㊗️おめでとう?

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 2018年5月25日の「水餃子」と言うブログ記事で、一人の華南の街の高校に在学している高校生のことを記しました。

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 【前略】 この街(華南在住時の街)に、こちらの方と結婚されて、高校生のお子さんを育てておられる、日本の中国地方の出身のご婦人がいて、時々、家内と交流があります。最近は、私も誘われて、一緒に食事をしたり、喫茶店に行ったりしているのです。この方に、家内が声をかけたら、(家内の妹と私も)ご一緒できるとの事でした。

 すぐにこの方から、折り返しの電話があって、もう一人のご婦人もお誘いしたいとの事で、都合5人で街中の「てんてん」という店の前で落ち合うことにしたのです。そこで、<餃子>を三種類、<涼皮>という山西の特産料理を二種類、砕いた胡瓜とニンニクを刻んだ和え物、トマトと卵のスープで、食事を摂ったのです。

 娘たちと同世代の、子育て中のお二人で、このお二人にしてみたら、ご両親の世代の義妹と私たちとの食事会でした。私たちに合わせて下さって、楽しい時を過ごしたのです。間もなく、息子さんたちの進学を決めなくてはならない時期で、家内は、昨年、札幌に行った時に訪ねた<北海道大学>のパンフレットなどを、参考のためにと差し上げていました。

 こちらの大学か、帰国子女枠で日本の大学かを、決めなければならないそうです。我が家の四人の子たちは、親に負担をかけない様にと、一番安く学べる学校を選んでくれました。郡立の"コミニティーカレッジ"で、二年学んで、その後に、州立の四年制大学に編入したりしていました。長女は、東京で昼間働いて、夜間の短大で学び、そこを卒業すると、上の兄が学んだ同じ州立大に編入したのです。四人とも、結構逞しかったと思います。

 この方の高校生のお子さんは、昨年怪我をして手術をし、リハビリ中の私に、自分のための"成長滋養剤"の「肝油ドロップ」の大缶をくださって、『早く治ってください!』と激励してくれたのです。それは、とても嬉しいことでした。彼が、能力に見合った大学に進学して、人生の基礎を、確りと固めて、卒業後は、社会の中で、その責務を果たしていかれるように、私と家内が願っている若者なのです。

 暑い日でしたが、まだ日陰に入ると涼しい時期で、最寄りのバス停で、家の近くを通る路線バスを待ちながら、道行く、小学生や付き添いのお爺さんやお婆さんの様子を眺めていました。午後のために、集団で登校する一段も幾組もありました。ご一緒したお母さんたちとご主人、息子さん、近くに住む義父母の健康を願っていました。娘たちも同じ様に、国際結婚をしていて、まあいろいろな事があることでしょうね。幸せを願って。

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 この高校生のお母様から、今日メールがありました。念願の日本(東京)の大学に合格したとの喜ばしい知らせでした。入学金や授業料のために、働いて備えをしようと、東京に居を移して、働いて来ていたお母さんなのです。まさに、《母は強し》です。

 家内が、省立医院に入院した、昨年の正月の一週間の間、毎日の様に病室に来てくださって、家内の病状説明の折には、ご主人もおいでくださったりで、家内のお世話をしてくださったのです。家内が寝てしまうと、椅子に座って、ご子息の受験の学びのための教材作りをされておいででした。

 来春には入学です。本当に、我が子の合格の様に嬉しい夕です。コロナ禍の中、思う様に、何事も進みませんが、愛する《肝油ドロップ青年》の今後が、「万事順利」である様に、心から願っております。

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郷愁

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 省立の師範大学の教員住宅に住んでいた時、一階でしたので、裏に手狭な庭がついていました。住み始めた今頃の時期に、懐かしい香りがしてきたのです。しばらくの間、気がつかなかたのですが、庭の出口の三和土(たたき)の隅に、金木犀の木が植えられていて、そこに咲いた花からの香りでした。

 週初めの日、6歳の女の子のお母さんで、家内や私に、娘の様に接してくださるご婦人がいて、時々、引き籠りの私たちを連れ出してくれて、鳥居氏の居城であった、「壬生城」の城址公園に連れて行ってくださったのです。平城で、実に綺麗に整備がされていました。

