仕事

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 日本新聞協会が募集した「新聞配達に関するエッセーコンテスト」で、先頃〈審査員特別賞〉を受賞した、廣瀬絢菜(あやな/長崎海星高2年)さんの記事が掲載されていました。

 『私には亡くなった祖母との思い出がたくさんある。その中でも、新聞配達の思い出が一番印象に残っている。
 私の祖母は昔から新聞配達をしていて、近所の人達からも慕われていて、多くの人は私の祖母が新聞配達をしていることを知っていた。大みそかの夜は、配達する新聞の量が多くなるので、毎年私たち家族も手伝っていた。私は小さかったので母と祖母と一緒にいて、兄たちと二組に分かれて配っていた。多くの人は寝ていたが、祖母と話をするために起きて待っている人もいた。しかし、祖母が体調を崩して配達を他の人に代わってもらうことがあった。その翌日、たくさんの人が祖母のことを心配して家を訪ねてきた。
 そのとき、母が私に「たくさんの人が困っているときに助けるから、みんなからも優しくしてもらえるんだよ」と言った。そのときに、私は優しくて、みんなから頼られ親しまれている祖母のようになりたいと思った。』

 こんな《新聞おばあちゃん》を持つ孫は、「仕事」とか「労働」と言うものの意味をしっかり学んでいることでしょう。1965年に、作詞が八反ふじを、作曲が島津伸男で、山田太郎が歌った「新聞少年」がありました。

僕のアダナを 知ってるかい
朝刊太郎と 云うんだぜ
新聞くばって もう三月
雨や嵐にゃ 慣れたけど
やっぱり夜明けは 眠たいなア

今朝も出がけに 母さんが
苦労をかけると 泣いたっけ
病気でやつれた 横顔を
思い出すたび この胸に
小ちゃな闘志を 燃やすんだ

たとえ父さん いなくても
ひがみはしないさ 負けないさ
新聞配達 つらいけど
きっといつかは この腕で
つかんでみせるよ でかい夢

 小学生の私を職場に連れて行ってくれた父がいて、そこで《仕事》をしていて、自分たち家族を養っていてくれていることを知ることができたのは、よかったと思い出します。自分が仕事を得て、一社会人として生き始めた時には、その出来事は、意味のあるものでした。

 中学生だった息子たちが配達できなくて、新聞の朝刊を、しばらく配っていた時期が、私にもあります。5階建ての集合住宅の階段の上り下りは、まだ若かったのですが、けっこうキツかったのを思い出します。学習塾に行きたくて、新聞を配達をしたのですが、県立高校や大学受験名門の私立高校には行かないで、友人が受け入れてくれると言って、ハワイの学校に行った長男でした。次男も、新聞少年を経験し、それぞれよい経験になっています。

 娘たちもスーパーマーケットの会計の仕事を、夏季や冬季の休みにしていました。新しい店ができると、開店セールに動員されて、店長に重用されていたのです。労働の対価としてのお金が、どんなに尊いかが学べるのは、実に有益に違いありません。

 私の愛読書に、『また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。 』とあります。《勤勉》であることは、働く者の心を満足させてくれるのです。新聞配達をした朝には、清新な空気がありました。《落ち着いた生活》ができることは、一つに生活の美点でしょうか。

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試される

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 家の窓から、巴波川の流れを越えた向こう岸で、旧旅館を解体した跡地に、総二階の四世帯の集合住宅が建設中です。大家さんが住み、他の部屋を賃貸されると、犬を散歩してるご婦人から、散歩中に、家内が情報を得てきています。

 4階建ての旅館の解体ぶりを、しばらく眺めていて、ずいぶん頑強に作られていたのが、分かりました。鉄筋の4階建てで、それを砕き落とす作業は、大変そうでした。ことの外、土台の作業は難儀していたのです。周りに住宅が無ければ、爆薬で作業ができるのでしょうけど、一階一階と解体してからの土台の作業に、ずいぶん時間を要していました。

