開封

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 日本には、「京都」があります、「平安京」に遷都されてから、そこは明治維新まで日本の首都でした。中国には、「北京」、「南京」、「西京(漢代の「長安」、現在の「西安」の旧称です)」があるのですが、「東京」が見当たりません。しかし、北宋の首都だった「开(開)封Kaifeng」は、かつては「東京開封府」と呼ばれ、正式には「東京」であったそうです。この「開封」は、中国の河南省にあります。金の国に滅ぼされるまでは、驚くほどの隆盛を極めた都だったのです。

 実は、この宋代の「開封」に、ユダヤ人共同体があったと言われています。皇帝が、アジア諸地域から優秀な人材を求めた時に、ユダヤ人もまた、呼び集められて、ここに落ち着いたようです。”ウイキペディア”によると、「ティベリウ・ワイスによれば、バビロン捕囚の後、紀元前6世紀に、異民族との婚姻を理由に預言者エズラにより追放され、インドの北西部(石碑では「天竺」と記述されている)に移住した支族レヴィ族と司祭の一族が、開封のユダヤ人の起源であるという。」と記してありますから、ユダヤ人の中国での居住の歴史は、ずいぶんと長いことになります。

 明代(1368年-1644年)には、ユダヤ人は皇帝から 、艾、石、高、金、李、張、趙(ユダヤ人の氏族の姓 Ezra, Shimon, Cohen, Gilbert, Levy, Joshua, Jonathan)を与えられ、それぞれ名乗ったのです(ウイキペディアによる)。この姓を名乗る中国のみなさんは、ユダヤ系である可能性があるのでしょうか。親しい友人に、これらの苗字を持つ方が、何人もいました。

 現在でも、開封にはユダヤ人が住んでいて、中国人と結婚して、中国社会に溶け込んでいるそうです。統計上、どれだけのユダヤ人がいるかを知ることは困難であって、推定の域を越えないようです。日本でも、「離散したユダヤ民族(イスラエルの十部族)」がいると主張する方がいますが、それもあり得ることでしょう。56の民族で構成される中国に、ユダヤ民族は入っていませんが、少数民族に、その血を受け継いでいる人々がいることは事実です。
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 中国の街のコンクリートの作りの集合住宅の各家の玄関には、例外なく、どの家の玄関の扉の上方の鴨居と、扉の左右の門柱に、紅い紙に、黒く印刷された文字が書かれているのです。それを「春联(聯 )chunlian」と呼んでいます。

 それは、イスラエル民族の歴史の中の「過越の日」に、各戸の家の鴨居と門柱に、小羊の血が塗られた出来事を彷彿とさせられます。紀元前のパレスチナから移り住んだ人たちの子孫が、この開封の街の中にいないとは限りません。歴史の浪漫を感じさせられて、興味が尽きません。そうでなくとも、ユダヤ人に伝承されている習慣と、現代の中国人の生活とに、何か脈略があるように感じているのです。

 それにしても、心残りは、華南の街に住んでいる間に、この「開封」を訪ねてみたかったのです。地図を見、列車の乗り継ぎなど調べたことがありましたが、叶えられずに帰国してしまったからです。機会があったら、ぜひ訪ねたい街なのです。

(開封市内の街の古い記念の建物です)

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配慮

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 華南の街の古街の一郭に残る、たぶん清朝に作られた家並が、残されてありました。古く由緒のあるものを、後の代に遺したらいいのですが、今では、多くの街で壊されていたり、人の手が入ってしまって、建築当時の趣が薄れてしまっています。屋根の端、隣家に繋がる部分に、見事な「梲(うだつ)」が残されていました。それだけを見たくて、なんども足を運んだのです。とった写真が、どこかに行ってしまったのは残念です。

 その役割は、火事が延焼しないための防火壁なのです。今住んでいます家の隣りに、去年の19号台風で、私たちと同じ様に被災した家族が、同じ時期に前後して、移り住んでこられています。ご夫婦は三十代前半で、小さな子さんが二人おいでです。先日、駐車場でお会いして、しばらく話をしていました。『そう、家を買いまして、来月引越しすることにしたのです。しばらくでしたが、お世話になりました!』と、ご主人がおっしゃられたのです。