 お堀の橋を渡って、その城内に入った時、あの金木犀の花の香がしてきたのです。それで、華南の街で住んだ家を思い出したのです。その家に、日本人留学生、日本語教師、家内や私が、教えていた大学や語学学校の中国人の学生のみなさんが遊びに来られて、実に賑やかでした。
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 日本からたくさん持ち帰ったカレールウで、ライス・カレーを作って、ご馳走してあげました。みなさんに好評で、ちょっと名物になりつつありました。その家からバス通りに出ると、師範大学の裏手に、「卤面lumian」と言われる、華南風煮込みうどんの店があって、よく、そこでお昼をしました。小さな牡蠣、豚肉、野菜、アサリ、麺で出来ていて、庶民の味でした。
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 その店は、同窓の日本語教師が、紹介してくれたのです。この方は、高校の英語教師をしていたのですが、それをやめて、その街の師範大学の教師をされていました。省の主催のレセプションに招かれて、食事会が持たれた時、この方も来ていて、同世代で、同業のよしみで話をしていて、何かお互いに感じたことがあって、出身校の話が出て、同窓だと分かったのです。

 「学風」を引き摺るのか、そう言った学風に惹きつけられるのか、何か似たものを互いに感じ合ったわけです。それで、食事に招いたりしていたのです。私たちが、移動時に三輪タクシーに乗っていると話をしたら、彼が、『大変危険だからやめられたほうがいいです!』と言って、猛反対をされたのです。
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 「輪タク」は、電動と人力の二種類があって、メーターがないので、乗る時に交渉して、行き先によって料金が決まるわけです。『便宜一点儿吧pianyidianerba!』と言って、『ちょっとまけてよ!』と言うのです。その交渉が、物を買う時の常套句で、どこに行っても交渉するように、天津の語学学校で教えてくださっ先生に教えられてから、使い続けたのです。食料品の日付管理が、ほとんどなされていなかったのです。小さな商店などは、平気で、賞味期限切れが売られていて、牛乳などは、日付を見なかったら大変でした。

 街中の大きな人造池では、季節ごとに、展覧会が行われていたりでした。中国か日本か、どちらが起源なのか、盆栽がありました。ものすごく大きな鉢に入っていたり、日本のコンパクトな盆栽と比べてみて驚かされました。下駄や蛇の目傘があったり、切り飴や、自慢焼きの様な物までありました。そうラムネもあったりで、これもどちらが始まりか、調べたら面白いかも知れません。

 同じ東アジアで日本同様、季節季節に食べる物があって、それもみなさんの楽しみなのでしょう。下の階のご婦人が、『この時期になると、これを食べるんです!』と言って、団子や惣菜を持って来てくれたり、上の階のおばあちゃんが作ったと言って、豆腐までいただいたこともあり、田舎から送られて来たからと言って、干筍、サツマイモ、果物などももらいました。

 何だか、華南の街の音も味も匂いも懐かしくなって来ました。あの裏庭の金木犀は、今年も咲いて、芳しい香りを放っているでしょうか。秋が深まりつつあります。街路樹の木に咲く花が、実に綺麗な街でもありました。第二のふるさとへの郷愁の秋であります。そう、一番懐かしいのは、《人》でしょうか。

(金木犀と街のそこかしこに咲いていたブーゲンビリアとハイビスカスです)

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賢明

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 私たちが長く住んだ華南の街で、四川省出身のご婦人とお会いしたことがありました。大柄な方で、きっと少数民族の出身だったのでしょうか。この方が、とても大きな精神的な束縛を経験して大変だったことがあったと言われたのです。その時は、解放されていて、喜びに溢れてお話ししておられました。

 よく、人に精神的な問題について、〈先祖の呪いだ〉とか言って、家系の中の悪事が、精神的な問題をもたらすのだと、原因を語る方がいます。果たしてそうでしょうか、このご婦人のお話を聞いた時、先祖の悪事が原因ではなく、その人個人の生き方や選びに関わる問題であることだと確信したのです。

 この婦人は、長らく「ヨガ」をし続けてこられ、それが原因で、精神的な問題を持ってしまったことが分かったのだそうです。日本でも、スポーツクラブやシニアクラブなどで、よく「ヨガ教室」が開かれているのです。この「ヨガ」は、街角でする軽運動やストレッチ、精神的な疲労回復だけなのでしょうか。