 その更地になった敷地に、パイルを打ち込んで、その上にコンクリートの土台を作った、「木造建築」が立ち上がったのです。最近は、この木造りの家が人気なのだそうです。〈新しさ〉を売らないと売れないから、猛烈なキャンペーンを建築業界が仕掛けるのでしょう。顧客は、『やはり日本の建物は木に限ります!』に郷愁を感じて、『では!』と言うことになるわけです。

 ブームは、繰り返される、しかも意図的に繰り返させられるのでしょう。『夏は涼しく、冬は暖かいです!』、『子どもが落ち着きます!』などと利点を売り込むわけです。本社の作業所で、各部位が作られて、それが運ばれ、現場では、クレーンで吊り上げられ、組み立てるだけです。
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 中学の修学旅行で、法隆寺に行った時、その想像を絶した大きさに驚かされたのを覚えています。仏像の大きさには驚かなかったのですが、それを入れる器としての建物の大きさに度肝を抜かれたのです。そんなに大きな物は、それまで見たことがなかったからです。これを作ったのが、招かれた外国人の木工だったと知ったのは、大人になってからでした。朝鮮半島の百済の国の工匠の一人が、金剛氏でした。彼らの建てた建物が、千数百年経った今も、この人を祖として、会社と共に現存するのです。

 近代的な道具のない時代、あれだけの大きな物を建て上げ、しかも狂いのない、耐朽性のある堅牢な建物を作り上げたのは、驚きです。しかも木造で、そこまでするのは、凄いことです。それに引き換え、現代では、木材も、輸入材が多いのでしょうか。カナダ産の木材を輸入して、それを、“ 2 by 4“ で建てるのが流行していたことがありました。

 トンネルを出て、坂道の曲がり角で、外国人が大きな看板を出して、営業していました。どうも日本の業界に食い込むことができなかったのでしょうか、しばらくして廃業したのか、社屋と作業場が、もぬけの殻になっていました。

 すべて人が作った物は、「試される」のです。地震や風雨や火焔によって、どれだけ持ち堪えられるかが、事後に明白になります。人も、試されるのです。ユダヤの諺に、『銀にはるつぼ、金には炉があるように、人は他人の称賛によって試される。』とあります。褒められるよりも、けなされている方が、人には良いのかも知れません。人の真価は、褒められた時に表されるからです。試されて残っているのには、なおさらの驚きです。

(昔からある大工道具の「釿〈ちょうな〉」、百済人の絵です)

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良心

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 『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。 』、ユダヤの知恵の書の中に、こうあります。

 江戸時代の末期、1843年に、上州は安中藩の江戸屋敷で、下級武士の子として、新島七五三太(蘘)が誕生しました。蘭学修行を、藩主に命じられた三人の若者の一人として、満十四歳まで学んでいました。その学びの中で航海術に関心を持った、この新島襄は、密出国の願いを持ち、蝦夷の箱館(函館)で、その機会を待っていました。

 1864年、米国籍の船に、船長の好意で乗船し、上海で別の船に乗り替えて、この新島はアメリカに行きます。アマースト大学などで、高等教育を受けます。朱子や孔子から学ぶといった教育事情が、当時の実情でしたが、新島が、蘭学に触れたことが、西洋社会への憧れを生んだのでしょう。それが成就して、1874年には帰朝しています。宣教師の資格を得て、その働きをしつつ、京都で、私学教育を開始します。そこで創設したのが、「同志社英学校」でした。

 現在、京都にある同志社大学の正門に、「良心之全身ニ充満シタル丈夫ノ起リ来ラン事ヲ」と刻まれた石碑があります。新島が教育をしたのは、一つには、「良心の充満した青年」の育成だったことの証左です。アメリカでの生活と、受けた教育、触れた文化や思想の中で、彼が、日本社会の中で実現しようと願ったのは、「文明国」の建設でした。

 明治維新政府は、「富国強兵」を目指して、経済的に富むことと、軍事的な強国を作ろうとしたのですが、新島は、「使命感」、「人格(character)」、「良心」をしっかり持つ若者を育成することを掲げました。独立した、「自由」と「良心」に裏打ちされた個人をもって、新しい日本を作ろうとしたのです。