 そうしますと、この若いご主人は、まもなく《梲を上げられる男》になるのです。〈梲が上がらない〉という言葉が、次の様に解説されてありました。

『町屋が隣り合い連続して建てられている場合に隣家からの火事が燃え移るのを防ぐための防火壁として造られたものだが、江戸時代中期頃になると装飾的な意味に重きが置かれるようになります。
自己の財力を誇示するための手段として当時の豪商たちがその富を競い合うようにそれぞれに立派なうだつを設けました。
うだつを上げるためにはそれなりの出費が必要だったことから、比較的裕福な家に限られていた。これが、生活や地位が向上しない・状態が今ひとつ良くない・見栄えがしない、という意味の慣用句「うだつが上がらない」の語源のひとつと考えられます。』

 そうしますと、この私は、〈梲の上がらない男〉で終えそうなので、ちょっと羨ましく、その引越しの話を聞いていたのです。中学一年の時に、国語の教師から、『準、こんな字を書いていたら、お前は出世しないぞ!』と言われたのですが、言われた通りに、無出世で今日に至りました。持ち家に住もうとする願いも、全くなかったのです。家内も、私に、『自分たちの家が欲しい!』などと、一度も言わずに、

 ♭ この世では貧しい家に住んでいても 心楽し
 み国では 約束の家が待っている ♯

と歌うだけで、なんとも思っていません。でも先人たちが、自分の家が火元になって、隣家に延焼してはいけないと、どれほどの効果があったか分かりませんが、防火壁を設けたというのは、心掛けとしては心憎い配慮であったわけです。

 この栃木の街は、火災に何度かあったとかで、今ある古民家は、幕末から明治期に建てられいて、火災を免れたものだそうです。それに、一軒一軒が独立していますので、屋根に立派な瓦が載っていますが、「梲」は見当たりません。川のほとりに家を建てたのも、そう言った配慮からだったかも知れません。

(絵の中央部に見える白い壁の部分が「梲」です)

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ブルームーン

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 昨夜、東京の空に見えた「ブルームーン」だと、息子が撮って送信してくれました。地の表ばかり見ていて、空を見上げなかったので、見損ないました。幽玄な、秋の寒空に孤高の光を放つ見事な月ですね。

 自然界は、静寂で落ち着いています。いよいよ十一月になりました。コロナ騒動は、どうなるのでしょうか。アメリカ大統領選挙は、どなたが選ばれるのでしょうか。台風は、このまま上陸なしで終わるのでしょうか。栃木県知事選の行方は。2020年まだまだ、話題や課題が山積しています。

 先が見えないことは、私たちに救いですね。ことが起こって、初めて分かって、それを喜んだり、悲しんだりするのが好いのでしょう。好いひと月でありますように、心から願っております。

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紅茶の日

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 今日、11月1日は「紅茶の日」です。わが家の今朝の食事は、パン食ですので、サラダ(お決まりのトマト、きゅうり、レタス、玉ねぎ、にんじんを切り刻んで自家製ドレッシングをかけます)と、トーストした食パンやフライパンで納豆パウダーで作ったパンケーキに、目玉焼き、それに、件(くだん)の紅茶を淹れて摂るのです。

 ほとんど毎朝同じで、時々、フレンチトーストにしたりしています。ところが、紅茶には、ちょっとした拘りがあるのです。華南で生活していた間、「アールグレイ」の紅茶を、好んで飲んでいました。それまで、独特なブランドの物などなく、なんでも感謝していただいていたのに、急変して拘ってしまったのです。

 底をつくことがあると、「メトロ」というイギリス系のスーパーに行った時、棚の中に見つけたので、それ以来、バスに乗って買いに行くのが常になってしまいました。実は、ちょっと前までは、飲み物や食べ物は、何でも好かったのです。シンガポールいた娘が送ってくれた小包の中に、この「アールグレイ」が入っていて、これを飲んだ瞬間から、この拘りが始まってしまったわけです。

 これを華南の街のスーパーで見つけたわけです。この紅茶は、”チャールズ・グレイ伯爵”と言われた元英国首相が、好んだもので、「茶葉」に、ミカンの一種の「ベルガモット」で香り付けにしてあるのです。その紅茶に、自分の名をつけてしまうほど、この方にも拘りがあったことになりますね。

 日本に初めて英国の紅茶が輸入されたのは、1887(明治20)年だったと言われています。英語では、” black tea ” と呼ばれ、中国からインドやセイロンに伝わり、その茶葉がイギリスに運び出された物が、巡り巡って日本でも飲まれる様になったわけです。この「紅茶」を、最初に飲んだ日本人は、「大黒屋光太夫(伊勢国、現在の三重の船頭)」だったそうです。