 ヨガによって、確かに意識上の変化は得られます。しかし、そのエクササイズを続けていくうちに、心の奥底に、抑圧的な影響力が生み出されるのだそうです。そして、感覚が鋭敏になって、不安や心配が生み出されてくるのです。瞑想が、精神性を高め、意識の高嶺に到達する経験ができる様になると言いますが、その途中で気絶したり、精神的な不安も生じさせるのです。

 自分の現実と空想や瞑想の世界の境界線がはっきりしなくなるのです。感覚が鋭敏になる一方で、心配や不安に襲われ、不安定になってしまいます。ある人は、長時間にわたって意識が戻らないこともあり得ます。

 日本で英語教師をしていた青年が、日本文化に関心を示して、禅宗の寺を訪ねました。有名な武将の菩提寺で、その若い住職と気が合ったのだそうです。その住職は、禅と共に、ヨガにも通じていて、そう言った交わりを、しばらく続けていたのです。密教的な瞑想などに触れる間に、これを続けては危険と感じて、その交わり辞めるために、『お寺に一緒に行ってください!』と頼まれました。それで彼に同道して、その住職を訪ねめたのです。

 日本語の上手な方でしたし、住職も英語ができ、通訳は不要でしたが、彼は、私にそばにいて欲しかったのです。話をしてる間に、その住職が怒り始めたのです。結局、それ以上、そこにいられず、一方的な残念な結果別れの様になって、そこを辞したのです。そうしたことで、彼はホッとされていたのが印象的でした。

 四川省出身のご婦人も、アメリカ人英語教師も、軽い気持ちで関わりを始めたのですが、実は十分に、ヨガは、神秘的な東洋宗教である、ヒンズー教と深く関わりを持つのです。深入りすると精神的な問題を持ちやすく、その奥深い瞑想術は、危険です。

 華南の街の検察庁で、検事をされていた若いお母さんが、同僚に勧められたのでしょうか、ヨガに関心を示され、『クラブに参加してみたい!』と、思って家内と私のところにやって来て、相談されたのです。私たちは猛烈に反対したのです。子育てや仕事上の大変さの中で、そう言ったものをやってみようとされたのですが、やめられたのです。

 この女検事さんは、家内が一週間、省立医院に入院した時には、子どもさんをご両親に預けて、家内の身の回りに世話を何日かしてくれました。ヨガは、スポーツでも、リラクゼーションでもなく、心の奥深いところに強い影響力を与え、〈不安障害〉をもたらしたりしますので、気をつけなければなりません。あの二人がやめたのも、彼女が近づかなかったことも賢明な決断でした。

(「天府之国」と言われた四川省の風景です)

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ひまわり

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 今年の母の日に、次男が贈り物で届けてくれた数種の花の中に、ラベンダーがありました。それを植え替えた鉢の隅っこに、家内が、夏前に街を歩いていた時にもらった種を蒔いて育った花です。「ハイブリッド・サンフラワー」、とその袋にあります。

 今日は、二十四節気の「甘露」、「向日葵(ひまわり)」が、台風14号に刺激された秋雨前線が降らせた雨の降る朝に咲いたのです。完全な形で開いていませんが、紛れもなく「ひまわり」です。朝顔が終わって、寂しくなったベランダで、ただ一輪咲き出してくれました。

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スケープ・ゴート

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” Scape goat “、という言葉があります。これは、よく言われている様な「いじめ」とは違います。ユダヤの古書の中に、これについての記事が、次の様にあります。

「彼(アロン)はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。
アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。
アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。
そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。」

 この荒野に放たれた山羊を、「スケープ・ゴート」と言います。この言葉を聞くと、一人の政治家を思い出してしまうのです。三重県から選出され、将来、トップの座を嘱望された国会議員に、藤波孝生という方がいました。ロッキード事件があって、その裁判が行われた時、官房長官として事件に連座した藤波氏が、裁判で有罪判決を受けます。その後日譚で、次の様に、ご自分の秘書に語ったそうです。

 『中曽根政権のときの問題は官房長官だった自分が責任を取ることが大事だ。田中角栄さんが捕まった、今度は中曽根さんが捕まったとなれば、日本の首相は終わった後、逮捕されるといわれてしまう。そんな国にしたくないだろう!』とです。ご自分の意思で、罪を負われたのです。それで将来の首相の機会を捨ててしまいました。