 十七歳の時、この同志社に行きたいと願った日が、私にはありました。親しい友人と、『一緒に京都に行って学ぼう!』と促し合ったのですが、それぞれの事情で、その夢は叶えられずに、在京の学校に行ってしまったのです。この新島襄に、次の様な逸話が残されています。  

 『一八八〇年四月の初めごろ、同志社英学校では、学校当局の取った措置に不満を抱いた九人の生徒が学校に抗議したが、その趣旨が受け入れられなかったため、集団欠席するに至った。当時の学校の規則では、集団欠席した者は処罰されることになっていた。

 しかし彼らの集団欠席の原因となった学校側の措置にも落ち度があった。新島校長はこの問題で深く心を痛め、四月十三日、朝のチャペルの時間に、全校の生徒と教員の前でこの問題に触れ、自分は生徒諸君を責めるわけにはいかない、それにまたその措置を決めた幹事たち(前年卒業したばかりの、三人の若手の教員)を責めるわけにもいかない、しかし校則は守らねばならない、ゆえに校長自身を処罰します、と宣言して、用意した固い木の小枝で、自分の左の掌を力いっぱい打ち始めた。むちは折れ、掌に血がにじみ出た。

 あまりの気魄に圧倒されてすすり泣く生徒もあった。ついに前列にいた生徒が飛び出して行って校長にしがみつき、「止めてください」と叫んで懇願した。校長はなおも打ち続けようとしたが、ついに折れ、「諸君は同志社の規則の重んずべきは御解りになりましたか、又今回の事件に就き、再び評論をしないと約束なさるなら止めます」(本井康博『新島襄と徳富蘇峰』、二十五頁)と言って、チャペルの時間を終わった。 』

 これは、「自責の杖」と言う話で、三十七歳の新島の気迫や愛が伝わってきます。この逸話には、複雑な背景があって、これだけの話ではまとまらないそうです。しかし、新島襄の心の思いは理解できそうです。明治の世に、この様な人がいたのです。「一国の良心ともいうべき人物を養成する」と言うのが、新島襄が切に願ったことでした。

(「上毛かるた」の「に」の札です)

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ニコニコ

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 先週、高校や中学の課外の部活についての提言を、ラジオで聞きました。もう60年も前の部活の経験で、この議論に関わるには、時代錯誤の感もないではありませんが、部活をしてきた自分としては、こんなことを思うのです。

 先輩たちは、インター・ハイや国体の優勝の栄誉を得た名門の学年でした。近隣の中学の有望選手を勧誘するような時代ではありませんでしたから、併設の中学の進学組と、都立受験を失敗した入学組との混成の学校でした。何か運動がしたくて、運動部に入りたくても、厳しい練習をするので敬遠がられていました。私たちの上の学年は、粒が揃わず、私たちの学年も、それに似た様で、それでも、東京都では、一点差で準優勝してますが、全国大会には出られませんでした。

 私は、センターフォワードでしたが、2年時に、母が、交通事故にあって、大怪我をしてしまい、一年弱入院生活を強いられました。当時、兄たちは家を出ていて、家のことを父と分業しなければならず、やむなく家庭の事情で休部してしまったのです。それも、都大会で勝てなかった一つに理由だったかも知れません。秋の練習は、薄暮の夕闇の中、ボールに石灰を塗ってやるほどでした。冬場は、ランニングやうさぎ跳びでした。

 60年前の名門の誉れを得ていた運動部でした。部活の日数や時間数など、なんの考慮もなされず、ひたすら練習に明け暮れました。優秀な先輩たちは、一部リーグの名門大学に推薦で入って、活躍していましたが、当時はプロのない運動部でしたし、メジャーなスポーツでもなかったのですが、隣で練習する野球部より、実績があって肩身は広かったのです。
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 オリンピックでも、どんなスポーツでも、今はビジネスです。大金がかかっていて、それが激しく動くのですから、政治や行政でさえも動かすほどの勢いがあります。強くて、勝つための手段は、有能選手を集め、練習を積み重ね、スキルを上げるのです。今でも第一は、有望な選手の獲得です。野球などでは、何百億もの収入を得た選手がいますから、みなさん、取り巻きも目の色を変えて、このビジネスに没入しておられるのでしょう。