この光太夫が乗った船が、嵐に遭って、漂流し、アリューシャン列島の島にたどり着いたのです。帰国の許可を得るため、首都サンクトペテルブルクに、エカテリーナ2世(女帝)に謁見(えっけん)します。この女帝が出してくれたのが、その紅茶だったわけです。その茶会の日が、1791年11月1日だったとかで、今日が「紅茶の日」になっています。

 イギリス人が、この「紅茶」に、それほど拘る気持ちが、だんだんと私に分かる様になってきています。もちろん、コーヒーも淹れて飲むのですが。朝食には、何と言っても、「アールグレイ紅茶」です。『これ美味しいんでよ!』と言ってお出しすると、ほとんどの人が、『美味しい!』と言われます。 どうぞお出でください。一緒に、お茶にでもいたしましょう。もちろん「アールグレイ」で!

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感謝

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 わが家のお昼ご飯の定番は、家内の要望で、だいたい「うどん」です。長葱、にんじん、玉葱、小松菜などの青菜、それにクコ(枸杞gǒu qǐ/乾燥した実)とナツメ(大枣dà zǎo/乾燥した実)と牛肉と鰹節とで、薄醤油で煮込んだ物です。それしかできないので、BAKAの一つ覚えで作るのです。華南の街の友人から、『身体に好いので料理に使ってください!』と言われて、欠かさずに使いつづけているのが、中国漢方の定番のクコとナツメなのです。

 今年の一月、華南の街で、とても好い交わりをさせていただいた、私たちと同世代のご夫妻が、家内を見舞ってくれました。五日ほど滞在されて、旧交を温めたのです。このご夫妻が、闘病中の家内の健康回復のために、たくさんの中国食材をお土産に持ってきてくださり、その中に、このクコとナツメがあり、まだ食べ続けています。

 この様に、中国で親しくなったみなさんの愛の深さは、半端ではないのです。友人と言うよりも「家族」の接し方をしてくださるのです。彼らがよく言われるのが、「一家人yī jiā rén」です。病気で入院して経済的に困っていると、互いに入院や治療費を融通して、みなさんは助け合うのです。今の裕福で、今困窮している友や親っp族や家族を援助し、ある日困窮すると、その人が助けると言った互助のあり方が、よく見られました。困難を共有して、みなさんは生きるのです。

 外国人で、かつての戦争中の加害者の子孫の私たちは、敵愾心に燃えて接せられて当然だと、覚悟して中国での生活を始めました。ところが東北部でも華南でも、中国で親しくしていただいたみなさんは、私たちに暖かく接してくれたのです。過去は過去、過去の経緯など無関係に、家族の様にして手を差し伸べてくださって、助けていただいた、在華十三年でした。帰国しても、大きな犠牲を払って、何組もの友人たちが、家内を見舞ってくれて、今日の家内があります。
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 それは、物のやり取りだけではなく、心の交流なのです。七日間家内が、省立医院に入院した去年の正月にも、7年ほど前に、市立第二医院に入院した時も、家内の病室での身の回りの世話のために、みなさんが三交代で付き添ってくれたのです。大学や小学校の先生、検察庁の検事、会社経営者などのみなさんが、夜通しでお世話くださった愛と犠牲とがあって、今日の家内の回復があります。

 今週、25回目の化学治療を、独協大学病院で終えました。入院中、4階の病室前で、医師が、『百合さんは、今晩が峠だから、注意して看護して!』と、看護士さんに小声で語る声を、家内は聞いてしまったのだそうです。ところが彼女は茫然自失したのではなく、言い知れない平安があったと言っています。〈死の受容〉の覚悟の中に、その平安があって今日まで続いています。

 先日、日記を読み返していた家内が、一昨年の春以降、体調が優れなかったのだと話してくれました。それに気付いて上げて、初期の対応ができたら、そんなに苦しまなくてもよかったのではと、私の不徳の致すことだったのではないかと、自分を責めてしまいました。家内の異常に気付いてくれたのが、私の講演の通訳をしてくださっていた師範大の先生と、家内を母の様に慕ってくれていたご婦人でした。この二人に、省立医院に担ぎ込まれて入院できたのです。