 先日亡くなった、中曽根元首相の罪を、自ら負った藤波氏の様なあり方は、もう流行らないのでしょう。大方、人は、自分の罪を他者になすりつけて、『大義のために仕方がなかった!』と考えがちです。これこそ政治の裏面にある出来事、悪弊です。どれだけの「秘書」が、そうなって表舞台から消えていったでしょうか。「悔し涙」を流した人は多そうです。

 その年のイスラエル人の全ての罪を告白され、負わされて、荒野に放たれる〈アザゼルの山羊〉は、荒野で狂い死にするのだと聞きました。そういう使命を担わされて生まれ、クジによって選ばれ、死んでいく山羊は、人の罪の重さ、厳粛さを示しています。「大贖罪日」の喜びの日に、その隠された裏側で、こんな理不尽な死があったことに、もっと人は注目しなくてはなりません。

 軍隊の内務班で、銃の解体掃除の時に、ネジをなくした兵士がいて、『誰か?』と責められ、臆して出られませんでした。その戦友に代わって、『私です!』といって前に出て、殴打制裁された人がいたと聞いたことがあります。内務班全員が、連帯責任を取らされるのを避けるためでもあった様です。そんな風に、私の根っからの罪を、身代わりに、負ってくださって死なれた方がいたのです。それで今があります。

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生活に美を見る

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 図書館で借りた本の中の記事の一部です。

 『単に陶器に限らず、広く美術作品についてもいえることだが、「生活から見る」ーこの鑑賞態度を私は提唱したい。美術展などに並んでいるすばらしい作品だけがすばらしいものを持っているという一般の概念には、もういい加減におさらばして、各自が自分たちの生活から物を見てもらいたいものである。

 なるほど美術館や展覧会には、ちゃんとたれかに選ばれた優れた美術品がならんでいる。しかし、わざわざ美術館や展覧会場にいかねば美しい作品を見らねぬと思い込んでいた従来の鑑賞態度は、何よりもまずあまり知的であったという譏(そし)りを免れぬと思う。

 大部分の人たちが知識で鑑賞しているのである。「生活で見よ」ということは、よそ行きの心や態度を棄て、もっと自分たちの生活の中に、対象を選べという意味である。美しいものは、ひとり美術館におさまっているのではない。われらの身の周囲に、食卓の上に、台所にいくらでもあるはずである。それらを探し楽しむ態度こそ、真の正しい鑑賞の態度であろうと思う。

 しかし、かかる態度は近来ほとんど顧みられていない。早い話が三度三度自分が使用している茶碗の模様や、その色彩を意識的に知っている人は、案外少ないのではないかと思う。もちろん感覚的には知っているだろうが、はっきり意識ている人は、まずたくさんはないと思う。これではうそだ!

 自分の生活に中に美しさを発見し、それを楽しむ喜びこそ、新時代の観賞の出発点でなければならない。美とは所詮生活に中において、ありとあらゆる物と事の中からお発見する喜びであらねばならぬ。従って美に対するかかる考え方から出発すると、昔からの有名なものに、必ずしも美があるとはいえず、従来たれも認めなかったもの、必ずしも美がないとはいえない。

 かかる態度に立った観賞態度が練られ、深められて行くに従い、その人の見方は万人に通ずる高さまで到達すると思う。再びいう「生活からものを見よ!」ー。

 知識や観念や概念で見ず、生活から見てこそ、はじめてこちらの純粋の喜びと、対象の持つ美との間に、共感するものが火花の如く散るのである。しかし、この「生活から見る」ということは、必ずしも新しいことではない。われわれの先祖たちは、すでにこれをやっていたのである。



 たとえば、朝鮮人の飯茶碗の中に大名物を作っているし、また茶人たちが雑器を取り上げているのもこの一例である。かかる点では、昔の茶人たちは、多くの功績を持っているが、しかし、ここおで考えねばならぬことは、彼らが発見した喜びは、むしろ茶というものを土台にした喜びであるという一点である。今日われわれは、むしろ茶というものを土台にした喜びと美の創造に当たらねばならない。