 スポーツマンシップよりも、ビジネスに偏りすぎています。野球選手、テニス選手、バスケット選手など、アメリカでは天文学的な数字のお金の世界になってしまっています。そんなアメリカで、私の孫が、カントリーサイドの街で、スポーツを楽しんでいます。今のコロナ禍で、ご多分に漏れず、以前の様な勢いはありませんが、それでも、サッカー、バスケット、ゴルフ、野球などのシーズンスポーツを、大いに楽しんでしています。プロになろうという思いなどない様です。

 〈スポ少〉で活躍した彼の母親の方が、熱くなっているでしょうか。もう一度、私が十代に戻れたら、ニコニコとボールを追いかけて、投げてみたいものです。ただ一つの自慢は、高校時代、早大で野球をした同級生のいた硬式野球部で、キャッチャーをしていた男の次に、遠投距離の記録があったことなのです。これまで勝ち負けを競わない、〈硬式テニス〉を、今頃の季節の清里のテニスコートで、おじさん仲間と、ニコニコしながらしたのが、一番楽しかったでしょうか。テニスコート脇で食べた、秋の果物が美味しかったのもありそうです。

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日本語の美しさ

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 英語を中一で学んでから、何年も経ちます。アメリカ人起業家と8年働きましたから、英語に触れる機会は、けっこう多くて長かったと思います。六十を過ぎてから、家内と一緒に、中国語を学んで、日常会話のちょっとしたことを話せる様になったでしょうか。
 
 『外国語は難しくて、学ぶには難儀だ!』と言う人がいますが、「学ぶ」のではなく「真似る」のが一番なのだそうです。〈難しいと思う脳〉で学ぶよりも、〈難しくないと思う脳〉で真似ると、” simple “ なのだそうです。この “ simple “ には次の様な意味があります。

1. 易しい、難しくない
2. 簡素な、簡略しな
3. 質素な、地味な、豪華でない
4. 単一の、一つだけで構成される
5. 単純な、複雑でない
6. 〔人が〕気取らない、控えめな、見えを張らない
7. 〈軽蔑的〉〔知的レベルが〕単純な、ばかな
8. 〈軽蔑的〉教養がない、無知な
9. 〔人が〕素朴な、洗練されていない
10. 〔人が〕真面目な、誠実な、うそをつかない
11. 普通の、いつもの、ありふれた
12. 基本の、初歩の
13. ささいな、重要でない、つまらない
14. 《植物》単一の◆【対】compound
15. 《化学》〔化合物が〕単純な
16. 《言語学》〔文構造が〕単純な  

 このリストにはないのですが、この “ simple “ には「無邪気」と言う意味もあります。3歳だった私たちの外孫が、上手に英語をお喋りするのを聞いて、まさに、言語は、〈無邪気な領域〉だということに気付くのです。私たちの小朋友の6歳のお嬢さんも、ずいぶん語彙が多くて、よくお話をしています。

 言語習得の能力というのは、子ども時代が高い様です。子供は、《 “ simple “ な脳》を持っているからでしょうか。私たちの外孫は、クラスの中で、「ワシントン大統領の演説」を暗記して、それを披露していて、その動画が娘から送られてきたことがあります。初期のアメリカの言葉は、現代英語とは違っていたのでしょうけど、授業で暗記させて、その言語能力を高めるというのは、素晴らしい教育だと感じたのです。

 昔の学生は、「論語」を素読して、そらで言えたのですから、そう言った言語能力を持っていたわけです。泉鏡花や夏目漱石の日本語能力は、驚くほどのものがあったことが分かります。それは素読や暗記によって、古語の素養があったからでした。「論語」ならずとも、「奥の細道」を暗記した、中一の頃の熱心さが持続していたら、自分の言語能力はもっと優れていたことでしょう。