 7日の入院を終えて、日本での治療を、至急帰国して受ける様に、主治医に強く勧めらて、即刻搭乗券の手配を頼んだのです。慌ただしく退院して、その足で空港に行き搭乗手続きを始めましたら、空港の医師が、この体調では搭乗できないと、許可をしてくれなかったのです。1月8日、家に帰って、翌朝もう一度、空港に出かけ、再度医師の診察を受けました。別の医師の診察は、色々と友人たちが手配してくれたからでしょうか、搭乗許可が出て、その日の便で帰国ができたのです。もう1日遅れて病状が悪化し、発熱があったら、帰国できないギリギリの帰国でした。

 帰国後の生活について、友人が家をお貸しくださると言うことで、そのご好意で、そこに落ち着くことができたのです。それから始まった入院治療が、ほぼ2年になろうとしています。点滴薬が効いたのと、多くの友人、兄弟姉妹、4人の子どもたち、みなさんの愛が効いたのか、家内は回復途上にあります。

 昨日は、とてもお世話になった家具屋さんを、家内と一緒に歩いて訪ねました。昨年、台風19号で罹災したお店の改装がなって、開店準備中の激励のためでした。この店の社長さんのご好意で、高根沢におられる、彼の友人の事務所に、被災後に避難させていただいたのです。

 家内の退院後、洪水に被災したり、室の水道栓の漏れなど、いろいろとありましたが、色々と思い出して、感謝しながら、この2年あまりのことを、「自家製牛肉麺」の書き出しで、記してみました。また昔ながらの友人たち今では帰国しておいでの華南の街で出会った家内の友人のみなさん、遠くから支えて下さったみなさんに、その愛への感謝の思いで、家内も私も、心がいっぱいです。ありがとうございました。

(街を見下ろす森林公園の竹林の一部、長く住んだ家のベランダに咲いていたバラです)

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桐一葉

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 赤とんぼの飛ぶのを見たり、空気の匂いや色や温度を五感で感じたり、柿の実が紅く熟すのを見て、『アッ、秋だ!」と感じることができます。涼しくなって熟睡できるのも、秋を感じられる一つかも知れません。ところが、古代中国では、次の様に言ったそうです。

 落一葉而知秋

 前漢の武帝の頃のことです。淮南(わいなん)王の劉安(B.C 179 ~ B.C 122)が学者を集めました。その学者たちの進講を編纂させたのが「淮南子(えなんじ)」で、この中の「説山訓」に、次の様な文が載っています。

 『「一葉の落つるを見て、歳の将に暮れんとするを知る」とあるのに基づいて、落葉の早い青桐の葉の一葉(いちよう)が落ちるのを見て、秋の訪れを察するように、わずかな前兆を見て、その後に起こるであろう大事をいち早く察知することをいう。また、わずかな前兆から衰亡を予知するたとえとしても使う。』と、諺の解説がなされています。

 私たちの国では、「桐一葉落ちて天下の秋を知る」と言います。「桐」といえば、家に女の子が生まれると、両親は、桐の木を植えたのだと聞いたことがありました。大きくなって、お嫁入りの日に持たせたい道具の「箪笥」を、遥かに思う親心なのでしょう。桐が成長して、箪笥を作れるほどに大きくなる様に、親は、娘がお嫁入りし、幸せになって欲しいと願ってでした。
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 この桐ですが、下駄の材料に用いられていました。街を歩いても、もう誰も下駄を履いている人を見かけることがなくなりましたが、ここ栃木は、下駄の「日本三大産地」だったそうです、下駄は、今でも伝統工芸品になっています。室町の信号の向こう側に、下駄屋さんががあります。上等なものは、「桐作り」で、父が履いていたのは、この下駄でした。小学校の通学には、もっぱら下駄履きでした。駅前に下駄屋さんがあって、そこで緒を付けてもらって履き出しました。

 下駄業界も、桐の一葉が落ちるが如くに、斜陽の一途をたどっているそうです。この街を歩いても、桐の木も、桐下駄を履く人も見かけることは、まずありません。それならば、『桐下駄を履いて、例幣使街道を闊歩してみようかな!』と思ってはみるのですが、いまだにその勇気がありません。

(桐の花、栃木下駄です)

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孤独

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 孤独といえば、まず思い当たるのは、子どもの頃に、食い入るようにして読んだ、「ロビンソン漂流記」の主人公、ロビンソン・クルーソウの生活ぶりではないでしょうか。絶海の無人島に漂着して、たった一人で隔離、孤立、疎外を味わう、寂寥(せきりょう)を強いられた人ではないでしょうか。