 もちろん喜びを発見するといっても、対象の選択ということが大切である。その選択の三大条件は、健全であること、質素であること、国民的であることーこの三つであると私は思う。抹茶にゲンコツをはった茶碗とか、わざと曲げた茶碗などをいいという人があるが、これは喜びではあるが、対象の選択において間違っている。

 不必要な技巧をこらしたものは、健全とも質素ともいえないと思う。また最近多くみる非常に繊細で神経質な模様、あるいは実用にもなりそうもない極端な薄手のものなどは、いずれも健全でも質素でも国民的でもない。

 私は先年、東北地方を旅行して、子供が履いている藁靴を見て、その美しさに驚いたことがある。それはもちろん手製のものであるが、装飾ではなく、ある箇所を特別強めるための、立派な構造上の根拠を持っている。しかもそれは見て非常に質素な美しさに溢れ、しかも父母のわが子に対する愛情までが輝いているように思えた。これこそ真の生活の中にある喜びであり、美であると思った。

 生活的にものを見て、生活的に喜びを発見し、生活的に物を取り入れてゆきたい。ここに次の世代の輝かしい生活の創造があると思うのである。一方製作者も、技術的な、あまりにも技術的な近来の傾向を反省し、無駄な技巧を排し、新時代の日の想像に邁進せねばならぬと思う。』

 (昭和56年5月10日発行 河井寛次郎著「手で考え足で思う」から)

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浅間山

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 信州長野の小諸地方に、「小諸馬子唄」という民謡があります。碓氷峠の馬追いが馬をひきながら唄ったものです。「馬追い歌」とか「馬喰節(ばくろうぶし)」とも言われていたそうです。

小諸出て見りゃ 浅間の山に
今朝も三筋の 煙立つ

小諸出抜けて 唐松(地名)行けば
松の露やら 涙やら

田舎田舎と 都衆は言えど
しなの良いのが 小室節

さした盃 眺めてあがれ
中に鶴亀 五葉の松

祝い目出度の 若松さまよ
枝も栄える 葉も繁る

小諸通れば 馬子衆の歌に
鹿の子振袖 ついなれそ
(以下省略)

 最初の歌詞に、浅間山が歌われていました。1972年2月19日に、この民謡に歌われた浅間山のちかくにあった、河合楽器の保養所の「浅間山荘」を、連合赤軍が人質を取って籠城した、「浅間山荘事件」が起こり、日本中を震撼とさせました。

 70年安保闘争が終わった時期でした。その学生運動の流れの中で、再組織された一団、「新左翼派連合赤軍」が、運動資金という名目で銀行強盗や、銃砲店襲撃などを繰り返していました。警察に追われた連合赤軍は、群馬県の山岳に身を潜めます。そうする内、仲間内の自己批判や相互批判が、いわゆる仲間割れが起こり(〈内ゲバ〉と言われていました)、2ヶ月の間に、12名もがリンチの末、殺害されたのです。この組織は、一致できずに崩壊していきます。

 そん中で、浅間山荘に、管理人の婦人を人質に、その一団の5人が立て籠もったのです。28日に、警視庁の突入部隊によって、事件は終わります。この事件の顛末は、テレビ中継がなされ、報道番組としては未曾有の高視聴率を記録しています。当時の事件への関心の強さがうかがわれます。けっきょく死者3名、重軽傷者27名を出してしまいました。
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 5人の立て籠もり犯は、裁判にかけられ、坂口弘は死刑、吉野雅邦は無期懲役、加藤倫教(逮捕時19歳)は懲役13年とそれぞれ判決が確定します。加藤弟(逮捕時16歳)は中等少年院送致となりました。なお、坂口の場合は、結審まで、事件が始まってから21年の歳月を要したのです。坂東國男は、クアラルンプール事件で釈放されたまま逃走し、国際指名手配中で、今では生死は不明とのことです。

 同じ目的で集められたメンバーですが、仲間内の出身大学間の優位競争の〈力学〉が働いていたことも確かなことだった様です。階級闘争をした者たちの内でも、有名大学、今でいう偏差値の高い難関大学の在校生、退学者が、発言権があって、幹部として幅を効かせていたわけです。