 〈論語読みの論語知らず〉と言うそうですが、大陸の言語で記された漢書を、日本語で読んで、また欧米語を翻訳するという方法で、日本語ができています。もう40年ほど前になりますが、韓国のソウルに行った時に、あるお宅に食事に招かれたことがありました。そこで、『韓国語は演説や説教に向いた言語で、日本語は書く言語で、実に美しい言葉や文章ですね!』と仰っていました。確かに、日本語は《美しい言語》だと思います。大事にしたいものです。

 もう一度、泉鏡花ですが、芥川龍之介が自死した床に残されていたのが、「聖書」と「泉鏡花の本」だったそうです。江戸期の文芸や浄瑠璃などの芸能を好んだ鏡花は、その素養で、文筆活動をしたのです。大正十二年十月刊行の「十六夜」の冒頭部分は、次の様です。

『きのふは仲秋(ちうしう)十五夜で、無事平安な例年にもめづらしい、一天澄渡すみわたつた明月であつた。その前夜のあの暴風雨をわすれたやうに、朝から晴(はれ)/″\とした、お天氣模で、辻へ立たつて日を禮したほどである。おそろしき大地震大火の爲ために、大都(だいと)は半ば、阿鼻焦土となんぬ。お月見でもあるまいが、背戸の露草は青く冴えて露にさく。……廂(ひさし)破れ、軒漏るにつけても、光は身に沁む月影のなつかしさは、せめて薄(すゝき)ばかりも供へようと、大通の花屋へ買ひに出すのに、こんな時節がら、用意をして賣つてゐるだらうか。……覺束(おぼつか)ながると、つかひに行く女中が元氣な顏して、花屋になければ向う土手へ行つて、葉ばかりでも折(をつぺ)しよつて來ませうよ、といつた。いふことが、天變によつてきたへられて徹底してゐる。女でさへその意氣だ。男子は働らかなければならない。――こゝで少々小聲になるが、お互ひに稼(かせが)なければ追つ付つかない。(「青空文庫」から)』

 これは明治の日本語の好例ではないでしょうか。それに比べて、現代の日本語は砕けてしまっています。NHKの女子アナウンサーでも、『えーっ!』と思う様な喋りをされる方がいますから、それが今流なのかも知れません。でも、この美しい日本語を話したり、書いたりして、後世に残したいものです。

(明治開化の頃の服装です)

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サーヴィス

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 今ではそんなアナウンスはしないのでしょうけど、雨降りの日の店のお客様の案内アナウンスで、『お足もとのお悪い中、ご来店くださいましてありがとうございます!』と言っていて、雨降りの中の来客へのありがたさを、そう表現していたのです。

 お客様は王様で、どんな我儘でも聞いてしまう風潮があったでしょうか。怒ったり、注意したりなどは禁物でした。サーヴィス業って大変だなあと、つくづく思ったことがあります。 

 長らく生活した華南の街の小さな店に買い物に入ると、『要什么yaoshenme?/何が欲しいんだい?』と言われました。『いらっしゃいませ!』と言わないところが、何か中国的でした。でも、来店の感謝がないと言うのに慣れるのに、時間がかかってしまったのです。

 と言うのは、日本では、少し過剰にお客様を気持ち良くさせる術を心得ているのかも知れません。ほとんど中華系の飛行便を利用していまして、一度だけ、飛行場を替えて、ANAの便を利用したことがありました。いつもと違うサーヴィスに、新しい感動があったのです。

 というか、サーヴィスがイッパイの感じだったからです。徹底してサーヴィス教育を受けて、水ももれない様に気遣いがなされていて、正直言って、『大変だなあ!』と感じたのです。微に入り、細に入り、サーヴィスに徹していたからです。
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 楽しく仕事をこなしているのですが、もう少し、手抜きをしてもいい様な気持ちがしてしまったのです。このサーヴィスに語源ですが、「service(サービス)」は、「仕える」、「召使」という意味を持つ「serve」の名詞形だそうです。また、ラテン語の「servus」を語源としていて、「奴隷」という意味です。具体的には、次の様なことを言っています。

