を返す様な取り扱いを受けて、故郷の奈良の村に蟄居して、畑を耕す日を送ったのです。そんな中での変化でした。彼は、アメリカを横断しながら謝罪の講演の旅をしたのです。
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07 Dec 1941 — Mortally Wounded and Sinking — Image by © Bettmann/CORBIS

恨まれるべき身の自分を、鼓舞して、アメリカ合衆国で公演旅行を繰り広げ、謝罪を訴えたことも、その講演旅行を受け入れたアメリカの社会も、「恨み」を、「赦し」に変えられるものがあったことにも、驚かざるを得ません。ソウルのバスの中で、『あなたのバス代を払わせてください!』と言ってくれた青年の顔が思い出されて仕方がありません。息子の大学進学時に、大金の援助をしてくださった、日本で生まれ在日本の友人もいます。確かに「赦し」は、難しいのは分かります。それが、人を縛り付けている歴史が、確かにあるからです。赦さない限り、赦されない限り、何も生まれてこないからです。

南北に分断された朝鮮半島、すべての韓民族は、南北を平和理に統一したいことでしょう。三島のある家で、一緒に食事をした平壌(ピョンヤン)出身の方が、『何時か、対立と遺恨を超えて、南北統一がなったら、平壌陸上競技場で、大きな集会を開いて、そこでお話をしたい!』と夢を熱く語っておられました。この方は、もう亡くなられたと聞いています。

(その「平壌競技場」、真珠湾攻撃の記念写真です)

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