 70年安保の前後の時期、私は社会人として働き、この事件が起こった年の5月に、長男が生まれました。自分の生まれ育った国の中に見られる様々な矛盾や不公平を、暴力を辞さないで変えようとする暴力革命者たちがいました。彼らの青年期に、剥き出しにしていた牙や爪を隠して、その後、政治の世界に進出し、「民主」を掲げて政治家になって、今でもテレビのニュースに顔を見せている残党を見るにつけ、過去の未精算の部分をぼかしながら、政治活動を導いているのには、〈怖い思い〉がしてしまうのは、私だけではなさそうです。

 暴力に訴えて活動し、しかも仲間割れした者たちが、時間の経過と共に、果たして一つになることができるのかが、一番危惧することなのです。そんな背景の人たちが、この国の発言者であっていいのかを疑います。小さく、平凡な日常の事ごとを、忠実にしていかないで、急激な変化を遂げようとするなら、決して成功しません。小事忠実の積み上げだけが、社会を、少しずつ変えて行くに違いありません。

(〈日本経済新聞〉による噴煙を上げる浅間山、山荘です)

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快挙

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 太平洋戦争、日中戦争が終わった日、私は生後7ヶ月でした。山奥の神社参拝客の旅館の離れを、宿舎に借り上げていて、そこで生まれました。村長さんの奥さんの手で、母の胎から取り出されたそうです。世は食糧難の時代でしたが、30代の半ばの父は、軍需工場の責任者で、村の人たちからも差し入れがあって、食料に窮することなく、わが家は生活できていた様です。

 戦後は、戦時中に山の中の石英の搬出に使っていた策動で、父は、払い下げられた県有林の材木を伐採し、京浜地帯に向けて卸す木材業をして、糊口をしのいでいました。男の子4人の将来を考え、教育のために、東京に越すことに、父は決めたのです。

 新宿駅の南口に家を見つけたのですが、東京きっての繁華街が近いので、これから育って行く男の子たちが生活するには相応しくないとのことで、東京都下に家を買って住み始めたのです。ご承知の様に、高度成長期前の日本は、まだ貧しく、敗戦の痛手で一億自信喪失の時代でした。

 そんな時に、肺炎で死にかけた病欠児童は、強くなりたい、喧嘩に強くなりたい願望の私でした。そんな頃、この胸を踊らせる様な出来事がありました。干物と味噌と漬物と麦飯を食べてきた日本人が、ボクシングで世界チャンピョンになったのです。

 1952年5月19日、旧後楽園球場に、特設リングを設けて、白井義男が、世界フライ級チャンピオンのダド・マリノに勝ったのです。日本人として初めて世界のタイトルを手にしたわけです。それは一億日本人に、夢と勇気を与えた衝撃的な勝利でした。虚弱小坊の私も、拳を握りしめて白井義男を応援したのです。28歳、遅咲きのチャンピオンでした。
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 後日、白井義男は、『生まれたのは旧三河島六丁目です。第一峡田小学校に入って、五年生の時に第六峡田小学校というのが出来て、そこに移り、第一荒川高等小学校に進みました。小学校五年までは本当に弱虫でした。』と、いじめられっ子だったと言っています。

 さらに、『同じクラスに強いのがいましてね。いつも何かを買って渡さないといじめられる。だんだんお金がなくなって、仕方ないから先生に訴えたら、その先生が「男なら闘ってみろ!」という感じで、けしかけるわけですよ。もう一人弱虫がいたのですが、二人もいて一人に対抗できないのか、という意味だったのでしょうね。つまり、けんかの勧めです。昔は剛毅な先生がいたものです。ある日の放課後。その「決闘」は学校近くの野原で行われました。相手は二人一緒でも構わないといった態度だったのですが、男らしくというので、まず僕が挑戦しました。「闘えるだけ闘おう!」と捨て身の挑戦でした。無我夢中でぶつかって左四つになり、やあっと声を発したら、相手が足元に倒れていました。結局、その相手とは仲良くなりましたが、その時に、闘いに対する自信が生まれました。そして、運動嫌いの僕が相撲、野球、剣道とスポーツを始めるようになったのです。』と続けています。
 
 白井義男は、ボクサーを目指して銀座のジムで練習していました。そこに、GHQに勤務する生物・生理学者でボクシング指導者のカーン博士来ていて、白井の素質を見いだします。このカーン氏の指導を受けると、さらに力を増したのです。フライ級、バンタム級の二つの日本タイトルを獲得、そして、世界チャンピオンとなりました。四回防衛しましたが、今度はベレスに敗れ、1955年(昭和30年)に引退しています。