 何だかハラハラして読んでいたのを覚えています。子どもの私は冒険物語として、孤島での生活に憧れて、海のない内陸の街で、林の中や、穴掘りをして、「基地」を作って遊んだのが楽しく思い出されます。ロビンソンは、28年も孤島で過ごしたのを知ったのは、大人になってからでした。

 作家のダニエル・デフォーが描いた孤島での生活を、経済学者のマックス・ウェーバーが、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で言及していました。このロビンソンは、その孤島で、生き抜いて行くことを決断します。それで、難破船の中に残された、たくさんの道具や資材を活用するのです。筏を組んでは、その必要な物を島に運んでは、上手に使って生活をして行きます。

 彼は、生活の基盤をしっかり作り上げていくのです。相応しい住環境を考え、家を作るのです。そして生活圏を定めて、土地の「囲い込み」をします。中学の歴史の授業で、「エンクロージャー」のことを学んだのです。イギリスで牧羊が盛んになって、羊毛工業が起こって行く時に、地主から借りた牧羊地を、柵を用いて囲い込んだのです。まさにそれは、「資本主義的農業」でした。

 ロビンソンは、その島で、ヤギを三頭捕まえるのですが、貴重な爆薬を無駄にしないようにして、鉄砲を使わずに、罠をかけて、落とし穴に落として、生け捕りにします。食べてしまえばおしまいですが、「エンクロージャー(囲い込み)」の中で、繁殖させ、必要に応じて食用にしたり、皮で様々な皮製品を作っていきます。つまり計画的、生産的にことを運んでいくのです。
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Robinson with his animals. Woodcut engraving from “Robinson Crusoe” the famous novel (1719) by Daniel Davoe (English writer, c. 1660 – 1731), published in 1881.

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 貴重な火薬は、樽ごと引火して爆発して失ってしまわないように工夫をします。そのために小袋を縫って作ったりもしました。その中に、濡れて使えなくならない様に、入れて保管するのです。それは、危険を分散させるのですが、これこそが「保険」の発想でした。不安を解消するために、当時、「保険」が経営上必要なこととして、イギリス国内では認められ、広められていきました。

 また、船から運んできた袋から、偶然に土の中に落ちた麦や米が、芽を出し、実をつけたのです。『6月の下旬頃であったが、実りの季節がきたとき、私がその大麦の穂をていねいにつんだことはいうまでもない。1粒1粒大切にしまっておいたのも、もう一度それを全部まいて、パンを作るのに充分な収穫をやがてはあげたいと願ったからだった。』とロビンソンは言っています。それを収穫して保存した麦を、次の種蒔きの時期に、畑に蒔いて、より多くの小麦を収穫して行くのです。

 それはイングランドのヨークシャーの中産階級が抬頭していく様子を表しているように描かれているのです。行き当たりばったりの不安定な生活ではなく、実に計画的に生活がなされていきます。ロビンソンは、そういった生活のために、残された資材や道具を上手に活用して行くのです。

 ロビンソンは、「時間」も管理していきます。孤島に上陸した。1659年9月30日の上陸日に、上陸地点に、一本の四角に削った柱を立てます。あおの柱に、一日一日をナイフで刻んでいくのです。日曜日毎には、刻みの長さを倍にし、月の第一日には、さらに倍の長さにして刻んだのです。日、週、月をはっきり記録し管理したのです。365日が経った時、彼は、その日を特別な日して記念します。断食し、礼拝までしています。敬虔な信仰者の生き方をするのです。

 内村鑑三の弟子で、マックス・ウェーバー経済の学者であった大塚久雄も、「近代化の人間的基礎」の著の中で、『ロビンソン・クルーソウの孤島での生活ぶりは、まさしく、当時のイングランドの初期産業ブルジョアジー(小ブルジョア層)のそれにほかならかったと私には思われる。』と言っています。こういった生活を28年間の長きに亘って、彼がすることができたのには、驚かされたわけです。さらに彼の生活の基軸に、聖書朗読や祈りや礼拝があったのです。ですから冒険談だけではなく、創意工夫にあふれた堅実な生き方のモデルがありそうです。

 若かった日の、ロビンソンの〈一か八か〉の投機的な荒稼ぎの生き方から、父が教え諭し、訓戒していた《中産階級的な生き方》に、孤島で戻って行く物語なのです。生き生きとして、ロビンソンが生きている姿は魅力的です。合理的であるのが素晴らしいのです。現状が打開されて行くために、孤独を跳ね返して生きて行くたくましさも感じられます。