 ① 点検、修理
 ② 奉仕、世話、貢献、尽力
 ③ 勤務、勤労、雇用、業務
 ④ 接客
 ⑤ 公共事業
 ⑥ 電気やガスや水道のなどの供給
 ⑦ 軍務、兵役
 ⑧ 宗教的な儀式、礼拝

 兄弟自慢になってしまうのですが、もう退職してだいぶ経つのですが、つい先頃も、全国紙のインタビューを、私の次兄が、「ホテルマン」としての経験談が、その新聞記事に載っていました。兄は、顧客だけではなく、おいでになられたお客様の名前を、苗字だけではなく、フルネームで覚えてしまうのです。次に来店の時には、その名で呼んで歓迎を示すのです。それで、その次の来店時には、手土産があったそうです。

 難しいテクニックではなく、わざわざ多くあるホテルに中で、自分の勤めるホテルを利用してくださるお客様を、好い気持ちにさせる術と言うのは、日常的な感謝や敬意なのでしょうか。人には、《認められたい》との欲求があって、それを実行することなのかも知れません。それこそが、真のサーヴィスの様です。雨の日の来店を、《お足元の悪い中》と言われたら、雨に濡れた足元など気にしなくなるからです。

(歌川広重の描いたものです)

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がむしゃら

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 父の事務所があった街に、サーカースがやって来たことがあり、父は、私たち息子たちを、その見物に、山奥の家から連れ出してくれたことがありました。それはそれは面白くて、興味津々魅入ってしまったのです。

 東京に、1933年(昭和8年)3月22日、「万国婦人子供博覧会」を記念して、ドイツのハーゲンベック・サーカスが来日し、芝浦で催されました。なんと団員総勢約150人、動物が182頭の大きな一団だったそうです。

 その公演の宣伝のために、西條八十が作詞、古賀政男が作曲し、松平晃が歌ったのが、「サーカスの歌」でした。

1 旅のつばくら(燕) 淋しかない
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た

2 昨日市場で ちょいと見た娘
色は色白 すんなり腰よ
鞭(むち)の振りよで 獅子さえなびくに
可愛いあの娘(こ)は うす情

3 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ

4 朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
流れながれる 浮藻(うきも)の花は
明日も咲きましょ あの町

 哀調を帯びたこの歌は、鐘やトランペットや太鼓を演奏しながら、商店街を練り歩く「チンドン屋(正式には〈市中音楽隊〉と呼んだそうです)」が、私たちの住んでいた街で演奏していて、その ” チンドン “ の音が、まだ耳の底に残っています。それを「ジンタ」とも言いました。♯ ジンタッタ、ジンタッタ ♭ と聞こえたので、そう言われたようです。

 子ども時代には、独特な街の《音》が溢れていたのです。自然に近い音がほとんどで、合成された音がなかったと思います。楽器も、電気や電子製のものは皆無でした。ただ電気拡声器を使ったのは、災害の緊急連絡用だけでした。
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 騒音になるような音は、子どもの頃には、ほとんどありませんでした。二十歳ほどの頃でしょうか、同級生に、新宿の "アングラ劇場(under ground)"に連れて行かれたことがありました。迷路をたどって狭くて薄暗い部屋いっぱいに、ビートの聞いた騒音が溢れた、そんな中に、一度だけいたことがありました。そんなものがなんでいいのか、全く分かりませんでした。頭を柱にぶつけていた時に、飛んでいるように見える光が、サイケ調に飛び交っていて、居た堪れませんでした。

 それに比べ、ジンタを鳴らしながら、街中を行くチンドン屋の隊列の後について、歩き回ったのが思い出されます。小屋掛けの旅の一座が演じる「股旅物」を、拍手しながら観たり、浪花節師の浪曲を聞いたこともありました。演歌、艶歌、怨歌などと言われて、大人気だった藤圭子は、ご両親が、浪曲の旅芸人だったそうです。岩手一関で、彼女は生まれ、北海道に渡り、大雪山の麓の街や岩見沢の中学校に通っていたそうです。素晴らしく頭脳明晰な子どもだったそうです。
  