 《快挙》という言葉が、小学校二年生の私にも、何となく理解できたのです。負け犬の様な生気をなくしてしまった日本と日本人に、喝を入れ、自信を与えたという意味で、白井義男の快挙は、絶大な意味があったのでしょう。

 学校が好きなのに、微熱が出ては休んで、隣町の国立病院に通院し、粉薬や水薬をもらい、それを来る日も来る日も、食後に飲んでは、一日中、床に伏せていなければならない病欠児童の私に、《強さ》、《強くなれること》を、白井義男は示してくれたのです。この人は、虚弱児に希望を与え、《特技がケンカ》の少年にしてくれたのです。もうしませんが。

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若い日に

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 若い頃に起こった衝撃的な事件がいくつかあります。その一つは、三島由紀夫の自刄事件でした。あの大戦が終わって25年経った1970年11月25日に、市ヶ谷の自衛隊駐屯地で、起こった事件なのです。

 当時、私は、学校の教師をしていました。水曜日の午後は、「研修日」という半日休暇の日だったでしょうか。学校の近くの食堂で、お昼をとっていた時に、テレビで、その事件を現場中継で放映していたのです。大きな衝撃を覚えつつ観たのです。

 作家である三島由紀夫は、「楯の会」を結成します。この会は、民間防衛を目的とし、日本を侵略戦争から守ろうと、若者たちに呼び掛けて結成していました。万葉集に、「今日よりは 顧みなくて 大君の 醜の御楯と 出で立つ吾は」とある防人の歌から命名した会でした。自衛隊への体験入隊などを繰り返して準備していたのです。

 その会の5人の会員と共に、市ヶ谷駐屯地の東部方面総監と面会をします。要求が入れないのを知ると、突然、総監を人質にとって、自衛隊の本丸に篭城してしまいます。それからバルコニーに立って、自衛隊員の決起を呼びかけるのです。ところが聞き入れられないのを知って、三島は割腹自殺をしてしまうのです。三島由紀夫、45歳でした。

 この三島の心の動きや生育歴を、上智大学の元教授の福島章は、次の様に記しています。幼少期の三島は、病弱でした。それで、祖母は、近所の悪戯小僧との遊びを禁じて、三人の女の子との遊びだけが許されて、子ども時代を過ごしています。母親ではなく、祖母の手で育てられ、産みの母親の乳房や膝の上での時間を奪われ、老女と過ごす時間が多かったのです。

 三島の著述から、性的倒錯の背景を、福島章は読み解いています。男性性の弱かった三島は、剣道に打ち込んだり、肉体改造のためにボディビルディングをして、たくましく筋骨隆々とした外観を作り上げていきます。きっと、ノーベル文学賞に近い作家になれた人だったかも知れませんが、その辺に三島の強烈なコンプレックスがありそうです。

 理想的に生長する人は、ほとんどいないのですが、人は誰もが、どこかで修正したり、補ったり、捨てたりしながら、正常を保って生きて行くのでしょう。三島の様な幼児期、少年期を過ごした人が皆、倒錯するわけでもありません。どこかでスイッチが入れ替わってしまうのでしょうか。

 私は三島の文学フアンではなかったので、彼の作品は一冊も読んでいませんが、この歳になると、彼の行動の中に、異変や異常がみられるのに気付きます。三島由紀夫の理想や夢に傾倒し、共に自害した青年が一人いました。私より一学年下の早大卒の森田必勝です。

 左翼も右翼も、暴力や武力で、国を変えようとしていました。ついには裏切りや騙しごとが溢れて、真に一つとなれなかったのです。主導権争いや利権が働き、みんな挫折してしまうので、世の中に「平和」をもたらすことができずじまいでした。

 私の愛読書に、『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。』とあります。国を変える前に、《自分が何者であるか》を知らなければなりません。

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名月

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 今月昨夜、同じ月の「月」なのに、次男が撮った月と、私の撮った月との違いです。古来、中秋を飾る名月は、やはり名月、美しいものです。取って、手にしてみたいほどです。長女が、ロサンゼルスで撮った月(真ん中の写真です)を追加します。同じ月を見たという共通点があります。

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