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モンタナ

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 100年ほど前のアメリカのカントリーサイドにある、小さな街の家族を描いた映画を観た私は、大変大きな感動を呼び起こされたのです。きっと、自分の原風景と似たものが、そこに映し出されていたからなのだと思われます。映画の題名は、” A River Runs Through It “ でした。1993年に、日本で公開されたものです。” wikipedia “ に、次の様にあらすじがあります。

 『舞台は1910 – 1920年代のアメリカ合衆国モンタナ州ミズーラ。第30代大統領クーリッジ(在位1923年~1929年)、T型フォード全盛の時代である。スコットランド出身で厳格な父のマクリーン牧師、真面目で秀才の兄ノーマン、陽気な弟ポール。三人に共通する趣味はフライ・フィッシングだった。ノーマンはやがてマサチューセッツ州ダートマスの大学に進学して街を離れる。ポールはモンタナ州の州都ヘレナで新聞記者をしつつ、ポーカー賭博にのめり込んでいた。
大学を出て街に戻ってきたノーマンは独立記念日にジェシーと知り合い、二人は付き合うようになる。やがてノーマンにシカゴ大学から英文学の教員の採用通知が届き、ノーマンはジェシーに求婚する。ノーマンが就職のためにシカゴに向かう直前、ノーマンとポールは父親とともにブラックフット川に釣りに出かけ、ポールは大物を釣り上げる。だが翌朝、警察から連絡があり、ポールが何者かに殺されたことをノーマンは知らされる。』

 お父さんは、厳格なピューリタン系の牧師、すべてを包み込んでしまう様な優しいお母さん、この両親の間に男の子二人の兄弟の家族が登場します。兄のノーマンが回想して著した、小説の映画化なのです。彼と弟の「ふるさと」での少年期から青年期に至る情景が描かれています。性格や願いの違う兄弟が、それぞれに成長して、自分の道を生きて行くのです。
 
 お父さんの唯一の趣味が、フライ・フィッシングで、息子たちに釣りの手ほどきをお父さんがし、三人一緒に、ミズーラの川に出かけるのです。成長と共に、お父さんを凌ぐ腕前になった弟のポール、それを暖かく見守るお父さんの優しい目が印象的でした。家では、お母さんが作る質素な食事の食卓を囲んで、食事の感謝の祈りがなされる、典型的な百年前のアメリカの家庭風景が見られます。

 アメリカ人起業家の恩師が、ご自分の母国で育った家庭での話を聞いたことがありますが、そんな背景があって、大変、この映画に感銘を受けたのかも知れません。恩師は、裕福な家庭で育った方でした。大学から帰省すると、お父さんが、地下にある冷蔵庫に吊り下げられている牛の一番良い部位を、ステーキにして焼いて食べさせてくれたのだそうです。

 そんなことで、この家族が過ごしたモンタナに行って見たくなった私は、当時、娘たちが学んでいた、アメリカ西海岸の街のオレゴン州に出かけた折に、二人を誘って自動車旅行に出かけたのです。ワシントン州、アイダホ州、モンタナ州、ワイオミング州と一週間ほどでした。ロッキー山脈を越えて、結構長い距離を、娘たちが運転してくれました。

 都会には、さほど興味がないのですが、アメリカのほとんどの部分は、小さな街で、そこで堅実な生活を、みなさんがして、アメリカを支えているのが、よく分かったのです。ある街で、レストランに入り食事を注文しました。ウエイトレスが運んできたスープがぬるかったのです。娘たちは、言い訳する彼女に、はっきり交換を要求していました。しっかり自己主張をしながら、異国に文化圏で生きているのを知って、安心したのを覚えています。

 もちろん、映画に描かれたモンタナは、時代の違いこそあれ、映画の描いた当時の息吹を感じられるほどで、満足でした。アメリカ中にある風景、いえ全世界で見られる田舎の風景だったのです。ある街の人気のない公園で、スーパーで買った燭台で、バーベキュウをしたのですが、火を心配したパトカーがやって来たりしても、娘たちは上手に対応していたのに感心しました。

 繁栄の国の屋台骨を見て回った一週間でしたが、清教徒の願いから建国された国で、娘たちも、息子たちもある時期、教育を受け、生活をしたことへの感謝も湧き上がった時でもありました。義母は終戦後に、母は少女期に、この国やカナダからやって来た人たちと、出会って、人生の祝福に預かっているのです。その国の大統領選挙が迫っています。相応しい最善の器が選ばれ、娘や孫たちの暮らす国が、再び輝きます様に!