 旅芸人の子として生まれ、芸を仕込まれ、声を潰して浪花節師になっていく中で、流しの演歌歌手として、日銭を稼いで家族を支えました。ある時、才能を認められ歌手の登竜門をくぐって、大歌手になった人でした。子ども時代との生活の落差の大きさについていけなかったのかも知れません。

 でも晩年は不幸だったそうで、ついに自死してしまいました。転校、転校を繰り返した学齢期を過ごし、高校進学もできずじまいの人でした。得たものが、どれほど大きくても、失ったものは一生ついて回るのでしょうか。

でも、私は、誰にでも人生の《転機》が訪れると信じているのです。その時が来たら、がむしゃらにしがみついたらいいのです。そしてがむしゃらに生きたらいいのです。そうしたら、生きる楽しみが、きっとやってくるからです。

(大雪山の遠望です)

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秋の花

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 これ、何に見えますか。金木犀です。先日、次男が撮影して、送ってくれた写真の一葉です。どう撮るんでしょうか、暗さの中の花の色が、とても素敵です。一昨日、家内と図書館に行く道に、この花があって、地の上に、オレンジ色の絨毯の様に、綺麗に落ちていました。

 原産は、中国南部で、「桂花guihua/正しくは〈丹桂dangui〉と呼ばれています。江戸時代に、雄株が渡来し、挿し木で植えられて、全国に広まって行ったそうです。北海道と沖縄にはないそうです。秋の白い菊の花と対照的に、オレンジの色が元気付けてくれます。

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助言者

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 富士山の山梨側、富士五湖に、上九一色村(現在は河口湖町です)がありました。富士の裾野で、牧場などが点在する地で、車で走ると、爽快な気分が楽しめます。富士宮や沼津や伊豆に用があって出掛ける時、そこを通ることがありました。

 そこに、極めて悪質な事件を起こした宗教団体の大きな施設が建設されていました。猛毒のサリンなどを生産し、教えに従う者に訓練する「オウム」の主要な施設でした。今では、更地になっていて、おぞましい事件の拠点であったことは知る由もありません。

 1995年3月20日に、長女の卒業式が、渋谷区の公会堂で行われるというので、アルバイトしながら学んだ彼女の頑張りを褒めたくて、家内と二人で出掛けたのです。その朝に起こっていたのが、「地下鉄サリン事件」でした。『まさか!』のニュース報道で知ったのは、式の終わった後でした。

 私たちは新宿まわりで、JR山手線の渋谷駅から行きましたが、長女は友人の家からでしょうか、地下鉄で来ていました。事件が起きたのが、午前8時頃でしたから、一歩、一時間違えたら、事件に巻き込まれたかも知れないような状況だったのです。死者14人、負傷者6300人の大惨事でした。

 それ以前に、不穏な事件を犯し続けて、社会を騒然とさせてきた宗教団体の人の道を大きく外れた事件が起こっていました。オウムを糾弾した弁護士夫妻とお子さんは、この事件の首謀者たちの裁判が結審し、刑が決定し、首謀者は処刑されていますが、未だに行くへ不明のままです。

 この事件に、直接関わって大罪を犯した者たちが、科学的な思考のできる高学歴な者たちが多くいて、そういった背景の人の心を、思いのままに繰る宗教の力の大きさに、私たちは唖然とされたのです。まさに、ドイツのナチスに首謀者に似た闇の力を借りた力を働かせたのです。まさに「マインド・コントロール」の事実です。

 それは「カルト事件」であって、宗教は、こう言った逸脱・病理的な犯罪行動を犯してしまうのだということが、明らかにされたのです。教祖のことば、教えが持つ力の影響力は実に大きく、心を縛り付けて、その教えから離れたら不安と恐れで立ちいかず、そこに留まり続けるのです。