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何を残すか

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 1880年(明治13年)に、日本で"YMCA"が、東京で始まめられています。1894年夏、箱根で、全国から数多くの学生が参加して、このYMCA主催の「第六期夏期学校」が開催されました。この時の講師が内村鑑三でした。この講演の初めに、内村は、頼山陽の詩を紹介しています。

 十有三春秋
 逝者已如水
 天地無始終
 人生有生死
 安得類古人
 千載列青史

 これは、山陽が13歳の時に詠んだものです。その意味は、『自分が生まれてから、すでに十三回の春と秋を過ごしてきた。水の流れと同様、時の流れは元へは戻らない。天地には始めも終わりもないが、人間は生まれたら必ず死ぬ時が来る。なんとしてでも昔の偉人のように、千年後の歴史に名をつらねたいものだ。』でした。

 13歳とは中学一年生でしょうか。死を語り、千年後に名を残したいとの願いを、山陽が持つていたのには、驚かされます。箱根の高嶺で、頼山陽の詩を聞き、33歳の内村の講話を聞いたのは、主に十代の青年たちだった様です。内村は、若い日に、「千載青史に名を列したい願望」を抱いていたのですが、16歳の折、札幌農学校に学ぶ中で、違った価値観や人生観や世界観と出会って、変わってしまいました。いったい、明治の青年たちに、内村は何を語ったのでしょうか。

 第一に取り上げたのは、《後世へわれわれの遺すもののなかにまず第一番に大切のものがある。何であるかというと金です。われわれが死ぬときに遺産金を社会に遺して逝く、己の子供に遺して逝くばかりでなく、社会に遺して逝くということです、』と言って、《金を残せ》と言ったのです。

 ピポディーと言う人を取り上げて、『そのピーボディーは彼の一生涯を何に費したかというと、何百万ドルという高は知っておりませぬけれども、金を溜めて、ことに黒人の教育のために使った。今日アメリカにおります黒人がたぶん日本人と同じくらいの社交的程度に達しておりますのは何であるかというに、それはピーボディーのごとき慈善家の金の結果であるといわなければなりません。』
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 話を、次の様に続けています。アメリカでの留学体験から、『私は金のためにはアメリカ人はたいへん弱い、アメリカ人は金のためにはだいぶ侵害されたる民であるということも知っております、けれどもアメリカ人のなかに金持ちがありまして、彼らが清き目的をもって金を溜めそれを清きことのために用うるということは、アメリカの今日の盛大をいたした大原因であるということだけは私もわかって帰ってきました。』と言っています。正しく、清い目的にために、お金は残すべきです。

 誰でもがお金を残せないので、では何を残したらいいのか、第二には、『それで私が金よりもよい遺物は何であるかと考えて見ますと、事業です。事業とは、すなわち金を使うことです。金は労力を代表するものでありますから、労力を使ってこれを事業に変じ、事業を遺して逝くことができる。』と言って、《事業を残せ》と言ったのです。

 それで彼はアフリカで探検をした人物を例に引いています。『私はデビッド・リビングストンのような事業をしたいと思います。この人はスコットランドのグラスゴーの機屋の子でありまして、若いときからして公共事業に非常に注意しました。「どこかに私は」……デビッド・リビングストンの考えまするに……「どこかに私は一事業を起してみたい」という考えで、始めは支那に往きたいという考えでありまして、その望みをもって英国の伝道会社に訴えてみたところが、支那に遣る必要がないといって許されなかった。ついにアフリカにはいって、三十七年間己れの生命をアフリカのために差し出し、始めのうちはおもに伝道をしておりました。けれども彼は考えました、アフリカを永遠に救うには今日は伝道ではいけない。すなわちアフリカの内地を探検して、その地理を明かにしこれに貿易を開いて勢力を与えねばいけぬ、ソウすれば伝道は商売の結果としてかならず来るに相違ない。そこで彼は伝道を止めまして探検家になったのでございます。彼はアフリカを三度縦横に横ぎり、わからなかった湖水もわかり、今までわからなかった河の方向も定められ、それがために種々の大事業も起ってきた。しかしながらリビングストンの事業はそれで終らない、スタンレーの探検となり、ペーテルスの探検となり、チャンバーレンの探検となり、今日のいわゆるアフリカ問題にして一つとしてリビングストンの事業に原因せぬものはないのでございます。コンゴ自由国、すなわち欧米九ヵ国が同盟しまして、プロテスタント主義の自由国をアフリカの中心に立つるにいたったのも、やはりリビングストンの手によったものといわなければなりませぬ。』、正しい目的を持って、《事業》を起こし、残すことです。

 お金も事業も、誰でも残せるものではありません。それで第三について続けて語っています。『それでもし私に金を溜めることができず、また社会は私の事業をすることを許さなければ、私はまだ一つ遺すものを持っています。何であるかというと、私の思想です。もしこの世の中において私が私の考えを実行することができなければ、私はこれを実行する精神を筆と墨とをもって紙の上に遺すことができる。あるいはそうでなくとも、それに似たような事業がございます。すなわち私がこの世の中に生きているあいだに、事業をなすことができなければ、私は青年を薫陶して私の思想を若い人に注いで、そうしてその人をして私の事業をなさしめることができる。すなわちこれを短くいいますれば、著述をするということと学生を教えるということであります。』と言って、《思想を残せ》と言います。

 内村鑑三の弟子、孫弟子に教育者が多くいます。例えば矢内原忠雄、南原繁、松前重義(東海大学)、森戸辰男(広島大学)、天野貞祐(独協大学)、斎藤宗次郎(小学校教師)などがおいでです。人を、一生涯にわたって薫陶すると言うのは、驚くべき影響力です。日本の社会の中で、「良心」を堅持した人の中に、内村や、その朋友の新渡戸稲造の感化を受けて、文学者、社会改良家、医師、慈善家など、「地の塩」となって、名こそ残さなかったのですが、人々を薫陶し、よく導いた人は、数え切れないほどおいでです。

 それでは、お金も事業も、そして思想も残せないなら、どうしたらいいのでしょうか。この三つを内村鑑三は、「最大遺物」とは言いませんでした。それでは何かを、彼は続けるのです。『しかしながら日本人お互いに今要するものは何であるか。本が足りないのでしょうか、金がないのでしょうか、あるいは事業が不足なのでありましょうか。それらのことの不足はもとよりないことはない。けれども、私が考えてみると、今日第一の欠乏は Life、ライフ、生命の欠乏であります。』と言います。クロムエル、トーマス・カーライル、二宮金次郎、メリー・ライオン、徳川家康などの人を語りつつ、次の様に話しています。

 『それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。』、誰もが残すことができるものは、《勇ましい高尚な生涯》だと言い終えています。

『われわれが何か遺しておって、今年は後世のためにこれだけの金を溜めたというのも結構、今年は後世のためにこれだけの事業をなしたというのも結構、また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、しかしそれよりもいっそう良いのは後世のために私は弱いものを助けてやった、後世のために私はこれだけの艱難に打ち勝ってみた、後世のために私はこれだけの品性を修練してみた、後世のために私はこれだけの義侠心を実行してみた、後世のために私はこれだけの情実に勝ってみた、という話を持ってふたたびここに集まりたいと考えます。この心掛けをもってわれわれが毎年毎日進みましたならば、われわれの生涯は決して五十年や六十年の生涯にはあらずして、実に水の辺りに植えたる樹のようなもので、だんだんと芽を萌き枝を生じてゆくものであると思います(中略)・・・われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。(拍手喝采)』(引用は青空文庫の「後世への最大遺物」です)

(内村鑑三、1890年代に箱根の田舎道です)

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願い

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 今朝は、7℃の気温で、今秋一の寒さです。6時前、太陽が輝き昇って、街を温め始めてきました。夏の終わり頃から、美味しい果物に恵まれています。まさに味覚の秋、食欲の秋、灯火親したしむ候、芸術の秋、なによりも収穫の秋の到来です。

 農夫のみなさんは、地を耕し、種を蒔き、水をやり、消毒をし、肥料を与えて、まるで子を育てるように見守り、勤しみながら、この時節を迎えています。リンゴやおでんや鍋が美味しくなりました。ちょっと物思いに沈みながら、来し方に思い巡らす季節かも知れません。

 今朝も、感謝と期待とを持って目覚めました。間も無く11月を迎え、アメリカでは大統領選挙が行われます。《地に平和》、《人に赦しと愛》を願う朝です。

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