 何かに縋(すが)って人は生きるのですが、縋る相手を間違えると、自分を滅ぼすだけでなく、社会を破滅させる危険性が潜んでいます。熱狂と、扇動と、悪魔的な力は、私たちの周りに、いつでもありうるのです。

 〈窮鼠猫を噛む〉、官憲の力で追い込む以外にないのでしょうか。退路を塞がれてしまい、自暴自棄になって、悪事の上に悪事を重ねて、自分でも信じられないほどのことを起こしてしまいます。多くの追随者を生み出し、首謀者に心酔させ、陶酔せてしまうのに、誰もが驚かされたのです。

 思想でも哲学でも宗教でも、「極端」な主張、急激な変化を期待するものは避けなければなりません。それらに惑わされないために、《真理への愛》を持ち続けるなら、偽善や不法を看破することができます。そして、だれでも《善き助言者》を持つことなのです。

(旧上九一色村の村花「フジアザミ」です)

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野分晴れ

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 まさに、今日は、「野分晴れ(のわきばれ/台風一過の晴れの日をそう言うそうです)」で、小朋友のいーちゃんの「運動会」が、小学校の校庭をお借りして行われ、“ スマホ写真 ” が送られてきました。大勢の園児の中に、ご両親でしか見つけられない様な姿があったことでしょう。

 去年は雨で、せっかく練習したのに中止、今年も台風14号が、秋雨前線を刺激して、連日雨降りで、『またか!』と、開催が危ぶまれたのですが、曇りの予報が、太陽の顔も見られた晴れの一日でした。30年も前のわが家の子どもたちの運動会、園芸会、遠足などの行事が、天気とにらめっこで、一喜一憂だったのを思い出します。

 手巻き寿司、いなり寿司、煮物、佃煮、それにゆで栗や柿やみかんやバナナの果物を、ゴザの上で妹や弟を加えて食べた過ぎし日の秋が思い出されます。雨で延期された翌月曜日にあったこともありますが、ほとんどの年は、昼過ぎに、お昼ご飯の重箱を、家内と二人で運んで、待ちわびていた子どもたちと、校庭で食べたのです。日曜日の午前中には仕事があって、午前中の競技を見てあげられない、そんな毎年でした。

 子どもたちの学友のお母さんから、気の毒がって『一緒に食べよう!」との誘いを、健気にも断って、校門の扉の上にのって、今か今かと、親の来るのを待ちあぐねていた子どもたちの姿を思い出してしまいます。それもまた、わが家の大切な思い出の一コマなのではないでしょうか。
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 運動会の日に、給食のこともあったでしょうか。もうみんな卒業して、アルバイトをしながら学校に行って、今は社会人、家庭人になっています。小朋友のお母様に、運動会見学を、去年は誘われましたが、今の私たちの状況では、ちょっと見学は無理で、『楽しくしているかな?』と思っているだけで、ただ送ってくださるスマホ写真を見て、大勢の中に探すのを楽しみにしているだけです。

 子どもたちの幼稚園では、「さつまいも掘り」もあったでしょうか。苗の植え付けに駆り出されて、お手伝いしたこともありました。そう、芋の美味しいい季節になってきました。華南の街で、田舎に行って掘ってきたサツマイモを、毎年、大袋いっぱいにもらったこともありました。

 オリーブの実を拾いに、郊外の農村に出かけたこともありました。おじさんたちが木の上に登って、ユッサユッサと揺すると、バラバラと落ちてきて、嬉々として競い合って拾っていました。お昼を出してくださって、みんなで分け合いながら、華南の田舎料理を食べさせていただいたのも、今頃でしょうか。

 秋たけなわ、稲の刈り取りも終盤でしょうか。これからは、富有柿なども甘い秋の味覚が出回る頃でしょうか。今年は、無花果も栗も梨も、ふんだんに食べることができました。留守にしていた13年分の日本の秋の味覚を、堪能していると言ったところかも知れません。穏やかな秋のままで、深まっていって欲しいと願う、ちょっとものがなしい秋の夕べく、夜の帳(とばり)の降りかけた夕べです。

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